「人間椅子」
親愛なる読者諸君。
諸君は果たして、「人間椅子」と云うものの話をご存知であろうか。そう、「人間椅子」。何とも怪しげな、奇妙な響きをもった言葉であるからして、諸君も訝しく思われるのではないかしらん。
実はこれは、江戸川乱歩という人の書いた小説の表題なのです。その内容はと云うと、ある家具職人の男が、人間が中に隠れる事の出来る椅子を作ってその中に潜みます。そうして何も知らず椅子に座る人々の、肉体の感触を椅子ごしに味わう事に狂気じみた快楽を見出し、やがては椅子の所有者となったある婦人を熱烈に恋するようになる、といったお話なのです。
これから私がお話しようという物語は、その「人間椅子」という些か変態じみた小説に端を発した、ある家族の愛憎劇です。家族一人ひとりの思惑が複雑に絡み合い、謎が謎を呼び、果ては名探偵明智小五郎、そしてその好敵手、怪人二十面相までをも巻き込んだ騒動となります。そして最後には、意外な秘密が明らかになるのです。
私が帝大卒業を翌年に控えた大正☓☓年、そろそろ寒さも和らぎ始めたある初春の午後の事でした。私は親しい学友といつものように彼の質素な下宿で、楽しい無為な一時を過ごしておりました。
この私の学友というのは、成績優秀な医学生のくせして、その一方では文学などに傾倒している一風変わり者の青年でした。彼は他の学生達のように余暇を派手に過ごす事を好まず、その代わり、巷で流行している通俗小説や探偵小説の類を片端から読み漁っているのでした。親しくしている私も彼に勧められるままにそういったものを読み、この頃では、にわか文学通を気取っていたものです。
そうして、その麗らかな午後、私達は暇なのに任せ、巷で先頃話題になっていた件の小説、「人間椅子」について文芸論の真似事らしきものを演じ始めたのです。
「この小説の真に恐ろしいところはだね、君。読者はこの主人公の気違いじみた行動に嫌悪感を抱きつつも、反対にその心情にはどこか共感を覚えてしまうところにあるのだ。この男の、自らのつまらぬ人生を嘆く思い、自分以外の恵まれた人々に対しての妬み、手の届かぬ美しい女への欲望、卑屈かつ傲慢な世間への見方、そして、切ない恋情。この小説の中で描写されているそれらの感情は、どのような人であれ、自らに覚えのある身近な感情だ。読者はこの男の異常な欲望を蔑みながら読み進むものの、同時にどこか親近感のようなものを覚えてしまう。それは自らの心の隠された闇を覗くようなものだ。それをして、この小説をここまで気味の悪いものにしているのだよ、それから……、」
云々、云々。彼の熱心な語り口の長話がどうにも苦笑いを誘い、私は言ってやりました。
「たかが通俗小説に、君は随分と深読みをするもんだね。いや待てよ。君のその大層な考察は、考えようによっては君こそがその、心の闇を覗いてしまった人間だという証ではないのか」
私はごく軽い気持ちで、この愛すべき友をからかってやろうという悪戯心からそんな事を言ったのです。しかし彼は私の言葉を、殊の外真剣に受け取った様子でした。男にしては滑らかな白い頬を林檎のように赤く染め、何か言い訳がましい事をもぐもぐと口の中で呟いています。それで私も、これは可哀想なことをしたと、「いや、失敬、失敬」などと言いつつ彼を慰めたのです。
「まったく、君ときたら。学友の中で僕にそんな軽口を叩くのは、君くらいのものだよ」
彼は少々不貞腐れたように言いました。
「君も、もっと皆と打ち解ければ良いのだよ。僕と話す時と同じようにね。そりゃ、癖のある者もいるさ。でも話してみれば皆、好ましい者ばかりだよ」
「性善説というやつか。そういや君は僕にも、初対面の時からまるで長年の友のように話しかけてきたっけね」
「僕だって、警戒心ってものが無いわけじゃないさ。君の場合は、何というか、初めて会ったような気がしなかったものだから」
私は少々ばつが悪くなり、そう答えました。しかし彼はまるで、手のかかる弟の世話を焼く兄のような温かみのある口調で、
「まあいずれにせよ、おかげで今こうして親しく付き合えているわけだから、君の性善説も捨てたものではないね」
そう言って笑うのでした。そして、
「ところで君は、この小説をどう読むね」
と、話を小説論に戻してきました。
「そうだね、」
