理想の小妖精 ♯.7
それは金色の月に掛かる夜の雲のよう。
光を遮り、大地に闇を降らす。
瞬間、それはこちらに向かって急降下してきた。
聞こえていた音も今は違う。
羽ばたきの音ではなく飛行機が風を切るような音。
「――ちっ」
咄嗟に横に跳ぶ。
それまで俺が立っていた場所には綺麗に並んだ三つの爪跡。それがあの存在が残したものだと知った時には次なる攻撃が俺を襲ってくる。
俺を襲う存在。それは紛れもなくこの迷いの森で、いや、このキャンペーンクエストを始めて初めて対峙するモンスターだ。
戦闘に突入すれば剣銃で狙わなくてもその名前とHPバーが表示される。
『ダーク・オウル』
漆黒の羽毛に包まれた巨大なフクロウは三本ものHPバーを有している。ボスクラスのモンスター。その証足り得る複数のHPバー。
よりによってなどという文句のような感想は浮かばなかった。どちらかといえば、ようやくクエストらしくなってきたという手応え。
「剣は届かない。なら……」
俺がとれる選択肢は銃形態のままでの戦闘。
急降下してきたときはその鉤爪を使ってきたが、今、目の前のダーク・オウルは全身を使っての突進を行ってきた。どちらの攻撃も直線的で避けることは容易いように思える。けれど単純な攻撃故にその威力が高いことも想像できた。
ダーク・オウルの攻撃は必ず回避しなければならない。自分の直感を信じるのなら俺はあの攻撃を耐えることができないだろう。
決して広大とはいえないこの区画でも一人のプレイヤーと一体のモンスターが戦闘を行うには十分な広さを持っている。
それにもましてダーク・オウルは空中を縦横無尽に活動できる鳥型のモンスターだ。平面的な移動しかできない俺に比べて立体的な行動ができるダーク・オウルはこの区画の中だけでもその実力をいかんなく発揮できるのだろう。
飛びまわるダーク・オウルに照準を定め引き金を引く。
撃ち出される弾丸は真っ直ぐ目にも止まらぬ速さで飛んで行くが、それが俺の狙い通りのダメージをダーク・オウルに与えることはなかった。
漆黒の羽毛が天然の鎧になっている。
俺がそう確信した時、ダーク・オウルは自分の有利をはっきりと確信したのかそれまでよりも攻撃の勢いを増してきた。
「――なっ」
リロードはたった一つのアクションで発動できる。
けれど、ダーク・オウルの攻撃の勢いは俺にそれをする隙すら与えてはくれなかった。
突進をかわしても鉤爪が、それを避けられてたとしても上昇されたのでは俺の反撃は届かない。
銃形態ではダメージを与えられないと割り切って剣形態に変形させたのはいいとして、問題はリーチだ。銃と剣では当然リーチに差が如実に表れてしまう。
確実に攻撃を与えようとするなら銃形態。けれどそれは命中させることができてもダメージは与えられない。剣形態ならばダメージを与えられるかもしれないが、飛んでいる相手に対しては無意味だ。
「なら、DEF、SPEED、ブースト!!」
思い付いてしまった作戦はなんともお粗末。
そしてそれを実行できるかどうかは俺の忍耐力に掛かっているときた。
一度上空へと上がってしまったダーク・オウルに剣形態の剣銃で攻撃を当てようとするのならそれは確実に接近できる瞬間を作り出すしかない。
突進してくるダーク・オウルを受け止めたのでは俺が反撃するチャンスは生まれない。しかし、鉤爪で引き裂こうとしてくる時ならば。野生の鳥が獲物を掴むように、俺も掴もうとしていると考えるのならば。
狙うはこの一瞬。
(もってくれよ)
減少を始める俺のHPを視界の端に捉え、襲いくる衝撃と微かな痛みに表情を歪ませた。
両手を上げて迎えた鉤爪は俺の身体を引き裂くことなく俺の思惑通りに上半身を鷲掴みにした。
