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明智小五郎

「先生、僕です」

 いつもよりゆっくりとした弱々しい足音を響かせ、小林君が書斎に入って来ました。

「やあ。掛け給え、小林君。具合はどうかね」

「はい、もう大丈夫です」

「おや、何をそう怯えているのかね」

「い、いえ、僕は別に」

 ああ、小林君の声が震えています。

 どうかそんな頼りない声を出さないでくれ。堂々としていてくれ。君には何もやましい事など無い、ある筈が無いのだから。私は心の中でそう彼に叫びました。

「君はもう少し、僕を信頼してくれても良いのじゃないか。やれやれ、進学の為とは言え、君を手元から離したのは間違いだったかな」

「先生……!」

「小林君。僕にはもう、何もかも分かっているのだよ」

 私は覗き穴から外の様子を伺いました。ちょうど真向かいの椅子に掛けた小林君とは僅かの距離で、彼の表情までも伺う事が出来ます。そしてその顔は今、見たことも無い程に青ざめ、怯えているのです。

「ああ、可哀想に、小林君。そんなに怯えなくとも良いのだよ。僕は怒っている訳では無いのだからね。だから正直に、何もかも告白しなさい。そうすれば、僕が良いようにしてあげよう。……君は、誘拐した和華子さんをどうするつもりだった? 殺してしまおうと思っていたのか」

 私は息を止め、小林君の返事を待ちました。一縷の望みを持って。

「違います! 違います……、そんな事は考えてもみませんでした! ただ僕は、僕は……。咄嗟の思いつきだったのです」

「ほう……。どういう風にやったのだね。初めから全部話してごらん。もちろん、椅子の事も」

「先生、どうしてそれを」

「離れていても、君の交友関係は全て掌握しているよ。君が椅子作りを依頼した職人は、かつての事件で知り合いになった人物に紹介してもらったのだったね」

「…………」

「そもそもの発端は、小早川男爵夫人が君の産みの母であると知った事だろう。君は僕の資料室で偶然、その事が書かれている書類を見つけ出した」

「はい……。いつだったか、調べ物のお手伝いをしていた時に……」

「そうか、そうか。あの資料室にはちょっとした仕掛けがあってね。僕には、君が母親の事を知ったのだなとすぐに分かった。そしてそれさえ知っていれば、この一連の事件の全容は手に取るように明らかだったよ。……男爵邸の周辺で目撃された怪しい人物というのは、君だね」

 椅子の中で愕然としている私の事など知る由もなく、小林君は、明智探偵の質問に頷きました。

「はい。どうするつもりもなかったのです。ただ一度母の事を知ってしまったら、気になって……。そのうち偶然母の顔を見られるかもと、漠然と考えていました。ところがある時伯爵家に和真君を訪ねて、あの書生と会ったのです。もちろん僕達は互いに知らないふりをしましたが、僕には彼が何の目的で伯爵家にいるのかすっかり解りました。彼は強請の専門なのですからね」

「うん、うん。君は彼を昔から知っているからね」

「はい。その後彼とこっそり外で会い、様子を探りました。そうしているうち、母への思慕が募ってきたのです。それで、『人間椅子』を使う事を思いつきました……」

 小林君は、夜会の時の事をつぶさに話しました。椅子を運びこんだ時、和寿君に見られていた事。そして書生と和華子さんの手紙のやりとりを目撃した事も。

「夜会の翌日、僕は例によって男爵家の周りをうろついていました。どうする気も無かったのです。ただ、そうせずにはいられなかったのです。そこへ伯爵家の方に次々と来客が訪れ始めました。何事かと思い、家へ入ろうとしていた客の一人に尋ねました。それで工場の事故の事を知ったのです。今ならこの客達に紛れて家に入り込める。そう思った時、僕の頭に計画が閃きました。誘拐事件を起こし、一時だけ書生に疑いが向くようにする。そして上手いこと言いくるめて彼を逃がす。そうすれば、男爵家から彼を追い出し、母を強請から救う事が出来る……、と」