私は暫し考え、
「僕は単純に、愉快な筋立てだと思ったが」
と答えました。
「愉快だって」
「ああ、愉快じゃないか。椅子の中に隠れて、それと気づかれぬまま、革一枚隔てて膝の上に見知らぬ人を座らせるなんて。あまりに突飛で愉快だよ。まったく文士というのは、どうやってこんな奇妙な事を考えつくのだろうね」
我が友は暫し黙りこみ、そして呟きました。
「君という人は、自分でそれと意識せず、僕をはっとさせるようなことを言う」
私は彼特有の繊細な感受性と、単純な事でも複雑にしてしまう思考回路には慣れておりましたから、彼の言わんとする事が分からないまでも、ただ黙って聞いておりました。
「何だか君はまるで、あの陽だまりのようだなあ」
そう呟く彼の視線の先を追えば、下宿の窓から隣の屋根に陽が降り注いでいるのが見えました。屋根の上では野良猫なぞが、気持ち良さげに昼寝をしています。
「あの陰鬱な小説を、愉快の一言で評することが出来る。それは正しく、君にはあの中で描かれているような陰湿な欲望や、抑圧された思いなど微塵も無いという事を表しているのだろうね」
何と答えてよいものやら、私は躊躇いました。確かに、先ほど彼が並べ立てたような人間のあからさまな感情の数々を、私は頭では何となく理解出来るのです。しかしそれは彼の言う「共感」とは、程遠いものだと思われます。私がまだ二十二歳で、人として経験が浅く、人生の深みの何たるかを知らぬからでしょうか。私より二つ年上の分だけ、彼にはもう少しその深みが理解出来ているのかもしれません。
私がそんなもの思いに耽っていますと、彼がぽつりと呟きました。
「……それに比べて僕は、確かに君の言う通り、心に闇を抱えた人間なのだ」
ゆっくりと私を振り向いた彼の瞳の奥に、まるで水底に沈んだ石のような、冷たく重たい塊がありました。私はハッとして、改めてこの友の顔を眺めました。私のよく知っている、物静かで賢い彼の心のうちに、まだ私が知らぬ闇のようなものが確かにあるのだと、私にも感じ取る事が出来たのです。私は一瞬、親しんだはずの友に、なにか見知らぬ人相手に感ずるような余所余所しさを覚えて戸惑いました。
しかしそんな私の視線に気づいた彼は、瞬く間にいつもの朗らかな笑顔を取り戻しました。そして私に問いかけたのです。
「ねえ、ところで君は、この小説の様な事が実際に出来ると思うかい?」
「エ、何だって。椅子に隠れる事が出来るかって」
私も、心なしか重たくなっていた空気を払いのけようと、快活に答えました。そして、あれはあくまでも作り話であって、現実にはそう上手くゆくはずもなし、第一、そのような椅子が果たして制作可能であるものかしらん。私は大体そういった内容の事を言いました。すると彼は、
「いや、それが存外そうでもないのだ」
と、いやに自信ありげに胸をはるのです。そして、
「実はだね、」
と、内緒話をするように声を潜めました。その顔は真剣そのものです。
「椅子はもう、用意ができているのだ」
「エ、何だって」
「職人に頼んで、実際に作らせてみたのだよ。芝居に使う小道具だと言ってね」
なんとまあ、呆れた事でしょうか。私が思わず彼の顔をまじまじと見つめると、彼はまるで悪戯っ子の様に気まずそうに顔を伏せ、
「何、ちょっと訳があっての事なのだ。しかしいざ椅子が出来上がってみたら、これが中々良く出来ていてね。とてもとても、普通の椅子でないと気づく者があるとは思えない。ほら、現に」
そうして彼は、今まさに私が座っているその椅子を指し示したのです。それは彼の質素な住まいには少々不釣り合いな、高級な革張りの椅子でした。言われて見れば、以前はこの部屋になかったように思われます。
しかし、この椅子が。私は思わずゾッとして、慌てて椅子から腰を浮かせました。もしかしたら今この瞬間にも誰かが椅子の中に潜んでいて、私は何も知らずに、見知らぬ誰かの膝の上に、革一枚を挟んで座っていたのかしらん。
「ハハハ、安心したまえ。今は誰も中に入っていないよ」
彼は笑いながら言いました。
私はほっと胸を撫で下ろすと、てっきり彼にからかわれたのだと思い、何か言ってやろうと身構えました。しかし彼は軽やかな足取りで椅子の後ろに回ると、かがみ込んで椅子の背面部分を何やら弄くりました。そして、
「ほら」
