怪人二十面相
私は呆気にとられて、口をぽかんと開けたまま彼を見つめていました。そんな私を、彼は可笑しそうにニヤニヤ笑いながら眺めています。
「あ、貴方は怪人二十面相! どうしてここに」
「いやはや、それに関してはどうも、説明するのが照れくさいのだがね」
怪人二十面相は頭を掻きました。
「私も、椅子に入っていたのだよ。三つ目の椅子にね」
「三つ目の椅子ですって」
「そう。誘拐事件の脅迫状が届いた時、私は不覚にも正体を見破られた事を知った。書斎で誰かに覗かれていたに違いないと考えた私は、部屋を調べてあの二つの椅子を見つけた。それで私もひとつ真似をしてやろうと、男爵家から退散する前に、三つ目の人間椅子を用意した。そして書斎の椅子のひとつとすり替えておいたのさ。後で指輪を盗む時に役立つかと思ってね」
「じゃあもしかして、あの時書斎から逃げたのは……」
「逃げてなんかいなかったさ。自分で用意しておいた椅子に隠れたのだ」
私はすっかり驚き呆れてしまいました。怪人二十面相も、少々ばつが悪そうに佇んでいます。
「だがさすがの私も、その時他の椅子にも人間が入っているなんて思いもしなかったよ。まったく、まるで喜劇のようじゃないかね。しかもその後あんな事件になったものだから、出るに出られなくてね。そうこうするうち、君が椅子に閉じ込められて運び出された。明智は怪しまれないよう他の椅子ごと運び出したろう。そこでどうせなら明智の本拠地を見つけてやろうと、ここまで付いて来たという訳だ」
「ちょ、ちょっと待って下さい。それなら貴方は、あの発砲事件の成り行きを見ていたと言うのですか」
「ああ、見ていたよ」
怪人二十面相は、事も無げにそう答えました。思わぬ目撃者の出現に、私は胸の動悸を抑える事が出来ません。
「和寿君が……、本当に和寿君が撃ったのですか」
「違う。もう一つの椅子に隠れていた奴さ」
「もう一つの?」
「そう。あの時、和明君の座っていた椅子には、兄を亡き者にするつもりで和寿君が隠れていた。だがもう一つの椅子にも、別の人物が隠れていたのだ」
「別の人物ですって!」
「ああ。和寿君の入っていた椅子と、その向かいに置いてあった、もう一つの椅子。両方の椅子の背に穴が空いていただろう。銃弾は二発で、警察の解釈では、部屋の中に立っていた和寿君が椅子に座っていた和明君に向けて撃った。次に和寿君が自殺しようとして撃った弾が逸れ、もう一つの椅子に当たって穴を空けた。と、こうだったね。また、君達はおそらく、和寿君が椅子の中から座っていた和明君を撃ち、次に小林君を撃った、どちらかの弾が向かい側の椅子の背に辺り穴を空けた。そして自分も椅子の中で自殺を図った。そう考えていたのじゃないかね」
「ええ、その通りです。ただ三発目の銃声が聞こえなかったのはおかしいと、小林君と明智探偵は言っていました」
「実際は逆なのさ」
「逆ですって」
「そう。二発の銃弾はもう一つの椅子の中から発射されたのだ。一発は和明君の肩に当たって椅子の背を貫通し、中にいた和寿君に当たった。もう一発は小林君の腕を掠めて、おそらく壁の隅かどこか目立たない場所に当たったのだろう。弾痕の解釈はまったく逆だったのさ」
「ああ、そうだったのですね。やはり和寿君が撃ったのではなかった……」
波のように、大きな安堵が私の胸に広がりました。やはり……、やはり和寿君ではなかったのです。兄の心優しき真意を聞いて、和寿君に撃てる訳が無かったのです。しかし……。
「しかし一体誰が、何故。椅子に入っていたのは何者です」
「それは分からない。私は見る事は出来なかった。私が椅子に隠れた時、その人物は既に潜んでいたから、そいつが椅子に入る所を見た訳では無いのだ」
「しかし事件の後で、その人物が椅子から出ていく所を見なかったのですか」
「椅子から出て行かなかったのだよ。と言うより、出られなかったのだ。あの後、書斎にはずっと警察が出入りしていたからね。私の方も、例え警察がいなかったとしても出られなかった。椅子に入った時は部屋が暗闇だったのでその人物に見られずに済んだが、椅子から出れば目撃者がいた事を知られてしまう。当然、そいつはすかさず私を撃ってくるだろうからね」
