椅子人間
和華子さんが無事に戻り、ともかく私達は胸を撫で下ろしました。我が家ではしっかり者の母が、ごたごたした家の中を取り仕切るのに忙しく立ち働き始めました。兄は体調がすぐれないと言って、寝室に篭っています。父はまだ帰宅していませんでしたが、帰ってきて話を聞けば大層驚くに違いありません。しかし和華子さんの無事を大いに喜ぶでしょう。
ただ和華子さんは戻ったものの、誘拐犯「椅子人間」の正体は謎のままでした。誘拐の時犯人はマスクのようなもので顔を隠しており、また和華子さんが監禁されていた丸一日あまりの間にも一度も姿を見せなかったそうで、和華子さんは誘拐犯をほとんど見ていないのです。誘拐の時に咄嗟に『お兄様』と呼んだのは、部屋に入ってきた人物をこの私と見間違っての事だと和華子さんは言いました。ですが、扉が開いた時、廊下から差し込む光の逆光でその人物は影にしか見えず、彼の背格好が私と似ていた為に勘違いしただけの事で、今にして思えばあれは断じて私では無かったと、和華子さんは強調してくれました。明智探偵は探るようにじっと和華子さんを見つめ、そしてこれ見よがしに溜息をつきました。これで、私への疑いはすっかり晴れたに違いありません。私は胸を撫で下ろしました。
しかし……。明智探偵はさらに、書生の強請の元になった男爵夫人の秘密をどのようにして知ったのか、夜間にその秘密の事情で外出していた夫人を偶然見かけたと言うが、そんな時間に貴女はなぜ外出していたのか、と和華子さんに尋ねました。すると彼女は、ちょっと散歩に出たのだとか、いや、どこかの夜会の帰りだったかもしれないし、良く覚えていない、などとうそぶいたのでした。
「ああ」
書斎で午後のお茶を飲みながら、私は軽くなったように感じる身体を伸ばしました。
和華子さんが無事に帰って来て、私は数日ぶりに不安から解き放たれた心持ちになっていました。和華子さんに隠している事があろうと、そんな事はもうどうでも良いとすら思える程でした。そんな開放感と安堵感から、私は小林君に言ったのです。
「ねえ、小林君。君には大変迷惑をかけてしまった。僕のために色々と力になってくれて、本当に感謝しているよ。だが、ともかく和華子さんは無事に戻ったし、僕への疑いも晴れたようだ。それに、和華子さんがこの僕と誘拐犯を見誤ったという事は、兄達を疑ったのも見当違いだったという事だ。僕の体格は兄達とは全然違うのだからね。兄は僕と違って大柄でがっしりした体つきをしているし、和明君は細身だが僕より幾分か背が高い。その……、つまりだね、後は波越警部と明智探偵に任せれば良いと僕は思うのだ。本来君には何の関係も無い事なのだから」
小林君は大きな瞳をいっそう大きく見開き、私を見つめました。
「……そうかい。君がそう言うのなら……、僕は退散した方が良さそうだね。ご家族の事情に僕があまり入り込むのも、皆さんとしてはあまり良い心持ちがしないだろうし。僕は明智先生や波越警部のような専門家ではないのだから」
私は、小林君の気分を害してしまったのだと気づきました。
「小林君、誤解しないでくれたまえ。僕はただ、この上まだ君に面倒をかけるのが心苦しかっただけだ。何もそんな意味ではないよ」
「……面倒だなんて」
小林君は、どことなく淋しげな目つきで私を一瞥しました。
「では今度こそ、椅子を運び出してしまわねばなるまいね。警察は皆男爵家の方に行ってしまったし、今なら大丈夫だろう」
「うん、そうだね。では今夜、片付けてしまおうか」
私は小林君を元気付けるかの如く、わざと陽気な声でそう言いました。しかし小林君は浮かぬ顔をしたままです。
「ねえ君、気づいたかい。男爵夫妻も君のご両親も、あの指輪について何か知っているよ。しらばっくれた態度を取っているが、明らかだ」
小林君の言う通りでした。皆が指輪の事で何か隠し事をしているのは、私ですら、その表情から見て取る事が出来たのです。
しかし私は、軽く首を振って答えました。
「正直僕は、あんな指輪など怪人二十面相にくれてやれば良いのにとすら思う。どんな仔細があるのか知らないが、あんな安物の指輪、和華子さんの身の安全には比べるべくもないよ。僕は和華子さんが無事に戻って来てくれただけで、もう……」