「僕に知られる事無しに、ね……」

「……はい」

 小林君は潤んだ瞳で、明智探偵を見つめました。

「彼と和華子さんが親密であった事は和馬君が証言するでしょうから、彼が疑われるのは必須です。それに一度逃げてしまえば、彼の身元など元から出鱈目なのだから、それきり足がつく事もありません。咄嗟に思いついた計画ですが、上手く行く気がしました。もちろん和華子さんに危害を加えるつもりなど無かったのです……」

「……ほう」

 私は、椅子の中で密かに安堵の溜息をつきました。そうです。要するに小林君は、和華子さんと同じ事を考えただけなのです。母を強請りの手から救いたいとの一心で。決して、邪な心からした事では無かったのです。しかし、明智探偵に知られる事無しに、とはどういう意味なのでしょうか? 私にはまだ解せませんでした。

「……どうしたね? 小林君。さあ、先を話してごらん」

「……僕は一度家に帰って支度を整えました。僕だと分からないように変装し、書生には手紙を届けて呼び出しておきました。そして再び伯爵家に出向いて客の一人として入り込み、隠れて夜になるのを待ったのです。やがて書生は僕の呼び出しに応じて出掛けてゆきました。和華子さんを拐かすのは造作も無かったのですが、まさか和真君に見られているとは思いませんでした。事故の件がありましたから、和真君は家族と一緒に対応に追われているものと思い込んでいたのです。和真君が家の事業に関わっていないというのは、後で知りました。意識のない和華子さんをひとまず安全な場所に隠して家に帰ったのですが、その直後に和真君が僕の所に駆け込んできたのです。僕は彼が感づいたのかと……、もうこれまでだと思いました。しかし彼はただどうして良いか分からず、混乱した頭で僕の事を思い出し、助けを求めてきたのです。それで……、僕は!嗚呼!先生!」

 小林君は興奮して両手で頭を抱えました。明智探偵は、そんな小林君を優しくなだめました。

「よしよし、小林君。君の気持ちは良く分かるよ」

「……和真君の話を聞き、僕は、これはまずいと思ったのです。和真君の目撃した内容からは、書生への疑いが弱まって代わりに和馬君が怪しいように思われてしまいます。後で先生が仰っていた通りです。僕は和真君に証言するのを止めさせようと試みましたが、それはどだい無理な話です。いずれにせよ、家族の誰かが遅かれ早かれ通報するでしょうし……。僕は他に誰か、書生以外に容疑者に仕立て上げられる人間がいないかと探ったのですが、それも難しそうでした。このままでは僕のせいで和真君が疑われてしまう。そう思った僕は、伯爵家に入り込んで捜査状況を把握し、場合によっては細工をして、何とか当初の計画通り事が進むようにしようと考えたのです。それから痣の事もありました。どうして、僕と和真君と彼の父に同じ痣が。何か、僕の出生にまだ秘密があるのかもしれない。それを探りたいとも思いました。その為に僕は、素知らぬ顔で和真君と一緒に伯爵家に来たのです」

「で、いざ伯爵家に出向いたら、既に僕と波越警部がいた」

「はい。波越警部の管轄ですし、先生もいらっしゃるかもと思っていましたが、まさかあんなに早くとは」

「全く、あの時の君の顔ときたら。まだまだ修行が必要だね、小林君。自分のした事がばれたら叱られる、と、まるで悪戯を見つかった子供の様な顔をしていたよ。それに……、君の、母親と顔を合わせた時の表情もね。あれだけでも、自白したも同然だったよ」

「はい……。母の顔を見た時、僕の胸に湧き上がったのは……、罪悪感だったのです。その瞬間まで、僕は、自分で自分についた嘘を信じていました。これは母を救う為にした事なのだと。しかし母の顔を見た瞬間、僕は、そんなものはただの都合の良い口実に過ぎなかったのだと……、気づいたのです。でなければどうして罪悪感を感じるでしょう。本当は……、僕は和華子さんに嫉妬していたのです。彼女が憎くて仕方無かったのです。母を救うという口実で、本当は彼女を恐ろしい目に合わせたかったのです」

