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人知れぬ邂逅

 予定されていた夜会の前日、夜になるのを待って、私と友人は彼の下宿から椅子を運び出しました。

 彼がどこからか借りてきた荷車に椅子を乗せ、なるべく人通りの少ない道を選び、二人がかりで運んでいったのです。そうして普段は通らない、あまり品が良いとは言えない地域の、とある裏通りに差し掛かった時でした。

「おや」

 足早に通りを横切った人影に、私はふと目を止めて立ち止まりました。

「どうしたんだい」

「いや、今通り過ぎたご婦人だが、小早川男爵夫人に似ているような気がしたのだ」

 その人はもう脇道に入って姿が見えなくなっていましたが、私はその去っていった方を眺めて首を傾げました。しかし友人は怪訝そうな顔をしています。

「まさか、そんな。僕は顔を見なかったけれど、何だか貧しい身なりの女性だったじゃないか」

「確かに……。こんな時間に、男爵夫人がお一人でこのような場所を歩いておられる訳がないね」

 そう言いつつ、私はふと辺りを見回しました。

「おや、それはそうと、この辺りは例の『貰い子殺し集落』の近くじゃないかね」

「ああ、そう言えばそうだね。新聞には、集落ぐるみで大勢の貰い子を引き受けては、殺したり売り飛ばしたりしていたと書かれていたね。まったく、鬼畜にも劣る行いだよ」

 彼は嫌悪感を露わにしてそう吐き捨て、

「さあ。この辺りは夜間は物騒だ。急いで運んでしまおう」

 と、私を急かしました。

 

 私達は、邸の裏口にひっそりと荷車をつけました。家の者は皆寝静まっている頃です。私は持っていた鍵で裏口の戸を開けると、そっと彼を招き入れました。荷車を引いて庭を横切り、夜会室の庭に面した仏蘭西窓から、椅子を室内に運び入れました。椅子は中が空洞の割に重たく、中々大変な作業でしたが、どうにか私達はその椅子を壁際の一角に据え付けたのです。

 一仕事終え、私は椅子を見下ろして安堵の溜息をつきました。

「よし。これでいいだろう」

「ああ、後は明日を待つばかりだ。……ところで明日は、男爵家のご家族は全員でいらっしゃるのかい。君の許嫁の和華子さんも」

 思いがけず和華子さんの名前が持ち出され、私は無防備にも頬を赤らめました。

「別にはっきりと許嫁だと決まっている訳じゃないよ」

「そうか。しかし僕は母の事ばかり気にかけていたが、よくよく考えてみれば、僕には腹違いの兄妹もいるのだね。小早川男爵家には確か三人兄妹がいらしたと思うが」

「うん、まあそうだね。もっとも男爵夫人の実子は次男の和寿君だけだから、君と血が繋がっているのは彼だけだね」

「おや、そうなのかい」

「うん。和華子さんは養女なのだ。仔細は知らないが、まだ赤ん坊の頃、事情があって小早川男爵家に引き取られたらしい。男爵家長男の和明君も養子で、実は僕の兄と双子なのだよ。つまり僕の実の兄でもあるのだ。ほら、双子は不吉だとよく言うだろう。それに家督相続の事でも色々面倒だしね。兄達が産まれた頃、男爵家にはまだ子供が無かった。それで僕の家から一人、男爵家に養子に出したのだよ」

「双子が不吉だなんて。随分と大時代的だね」

「そうだね。僕の両親はそういう迷信を信じるたちじゃないのだが、当時はまだ祖父母が健在だったから、きっと彼らがそう言ったのだろう。厳しい人達でね」

「しかし、その後で和寿君が産まれた訳だろう。世間でよくある話だね。それこそ、男爵家の方は家督相続でもめ事になりそうだが」

「うん。でもそこは小早川男爵もぬかりなくてね。跡継ぎは長男の和明君に、とはっきりさせているんだ。和寿君の方はそういった事には全く興味が無いしね」

「へえ。僕の弟は、やっぱり僕と似て変わり者なのだろうか」

 友人は微笑しました。

「和寿君は絵描きの卵なのだ。芸術家というものは、世間の尺度とは違う価値観を持っているのだろうね。よく、華族制度などは旧時代の遺物だと批判しているよ」

「そうか。しかしこうして聞いていると、君は随分と男爵家の人達をよく知っているのだね。まるで家族の事のように話しているよ」

「うん、そうだね。僕らは幼い頃から、お互いの家を第二の我が家のように出入りしているからね。僕と兄、それに男爵家の二人は皆まとめて四人兄弟のようなものさ」

「そうか。では和華子さんが君の家に嫁いでくるにしても、安心という訳だね。しかし明日は、和華子さんがこの椅子に座らないよう注意してくれたまえよ。椅子ごしとは言え、親友の未来の妻を抱きしめるなどしたくはないからね」