両の足が地面を離れ宙に浮く。
高度を増していく俺の身体はダーク・オウルに掴まれているおかげで落ちずにすんでいるが僅かな拍子に力を緩められてしまえば緑の絨毯が敷き詰められた地面に激突してしまうことだろう。
(だからといってこのままってのもなぁ)
いつ落とされるか解からないのでは心中穏やかではない。
元々掴まれたその瞬間にカウンター気味に反撃しようと身構えていたのだが、その衝撃の強さにそのタイミングを逃してしまっていた。こうして持ち上げられてしまえば安易に攻撃はできない。落下のトリガーを自分で引くわけにはいかないのだ。
脳裏に過ぎったのは百舌鳥の早贄。
周囲に生えた木々に突き刺さる自分を思い浮かべてしまい思わず体を震わせた。
「ユウ! どこにいるんですか!」
ようやくというべきだろうか。
俺に遅れること数分、ヒカルがこの区画へとやってきた。
俺を探す様子がここから良く見える。返事をしてやりたい気持ちがないわけでもないのだが、それに驚いてダーク・オウルが俺を放してしまっては困る。
いつまでも返事の無い俺を心配してのことだろう。ヒカルは自分のコンソールを出現させ、そこからフレンド欄にいる俺に通信を入れようとしていた。
どうせ出られないのになぁ。
そんな風に思いながらことの成行きを見守る俺にはいつまで経ってもヒカルからの連絡が来ない。もしかすると、この区画では通信ができなくなっているのかもしれない。だとすれば俺は幸運なのだろうか。元々俺にしか聞こえない着信を知らせる音だとしてもそれが俺の元に届けば多かれ少なかれ気になってしまうだろう。その音が五月蠅く感じ平常心を保てなくなってしまうかもしれない、じっとしてられないかもしれない。だからこそ、それがなければダーク・オウルが俺を放す危険性を減らすことができるかもしれない。
いくつもの仮定が重なり合うなか、それまで俺の命運を握っていたのはダーク・オウルだったのが、どういうわけか今はヒカルがその役を担っていた。
(ダーク・オウルがヒカルに気付けば、どうなる?)
俺の時と同様、ダーク・オウルは出会い頭の一撃をお見舞いしようとするだろう。
その時、俺を放すはず。けれど、それはこの高度であってはならない。せめてHPが全損しないくらいの高さまで降りることができれば。
方法を模索している俺はふとヒカルが空を見上げていることに気付いた。そしてそれは俺を見つけたというわけではなく、俺を掴んでいるダーク・オウルを見つけたとのだということも。
目が合った。
勿論、俺とヒカルがではなく、ダーク・オウルとヒカルがだ。
「ヒカル! そこを退けェ!!」
俺を掴んだまま急降下を始めるダーク・オウルは正確にヒカルを捉えている。
「ユウ?」
声の聞こえてきた方を探し、続いて上空からくるダーク・オウルを見つけヒカルは俺の時のように咄嗟に回避してみせた。
「ちょっ、まっ――」
一メートル近い水飛沫を上げて俺は湖に落下した。
急降下の次は急上昇。ダーク・オウルの行動パターンの一つだ。その際、偶発的にも鉤爪は開かれ晴れて俺は自由の身になった。
「ユウ!? どこから……ってか、あのモンスターは何なんです?」
水の中から這い出てくる俺に驚きの声をあげ、同時に質問をぶつけてきた。
「やっと来たか。いいか、簡単に説明するぞ」
ボタボタと滴り落ちる大量の水に構うことなくヒカルの返事を待たずして話し始める。
「あれはダーク・オウル。この迷いの森にいるボスモンスターだ」
「ボスモンスター?」
「そうだ。そして手に入るはずなんだ。あのダーク・オウルを倒せば精霊樹の雫が」
この区画が正真正銘迷いの森の最奥だとするのなら精霊樹の雫はここに無いとおかしい。採取ポイントも何も見当たらないということはそれを持つ何かがここに入るということに他ならない。