 小林君は苦しそうに、絞り出すような声でそう告白しました。俯き、頭を抱え、その表情を窺う事は出来ません。 

「可哀想に。君の気持ちは理解出来るよ。無理も無い事だ」

 明智探偵はまるで父か兄のように優しく、そっと小林君の頭に手を置きました。「……僕が書生の仕業ではないと言い出し、しかも和真さんに疑いをかけたので君は焦った。もっとも、焦ったのは君だけでは無かったが。男爵、伯爵の両夫妻、特に秋月伯爵の態度が不自然だったのは君も気づいたね」

「はい」

「あの時は、つい悪戯心が湧いてしまってね、悪かったよ。君があまりに健気に和真君を庇うものだから……、つい意地悪をしたくなったのだよ」

「先生、そんな! 僕は、」

「まあ、まあ。しかし君は、そのおかげで重要な事に気づいた……」

「はい……。僕は……。和真君は追い詰められれば僕を頼ってくれるのだと、はっきり分かってしまったのです」

 穴があったら入りたい。そんな言葉がありますが、椅子の中の私が正にそれでした。嗚呼、なんと滑稽なのでしょう。

 私は小林君の秘めた想いに、気づいていたのです。ずっと以前から。ただ世間の常識というものを笠に着て、そんな感情は存在しないのだと自分に言い聞かせ、逃げを打ってきたのです。そのくせ何かと小林君を頼っては、その友情をいいように利用してきたのです。

 私は、もうこれ以上聞きたくない。しかし椅子の中の私はまるで捕らえられた動物のように身動き取れず、黙って話の続きを聞くしかありませんでした。

「さあ、小林君、続けて。それから何があった」

「和馬君が兄弟達に疑いを抱いている事を口にしたので、僕はあえて例の痣の事を持ち出しました。痣の事を警察に話されてはまずいので、それは一種の賭けでしたが……。僕は彼を焚き付けて、彼の兄達にも同じ痣があるのかを母親に聞き出させたのです。それから誘拐の調査にかこつけて、家族の私室を調べました。きっと二度と機会は無いだろう、この二つの家族の秘密を探るには今しかないと思ったのです」

「ふむ。君はその時に、和寿さんの椅子の事に気づいたんだね」

「はい。僕自身と同じ様に江戸川乱歩先生の愛読者で、あの小説を読んでいたのなら、僕と全く同じ事を思いついたとしても不思議はありません。後で和真君が部屋で休んでいる時に、書斎に入って調べたみたら案の定でした」

「うん、なるほど、なるほど。それからもう一つ重大な事……、君は、家族の秘密に気づいた」

「はい。穢らわしい秘密に。すぐに解ってしまいました」

「さすがに僕の弟子だ」

 明智探偵は満足気に微笑みました。

「そもそも最初に両夫妻に会った時から、どこか違和感があったのです。寡黙で厳格で、そのくせ少々ロマンチストな所のある秋月伯爵。対照的に、快活ではっきり物を言う、いかにも現代的な女性という印象の伯爵夫人。同じ様に、社交的で気さくな人柄、現実主義者であるらしい小早川男爵と、古風な良妻賢母といった風の、どこか幼いところがある男爵夫人。それぞれ、夫婦の間に共通項が見い出せないのです。あまりにも気質が違い過ぎる。むしろこうして四人を並べてみると、まるで秋月伯爵と小早川男爵夫人、小早川男爵と秋月伯爵夫人が夫婦のようではありませんか。もちろん、対象的な性格の夫婦というのも世の中にはいます。しかしそういう夫婦の場合、夫婦仲はあまり良くない事が多いのではないでしょうか。長年連れ添った夫婦というものは、似た者同士である方が圧倒的に多いでしょう。僕の違和感は、秋月伯爵の部屋とその隣の部屋を見た時にはっきり確信に変わりました……」

 小林君は、私に話して聞かせてくれた本棚の推理を明智探偵に説明しました。しかし驚いた様子がない所を見ると、明智探偵も知っていたのでしょう。椅子の中で、二人の声はまるでどこか遠い世界から聞こえてくるようでした。現実ではない、いやそう思いたい。私は迷子の子猫のように、じっと身体をすくめていました。