「それは大丈夫だ。和華子さんは、夜会で大人しく椅子に掛けているようなお嬢さんではないのだよ」

 私は笑いながら言いました。

「あちらへ行って喋り、こちらへ言って踊り、という具合でね」

「闊達なたちなのだね」

「それはもう。闊達と言うより、お転婆と言った方が良いかもしれないな。だけどその分ダンスなぞは非常にお上手で……」

「おやおや、これはとんだ所で惚気話を聞かされてしまった」

 彼が冷やかしました。

「君、からかわないでくれたまえよ」

 私は気恥ずかしくなって黙りこみました。だがしかし、その瞬間、私の胸に再び迷いが生まれたのです。

 明日は大勢の人が出入りするであろう夜会室にこの椅子を置くという事は、本来の目的である小早川男爵夫人以外にも、やはり大勢の淑女達が座るということです。いくら同情に値する事情があるとは言え、彼女達にしてみれば、このような行いはやはり許し難いのではないでしょうか。何も知らずに、椅子に張った薄いなめし革一枚を隔てて彼の膝の上に座り、彼の身体にその肉体を預け、彼の腕に抱擁されるのです。もし自分がその立場であったならば、大変に気味が悪いことでしょう。

 やはり友人として、このような道徳に反する行いから、彼を思い留まらせるべきではないか。いやしかし、紳士たるものが一度交わした約束を違えるのは……、などと、様々な想いが私の胸をよぎりました。

「ねえ、君」

 ふいに彼が、小声で話しかけてきました。

「もしかして、このような事を引き受けたのを後悔しているかい」

 心中を見透かされ、私の心臓がどきりと跳ねました。

「いや、何ね」

 私は言葉を濁し、彼の視線から目を逸らしました。

 その時です。私の頭に、ある素晴らしい思いつきが浮かんだのです。

 私は廊下に面した夜会室の扉をそっと開けると、辺りに人気が無いのを確かめました。そして、「君、こっちだ。こっちに椅子を運ぶんだ」と、彼を急かして廊下に椅子を運び出したのです。

 廊下の端にある部屋の前まで椅子を運ぶと、私は戸の鍵を開けました。彼は怪訝な顔をしましたが、ともかく私達は椅子をその部屋に運び入れたのです。

 そこは私の父の書斎でした。

 家の中でも、特に静かで落ち着いた一角にあります。夜会の折に人が出入りする事はまず無いでしょうから、招待客が椅子に掛ける心配もありません。私も良心の呵責なく彼に協力出来ます。それに夜会室に椅子を置いておいた場合、ずっと誰かが座っていて、肝心の男爵夫人を椅子に掛けさせられないという事態も考えられます。しかしこの部屋ならその心配もありません。

「なるほど」

「ああ、そうだろう。それにこの書斎は最近空き巣に入られてね。その時家具を傷つけられたものだから、一式新しくしたばかりなのだ。家族の者ですらまだ見慣れていないから、椅子が一つ増えていたところで誰も気づくまい」

「空き巣だって。物騒だね。どうりで厳重に鍵をかけているわけだ」

「ああ。被害はほとんど無かったのだけどね。父が収集している希少本が何冊か盗られたくらいで。我が家と小早川男爵家は共同で事業を行っているんだが、父も兄も仕事にはいつも男爵家の書斎を使っているもので、こっちには貴重品なぞは置いていないんだ。空き巣はとんだ見込み違いだったという訳さ。それで腹いせに家具でも壊してやれ、という心持ちだったのだろう」

