秘密と罪
「この男以外に誰が撃つって言うんだ!」
痣に気を取られ呆然としていた私は、兄の声で我に返りました。
「それは……」
もちろん私は知っています。しかし、それを口にするのは躊躇われました。
「兄さん、今はそんな事より三人の手当を」
兄はハッとして、
「……そうだ、そうだ。医者を……」
と呟きました。だいぶ気が動転しているのでしょう。しかし既に、機敏な巡査の一人が使いに走り出ていました。
「……怪人二十面相だ」
倒れている和明君が息も絶え絶えに囁いたのが聞こえ、私達はギョッとして彼をふり返りました。
「和明君、喋ってはいけない、傷が……」
「怪人二十面相だ……。怪人二十面相がこの部屋に隠れていて……、怪人二十面相が僕達を撃って逃げたのだ……」
「分かった、分かったからもう、医者が来るまで黙っているんだ。傷に障る」
しかし和明君はその後もずっと、怪人二十面相だ、と何度も繰り返したのです。私もただ口を噤んでいました。和明君は和寿君の姿を見て、何が起こったか察したのでしょう。それでもなお弟を庇おうとするその心を、無碍には出来ませんでした。
「発射された二発の銃弾のうち一発は、和明さんの肩に当たりました。もう一発は和寿さんの頭と小林君の二の腕とを掠り、向かい側にあった椅子に当たったようです」
現場検証を終えた波越警部は、家族の者を集めて説明してくれました。
病院に運ばれた二人は、一命を取り留めました。意識の無かった和寿君でしたが、医者によると銃弾は頭部を掠っただけで、その際の衝撃で気を失っているのだそうです。和明君は、銃弾が心臓を外れて肩に当たり、さらに幸いな事にその弾は貫通していたので、出血の割に軽傷で済みました。小林君も頭を打って気を失ったまま、まだ目を覚ましませんが、腕に痛々しい包帯をしている他は大事無いとの事でした。
小林君の咄嗟の気転で和寿君を椅子から引っ張り出したおかげで、人間椅子の事も警察に露見しませんでした。
「それで……。兄は怪人二十面相に撃たれたのですか」
和華子さんが不安気な顔で、波越警部に尋ねました。
「いいえ」
波越警部はちらりと和華子さんを一瞥し、丁寧な口調で答えました。
「和明さんは椅子に座っていた時に撃たれたのです。それは弾痕から明らかです。怪人二十面相が逃げようとしている時に椅子に座っていたというのは、どう考えても無理があるでしょう」
「でも……、それでは一体誰が……?」
「書斎の中は、窓も戸も内側から鍵がかかっていました。そもそも事件が起こる少し前に、怪人二十面相は書斎から逃げ出したのです。和華子さん、貴女もその場にいらっしゃいましたね」
「ええ……」
「和明さんが嘘の証言をしている事が、皮肉にも誰が撃ったのかを説明しているでしょう」
波越警部は小さく咳払いをしました。
「今回の事件は、その、ご家族の方々には大変お気の毒です……。しかし和明さんは弟さんを庇って、」
「違います! 私です。私が撃ったのです!」
悲痛な声が響き、全員がそちらを振り返りました。それは小早川男爵でした。
「私が……、書斎に隠れていて、息子を撃ったのです」
「ほう、それは。ご自分の息子さんを撃つとはまた、どうして。それに貴方は、皆が銃声を聞いて書斎に駆けつけた時、その中にいらっしゃいましたね」
明智探偵も波越警部も、男爵の言葉を全く本気にしていません。
「そ、それは……」
「違います! 違います! 私です。本当は私が撃ったのです」
今度は男爵夫人が声を上げました。
「私は自分の子である和寿に、家督を継がせたかったのです。だから養子の和明を……」
「お二人共、お気持ちは分かりますが」
明智探偵が、悲しげな声で遮りました。
「偽証は罪に問われます。今のは聞かなかった事にしますから」
男爵は両手で顔を覆い、ガックリと項垂れました。
「ああ、和寿……。どうしてこんな事に……」
「いずれにせよ、まずは和寿さんの意識が回復次第、話を聞かねばなりません。和寿さんと和明さんのご兄弟は日頃から不仲だったようですが、まだ動機もはっきりしていませんし。まあおそらく男爵夫人の仰ったように、家督相続の件で恨みつらみがあったのでしょうが……」
「あの子達に限って、そんな事はありません!」
母が、ぴしゃりと言い放ちました。
「まあその、不幸な事件があり……、怪人二十面相にも逃げられてしまったものの、指輪は守り通す事ができました。これも不幸中の幸いでしょう。いやいや、かの怪人二十面相が仕損じるなど、めったに無いことです」