「なんともまあ、手の込んだ不貞の恋だね」

 明智探偵が、くつくつと忍び笑いを漏らしました。

「そもそも、痣の事がありましたから。僕は始めから、よもやと思ってはいたのです」

「秋月男爵が君の父だと、ね。男爵夫人の駆け落ちの相手は……」

「はい。僕の母は、今や親友の夫となった駆け落ちの相手と、今だに不貞の関係を結んでいるのです。そして男爵と伯爵夫人も……」

 小林君は吐き捨てるように言い、言葉を切りました。明智探偵は小林君を見下ろし、話の先を促しました。

「まあ、彼らの事はいいさ。そして、君はそれから……、例の死体消失を計画したね。その為に書生を尋問させてくれと頼んだ。あくまでも調査に協力するふりでね。いったん書生が逃げたと見せかけて彼を椅子に隠し、その後和真さんを巻き込んで死体消失という魔術を演じて見せた。騒ぎが収まってから書生はこっそり逃げ、君は打ち合わせてあった通り書斎に行って窓の鍵をかけておいた」

「はい。書生が死んだと見せかけて、無事に逃がそうと思ったのです」

 その時です。

「おやおや、」

 突如、明智探偵の声の調子が変わりました。いえ、上辺は先程までと変わらない、穏やかで鷹揚とした話し方です。それなのに、その声はぞっとするような冷たい響きを持っていました。

「僕は、何もかも正直に告白しなさいと言わなかったかね、小林君?」

 そう言い放つと、明智探偵はなんと小林君の前髪を乱暴に掴み、その白い顔を無理やり上に向かせたのです。

「そんな、僕は本当に……」

 小林君は苦しそうに喘ぎました。次第にその頬は朱に染まり、椅子の上に身を乗り出して小林君の頭を押さえつけている明智探偵の下で、まるで熟した果実のように震えていました。

 何て酷い事を、明智探偵。いくら何でも。私は思わず声を上げそうになりましたが、懸命に自分を抑えました。今、小林君に見つかってしまう訳にはいかないのです。

「……君は味をしめたのだ、小林君。最初は和真さんを無実の罪に陥れさせまいと、伯爵家にやって来た。しかし和真さんは、恐ろしい事が起こって不安になると必ず君を頼ってくれる。君は、彼に必要とされる喜びを何度も味わううち、その快楽の中毒になったのだ。書生を安全に逃がすなどというのは口実で、本当は和真さんに疑いの目が向いて、彼が窮地に陥れば良いと思ったのだ。そうすれば、彼はもっともっと君が必要になる。そもそも君は事ある毎に、彼に、家族に対しての不信感を植えつけた。それも全ては和真さんを心理的に孤立させ、君一人だけを頼りにするよう誘導したかったからさ」

「はい……、その通りです……」

 小林君は蚊の泣くような声で答えました。すると明智探偵は掴んでいた手をようやく離し、今度はにっこりと微笑んだのです。

「君は本当に素晴らしい弟子だ。君は教えずとも僕から自然に学んでいる。君を手に入れた事は、僕の生涯最大の幸運だ。ねえ、君がまだ幼かった頃、ぼくはわざとおどろおどろしい話なんかを寝る前に読み聞かせたものさ。そうしておいて君を寝室に追いやってしまうと、君は必ず夜中にシクシク泣きながら僕の寝室にやって来た。こう、枕をしっかりと抱きしめてね。それはそれは可愛らしくて、私はゾクゾクしたものだよ……。ウフフ……」

 何か……。どこか変です。明智探偵が、いつもの彼とは別人のように思えます。これは一体?

「さあ、それから……。男爵夫人が狂言誘拐の事を告白したのだったね。そして脅迫状が届いた」

「はい。誘拐が書生を追い払う為の狂言だったと聞いた時、僕は途方に暮れてしまいました。しかし同時に、秋月伯爵の言動がおかしい事にも気づいたのです。彼は両夫妻の中で一人だけ、書生が犯人だと主張していなかった。そうするように予め四人で計画していたはずなのに。そして誰かが「椅子人間」の名を語って脅迫状を送りつけてきた時、僕はもちろんですが、伯爵もひどく動揺していたのです。そこで僕はかまをかけてみました。雑談をしながら何気なく、伯爵の愛読書であるはずの『宝島』の登場人物の名を出してみたのですが、彼は何の事か分からないという顔をしたので、僕は、伯爵が偽物だと確信しました。そしてそれが怪人二十面相だという事も。あんな変装の名人は、怪人二十面相以外に有り得ませんからね。脅迫状であれだけ動揺した事から、彼が指輪と何らかの関わりがあるのだという事は察しがつきました。僕はその状況を利用して、誘拐事件を終わらせる事を思い付いたのです。僕は怪人二十面相を密かに呼び出し密談しました。正体を黙っていて指輪を盗むのを見過ごしてやる代わりに、和華子さんを彼に引き渡し、怪人二十面相に救出された、という体で彼女を家に連れ帰る事を承知させたのです」