「うん。ともかく彼女が無事で良かった。男爵夫妻も一安心だろう」
暫しの沈黙の後、小林君は小声で呟きました。
「ただ……。一つ、重要な事があるよ。君は気づいたかい」
「重要な事?」
「ああ、そうだ。怪人二十面相からの手紙だ。あれは、『椅子人間』に宛てられたものだったね。しかし怪人二十面相は何故、その手紙を和華子さんに託けたか。これはつまり、家族の中に『椅子人間』がいて、怪人二十面相はそれを知っているという事に他ならないじゃないか」
私はハッと息を呑みました。そうです。なぜ気付かなかったのか。小林君の言う通りです。しかし……。
「しかしどうして怪人二十面相が、そんな事を知っていると言うんだい。あっ、まさか」
「そう、そのまさかだ」
小林君は深刻な顔で頷きました。
懸命なる読者諸君。私が先に、怪人二十面相は変装の名人だと記した事を覚えておいでであろうか。
その夜再び、私と小林君は書斎に忍び込みました。今度こそ、あの忌々しい椅子を始末してやりたい。私は切にそう願っていました。思えば、全ての発端はあの椅子でした。馬鹿馬鹿しいとは思いつつ、私にはまるで、あの椅子が二つの家族に災難を運んできたような気がしていたのです。
私は予め鍵を開けておいた仏蘭西窓をそっと開くと、誰もいないのを確かめる為、室内を見回しました。深夜の書斎は不気味に静まりかえっています。人の気配はありません。
「さあ、早いところ運び出してしまおう」
さっさとあの椅子を我が家から追い出してしまいたい。私はその一心で、小林君を急かしました。
「せえの」
二人で掛け声をかけて椅子を持ち上げると、今度は椅子は難無く持ち上がりました。以前の事がありますから、私は心底ほっとしたものです。だがしかし。
「おや」
椅子を抱えたまま、小林君が声を上げました。
「何だろう、これは」
見ると、椅子の裏側にある蓋に何かが挟まっているのです。どうやら小さな封筒のようでした。ひとまず椅子を下ろすと、小林君は眉をしかめてその封筒を引っ張り出しました。
「開けてみよう」
封筒の中には、一通の手紙が入っていました。
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やあ、小林君。
君が見つける事を見越して、ここに手紙を残しておいた。
僕は君の秘密を知る者だ。
君に是非、内密で相談したい事がある。君にとっても悪くない話であろう。
怪人二十面相の予告日の前夜、深夜零時にこの書斎で待つ。
誰にも話さず、必ず一人きりで来てくれるよう。
椅子人間
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声に出してそれを読み終えた小林君と私は、顔を見合わせました。
「これは、一体……。椅子人間だって? 本物の椅子人間からの手紙なのだろうか」
小林君は黙ったままじっと手紙を見つめ、一言一句舐めるように何度か読み返しました。そして、
「本物だろう」
と言いました。
「どうしてそう言い切れるんだい」
「『僕の秘密を知っている』と言うのは、二重の意味がある。一つは、もし僕がこの呼出に応じなかったり警察に話したりすれば、その秘密を暴露するという脅しだ。もう一つは、椅子人間であるからこそ僕の秘密を知っているという、これが本物の椅子人間からの手紙だという証拠を示しているのだ」
「椅子人間だからこそ秘密を知っている? それはどういう事だい。君の秘密というのはもちろん、男爵夫人の事なのだろうが……。君は椅子人間がその事を知っていると言うのかい」
「うん。僕にはそう考える理由があるのだ」
小林君はそれ以上詳しくは語らず、黙りこんでしまいました。
「それで、どうするんだい。まさかこの呼出にノコノコと応じるつもりではないだろうね」
「そうするしかないだろう」
「いや、それは駄目だ。忘れたのか。椅子人間は書生を殺したのだぞ。殺人者なのだ。一人でそんな人間に会うなど危険極まりない。無茶を言わず、警察に話すのだ」
「それは駄目だ。そんな事をすれば『椅子人間』は僕の……、男爵夫人の秘密を暴露してしまうだろう。それに彼が何か企んでいるのなら、それを突き止める必要がある」