それを持つ何かというのがダーク・オウルなのだと俺の直感が告げていた。
「倒す? 私たちがあのモンスターをですか?」
「ああ」
「なんでこんなことになっているんですか?」
視線は滞空し続けているダーク・オウルから外さずヒカルが訊ねてきた。
質問を投げかけながらも戦闘が既に始まっていることは十分にわかったのか短剣を抜き戦闘態勢に入っている。
「まぁ一言でいうなら、なりゆきだな。先に攻撃を仕掛けてきたのはあっちだし」
「そんな……」
「気を付けろよ。見た目より随分と攻撃力は高いぞ」
この一言で緊張感が生じたのか、隣でヒカルが息を呑む。
思い出したように俺はストレージからポーションを一つ取り出して使用した。
掴まれただけだというのに俺のHPは二割以上削られてしまっていた。ヒカルを迎え戦闘を仕切り直すのならばHPは全快させておいて損はないだろう。
「だいいちここはどこなんですか? なんでここは夜なんです?」
「んー、確かなことは解からないけど、俺たちが探していたゴールというのはこの区画で間違いないと思う。精霊樹もあるし、水場だってあるからな。けどここが本来の迷いの森からは逸脱しているのも事実だと思う」
「どうしてですか?」
「月が出てるからさ。それまでの区画は全て日中、太陽が出ている時間で時が止まっていただろう。けれどこの区画は実際の時間と正確にリンクしてる」
「元の場所に戻れるんでしょうね」
「あー、気付いていないのか? 入り口っぽいのは無くなってると思うんだけど」
「へ?」
「どっちにしてもダーク・オウルをどうにかしない限りここから動くことは出来ないんだ」
話をしている俺たちが動くことを止めた獲物に見えたのだろうか。それまで滞空して様子を窺っていたダーク・オウルが瞬時に攻撃に切り替えて襲いかかってきた。
「これ以上の話は後だ。ヒカルも手伝えっ!」
「でも私の短剣じゃ届きませんよ」
「そんなの自分でどうにかしてくれ。ああ、でもちょっとやそっとの攻撃はあの羽毛に阻まれて効果がないからな」
「ええっ!?」
そうじゃなかったら俺一人の戦闘だったとしても、もう少し楽に戦えていたはずだ。
一度カウンターを狙ってからだろうか、ダーク・オウルが不用意に近付いてこなくなったのは。代表的なのは新たに見せた攻撃方法だ。羽をナイフのように飛ばしてくる攻撃をそれまでの突進攻撃の中に織り交ぜ始めてきた。
地面に突き刺さる漆黒の羽は僅かな時間が経つと自然に消滅していく。
飛ばしてくる羽というのは有限のように思えるが、その実、減っているようには見えない。まるで瞬時に新たな羽が生え揃っているかのよう。
空中を自在に動き回るということに加え遠距離攻撃までしてくる相手というのは近接戦闘、それも片手剣と短剣の二人組パーティでは本来相手にしないモンスターに分類されるはず。それだけに戦闘の明確な指針のようなものが確立されていないのだ。
手探りで戦闘を進めなければならないというのは相手がボスモンスターであれば尚更困難ではなく至難だとしかいいようがない。
それでもやりようはある。当初考えていた通りカウンターを中心にすればどうにか攻撃を与えることができるし、所持しているポーションの数と回復量を考慮すれば使い切る前に勝てるはずだ。
けれどこの方法が使えるのは俺一人。
手伝えとヒカルに言ったにもかかわらず、俺は彼女に有効的な戦略を与えられない。
ことの成行きを見守っているだけしかできないと思ってた。そんな俺をヒカルは思いもよらない方法で裏切ってみせる。
(精霊樹に登ってる?)
枯れて葉も花もない精霊樹は木登りに適しているといえよう。
だからといって登ろうとするか?