「では、貴方とその人物は、二人してずっと椅子に隠れていたのですか」
「そうだ。そして明智探偵が書斎の椅子をまとめて運び出した時、二人共椅子に入ったまま成り行きに任せるしかなかったのだ。明智は船に椅子を積み込んだのだが、その時にもう一つの椅子だけはどこか別の船室に運んで行った。それっきりだ」
私は軽く失望の溜息を漏らしました。和明君達を撃った人物の正体が分かりさえすれば、和寿君は無実だと晴れて証明出来るかもしれないのに。しかし私はハッと思い当たったのです。
「し、しかし。もしその人物が事件の後もずっと椅子に隠れていたのなら、それは家族の者ではありませんね? あの発砲事件の後、私は全員と会っているのですから」
「ああ、そうだ」
「しかし家族以外の一体誰が、和寿君に殺意を持っていたと言うのでしょう。その人物は家に忍び込み、どうやって椅子の事まで知ったのか……」
「あの家には、誰かが潜んでいた形跡があったよ」
「何ですって」
「私は泥棒の専門家だからね。伯爵に変装して君の家に入り込んでから、機会を見ては家中くまなく調べていたのだよ。『仕事』の為には、いざという時に使う仕掛けや、脱出経路を確保する為にも、建物の事は隅から隅まで知っておく必要があるのだ。あの死体消失事件の後からだが、天井裏に何者かが潜んでいた。私は鉢合わせする事は無かったが、食べ物の残りや、埃の上に人間が這いずった跡があるのを見つけたよ」
「し、しかし。あの死体消失は小林君が仕掛けた、ただの芝居だったはずです。その謎の人物が、本当に死体を消した訳ではありません」
「ああ、そのはずだがね。しかし実際に、誰かが天井裏に潜んでいたのだ……」
私はゾッとしました。家族以外の人間の仕業だという事実は私を安堵させましたが、その変わり、新たに不気味な人物が浮かび上がってきたのです。私は、誘拐犯、そして椅子人間の正体が明らかになった事で、事件はもう終わったもののように考えていました。しかし、事によると、初めから全て考え直さくてはいけないのでは……?
私はふと、以前小林君が貸してくれた江戸川乱歩の著作の一つ、「屋根裏の散歩者」と題された小説を思い出しました。それは題名からも分かる通り、長屋の天井裏に入り込んだ男が、他人の生活を盗み見たり、果ては絶対に露見しないような方法で殺人を犯すという筋書きなのです。
私は身震いしましたが、自らの気力を奮い起こしました。ひとつ確かな事は、その人物は我々と同じ船でこの島にやって来ているのです。警察が踏み込んでくれば、捕まえる事が出来るかもしれません。私は意を決し、怪人二十面相に言いました。
「こうしてはいられません。僕は警察へ行かなくては。このままでは和寿君が犯人にされてしまう」
しかし怪人二十面相は、意気込んだ私を引き止めました。
「まあ、待ちなさい。どうやってこの島から出ると言うのだね」
「それは……」
私は言葉に詰まりました。
「それに、君は家族に失望しているのだろう。家に帰ってどうするね」
「…………」
このままでも良いのではないか、という考えがふと頭を掠めました。この夢の国のような島で、ずっと平和に……。ここには小林君もいる。もしかしたらそれは、存外幸福なのでは……。
しかし、私はそんな考えを追い払うように口を開きました。
「怪人二十面相。貴方はこれからどうするのですか」
「私かね。私は、せっかく明智の本拠地を突き止めたのだから、今までさんざん辛苦をなめさせられたお返しをするつもりだ」
「どうするのです」
「うん。最初はこの島を壊してしまおうと思ったが、それは余りにも惜しい。この島は素晴らしい芸術作品だ。私の収集に加えたい位だよ。それにこの島は、明智だけでなく少年達の居場所でもあるらしいしね……」
怪人二十面相は、窓から見える温泉ではしゃぐ少年達の姿を眺めつつ、呟きました。
「では、一体何を?」
「代わりに、彼の一番大切にしているものを盗もうと思う」
「それは一体何ですか」
「分からないかね」
「一番大切なもの……? ま、まさか……」