「しかし危険だ。悪い話では無いなどと言って油断させ、何をするか分からないよ」
「そうは言っても……」
「いや、万一の事があったら僕は後悔してもしきれない。どうしてもと言うなら、僕も一緒にゆく」
「それはあまり良い考えではないな。一人きりでと念を押しているのだし」
「だが……。いや、待ってくれ。僕に良い考えがある」
私の頭にある思いつきが浮かびました。それを小林君に話すと、小林君もようやく納得してくれたのです。
その翌晩が、怪人二十面相の予告前夜でした。呼び出しの時間より少し早く、私達はこっそり書斎に向かいました。家族の者はここ数日の疲れから早めに床に入ったようで、家の中はしんとしています。
「では、充分気を付けてくれ給え。何かあればすぐに飛び出すが、それでも用心に越したことは無い」
そう言いながら、私は椅子の蓋を持ち上げました。
そうです。小林君が椅子人間と会う間、私は椅子に隠れて見張っている事にしたのです。
「うん、分かっているよ」
もぞもぞと身体をくねらせて椅子に入り込み、蓋を支えていた手を離すと、蓋は静かに閉まりました。覗き穴から覗いてみると、向かいの椅子に腰を下ろす小林君の様子がよく見えました。やがて小林君は静かに思索に耽り始めたようで、書斎の中はしんと静まり返りました。
時間が経つのがひどく遅く感じられたものの、ようやく深夜零時が近づいてきました。小林君が素早く合図をしたかと思うと、書斎に近づいて来る足音が椅子の中の私にも聞こえてきました。
和華子さんを誘拐して脅迫し、書生を殺し、その死体を隠した「椅子人間」とは一体誰なのか。私は狭い椅子の中で身を固くしました。
扉が開き、誰かが入ってきた気配がしました。
「やあ、来てくれたんだね」
その声には、確かに聞き覚えがありました。いえ、聞き覚えがあるだけでなく、よく知っている声だったのです。
私は意を決し、椅子の覗き穴から外を窺いました。
「誰にも話したりしていないだろうね、小林君。いや、兄さんと呼ぶべきだろうか」
果たして、そこに立っていたのは……。
それは、和寿君だったのです。
「言われた通り、誰にも話さず一人で来た。内密で相談したい事とは何だね」
私の驚きをよそに、小林君は平然と構えています。和寿君は、不敵にニヤリと笑いました。
「おや、これはつまらないなあ。ちっとも驚いてくれないなんて。さては、もうとっくに見抜いていたと見える。さすがに少年探偵として名を馳せた君だ。どうして手紙を出したのが僕だと分かった?」
「僕の秘密を知っている可能性があるのは、君だけだからね。あの日、僕と和真君がこの書斎に椅子を運びこんだ時、君は話を聞いていたのだろう……。椅子に入って」
「へえ、知っていたとは驚きだ」
「実は君の部屋を調べたのだ。江戸川乱歩先生の大変な崇拝者である君の本棚に、『人間椅子』だけが無かった。君は自分の悪巧みの種明かしが書かれた本を、置いておくのが不安だったのだろう。だから燃やしてしまった」
「ああ、大正解だ。どら、君に僕の『人間椅子』を見せてあげよう」
彼はそう言うと窓脇に置いてあった椅子のひとつに近寄り、その背面の一部をぱかりと開きました。
そう。それは私が今入っているのと同じ様な、もう一つの『人間椅子』だったのです。
「君の椅子ほどじゃないが、中々良く出来ているだろう。両親と伯爵夫妻の話を盗み聞きしようと、これを置いたのさ」
「その為に君は空き巣に見せかけて書斎を荒らしたんだろう。家具を壊して、新しい椅子を入れさせるためにね。他にも部屋はあるのに書斎の家具だけを壊し、素人には価値の分かりにくい稀少本を盗っていったというおかしな空き巣の事と、君の本の事を結びつけた時すぐに分かったよ。君はそうまでして一体何の為に盗み聞きを?」
「おや、それもお見通しか。何、元々は、和華子の事を探ろうとしたのさ」
「和華子さんの?」
「そうだ。和華子の出自や養女に来た経緯……。それに、何故両親も伯爵夫妻も、あんなにまで和華子を秋月家に嫁がせたがっているのか。父の書斎に入り込んで昔の日記を読んだり、書類を漁ったりしたが何も見つからなかった。そこでこっちの書斎で、椅子に入って盗み聞きする事を思い付いたのさ。ここなら四人共、事業の事でなくもっと個人的な話をするだろうからね」