波越警部がどこか嬉しげなのが、私の癪に障りました。
「ええ、まあ。思わぬ内通者がいたにしては、よくやったと言って頂けるでしょうね」
明智探偵は冷ややかな笑みを浮かべて皮肉を言い、和華子さんはつんとして顔を背けました。波越警部はそんな彼女を一瞥しただけで、明智探偵と話を続けます。
「しかし、怪人二十面相はどうやって脱出したのでしょうな。あの時、廊下側からは私達が駆けつけ、窓の外側には巡査達が巡回していたのです。にも関わらず、どちらも奴の姿を見なかった」
「そう、怪人二十面相はまるで魔術のような方法で、不可能を可能にして……」
「そんな事はもう、私達家族にとってはどうでも良いのです!」
急に立ち上がって大声を出した私に驚いて二人は会話を止め、じっと私を見つめました。
「どうかしばらく私達を放っておいて下さい。とにかくもう、事件は終わったのですから。私達は皆、すっかり参ってしまっているのです」
波越警部と明智探偵は顔を見合わせました。
「お気持ち、お察しいたします。まだ少し邸内の調査が残っていますが、それが済み次第、我々警察はいったん引き上げましょう。書生の件も誘拐の件もありますが、差し当たって邸内で調べる事はもうありませんから」
明智探偵も、
「ええ、僕も同感です」
と言い残し席を立ちました。
家族の者がそれぞれ引き上げた後も私は一人居間に残り、ぼんやりと長椅子に掛けていました。
心はひどく重たく沈んでいました。とうとう、和寿君は罪を犯してしまったのです。幼い頃から知っている、弟のような和寿君が。私は何も出来ず、ただそれを眺めていただけでした。一体何が悪かったのか。小林君の作戦は的を得ているように思えました。私には今も、あのような和明君の真意を聞いた上で、なお彼を撃った和寿君の心が信じられません。しかし、小林君に任せっきりにしてしまった私には責任があります。家族の問題なのですから、私が腹を割って和寿君と話すべきだったのです。それなのに、小林君が頼もしいのを良い事に、私はいつの間にかすっかり彼に頼ってしまっていたのです。私はずっと、自分が無力であると思っていました。小林君が助けてくれなければ何も出来ないと。しかしそれは本当でしょうか。
怒涛の一夜が明け、空が白み始めていました。差し込む光にふと顔を上げれば、居間の窓から見える朝焼けの美しさが一瞬私の心を奪いました。しかしすぐに、その真っ赤な色が昨夜の血の跡を思い起こさせ、私は眉をしかめました。
血。銃声。そして、思いもよらぬ人物にあった痣。
私は勢い良く立ち上がりました。こうして一人でいるのが堪らなかったのです。何でも良い、誰かと話がしたい。しばし考え、私は和明君の病室へと向かいました。
「和明君。大丈夫なのかい」
彼が思いの他元気そうで、私は驚きました。彼は寝床の上に上半身を起こし、看護婦に包帯を替えてもらっている所でした。
「やあ、和真君。この通り、不肖の息子は死に損なったよ」
私は手近の椅子に掛けると、黙って看護婦の手元を見つめながら、作業が終わるのを待ちました。看護婦の手で、包帯が解かれてゆきます。そして顕になった肩口には……、痣など無いのでした。
作業を終えた看護婦が部屋を出て行き、二人きりになってから、私は然りげ無い風で尋ねました。
「ねえ、和明君。君なら知っているだろう。兄の肩口に、生れつきの痣があるかい」
「痣だって。一体何の事だ。そんなものは無いよ」
「確かかい」
「そりゃ確かさ。何しろ君、とても信じられないだろうが、この俺と彼とは同時にこの世に生まれ出た仲だ」
和明君はそう巫山戯るといつものように笑おうとしましたが、傷に障ったようで、痛そうに顔を歪めました。
兄にも痣は無い。やはり。最早解っていた事ではありますが。
痣の事を聞いた時の、母の不自然な様子が思い出されました。あれは、誘拐犯とは無関係だったのです。母は……、隠そうとしたのです。そう、兄達の父親は恐らく……。
暫しの沈黙の後、和明君はふと顔を上げ呟きました。
「……警察には、俺の話は信じてもらえなかったみたいだな」
「うん……。そうだね」
隠し立てをしても仕方がないので、私はそう答えました。
「……やっぱりな」
和明君はしょんぼりと項垂れました。
「和明君、君は……、和寿君をとても大切に思っているんだね。和寿君の為に不良息子の芝居をし続け、そして今は偽証をしてまで庇おうとしている」
「…………」
「でも芝居はもう幕だよ、和明君」
「……うん、そうみたいだな」