「そうか、」

 しかし彼は部屋を見回しつつ、解せぬという表情で戸惑っていました。

「だけど、この部屋ではどうやって男爵夫人を……」

「まあまあ、君」

 私は彼の言葉を遮ると、まるで秘密の宝物を公開する子供の様に、

「これを見てくれたまえ」

 と、窓の覆いを勢い良く開きました。

「あっ」

 彼の口から、小さな叫びが漏れました。

 そこは家の裏庭になっていて、窓の外には一本の梅の木がありました。折りしも初春、梅の花はちょうど今時分が盛りです。窓を少し開くと、柔らかい春の夜風と共に梅の香が部屋に流れ込みました。そして今宵は十四日月。明日の満月を待ち侘びるかの如く、はち切れんばかりになった月から降り注ぐ眩い光に照らされて、花びらの一枚一枚がぼうっと光る様は、まるで幻想の花のようです。

「どうだい、美しい眺めだろう」

「ああ、素晴らしいね」

 彼は暫し自らの憂いを忘れたように、うっとりと梅の花に見入っておりました。この月光に照らされる梅は、私の父の気に入りなのです。ここはちょうど裏庭の寂しい一角にあたり、うまい具合に月光を遮るものも無く、その侘びしげな佇まいは何とも風情があるのでした。

「男爵夫人は、草花の類が大変お好きでね。そこで明日はこの梅の花を口実にして部屋に誘い、さりげなく椅子に掛けてもらおうという算段なのだ。どうだい、これならごく自然で、訝しがられる事もないだろう」

 私は自分の思いつきに些か得意になりながら、彼にそう打ち明けました。

「ああ、素晴らしい思いつきだ。どうか君、宜しく頼む」

 彼はすっかり感嘆した様子で、頬を紅潮させておりました。窓から差し込む月光がその頬を照らし、ちょうど梅の花びらと同じく、淡い桃色に輝くように見えました。


 夜会は盛会の様相を呈しておりました。

 夕方を過ぎた頃から招待客が次々と到着し、私はその応対に追われつつも、今晩の計画の成否を案じて気が気ではありませんでした。

 彼は昨夜あれから朝方まで私の部屋に隠れ、その後家族が起きだして来る前に椅子に入り、それからずっとこの夜会を待っているのです。

 やがて小早川男爵夫人の到着が告げられました。和華子さんとご一緒です。私は早る胸を抑え、ごく自然に夫人に近寄ろうと横目で機会を伺っていました。すると上手い具合に、私の母が二人に声をかけ談笑し始めたようです。私はゆっくりと三人に近寄ってゆきました。

「今晩は、おばさま」

 私は今初めて男爵夫人に気づいたように、努めて然りげ無く話し掛けました。

「まあ、まあ。和真さん。何だか久しぶりにお顔を見た気がしますこと。貴方ときたら、いつも忙しく飛び回っていらっしゃるのだから」

 男爵夫人は冗談めかしてそう仰ると、昔から変わらぬ優しい微笑みを見せました。

 私は幼い頃から、この夫人が大好きでした。少々気の強い性格の私の母とは反対に、穏やかで無口な夫人でした。それでいて少しも陰気な所はなく、傍にいるとどこか懐かしいような、安心するような心持ちになるのです。

 しかしそんな夫人が娘の頃には、情熱の恋に身をやつした事もあったのです。それを思うと不思議な感じがしました。密かに産み落とした我が子に、人知れず思いを馳せる事もあるのでしょうか。

 しかしまさかその子が今、すぐ近くにいて、椅子の中の暗闇でじっと彼女を待ち侘びているなどと誰が想像するでしょう。


「ところで今日は珍しく、社交嫌いの貴方が随分忙しげにしてらっしゃること」

 母がふと、訝しげに私の顔を眺めました。恐るべき、母親の勘とでも言うのでしょうか。私がなんと言い訳しようかと考える間もなく、

「さては、今宵はお目当てのお嬢様でもいらっしゃるのかしら」

 と、母は私をからかいました。

「まあ、玲子おばさまったら」

 と、和華子さんが母の軽口を真に受けて、真剣な顔で抗議しました。和華子さんはもしや焼きもちを焼いているのでは、などと、甘い空想が私の胸をよぎります。

「そ、そのような女性がいるはずありませんよ。目当てだなどと。僕はそんな不実な男ではありません」

 しかし和華子さんは、すまして答えました。

「ええ、存じておりましてよ。そんな不実な殿方は、きっとお心を隠すのがお上手ですもの。あれこれ美辞麗句を尽くして、身の潔白を語る事でしょう。でも和真お兄さまときたら大慌てで、そんなにしどろもどろになっていらっしゃるわ。それこそ、お兄さまが正直で誠実な方だという証だと、和華子は思いますわ」