「それで、何か分かったかい」
「分からなかったよ。和華子の事は……、結局分からず終いだった。だが……」
和寿君は、ぎりりと歯噛みしました。いつも飄々とした和寿君の、初めて見る憎々しげな表情が突如としてそこに現れ、私はぞくりと総毛立ちました。
「……だがその代わり、この僕が実は父の子でなく、母と秋月伯爵との不貞の子だという事が分かったのさ。それから父と秋月伯爵夫人も、同じ様に関係を持っている事もね」
もし椅子の中にいなければ、私は憤りのあまり和寿君に掴みかかっていたかもしれません。私の父と、男爵夫人が。母と、小早川男爵が。そのような根も葉もない事を。両親の名を汚され、私は怒りで顔が熱くなりました。
ところが小林君は、少しも驚いた様子を見せないのです。ただ押し黙っています。
「おや。君ときたら、この事すらお見通しだったようだね。四人がそれぞれ不貞の関係にあることを。やれやれ、恐ろしい人だ」
和寿君の言葉に、私は愕然としました。小林君は知っていた? 俄には信じられませんでした。しかし小林君は平然と、冷たい声で和寿君に先を促しました。
「それで」
「その後も両親や伯爵夫妻が書斎に来る時を狙って椅子に潜み、何度も話を聞いた。母が結婚前に産んだという君の存在や、それを嗅ぎつけた書生が母を強請っている事も知った。それから、例の計画の事もね」
和寿君はくすくすと笑いました。
「どうりで、誘拐の事を聞いても妙に落ち着いていたはずだ」
「ああ。……それにしても」
和寿君は、可笑しくてたまらないといった笑い声をたてました。
「夜会の前の晩。あれは全く愉快だったよ。血を分けた実の兄と、あんな形で初の対面を果たすとはね」
確かに滑稽だったでしょう。
椅子に隠れる人間を、もう一つの椅子に隠れた別の人間が見ている。まるきり喜劇です。
「兄弟で同じ事を考えついた、とはね……。確かに滑稽だな」
小林君も、自嘲するような低い笑い声を漏らしました。
「あの指輪の事はどうなのだ。あれにどんな秘密がある? 君は何故あんな物を欲しがったのだ」
「指輪? ああ、僕はあんな物に興味は無いし、どんな秘密があるのかも知らないよ」
「何だって。じゃあなぜ、指輪を和華子さんと交換だなどと脅迫状に書いたのだ」
「あの脅迫状は、ある人物を挑発するために書いたのさ」
「挑発だって。一体どういう事なんだ」
「誘拐の翌日、書生がいなくなる少し前の事だ。僕が例によってその椅子に隠れていると、秋月伯爵が書斎に入ってきた。伯爵は椅子に掛け、何か小さな物を胸ポケットから取り出してじっと眺めていた。何だろうと思って、僕は覗きこんでみた。するとそれは、例の和華子の物とお揃いの指輪だったのだ」
「秋月伯爵が、揃いの指輪を?」
「ああ。そして彼はひどく動揺している様子で、立ち上がっていらいらと部屋の中を歩き回り始めた。何事かを懸命に考えている様だったが、椅子の中から眺めていた僕はひどく驚いたよ。秋月伯爵の顔が、形は秋月伯爵の物なのだけれど、そこに浮かんでいるのは全然違う人間の表情だったのだ。言葉で説明するのは難しいが、そこにいたのは秋月伯爵じゃなかった。秋月伯爵の形をした、別人だったのだ。その時の僕は彼の正体を知る由も無かったが、とにかくこの偽物の秋月伯爵、家族でも見分けがつかないくらいの変装術を操るこの謎の男は、指輪、そして恐らく和華子と何らかの関わりがあり、目的があって伯爵家に入りこんだのだと僕は推測した」
「……なるほど」
「ちょっと前に、雑誌に写真が載ったろう。彼はその写真で母が身に付けていた指輪を見て、やって来たのじゃないかな。ほら、偽電報があったじゃないか。僕が思うにあれは彼の仕業だよ。あの時に本物の秋月伯爵と入れ替わったに違いない。入れ替わって慣れるまでの間に挙動のおかしい所があっても、事故の件で動揺したのだと家族に思わせる事が出来るからね」