という声とともに、まるで蓋のようになっているその部分を持ち上げたのです。
そこには、ぽっかりと黒い穴が口を開けておりました。
あまりの事に、私はぽかんと口を開けたままそれを眺めていました。しかし彼の、
「そら、ちょっと覗いてみたまえよ」
という、いかにも気楽な調子につられ、私は膝を屈めてその椅子の開口部を覗き込んでみたのです。
なんともまあ、奇妙なものでした。椅子の中に、人間一人がやっと隠れられるだけの空間があるのです。蓋の部分はばね仕掛けで、入り込んだあと自然に閉まるようになっています。蓋はぴたりと椅子の背に収まり、外から見ただけではとてもそこに細工があるとは分かりません。しかも小説にある通り、内部には――ここで詳細を記す事は控えますが――数日間は外に出ずに済むような工夫が凝らしてあるのです。
それは正に、小説に描かれている通りの「人間椅子」なのでした。
「何とまあ、酔狂な。君は一体何の為に、こんな椅子をわざわざ作らせたのだね。訳があるとか言ったが、どうか聞かせてくれないか」
彼は黙って椅子の蓋を閉めて元通りにすると、私に座るように身振りで促しました。そうして自分も、向かい合った椅子に掛けました。
「実はこの椅子の事で、君に折り入って頼みがあるのだ」
「頼みだって」
彼の真剣な様子に、私は思わず身を乗り出しました。
「どうか君、遠慮無く言ってくれ給え。僕と君の間柄じゃないか。ただでさえ、君には何くれとなく世話になっているのだ。その恩返しをする機会があるなんて、嬉しい限りだよ」
「ありがとう」
彼は穏やかに微笑み、そして話し始めました。
「……君、学友達の間で、僕の出自ついての噂を聞いた事があるだろう」
噂の当人からそう言われ、私は戸惑いました。
「ええと、それは、まあ……」
彼は学友達の間では、一種の謎めいた存在でした。それというのも入学当初、我々がお互いを知り合う時期に、誰かが彼の出自を尋ねても、彼は上手く話をはぐらかして頑なに答えようとしませんでした。その為に一部の噂好きの輩が、やれ彼はどこぞの未亡人の燕なのだとか、やれ大金持ちの親戚の援助を受けて大学に通っているのだとか、適当なことを囁き出したのです。
私はと言えば、おそらく彼は貧しい家の出で、どうして学費を賄っているかまでは解りませんが、ともかくその事を恥じる心持ちから語らずにいるのだろう、と漠然と考えておりました。しかし正直なところ、あまり気に止めてもいなかったのです。それというのも彼は非常に向学心に満ちた学生で、私のように伯爵家の次男坊という気楽な身分に生まれつき、殆ど道楽の如く大学に通っている者からすると、ただ尊敬するばかりだったのです。例え貧しい出自であろうとも、私は彼のような友人を持つ事を誇らしく感じていました。
「口さがない連中が色々言っているようだが、まるきり見当はずれという訳でもないのだよ、実は」
彼は何かを言いかけ、そして言葉を飲み込み、代わりに小さな溜息を一つつきました。彼の顔をそっと覗き込めば、そこに葛藤がありました。何かひどく話しづらいことを私に話すかどうか、心のうちで自問自答しているようでした。
しかし彼はやがて、意を決したように顔を上げました。
「実は……。僕は、さる高貴の婦人の落とし子なのだ」
「エ、何だって。本当かい。その高貴の婦人と言うのは……」
「君、約束してくれるかい。絶対にこの事は他言しないと誓ってくれるか。何しろ、ご婦人の名誉に関わるのだからね。僕だって相手が君でなければ、とうていこんな打ち明け話はすまい。君を信頼に足る僕の親友と思ってこそなんだ」
「安心してくれ給え。君の信頼を裏切ったりはしない。誰にも他言しないと、誓うよ」
私は彼が、「信頼」などという言葉を軽々しくに口にするような人でない事は、これまでの付き合いで重々承知していました。ですので、この時の彼の言葉は非常に重みがあったのです。そしてその重みに見合うだけの心を込めて、私は彼に誓いました。
「ありがとう。では打ち明けるが、その婦人と言うのは……。実は、小早川男爵夫人のことなのだ」
「何だって」