「まあ、まあ」

「和華子さんたら」

 母と男爵夫人は顔を見合わせて笑いました。

「まったく、和華子さんには敵いませんよ」

 和華子さんは幼い頃からの習慣で私の事を今だに「お兄さま」などと呼ぶくせ、突然この様なはすっぱな口をきいたりします。しかしそれも私には、まるで幼い少女が大人の口真似をするかの如く、何とも可愛らしくも愛おしいのでした。

 華族の結婚は、本人同士の意思よりも家同士の契約です。お互いに愛情が持てず家庭が上手くゆかないといった事も珍しくありません。しかし私と和華子さんのようにお互いの人となりを良く知り、信頼し合っている仲であれば、そのような事は無いでしょう。あくまでも、家同士の口約束通り和華子さんが私の元へ嫁ぐなら、という話ですが。私は改めて、私の幸福を象徴するかの様なこの少女を、目を細めて眺めました。


 突然、夜会室の入り口で嬌声が上がりました。近くにいた人々が、何事かと振り返ります。私もそちらの方を眺めると、そこには男爵家長男、和明君の姿が見えました。ふらついた足元から察するに、いつもの通り、ひどく酔っ払っているようです。呂律の回らない口調で、どこぞのご婦人にちょっかいを出しています。

「まあ」

「お兄さまったら、また」

 男爵夫人と和華子さんは眉を潜めました。

 その時、誰かが和明君の前に立ち塞がりました。秋月伯爵家長男、私の兄である和臣兄さんです。

「和明君。いい加減にし給え」

 和臣兄さんは厳しい顔で、ほとんど和明君の襟首を掴んで放り出そうかという勢いで叱りつけました。

「ああ、これは、これは、和臣兄さん。ご機嫌……よう」

 言い終わらぬうちに和明君は足元をふらつかせ、前の方に倒れこみました。大柄な兄の力強い腕がその身体をがっしりと捉えると、兄はそのまま和明君を手近の長椅子に放り出しました。

「ご免なさいね、折角の夜会に。あの子ったら」

 男爵夫人はしきりに恐縮しています。

「気になさらなくてよろしいわ、桃代さん。いつもの事よ」

 母は男爵夫人を安心させるように微笑みました。

「和真さん。貴方、ちょっと様子を見てらして下さいな」

「はい。お母様と桃代おばさまは、ここにいらして下さい」

 私はそう言って、二人の所に向かいました。背後で、

「お兄様も、いい加減になさったら良いんだわ。いくらあんな風にしたって……」

 と、和華子さんが独り言を呟くのが聞こえました。


「君は一体、男爵家の跡取りだという自覚があるのか。君がそんな事では……」

「はい、はい。男爵家の跡取り。そんなもの、俺はいつでも、のしを付けて差し上げますよ」

 和明君はいかにも面倒くさいといった態度で、兄のお説教を聞き流しています。兄がカッと耳を赤くして怒ったのが、近づいていく私にも分かりました。

「下らない事を言うもんじゃない。与えられた責任を投げ出すのは、卑怯者のする事だぞ」

「へえ、作用で御座いますか。相変わらず和臣兄さんは、糞真面目でいらっしゃる。双子とはいえ、俺とは違って大層出来がおよろしいようで……」

 和明君はよせばいいのに、わざとおちょくるような調子で兄の怒りを余計に煽ります。

「和明、お前は……!」

 兄が声を荒げたその時、

「和臣兄さん。何を言っても無駄ですよ。この人はこうなってしまえばただの酔漢なんですから」

 と、涼しい声が響きました。和明君の弟、小早川男爵家次男の和寿君です。いつの間にやって来たのか、険悪な二人の背後で皮肉な笑いを浮かべ、まるで見世物でも見物しているかのような態度で立っていました。

「そうは言っても、和寿君。僕は一言言ってやらねば気が済まない」

 兄も兄で、引き下がろうとはしません。頑固者の兄の事ですから、こうなっては一筋縄ではいかないでしょう。まったく和明君はどうしてこうも、進んで揉め事ばかり起こすのか。私は溜息をつきました。

