計画
「あと二分」
波越警部にそう教えてもらうまでもなく、皆先程から何度も時計を見ていました。
「後、一分……」
皆、心の中で数を数え始めたかのようでした。
その時です。
「あっ」
突然、辺りが闇に包まれました。
「なんだ、どうした」
慌てふためく和明君の声が聞こえます。
「灯りを……、誰か灯りを!」
「早く!」
「和華子、和華子はどこだ。無事か」
皆が口々に叫び合いましたが、お互いに姿が全く見えません。ざわめきの中、扉の開く音がしました。誰かが気転を利かせ、廊下に続く扉を開いたようです。しかし廊下からも灯りは差し込みません。やはり真っ暗です。
「和華子さん!」
私はとにかく彼女の無事を確認しようと大声で呼びましたが、返事はありません。
「誰か、和華子さんを!」
その時、ようやく灯りがつきました。だがしかし……。部屋を見回した私達は、殆ど同時に叫びました。
「あっ、和華子さんが」
「和華子がいないぞ」
「和華子、どこだ和華子」
ほんの一瞬の間に、和華子さんの姿はかき消すようになくなっていたのです。声一つ上げる間もなく、彼女は攫われてしまったのでしょうか。
「そんな、馬鹿な」
私達は呆然と互いの顔を見合わせました。波越警部はと言えば、さすがに熟練の警察官です。すぐに、廊下に控えていた巡査達にてきぱきと指示を出し始めました。明智探偵は灯りが点くが早いか部屋から飛び出し、その姿は既にどこにもありません。
私達も慌てて部屋を出ましたが、どこをどう探せば良いのやら、皆右往左往するばかりです。しかしやがて、二人一組で行動するようにという明智探偵の注意などすっかり忘れ、それぞれ思い思いの方向に散らばってゆきました。私も皆の後に続きましたが……、実は私には思う所がありました。
もしかしたら、和華子さんは……。
少し迷いましたが、私の足が自然に書斎に向かいました。
邸内で、居間とは反対側にある書斎の辺りはしんと静まり返っています。巡査達も皆も、怪人二十面相が指輪ごと和華子さんを攫って逃げたと考えているのでしょう。邸内でなく庭や外を探しに出たに違いありません。
私は書斎の扉の前に立ち、そっと耳を寄せてみました。思った通りです。
「和華子さん!」
私は扉を勢い良く開けました。室内にいた和華子さんと……、長身の、がっしりした体格の男が驚いて振り向きました。初めて見る顔ですが、やはりどことなく見覚えがあります。
「お待ち下さい!」
咄嗟に逃げ出そうとした怪人二十面相に、和華子さんはピシャリと言い放ちました。天下の大怪盗に向かってその様な事を言うのは、和華子さんくらいのものでしょう。私は思わず吹き出しそうになってしまいました。
「お兄さま。私、この方と少しお話がしたいだけなんですの。どうかその間、騒ぎ立てずにいて下さらないかしら」
やれやれ。やはり思った通りでした。和華子さんは始めから計画を立てていたに違いありません。その為に指輪を身に着けるなどと言い出したのです。今更何を言っても聞かないでしょう。
「まったく、しょうのない人ですね。仕方ありません。僕は見て見ぬふりをしますよ。ただし貴女に万一の事があってはいけませんから、この部屋にいさせてもらいます」
「有り難う、お兄さま」
和華子さんはそう言ってにっこり微笑むと、怪人二十面相に向き直りました。
「さあ、指輪はここに」
和華子さんはそのか細い指を差し出して、指輪を怪人二十面相に見せました。怪人二十面相は黙ったまま指輪に目を落とし、じっと見つめています。室内は暗く、書き物机に置かれたランプだけが灯っていましたが、指輪がその灯りを反射して鈍い光を放ちました。
やがて彼は、重々しい口を開きました。
「私に、その指輪を差し出そうというのか。貴女にとって、大切なものではなかったのかね」