和明君は力なく微笑み、しばしの間ぼんやりと窓の外を眺めていました。
「……本当に、和寿が俺を撃ったのか? さっき波越警部が来たんだ。部屋に俺と和寿、そしてあの小林という男がいて、和寿が俺を撃ち、その後おそらくは自殺しようとして自分を撃ったのではないかと言っていた」
「うん、僕はその場にいなかったが、状況からそう判断したのだろうね。もっとも目撃者である小林君がまだ意識を取り戻していないから、彼の証言を待たなければ詳しい事は分からないけれどね」
「……だが、和寿は部屋にいなかったじゃないか。あの時俺は肩に突然痛みを感じて、多分しばらくの間意識を失って……。その後朦朧としてはいたが、床の上に倒れている和寿の姿を見たのは覚えている。和寿はどこかに隠れていたのか。そして俺を撃ったのか。どうして……」
まさか、椅子の事を話す訳にもいきません。私はただ黙って首を振るばかりでした。
「やはり、養子の俺が家督を継ぐのが許せなかったんだろうか。……和寿はね、」
和明君は呟きました。
「いかにも新時代の自由人、爵位なんていう古いしきたりに拘らない奔放な芸術家、という風を気取っているが……。本当はね、ひどく気が弱いところがあるのだ。そして実は頭が固くて、古風で、人目をひどく気にする常識家でもある。お芝居をしているのは、俺だけではないんだ」
「…………」
「俺はやっぱり、養子だからさ。子供の頃から自然、両親や周りの大人達の機嫌を取る事が上手くなった。幸い頭の出来も悪くなかったし活発だったから、いつも皆の中心にいるような子供だった。君は覚えているかい」
私は頷きました。私の胸に、幼い頃の四人――兄と私、和明君、和寿君の姿が蘇りました。我々がまだ腕白盛りの頃、彼自身が言う通り、和明君はいつも悪戯の中心にいたものです。
「……しかし和寿は、ちょっとばかりぼんやりして、不器用で、内向的で気が弱く、自分の言いたい事もはっきり言えないような子供だった。両親の感心も俺に向きがちだった。そして俺達の間には、次第に溝が出来ていったんだ。かたや将来を嘱望された医大生、かたや絵を描く事だけが取り柄の落第生という風に、周りが俺達を見るようになった。和寿はそれに反発したが、誰よりもそう思っていたのは和寿自身だったんだ。あいつは自分で自分をそう貶めて、勝手に劣等感を抱いた」
クッションにもたれかかった和明君の表情は、いつものお調子者の彼とは別人のようで……、いえ、かつての和明君はこうだったと、私は昔を思い出していました。
「帝大の入学試験に失敗して、進学せず絵の勉強をするとあいつが言い出した時、父は反対しなかった。それが決定的な出来事だった。あいつは、父が馬鹿な事を言うなと叱咤激励してくれると思ったんだ。そして、俺に負けないよう学業を修めて男爵家を継げと言ってくれると期待していた。しかし父はあいつに、好きな道を行けとしか言わなかった。『結局の所、父は自分には全く期待をかけていない、だからただ甘やかして好きにさせておくのだ』と、あいつはそう考えたんだ。自分で言い出した癖に、おかしな話だが」
和明君がふふっと笑いました。
「……そして俺は、『不肖の息子』になった。どうしても、俺が廃嫡されないと駄目だったんだ。俺が養子だからとかでなく、あいつが誰よりも慕っている父が、あいつこそが跡継ぎに相応しいと期待をかけ、不肖の息子を廃嫡しあいつを跡継ぎにする。そういう筋書きでないと、駄目だったのだ」
私は言うべき言葉が見つからず、ただ黙って頷くばかりです。和寿君の想いも、少し理解出来る気がします。男爵が何も自分に期待していないと失望している所へ、実の父では無いという事実を知ってしまったのです。小林君も言っていたように、裏切られたように感じた事でしょう。そして、自分は実の子ではないから、何も期待されないのだと解釈したかもしれません。
和明君がふと、苦しげに咳き込みました。
「和明君、喋り過ぎたのではないか。傷に障るといけない、横になった方が良い。僕はそろそろ退散するから」
私はクッションを動かし、和明君が楽な姿勢で横になるのに手を貸しました。
「うん、薬が効いてきたかな。少し眠くなってきた」
和明君は大人しく横になりましたが、ふと、真剣な顔で私を見つめました。
「もう一つだけ、君に言っておかなきゃならない事がある。あの、小林という男。簡単にあいつを信用するな」
「えっ」
思いがけずその名が出て、私はどきりとしました。
「どうして、そんな事を」