「そうしておいて君は、誘拐の罪を誰とも知れぬ『椅子人間』になすりつけ、曖昧なまま事件は終わりになるはずだった。僕にも悪戯が見つからないうちにね」

「はい……」

 小林君は項垂れました。

「……怪人二十面相は指輪を狙っていましたが、それは僕には関わりの無い事ですし。しかし、これで一安心と思ったものの、和馬君が……、あれほど僕に頼り切りだった和馬君が、和華子さんが無事だと分かった途端、僕を追い払おうとしたのです。そしてちょうどそんな時に、和寿君が取引を持ちかけてきました」

 小林君は、彼との密会の事をつぶさに話しました。

「再び和馬君に僕の助けが必要となった事で、僕は内心すっかり舞い上がりました。先生……、僕は図に乗っていたのです。和馬君にはやはり僕が必要だ、僕なら彼を助けてあげられる……、と。自分を過信していました。それがあんな事になってしまって……」

「うん、うん。……話してご覧。あの時書斎で何があったのかね」

「突然銃声が響いたかと思うと、和明君が胸を抑えて椅子から転げ落ちたのです。僕は椅子の中から和寿君が撃ったのだと思いました。咄嗟に和明君に駆け寄った時、二発目の銃声が響いて腕が燃えるように熱くなり、僕も撃たれたのだと分かりました。何とか椅子の背後に周って和寿君を引っ張り出したものの、その時には和寿君は自分で頭を撃った後だったのです」

「ちょっと待つんだ。それはおかしいね。それなら銃声は三発聞こえたはずだ」

「はい、仰る通りです。それに、弾痕は二つあったと聞きました。和明君の座っていた椅子の背と、別の椅子の背に一つずつ。これは変です。もし椅子の中から和寿君が二発、僕と和明君に向けてそれぞれ撃ったのなら、弾痕は三つになるはずです。撃った時に内側から椅子の背に開けられた弾痕と、その銃弾が着弾した時のものが一つずつ」

「うん。警察は、部屋のどこかにある三つ目を見落としたのだろうか……。銃声が二発、二つの椅子に一つずつの弾痕があったので、それ以上探さなかったかもしれない。警察は椅子の事を知らないから、警察の解釈は、部屋の中に立っていた和寿さんが椅子にかけていた和明さんを撃ち、そして自殺を図ろうと自分の頭に銃を向けたが、君が咄嗟に止めようとしたおかげで銃弾が逸れ、彼の頭と君の腕を掠めた。そしてそれぞれの弾痕が椅子に、というものだ。しかし和寿さんが椅子の中にいた事を合わせて考えてみると、おかしいね。第一和寿さんは兄を亡き者にして、自分が男爵家の跡取りになると言ったのだろう。それなら自殺する訳が無い」

「はい。それに和明君は本当は、和寿君に家督を譲りたがっていたのです。椅子の中で話を聞いていた和寿君にもそれが分かったはずですから、和寿君には、兄を殺す理由が無いのです」

 明智探偵は顎に手を当てると、黙ったまま部屋の中をうろうろと歩き周り始めました。

「ああ、そうか」

 彼は突然呟いて、はたと立ち止まりました。

「どうやら僕達は、この事件における最も重要な人物の事をすっかり忘れていたようだ」

「えっ。誰の事なのですか、先生」

「そんな事より、」

 明智探偵は突然厳しい顔つきになり、小林君の前に立ちはだかりました。

「君は、僕の計画を邪魔しようとしたんだね……」

 その途端、小林君は顔面蒼白になりました。口をパクパクさせて喘いでいます。その瞳には、ありありと恐れが浮かんでいました。

「ああ、先生……! 僕は、僕は……。御免なさい、先生……」

 再び明智探偵の顔に柔らかな笑顔が浮かんだのを見て、私は心底ゾッとしました。コロコロと変わる彼の態度が……、何だか気味の悪い回転木馬に無理やり乗せられているような、言い知れぬ不安を与えるのです。