「ええ、とても大切なものです。たったひとつの真実と同じだけ、価値があるものですわ」
和華子さんは指輪をはめた手を愛おしむように、もう一方の手でそっと包みました。
「たったひとつの真実……」
怪人二十面相が呟きました。
「この指輪を貴方に差し上げます。でもそれは、真実と引き換えです」
「天下に名を轟かせたこの怪人二十面相相手に、取引しようと言うのかね。お嬢さん、あなたはまさに……」
怪人二十面相は、ふと言葉を飲み込みました。葛藤がその胸を行き交っているのを、表情から見て取る事が出来ました。
「ええ。真実を教えて下さい。貴方はもしかして……」
「私には、何の事か分かりません」
和華子さんの言葉を、怪人二十面相がきっぱりと遮りました。
「なぜですの? 何故教えて下さらないんですの」
「私は、犯罪人なのですよ、お嬢さん」
「……どうしても、教えては下さいませんの?」
「今の貴女は良き家族に囲まれ、幸福に暮らしている。それで良いではありませんか」
怪人二十面相は、とても悪人とは思えない優しい声音で和華子さんにそう囁きました。
「ええ。私は幸せですわ。でも……、闇があるのです、私の心の中に。ぽっかりと穴を空けた暗闇が。自分が何者なのか分からないというのは、とても恐ろしい事ですわ」
和華子さんのその言葉に、私はハッと胸を突かれました。
「……それは少し違う、お嬢さん」
怪人二十面相が、一歩前に出ました。
「貴女が何者であるかは、貴女自身が決める事なのだ」
「私自身が……?」
「ああ、そうだ。だから……、前だけを向いてお暮らしなさい」
怪人二十面相の言葉に、和華子さんは俯きました。しかし、つと顔を上げると、怪人二十面相の顔を真っ直ぐに見据えて言いました。
「分かりました。でも取引は取引ですわ。この指輪をお渡しする訳にはまいりません。どうしても欲しければ、私から盗んでみせて下さいな」
怪人二十面相はしばらく躊躇っていましたが、外套のポケットに入れていた片手を静々と取り出しました。そしてその手を伸ばし……、
「そこまでだ! 怪人二十面相!」
黒い影が素早く私の横を走り抜け、怪人二十面相の差し出した手首をがっしりと掴みました。そしてその大きな手に、ガチャリと手錠がかけられたのです。
全てはあまりにも一瞬の出来事でした。当の怪人二十面相ですら、何事が起こったのか理解するのに一瞬の間を要したようです。
気づいた時にはそこに、手錠の一端をしかと握りしめた明智探偵が、勝利の笑みを浮かべて立っていました。
「こんな事だろうと思っていましたよ、和華子さん。どうやら情が湧いてしまったのは、怪人二十面相だけではなかったようですね」
「騙すような真似をした事は、お詫びいたします」
和華子さんはしおらしく項垂れてみせましたが、すぐにキッと顔を上げました。
「ですが、明智先生。どうかお見逃し下さいな」
「いいえ。世の中には法というものがあるのです。泥棒ごときの自由にさせる訳にはいきません。警察にも面子というものがあります。さあ、その男から離れて大人しくこちらへいらっしゃい」
「いいえ。どうか放っておいて下さい」
「なりません」
どちらも一歩も譲りません。どうやら、いずれ劣らぬ頑固者と見受けられます。
しかし二人とも睨み合いに夢中で、私がそっと足音を忍ばせ、書き物机に近づいたのには気づかなかったようです。
「あっ」
頼りない灯りが突然消され、部屋は暗闇に包まれました。明智探偵の小さな叫び声が聞こえ、それを合図にしたように格闘が始まりました。ドタン、バタンと、二人の男が激しく争う様が、音だけで分かります。
「和華子さん、危ない。怪我をします。こちらへ!」
私が呼ぶと、今度ばかりは和華子さんも素直に従い、声を頼りに私の元に駆け寄って来ました。
「あッ、待て!」