「では僕は、高みの見物とさせて頂きましょう」

 和寿君はにやにやと笑いました。

「和寿君からも言ってやるのだ。だいたい、君も君だ。兄がこんななのだから、いざとなったら弟の君が男爵家を支えねばならないのだぞ。それなのに、やれ文学だの芸術だのにかぶれて……」

「おやおや、これは僕におはちが回ってきましたね。まったく二言目には男爵家、男爵家。たまには目新しい話題は無いものですかねえ」

「何だって」

 傍ではらはらしながら成り行きを見守っていた私は、いよいよ止めに入ろうと身構えました。どうもこの男爵家兄弟は、真面目一本槍の私の兄とは相性が悪いらしく、いつもこんな調子なのです。もっとも和明君の素行の悪さを考えれば、兄が苛立つのも無理ない事ですが。

 しかし一方では、隣家の幼なじみとして兄弟同然に育ち、あけすけに物を言える間柄の私達ならではとも言えるでしょう。まあ端的に言えば、兄弟喧嘩の様なものなのです。

「さあ、さあ、紳士諸君。お客様もいらっしゃる事だし、もうそのくらいにしておいたらどうかね」 

 私より一歩早く、誰かがおどけた調子でそう言いながら三人の間に割って入りました。見れば小早川男爵です。社交上手の彼は、場の空気を壊さないよう上手いことその場を取りなしました。途端、和寿君は大人しくなってしまいます。彼はどうも父親には弱いのでした。

「僕は何もしていませんよ……、」

 和寿君は口の中でモゴモゴと呟きました。

「さ、行きなさい」

 男爵が微笑んで和寿君の背を軽く叩くと、和寿君はそそくさと立ち去りました。気づけば、要領の良い和明君はとっくに姿を消しています。

「まったく、男爵がああも甘い顔をするから……」

 その様子を眺めながら、兄が私の傍へやって来て呟きました。

「仕方ありませんよ、兄さん。男爵は和寿君が可愛くて仕方ないんですから。末っ子ですし、しかもあんなに才能溢れる息子がいれば誇らしくも思うでしょう」

「ふん、才能と言ったってたかが数回、何かで入賞しただけじゃないか。絵画なんて、いつまでも子供のような事をしていてどうする。見ろ、お前と同じ歳なのに、あいつの方がずっと子供みたいじゃないか。お前もあいつに影響されて、芸術家かぶれになってしまっては困るぞ」

 兄は鼻を鳴らして息巻いています。和寿君ではないですが、私も、「こっちにおはちが回ってきたぞ、」と内心呟いて早々にその場を離れたのでした。


 その後は、夜会は滞りなく進みました。ダンスが始まり、和華子さんがくるくると蝶のように踊っているのが見えます。

 それとなく男爵夫人の方を伺うと、折よく母が、他の招待客のお相手にその場を離れようという所でした。私は夫人に近づいていきました。

「やれやれ、普段から慣れていないと、社交の場というのは大変気疲れするものですね。次男坊なのに甘えて、いつも兄に任せきりなのがいけませんね」

 と、私は男爵夫人に微笑みかけました。もちろん私は、夫人も私と同じ様にあまり社交好きでなく、むしろお一人で静かに本など読んでいるのが好きなご気性だとよく知っているのです。

「ええ、本当ですわね」

 夫人は手にした扇で口元を隠し、小首を傾げて微笑みました。夫人がそうされると、どこか、可愛らしい小鳥を連想させます。

「そういえばおばさまは、花がお好きでしたね。書斎の梅の木、おばさまもご存知でしょう。ちょうど今が盛りなのです。ちょっと抜けだして、ご覧になりませんか。今宵は満月ですし」