その名は大層私を驚かせました。それと言うのも、小早川男爵家と私の家、秋月伯爵家とは隣同士。小早川男爵夫妻は私の両親と古くからの友人同士で、両家は家族ぐるみの親しい付き合いなのです。それだけではありません。小早川男爵家の娘で私の一つ年下の和華子さんは、いずれは秋月伯爵家に嫁ぐという暗黙の了解が両家のうちにありました。つまり小早川男爵夫人は、いずれは私の義理の母になるかもしれない人なのです。
「男爵夫人が君の母だって」
彼の告白は、俄に信じ難いものでした。
「ああ、そうなのだ。事の次第はこうだ。夫人はまだ娘の頃、ある男と想い合う仲になった。だが二人は身分が違い、結婚が認められるはずもなかった。そこで思い余った二人は駆け落ちをしたのだ」
小早川男爵夫人にそんな過去があったとは。身分違いの二人の駆け落ちなど、それこそまるで通俗小説のようではありませんか。そんな事が現実にあるものでしょうか。それに私の知っている男爵夫人は、少々内気なところのある嫋やかな女性で、とてもそんな大胆な事をするとは思えませんでした。
「市井に下った二人はしばらくの間幸福に暮らし、僕が産まれた。しかし結局は見つかってしまい、引き離されたのだ。二人はそれぞれ親の決めた相手と結婚し、僕は密かに養子に出された」
淡々と語る彼はふと言葉を止めると、私に向かって優しく微笑みました。
「ねえ君、どうか僕の境遇に同情などはしないでくれ給え。ほら、君も最近新聞で読んだだろう、『貰い子殺し事件』の事を」
「ああ。礼金目当てに養子を大勢引き受けて、金だけ受け取って子供は片っ端から殺していたという、あの事件だろう」
「ああ。ひどい話だ。僕だって一歩間違えば、殺された貰い子達と同じ運命を辿ったかもしれない。しかし僕は引き取られた養父母にとても良くしてもらったし、その養父母にも早くに死に別れてしまったが、その後ある方の元に住み込みで弟子入りさせてもらった。今はその方の援助があって、こうして充分な教育を受けている。僕は自分の境遇を嘆く気持ちなど全く持っていないのだ。むしろ幸運だとすら思っている」
それ相応の苦労があったであろうに、その事は口にせず自らを幸運だと言う友の言葉に、私は胸を詰まらせました。しかし、彼はふと、
「幸運……、ではあるのだが、」
と、呟きました。
「君の言う通りだ。僕の胸のうちに、何かこう、ぽっかりと穴の空いた部分がある。その穴の中はただ真っ暗闇で、僕は時々自分が、その闇の中で迷っているような心持ちになるんだ」
彼のような複雑な出自からくる心のうちは、私には到底、想像力を逞しくして推し量るしか出来ません。それでも私はただ黙って頷きました。
「数ヶ月前の事だ。僕は偶然手にした婦人雑誌の一頁に、ほら、この写真を見つけたのだ」
彼は机の引き出しからその雑誌を取り出し、折り目のついた頁を私に見せました。それは華族の醜聞記事やら最近の話題やらを扱う、よくある娯楽雑誌でしたが、彼が開いて見せた頁には小早川男爵夫人の肖像写真が載っていたのです。そういえば以前、取材を受けたと和華子さんが話していた覚えがあります。
彼は少し遠くを見るような目つきでその写真を眺めながら、ぽつりぽつりと語りました。
「僕はそれまであまり、生みの母について考えた事がなかった。何しろ赤ん坊の頃に別れたきりで、顔すら覚えていないのだからね。しかしこの写真で初めて母の顔を見た時、強烈な思慕が胸に湧き上がったのだよ。不思議としか言いようがない。これが俗に言う血の絆というやつなのか、と思ったよ。そしてこの母の存在の不在こそが、僕がずっと感じていた『闇』の正体なのだと悟ったんだ」
そう言って顔を上げた彼の大きな瞳が、黒目がちであることに私は初めて気付きました。確かに彼の漆黒の美しい瞳は、闇を映しているかのようです。
「やがて僕の心に、ある願いが生まれた。それは、一度で良いから、生みの母をこの腕で抱擁したいという願いだ……」
「そうか。では君は、男爵夫人に名乗り出る事にしたのだね」
私は何故かホッとしたような心持ちでそう言いました。しかし彼は、
「いや、そうではない」
と、首を横に振りました。
「僕は母の幸福を願いこそすれ、母の家庭や母の心を乱すような事はこれっぽっちも望んじゃいないのだ。生涯、親子の名乗りを上げることはおろか、会おうという気持ちもない」
「それでは」