明智探偵が叫んだかと思うと、扉がバタンと乱暴に開かれた音がしました。廊下の向こうから、バタバタと走ってくる足音と喚き声が聞こえます。
パッ、と、灯りがつきました。明智探偵が電灯のスイッチを入れたのです。それと同時に、波越警部が幾人かの巡査を従えて部屋に飛び込みました。
部屋の中には、身を寄せあったまま呆然と立ち尽くしている私と和華子さん、それに明智探偵の他に誰もいません。怪人二十面相は素早くも逃げおおせてしまったのです。
「扉から出たと思わせておいて、窓から逃げたのか」
明智探偵は悔しそうに歯噛みしました。確かに、扉の外は廊下の一本道ですから、廊下に出たとしたら波越警部と鉢合わせになっていたに違いありません。
「どうしました」
騒動を聞きつけ、小林君と家族の者達も集まってきました。
「庭だ、怪人二十面相が庭へ逃げた」
波越警部が叫ぶと、人々はどやどやと庭へ向かいました。
その時小林君が素早く私に目配せし、私も周囲の人に気取られないよう小さく頷きました。
私にとっての心配事は、指輪なぞよりも、怪人二十面相よりも、これから起こる事なのです。
「和明さん、ちょっと」
小林君が小声で、皆の後から庭に回ろうとしていた和明君を呼び止めました。
私は和華子さんを母と男爵夫人に託し、いったん皆と一緒に庭へ周りました。そうして捜索に加わるふりをして、実はそっと抜け出したのです。私は急いで書斎に取って返すと、扉の隙間にそっと耳を押し当てました。扉はぴたりと閉ざされていて中の様子を見る事は出来ませんが、幸い和明君の大声はよく響き、僅かな隙間からでも会話を聞き取る事ができました。
「いいのかい、こんなところでのんびりしていて。怪人二十面相を追うんじゃないのか」
「僕はあくまでも和真君の友人として、誘拐事件解決の手伝いをする為にやって来たのですよ。怪人二十面相の事は、明智先生と警察にお任せしておきます。和真君も貴方も、指輪にはあまり興味が無いようですしね」
「まあね。どんな思い出の品か知らないが、あんな玩具同然の指輪ひとつ。……ところで、僕に話って何なんだ」
これが、和寿君の作戦なのでした。怪人二十面相が逃げた後、小林君が口実を設けて和明君を書斎に呼び出す。自分は用意した人間椅子に隠れていて、その椅子に掛けた和明君を椅子の中から拳銃で撃とうという、恐ろしい計略なのです。そしてもちろん、その罪を怪人二十面相になすりつけるつもりなのです。
しかし我が小林君には、別の計略がありました。
椅子の中の和寿君に聞かせるよう、和明君に真実を語らせるのです。そう、和明君がお芝居を続けているその理由を。その理由を聞けば、和寿君は殺意をなくして思い止まるに違いない。それが小林君の考えでした。そうして、この兄弟の間に出来た溝を埋め、和解させようというのです。
部屋の中では小林君が、例の本棚の推理を和明君に披瀝していました。
「……という訳で、僕は貴方が、所謂『不肖の息子』を演じていると分かったのです」
「ははは、それは面白い。まるで探偵小説だね。さすがに名探偵の少年助手として名を馳せた君だ」
和明君はあくまでも茶化して誤魔化そうとします。小林君は彼の挑発的な態度に乗らず、淡々と話し続けました。
「貴方は一体何故、そんな真似をしているのか。僕は考えてみました……」
「それはまた、随分と僕を買いかぶってくれたもんだねえ。だけど些か想像力過多じゃないかね。どれどれ、僕もひとつやってみようか。『少年探偵、小林芳雄君の秘密とは……』」
和明君の笑い声は、小林君の、
「弟さんの……、和寿さんの為ですね」
という一言でぴたりと止まりました。
「貴方は不肖の息子と周囲に思わせる事で、廃嫡され、代わりに弟さんが男爵家の跡継ぎになる事を望んでいる。違いますか」
「…………」
「あなたは実子の和寿さんを差し置いて、養子である自分が跡取りである事に負い目を感じている。だから手の込んだ芝居を打って……」