「なるほど、それで分かった。誘拐の件を聞いた時、男爵夫妻と伯爵夫妻の間で、秋月伯爵だけが他の三人と違う反応をしていた。皆が計画通り書生に罪を着せようとしているのに、彼だけが中立の立場を取っていた。しかし偽物の彼が計画の事を知らなかったのなら辻褄が合う。実際和真君は、伯爵が普段の様子からは想像もつかないほど取り乱しているのに違和感を感じていた。彼はそれを、和華子さんを案ずるあまりの事だと納得していたが……。偽者も抜かり無く事前調査したのだろうが、秋月伯爵にとって隣家の娘である和華子さんがどれ程の存在なのか、さすがにそこまでは推し量りかねてついつい大げさな演技になったのだろう」
「彼も内心大慌てだったろうね。変装して入り込んだ家で、まさかその日に誘拐事件が持ち上がるとは。内心冷や汗をかいていただろうよ」
「ちょっと待ってくれ。君はまるで他人事のように話しているが……」
小林君が和寿君を遮りました。しかし和寿君は、驚くべき事を口にしたのです。
「ああ、そうだよ。脅迫状を出したのは僕だが、和華子を誘拐したのは僕じゃない。ついでに言えば、書生を殺して『椅子人間』などという署名を残したのもね。まあ僕は謂わば、椅子人間の名を語った偽物さ」
「なんだって」
その言葉が、もう少しで私の口から飛び出すところでした。
誘拐犯は、椅子人間のはずです。それが何故。和寿君が嘘をついているのでしょうか。いえ、ここまであけすけに語る彼が、この部分だけ嘘をついているとは思えません。
「では、誘拐は……? 君でないとすればやはり、その謎の男の仕業と考えるのが妥当だが」
「いや、それも違う。確かに状況から考えればこの謎の侵入者が誘拐犯のようだが、僕にはそうは思えなかった。誘拐の事を聞いた時の彼の驚いた様子は、演技には見えなかったよ。僕はこれでも絵描きだからね。人の表情に現れる感情の動きを、良く観察しているものなのだ。彼の表情は真実の心から出たものだと僕は思った。誘拐は、彼の預かり知らぬ所であったに違いないよ。僕は誘拐犯は別にいると推測し、むしろこの謎の男を利用して和華子を救えないものかと一計を案じたのだ。あの指輪が彼にとって意味のある物だとふんだ僕は脅迫状を書き、そら、目の前で大切な指輪を奪われるぞ、とばかりに彼を挑発した。彼なら誘拐犯を突き止めて和華子を奪い返せるかもしれないと考えたのだ。彼がカタギの人間で無い事は明らかだし、ほら、蛇の道は蛇と言うだろう。わざと大げさに騒ぎ立てて皆の前で脅迫状を読んだ時の、あの男の慌てぶりときたら。自分に関わりのある指輪の事を急に持ち出されたのだからね、無理もない。指輪の秘密と自分の正体を、『椅子人間』とか言う謎の人物に見破られていると知って、面目丸つぶれだよ。そして僕の狙い通りに奴は挑発に乗ってきた。このままでは指輪は和華子と引き換えに、どこの誰とも知れぬ『椅子人間』の手に渡ってしまう。だから奴はひとまず、和華子を誘拐犯の手から取り戻した。大したものだね。奴がどうやってやったのか知らないが、さすがは天下に名を轟かせる怪人二十面相だ」
ああ、やはり。私がこの数日、父と思っていた人間は……、怪人二十面相だったのです。
「呆れたね。あの怪人二十面相を唆して働かせるなんて……。しかし君も怪人二十面相も誘拐犯でないなら、一体誰が。それに書生を殺して死体を隠したのは? 窓から覗いていたのは君か」
「違うよ。僕は書生の事なんぞ知らない。察するに、書生はやはり誘拐と関わりがあって、共犯者と仲間割れにでもなって殺されたのじゃないか。まあ、僕にはどうでも良い事だが」
「本当に君は、知らないんだろうね」
小林君は和寿君を睨みつけました。
「もちろんさ。僕を信じてくれ。……ところで、ここまで打ち明けたからには」
和寿君はキッと眉を上げ、先程までの飄々とした態度は跡形もなく消え去りました。
「……是が非でも、協力してもらわねばならないよ」
「僕に内密で相談というのは何なのだ。僕にとっても悪くない話という事だったが」
「ああ。取引をしないか」
「取引だって」
「明日は、怪人二十面相が予告した日だ。覚えているだろうね」
「ああ、無論だ」
「明日の晩、その騒ぎに乗じて兄を……、和明を、亡き者にしたい。君にその手伝いをして欲しい」
「何だって」
「兄がいなくなれば、この僕が男爵家の跡取りだ。協力してくれたら、君を母の息子としてこの男爵家に迎え入れよう」