「さあ、君はどうするね。この島で、美しい幻想に囲まれてこのまま暮らすかい。それとも私の計画に加担するのなら、一緒に連れていってあげよう。君には借りもある事だしね」
そう言って怪人二十面相は、不敵な笑みでにやりと笑ったのです。
怪人二十面相から届いた予告状を、明智探偵は厳しい顔で読み終えました。そうして怒りを抑えた表情で、もう一度、それを口に出して読みました。
「ふん。なるほどね……。『今夜零時、君の一番大切な小林君は、君の手から永久に奪い去られる。私への、これまでの仕打ちの報いを受けたまえ 怪人二十面相』だ、そうだ」
実は密かに怪人二十面相と結託している私は、素知らぬ顔で明智探偵と午後のお茶を飲んでいるところでした。明智探偵は予告状を丁寧に封筒に戻し、それを懐にしまい込みました。
「ウフフ。面白いじゃないか、怪人二十面相。今まで散々僕に仕事の邪魔をされて、恨み骨髄に徹するといったところか。だが、小林君を盗もうとはね。それにどうしてこの場所を嗅ぎつけたのか……」
小林君は不安気に、思案顔の明智探偵を見つめました。こんな時の小林君は儚げで、まるで少女のようです。
「どうするつもりですか、明智探偵」
「無論、奴の好きにはさせない。よし、小林君には塔の展望台にいてもらおう。あそこは階段ひとつしか出入口が無いから、そこを固めてしまえば奴にはどうにも出来ない」
私は内心密かにほくそ笑みました。それこそ怪人二十面相の思う壺で、彼には秘策があるのです。
「小林君、心配することはないよ。先生が君を守ってあげるからね……」
「はい、先生」
小林君は明智探偵を見上げて小さな声で答え、明智探偵は小林君の柔らかな髪を、まるで子猫にでも触れるかのように撫でました。
もうすぐ僕が君を、この変態的な男から解放してやる。私は小林君を見つめて心中囁きました。小林君を明智探偵から解放して、一緒に東京に戻るのです。それから、和寿君が和明君を撃ったのではないと証言するのです。幻想の霧が晴れ、今や私は自分の成さねばならない事が何なのか、はっきりと見える気がしていました。
私はしらばっくれて明智探偵に尋ねました。
「……しかし、明智探偵。警備には誰が当たるのですか。大勢の人員が必要でしょう。ここには警察がいる訳でもなし」
明智探偵は不敵に笑いました。
「そうそう、君にはまだ紹介していなかったね」
彼が傍に控えていた少年に何事か命じると、彼は小さく頷き部屋を出てゆきました。そして、幾人かの少年達を伴って戻って来ました。
部屋に入ってきたその少年達を見て、私は思わず目を見張りました。揃いの制服を着た少年達は、まるで可愛らしい玩具の兵隊の一団です。しかし私を驚かせたのは、彼らが揃いも揃って、まるで絵画に描かれているような美しい少年ばかりだった事でした。
「紹介しよう。これが僕の秘密兵器、美少年探偵団だ!」
明智探偵は、得意気に胸を張りました。
夜の展望台は強い風に煽られて些か肌寒く、私はぶるると身体を震わせました。展望台の一角に作られた東屋に豪奢な椅子が置かれ、明智探偵がまるで王のようにそこに腰掛けています。展望台の唯一の出入り口である階段は、美少年探偵団が固めています。全員が薔薇色の唇をきりりと一文字に結び、真剣な面持ちで任務につくさまは、明智探偵でなくとも賞賛したくなる可愛らしさです。
「あと、十五分だ」
明智探偵が呟くと、少年達の肩がぴくりと動きました。緊張感を漂わせ、互いに時々顔を見合わせながら待ち受けています。
突然どおんという大きな音がし、花火が夜空いっぱいに広がりました。
「なに、驚く事は無い。怪人二十面相を歓迎してやろうと思ってね、僕が命じておいたのだ」
明智探偵は、自身満々の笑みで夜空を見上げました。
「随分と余裕ですね」
私は小林君のいる方を、ちらりと眺めました。
明智探偵の玉座の脇には、ぴかぴかと金色に光る大きな鳥籠がありました。その中に山ほど敷き詰められた色とりどりのクッションの上に、王子のように美しく着飾った小林君が、チョコナンと座っているのです。首には宝石を散りばめた首輪、そこから伸びる鎖の端は、明智探偵の手首にはめられた腕輪にしっかりと繋がっています。