「以前、俺は見た事があるんだ。例の、殺された書生とあの男が一緒にいるのを。あるカフェーで……、あまり柄の良くない場所にある店だ」
「小林君が?」
「ああ。あれは確かに彼だった。しかし彼は明智探偵の助手として有名な人物だし、犯罪に関わっているとは思えなかったから、誰にも言わずにいた。だが書生の死体が消えた事件の後、和臣と俺で話し合ったんだ。家に誰か書生以外の、悪意を持った者が入り込んでいる。家族を守らねばいけない、と。その時俺も、二人を見た事を和臣に話した」
なるほど。それで、兄が真っ先に小林君が撃ったと主張した訳が分かりました。
「君がそのカフェーで小林君を見たのは、いつの事だい」
「うん、そうだな、今から一月程前だ」
一月も前に? 私は困惑しました。小林君は、書生とは挨拶を交わした事がある程度の顔見知りです。彼自身もそう言っていたではありませんか。一緒にカフェーで談笑するような仲ではないはずです。よしんばそういった事があったにしても、なぜそれを私に隠したのでしょう。それに書生はともかく、小林君はそういったいかがわしい場所に出入りする人ではありません。
少なくとも、私の知る小林君は……。
和明君はいつの間にか眠りに落ちていましたので、私はそのままそっと部屋を後にしました。
「和真さん、ちょっと」
しきりに考えこみながら廊下を歩いていた私は、急に背後から声を掛けられ、驚いて振り向きました。見れば明智探偵が、相変わらず考えの読めない微笑を浮かべてそこに立っていました。
「これは失礼、脅かせてしまいましたね」
「もう引き上げてしまったのかと思いましたよ」
私はぞんざいに答えました。私はどうも最初から、この明智小五郎という人が好きになれないのです。むろん世間では名探偵として名高く、さらに小林君の恩人でもある人物だと承知してはいるのです。しかし、どうもそういう表の顔とは別に、何だか底の知れぬ、怪しげな裏の顔が隠されているような気がするのです。大変失礼な言い草だとは思いますが、少なくとも今回の一連の事件に関しては、私は彼に多少なりとも否定的な意見を述べる資格があるでしょう。聞いていた世間の評判とは裏腹に、彼はこれといった活躍をしていないではありませんか。
明智探偵は、私の無愛想な態度を気に留める様子も無く言いました。
「小林君が意識を取り戻しました」
「えっ、本当ですか。具合はどうなんです」
「うん、今医者が見ているが、どこも問題無さそうです。それで医者の許可が出れば、この後少し話を聞こうと思います」
「そうですか……」
小林君は、見ていたのです。和寿君が和明君を撃った事を裏付ける証言をせねばならない彼は、きっと胸を痛めているでしょう。彼にとって血を分けた弟である和寿君を告発するのですから。
「小林君の証言でようやくはっきりするでしょう、あの時何が起こったか。小林君のような信頼できる目撃者がいた事は、不幸中の幸いでした」
明智探偵のその言い草が何となく癇に障り、私は、
「そうですか。では僕はこれで」
と、話を切り上げて踵を返そうとしました。ところが明智探偵は、私の前に立ちはだかるようにして行く手を塞ぎました。
「お待ち下さい。尋問の前に、ちょっと貴方とお話できませんか」
「話?」
「ええ。一連の事件について、私の考える所を是非聞いて頂きたいと思いまして」
「貴方の考えですって」
驚きのあまり、私は彼の顔をまじまじと見つめました。ひょっとすると、今までろくに仕事をしていなかったように見えたのは、彼がそう見せかけていただけで、実は彼は一歩また一歩と真実にいざり寄っていたのかもしれない。そんな考えが私の頭に浮かび、興味を掻き立てました。
「よろしいでしょう。お話を伺います」
「ありがとうございます。では……、書斎にでも行きましょうか。あの部屋なら落ち着いて話せるでしょう」
「ええ、構いませんよ」
私はそう答え、彼と共に書斎に向かいました。部屋の中にはまだ何やら調査中の巡査が二人ほど残っていて、私達が入って行くと、
「あ、明智先生」
と、一人が顔を上げました。
「失礼。しばらくこの部屋を使いたいのだが。まだ仕事が残っているかね」
「いえ、こちらはちょうど済んだところですから。先生がお使いになるのでしたら、我々は引き上げましょう」
そう言って巡査達は部屋を出て行きました。
嗚呼、懸命なる読者諸君よ。その時私は何気なく、二人の巡査の肩越しに、今通ってきた我が家の廊下を振り返ったのです。そう、まるで、故郷に別れを惜しむ人の様に――。