「よしよし、泣かなくても良いのだよ、小林君。過ぎてしまった事は仕方がない。君の先生は、それ位の事で可愛い小林君を叱ったりしないからね……」

 明智探偵の繊細な指が、まるで鳥の羽のように、優しく、優しく、小林君の頬を撫でました。小林君は顔を上げました。

「本当ですか……」

 明智探偵を見上げる小林君の目つきは、まるで無垢な赤ん坊そのものでした。

 明智探偵の計画とは一体何の事でしょう。いやそれよりも、私の眼前で繰り広げられている、この異様なやりとりは一体……? まるでエロティックな仏蘭西の活動写真のような。訳の分からぬ不安と相まって、私の鼓動がどんどん早くなってゆくのが自分でも分かりました。

「ところで君は、これからどうするつもりなのだね。君の痣を和真君に見られてしまった以上……」

「何ですって」

 小林君は急に椅子から立ち上がり、真っ青な顔でぶるぶる震え出しました。

「おや、やはり気づいていなかったのだね」

「そんな……、そうか、あの時……。ああ先生! 僕は……、もう終わりです!」

「よしよし、良い子だね。心配しなくとも良い。君の先生が、良いようにしてあげると言ったじゃないか。さあ、小林君、涙を拭いて。実はね、先生は、君に素敵な贈り物を用意してあるのだよ……」

 そう言いながら明智探偵は椅子にかけると、立ち尽くしている小林君を引き寄せ、自分の膝の上に座らせました。そして彼の頬に唇を寄せ……。頬を伝う一筋の涙をペロリと舐めたのです。

 私はもう耐えられませんでした。これ以上覗き見てはいけないと、何かが私の心に警告したのです。私は勢い良く椅子の蓋を跳ね上げようとしました。ところが、どうした事でしょう。蓋が開かないのです。入った時には、蓋は力を入れずとも簡単に開きました。それが今は開かないのです。

 ああそうだ、と、私は思い当たりました。この前は気づきませんでしたが、きっと何かのはずみで蓋が開いてしまわないよう、仕掛けがあったに違いありません。多分、留め金のようなものが蓋の内側に付いているのでしょう。

 私は大急ぎで蓋の縁に添って指を当て、その仕掛けを探しました。しかし、どこにもそれらしき物が無いのです。私は焦りました。事によると蓋ではなく、他の部分に仕掛けがあるのか。私は手で触れられる範囲、と言っても椅子は人間が入るのがやっとの大きさですから、それほど広い範囲でもありませんが、とにかく手当たり次第探してみたのです。

 しかし、やはり仕掛けなどはどこにも見つかりません。

「先生、何か、物音が」

 明智探偵に抱きすくめられてなすがままにされていた小林君が、私が椅子の中で動き回る物音に気づきました。

「ウフフフフ。実はね、その椅子の中に、君への贈り物が入っているのだ。君がずうっと、一番に欲しがっていたものだよ。ウフ……ウフフフ……」 

「小林君、僕だよ! 助けて! 椅子から出られないんだ……」

「和真君! 先生、何て事を」

 椅子に駆け寄ろうとした小林君の腕を、明智探偵はひどく乱暴に掴んで引き戻しました。

「おやおや、せっかちな子だね。だめだよ。贈り物は、先生とお家に帰ってから開けようねえ。ほら、今に薬が効いてくるんだからもう少し待ちなさい」

「小林……君……」

 私は懸命に椅子の中でもがこうとしましたが、どうにもおかしいのです。身体に力が入りません。それどころか、声もだんだんかすれてきました。

 最後に私は大声で叫びましたが、その声はどこにも届きませんでした。そして私の意識は、それきり暗い闇の底に沈んでいったのです。

 嗚呼、懸命なる読者諸君! どうぞこの僕を、哀れんでくれ給え。

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