「そう心配する事は無いよ。この鳥籠の鍵はある場所で厳重に保管されているし、鳥籠は相当な重量があるのだから、鳥籠ごと盗むのは不可能だ。仮に小林君を外に出す事が出来ても、ほら」
明智探偵は腕を持ち上げ、腕輪とそれに繋がった鎖を見せました。
「だあれも、僕と小林君を引き離す事なんて出来ないのさ。ウフフフフ」
私は顔を背けました。小林君が少し苦しそうに、はめられた首輪に手を触れました。
「おお、小林君! 可哀想に……。不自由な思いをさせてすまないね」
明智探偵は金色の鳥籠に、さも愛おしそうに頬ずりをしました。
花火は次々と打ち上げられ、ますます美しく夜空を彩ります。
「あと五分」
私が懐中時計を取り出して呟いたのと同時に、金色に輝く特大の花火が打ち上げられました。今までで一番大きな花火です。夜空に一瞬だけ大輪の花を咲かせた後、ゆっくりとその形は崩れ去り、流星のような長い尾を引いて風に流されてゆきます。そうしてまた惜しげも無く、次から次へと花火が打ち上げられるのです。美少年探偵団もさすがにまだ子供で、思わず任務を忘れてその美しさに見入っているようでした。
その時です。
「なんだ、あれは」
一人が花火を指差して叫びました。見れば、夜空に咲く花の真ん中辺りに、何か赤くて丸いものがぽつりと浮かび上がっているのです。その丸いものは、少しづつ大きくなっていきます。
「あれは……、バルーンだ! 来たぞ、怪人二十面相だ!」
また別の誰かが叫びました。
確かにそれは、赤い大きなバルーンでした。バルーンが風に乗って、見る間にぐんぐんと近づいて来るのです。
「よし、もう少し待て! 充分に引き付けてから狙い撃ちだ!」
美少年探偵団のリーダーらしき少年が叫びました。部下の少年達は、「はいっ」と答えると、銃を担って待ち構えました。
銃口の待ち構えるその中へ、バルーンはぐんぐんと近づいてきます。
「よし……撃てっ!」
バルーンがちょうど我々の頭上にやって来た時、リーダーがすかさず命じました。美少年探偵団が一斉射撃を開始し、耳をつんざくような銃声が夜空に響き渡りました。見事バルーンに穴が空き、バルーンはよろめくように身悶えしたかと思うとバランスを失い、手負いの獣の様にゆっくりと展望台上に落ちかかってきます。美少年探偵団は皆揃って歓声を上げました。
すると突然、大きな爆発音が響きわたりました。バルーンが爆発したのです。突然の事に、展望台上は騒然となりました。辺りはあっという間に煙に覆われ、手を伸ばしたその先が見えない程です。もうもうと立ち込める煙を吸い込んだらしい美少年探偵団が、げほげほと咳き込んでいます。
「小林君!」
明智探偵が叫ぶのが聞こえました。
私は声を頼りに、明智探偵の元に駆け寄りました。明智探偵は必死の形相で、鎖を手繰り寄せています。明智探偵の必死に呼びかけにも、小林君の答えはありません。
「明智探偵! これを!」
私は鳥籠の隙間から手をいれると、そこに落ちていた首輪を掴んで明智探偵に見せました。小林君に繋がれていたはずの首輪が、そこに落ちていたのです。
「ああ。小林君! 小林君! どこだ。そこにいるか。無事なのか」
明智探偵は鳥顎の扉に手をかけ、がちゃがちゃと乱暴にゆすりました。
「君達、鍵を。鳥籠の鍵を取って来るんだ!」
動天している明智探偵の代わりに、私は美少年探偵団に命じました。
「は、はい」
直ちに少年の一人が、手探りで煙の中を駆け出します。
「ははははは」
怪しい笑い声が、辺りに響き渡りました。
「怪人二十面相!」
ちょうどその時突風が煙を払い、辺りの様子が分かるようになりました。東屋を飛び出して見回せば、屋根の上に、黒いマントに身を包んだ怪人二十面相が立っています。
「怪人二十面相! どうやって首輪を外したんだ……、小林君はどこだ!」
「ここさ」
怪人二十面相はそう言うと、マントをはらりと退けました。マントの裾が風にハタハタとなびきます。マントの下で、怪人二十面相は大事そうに何かを抱えていました。
それは……、小林君でした。小林君の首だけが、怪人二十面相の腕の中にあるのです。明智探偵は素早く鳥籠に目をやりました。すると中には、小林君の胴体が、まるで壊れた人形のように横たわっていたのです。