「僕の願いというのは、こうなのだ。母には決して迷惑をかけぬよう、母にも誰にも決してそれと悟られぬよう、母をこの腕で抱擁したい。そして、『お母さん、あなたの息子は今では立派な青年に育ちましたよ、どうぞご安心なすって、幸福にお暮らし下さい』と、胸の内で密かに語りかけたいのだ。ただ、それだけなのだ」
何という、切ない願いでしょうか。願いと言うにはあまりにもささやかな、母を慕う子の想いです。私の胸に、思わずこみ上げてくるものがありました。しかし……。
「だが、相手にそれと悟られず抱擁するなど、一体どうすれば……。あっ、まさか」
私は思わず、自分の座っていた椅子を見下ろしました。
「そう、そうなのだ」
彼が身を乗り出しました。
「僕も最初は、そのような事が出来るはずもないと諦めた。だが、かの『人間椅子』を読んでいる時に、この事を思い付いたのだよ。それ以来寝ても覚めても、『ああ、こうすれば上手くゆくのではないか』『いや、きっとそれでは駄目だろう。ならばこのように』などと、頭の中で計画を練り上げる毎日だ」
私にも、ようやく事の次第が飲み込めてきました。彼は熱意のこもった目で、私に訴えかけました。
「恥を忍んで君にお願いしたいのだ。君の家ではよく夜会が催されるだろう。事によると、小早川男爵夫人を招待する機会がありはしないかね」
「それはまあ、男爵家と僕の家とは家族同然だから」
私は思わず口篭りました。
「そういった夜会の折に、僕が中に隠れたこの椅子を、夜会室にでも置いてもらえないだろうか。そして男爵夫人がこの椅子に座るよう、さりげなく誘いかけてもらえないだろうか」
私は、すぐには答える事が出来ませんでした。まさか小説に書かれているような奇妙な事を、本当に行うなどと。控えめに言っても、とても褒められた行いではありません。
「しかし、しかしだね」
何とか彼が考え直してはくれないだろうかと、私は辿々しくも説得を試みました。
「僕にはやはり、名乗り出るのが良いのじゃないかと思われるよ。男爵夫人の方でもきっと、我が子への想いを胸に秘めているに違いない。もし君が名乗り出れば、きっと喜ぶのではないか」
しかし私の言葉に、彼は溜息を一つつきました。
「もしも僕に、確かに男爵夫人の子だと証明できる手立てがあったら、僕もそう考えたかもしれない。だが悲しい哉、僕にはそんなものが何一つ無いのだ。例えばそう、身体のどこかに生まれつきの痣があるだとか。そういった事でもあれば、男爵夫人の方でもきっと僕を我が子と認められよう。しかしそういった証拠が何もない以上、名乗ったところで夫人には真実が分からない。折角の平穏な生活を乱し、心を悩ませるだけだ」
「しかしそこは母親の本能というもので、君の顔を見ればきっと分かるのではないだろうか」
私はなおも食い下がりました。しかし彼は眉を寄せて言うのです。
「男爵家は君の家にはとうてい及ばないにしろ、やはり由緒正しい華族の家柄で、小早川男爵は実業家としても高名な資産家だ。僕が名乗り出た所で、先方では端から信用すまい。強請たかりを行うような不貞の輩だと思うだろう」
私にはもう反論出来ませんでした。要するに、私如きの浅知恵で思い付くような事はもう既に、彼の鋭敏な頭脳で一度は熟考されているのです。確かに彼のただ一つの望みを叶えるに、この「人間椅子」は唯一の手段であるように思われます。しかしそれでもなお私は、躊躇っていました。
「ねえ、君。どうか、お願いだ。ただ一度、母との人知れぬ邂逅を果たせさえすれば、それで僕の心の穴は埋められて闇が消え去り、僕は光の中を生きてゆかれるような気がするのだ」
彼の想いを察すると、胸が痛みました。ただ一度、生みの母親に触れてみたい。しかも名乗る事無く、自分の存在を認めてもらえずとも構わない。ただ一度だけ、腕に抱擁したい。何という、奥ゆかしくも切ない願いでしょうか。このような願いをはねつけるなど、どうして私に出来ましょう。
あの小説で描かれていた行為はおぞましいものですが、それは主人公の下賤な欲望から出た事です。一方で私の友の、母を恋い慕う心に一体何の罪があるでしょう。
私は意を決しました。
私は椅子から滑り降りて彼の元へ行き、その両手をしっかと握りしめ、私に出来る限りの事をしようと告げました。彼は涙を流さんばかりにして、何度も何度も私に礼の言葉を繰り返したのです。
――嗚呼。もしこの時私が、彼の内にある「闇」の深さを知ってさえいたのなら。