 私はそう誘いかけました。

 夫人は私の秘めた思惑など何一つ知らず、快く応じてくれました。そうして私は、無難な社交上の会話をしつつ、夫人を書斎へと導いたのです。


「まあ、なんて美しいこと」

 男爵夫人が感嘆の溜息と共に漏らしたその言葉通り、月下の梅は今宵が一番の美しさでした。しかし私の胸は早鐘のように鳴っており、紅梅を楽しむ余裕などとてもありません。それは椅子の中の彼とて同じだった事でしょう。椅子には外の様子を見るための覗き穴も付いていますから、きっと彼は目を凝らし、あれ程思い焦がれた生母の姿を瞳に焼き付けているでしょう。また、耳を研ぎ澄ましては、遠い昔に聞いたきりの母の声に聞き入っているでしょう。彼とて本心では、親子の名乗りを上げたいに違いありません。しかし母に迷惑をかけまいと、その心を抑えたのです。名乗る代わりに、このような形でしか生母との再会を果たせぬ彼の境遇に、私は涙ぐむのを抑えるのがやっとでした。

 やがていよいよ、その時が来た、と私は感じました。

「おばさま。せっかくなので、ここで紅梅を愛でながら乾杯したいものですね。僕が飲み物を取って参りますから、どうぞこちらの椅子にお掛けになってお待ち下さい」

 と、私は夫人に誘いかけました。

「ええ、ありがとう」

 夫人はそう答えると、高貴の婦人らしく物音一つ立てない優雅な仕草で、小柄なその身体を椅子に委ねたのです。

 私は急いで飲み物を取りにゆき、再び部屋に取って返しました。部屋に戻った時、夫人は窓際に置いた椅子の上で身じろぎもせず、ただ梅を眺めておりました。私は思わず息を呑みました。窓から差し込む月光に仄かに照らされた、どこか儚げな夫人の後ろ姿。深緑の天鵞絨の夜会服は月光に映え、紅梅は淡く光を放ち、それはまるで一枚の絵画のように幻想的な光景だったのです。

 嗚呼、男爵夫人。その椅子の中に、貴女を慕う貴女の子がいるのです。今この瞬間、ずっと夢見ていたように、貴女を抱擁し貴女に心で語りかけているのです。私はそう叫びたい衝動に駆られました。しかし、ただ黙って夫人にグラスを渡しました。

「それでは、我々の久々の邂逅を祝して、乾杯」

 それは私から友への、ささやかな祝辞でもありました。

 私と夫人とは、かちりと杯を合わせました。

 

 全ての招待客が引けたのは、深夜をとっくに回った頃でした。屋敷中が寝静まったのを見計らい、私は書斎にそっと滑り込みました。椅子の外から合図をすると、彼は内側から開口部を外し、まるで蛹から蝶が出てくるような様子で這い出してきました。

「ああ、やっと生きた心地がするよ」

 彼はそう言って大きく伸びをし、息をつきました。

「さぞかし窮屈だったろうね」

「そりゃあね。あの小説の主人公は、相当に我慢強い男だったに違いないよ。僕は一日でもう充分だ」

 私はふと、彼の表情にどこか陰りがあるような気がしました。念願叶えた者にしては、晴れがましいとは言い難い、妙に重たい雰囲気を纏っておりました。それに何故か、私と目を合わせようとしないのです。

「それで、どうだったね、母上との再会は。君の心を晴らす結果になっただろうか」

 私は些か心配になり、尋ねました。しかし彼は途端に顔をほころばせ、嬉しそうな様子で答えました。

「ああ、感無量だ。どう言葉で表せば良いのかも分からない。母が椅子ごしに僕の膝の上にかけた、身体の重みの何とも言えぬ確かさ。ああ、この人が僕に生命を与えたのだ、この人が僕の故郷なのだ、と、理屈では無く心から感じたのだ。そうして僕の胸の空洞が、暖かな水で満たされていくような心持ちだったよ。自分は最早迷い子ではなく、先へ続く道がしっかりと見えている、そんな清々しい気分だ」

「そうか、それは良かった」

 いつになく興奮した彼の様子に、私も何だか幸福な気分になりました。

「それというのも全て君のおかげだ。本当に、本当にありがとう」

 彼は私の手を取ってしかと握りしめました。私は何だか気恥ずかしくなり、

「礼なんて。僕も我が事のように嬉しいよ」

 と、目を伏せました。

 しかし彼はふとその手を離すと、

「だが、」

 と、急に沈んだ声で言ったのです。

 驚いて彼を見れば、表情も声と同じく暗く沈んでいます。

「一体、どうしたんだい」

 彼はしばらく黙りこんでいたのですが、やがて意を決したように顔を上げ、私の目をしかと見つめて言ったのです。

「実は……。僕は、大変なものを見てしまったのだ」

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