「違う、ちがう、下らない出鱈目を言うな」
和明君が怒鳴りました。
嗚呼、椅子の中の和寿君は、今頃どんな想いで聞いているのでしょうか。和明君が言い逃れをしようとしているのは明らかで、小林君はずばり彼の痛い所を突いたのです。私も小林君の推理を聞くまでは、和明君が胸にそんな思いを秘めているなどと想像もしませんでした。きっと椅子の中の和寿君も、私と同じく驚いているでしょう。兄のこの様な心のうちを知り、彼に殺意を抱いた自分に後悔の涙を流しているかもしれません。
その時でした。
ドン、という鈍い音が室内から響きました。そして、続けてもう一度。私がそれを銃声だと理解するまでに、しばらく時間がかかりました。
「何だ、どうした!」
「書斎の方からだ!」
巡査達が口々に喚きながら走って来る足音が聞こえます。私はどんどんと書斎の戸を激しく叩き、押したり引いたり、扉を強引に開けようと試みていました。しかし、鍵の掛かった頑丈な扉はびくともしません。書斎の中からは微かなうめき声が聞こえ、それが私を一層焦らせました。
「どうしたんですか!」
明智探偵と波越警部が、私に駆け寄りました。
「中から、銃声が」
その時、向こう側で誰かの動く気配がしたかと思うと、扉がゆっくりと開きました。見れば小林君です。顔を歪め、重たい動作で、半開きの扉に寄りかかるようにして立っています。
「小林君、大丈夫か! 一体……」
明智探偵を先頭に、私達は部屋に飛び込みました。途端、私達の視線は床の上に釘付けになりました。
そこには、和明君と和寿君の二人が倒れていたのです。まるで夏の夜の花火のように、辺りには鮮血が飛び散っていました。
「小林君、君も撃たれたのか!」
私は小林君が二の腕を抑え、よろめいたのに気づきました。その抑えている指の隙間から、真っ赤な色が着物に滲んでいます。
「いや、流れ弾が掠っただけだ。大した事ない。それより二人を……」
和明君が微かにもがきました。辺りはまるで絵の具をぶちまけたように血だらけ、それが和明君の洋服と絨毯とを染め、弾が身体のどこに当たったのか良く分かりません。対して和寿君は頭の横から血を流し、息はあるようですが意識を完全に失っています。
「誰か、医者を」
私が言いかけた時でした。書斎に兄が駆け込んできました。
「こいつ! 貴様の仕業だな!」
兄は叫ぶが早いか小林君に飛びかかりました。勢い良く彼の胸ぐらを掴み、殴りかからんばかりの勢いです。
「小林君!」
私は慌てて、兄と小林君の間に割って入りました。
「兄さん! 何をするんです」
「こいつ……、こいつは怪人二十面相の手先なんだ! こいつが二人を撃ったんだ!」
兄は小林君に掴みかかっていきます。必死に兄を止めようとしても、私よりずっと大柄な上に、柔道の心得のある兄なのでそう簡単にはゆきません。私はいとも簡単に振りほどかれてしまい、兄と小林君は激しい取っ組み合いを始めました。
「兄さん、止めて下さい! 何を馬鹿な事を。小林君は僕の友人です。怪人二十面相の手先なんかじゃありません」
「お前は知らないんだ、この男は……」
兄は、柔道の技で小林君を床に引き倒しました。ドシンという鈍い音がして、小林君の短い呻き声が微かに私の耳に届き、小林君はそれきり動けなくなってしまいました。
「小林君!」
私は兄を突き飛ばすようにして、小林君に駆け寄りました。よほど強く身体を打ったのでしょう、小林君は痛そうに顔をしかめたまま気を失っています。
「何て事を」
ところが、慌てて小林君の身体を抱え起こそうとした時、私は見てしまったのです。
彼の乱れた服の肩口から、まるで無垢な少女のように滑らかな白い肌がのぞいていました。その鎖骨の上に、あったのです。痣が。私と同じ、特徴ある星形の、痣が。