その意図がすぐには読みとれず、俺はダーク・オウルとの戦闘に集中することにした。
かれこれ二十回。それが俺がカウンターとしてダーク・オウルに攻撃を当てた回数だ。そして俺がダーク・オウルの攻撃を受けた回数でもある。ポーションを使うことで俺のHPは常に最大値近くでキープできている。これなら戦闘が終わるのもそう遠くない未来なのかもしれない。
相も変わらずヒカルは精霊樹に登ってる。
もう直ぐ精霊樹の頂上。そこからどうするつもりなのか。
ダーク・オウルの二本のHPバーのうちの一本は残るところ半分。一人で行っているボスモンスターとの戦闘なのだからこの成果は上々だともいえよう。
けど問題なのはこれから。
ダーク・オウルがボスモンスターだというのならば確実に一本目のHPバーが消失したその時に新たな行動を見せるはずだ。
その前にポーションを使い切る訳にはいかない。しかし、俺一人ではこの危惧が現実になってしまうだろう。
「ユウ!」
精霊樹の上からヒカルが声をかけてきた。それも声に出すのではなく、フレンド通信を使って。
(なるほど。そういうことか)
ようやくヒカルの意図が掴めてきた。
詰まる所方法は違えど先程の俺と同じことをしようとしているのだ。
「こっちだっ!」
一点に留まりカウンターを狙っていた俺は剣銃を銃形態へと変え駆け出していた。
当てるつもりなど毛頭ない。牽制さえできればいい。
狙い通りダーク・オウルは俺を追って低空を飛んできている。
「今だっ!!」
剣形態へと変形させてダーク・オウルの目の前を横薙ぎに振るう。
これも当たらない。けどダーク・オウルの飛行を止めるには十分な効果を発揮していた。
「いっけぇええええええええ」
精霊樹の天辺から気合を込めて飛び降りた。
真下に落下するのではなく、放物線を描いてダーク・オウルの背に乗るように。
「動くなよ」
ヒカルの声に反応して上昇しようとするダーク・オウルを剣銃の攻撃で妨害する。
「よしっ成功!」
ダーク・オウルの背に短剣を突き立てそれに掴まるようにして落ちないように必死に堪えている。
どれほど強固な羽毛があったとしても直接短剣が突き立てられればダメージは発生する。それも俺がカウンター叩き込むよりも大きなダメージが。
見る見るうちに減少するダーク・オウルのHPに注目しながらも、俺は全身に緊張を巡らせた。
一本目のHPバーが消滅する。
「ここからだ」
変化がどのようなものなのか。そのことに注意を払いながらも俺は背に乗ったヒカルのことを心配した。暴れ回るダーク・オウルは背にいるヒカルを振り落とそうと必死だ。
掴まれていた俺とは違いヒカルは自ら短剣を突き立ててしがみついている。それは相手の都合で振り落とされる心配がない代わりに、自分の握力という限界が存在する。
さらにいえばヒカルが背にいる限り俺は手を出すことができない。
不用意な攻撃は不規則なダーク・オウルの挙動に影響を与えるだろうし、それはヒカルの落下に繋がることだ。今はまだそれほど高度があるわけでもないからいいが、これ以上高く飛び上がってしまうと落下は直接ヒカルのHPに多大なダメージを刻み込んでしまうだろう。
「そんなっ、このままじゃ――」
キィィっとフクロウのような外見には似つかわしくない鳴き声を上げダーク・オウルがグンっと高度を上げた。
「もう十分だ。飛び降りろ!」
これ以上高くなれば降りる機会すら失われてしまう。
俺の危惧が現実になってしまう前にヒカルはダーク・オウルの背から飛び降りるべきだ。
「続きは俺がする」
今自身にかけている強化術は防御と速度。それを速度の二重掛けに切り替えて、思いっ切跳躍した。
飛び降り地面に向かうヒカルと入れ替わるようにして俺はダーク・オウルとの距離を詰めていく。
降り降ろそうと暴れ回っていたせいでヒカルの短剣は深々と突き刺さっていたようでそれまでよりも大きなダメージを継続的に発生させていた。そのことを知ってか知らずかヒカルは短剣をダーク・オウルの背に残している。
「インパクト・スラッシュ!!」
速度強化の強化術と併用して攻撃強化のアーツを発動させる。
赤い光を纏った刀身はダーク・オウルの腹を縦に切り裂いた。
「これで――」
思ったよりも大きなダメージを与えることができた。
継続的に発生しているダメージと合わせることでダーク・オウルのHPはもう殆どゼロになっている。
ヒカルの立つ近くに俺は着地し、さらに離れた場所にダーク・オウルが落下した。それと同時に俺の足下にヒカルの短剣が飛んできて地面に突き刺さった。
俺の施した修理、というか強化は殊の外高い成果があったようでこの戦闘を経たとしても傷一つ付いていない。耐久度の減少も全くといっていいほど見られない。これが雑魚モンスターとの戦闘だったのならそれも当たり前のことと無視してしまいそうにもなるが、ダーク・オウルはボスモンスターで短剣もモンスターの身体に深々と突き刺さっていたのだ。耐久度に影響が見られないというのはそれだけ短剣の耐久値が高いことを表している。
「あの……どうするんですか?」
地面に突き刺さっていた短剣を引き抜き、それをヒカルへ手渡す。
持ち主の手に戻っていった短剣はそのままヒカルの腰の鞘に収まることなく逆手に構えられている。
短剣を使うプレイヤーの構えは大きく分けて二通り存在する。刃を上にした基本的な持ち方と刃を下にした逆手の持ち方だ。基本的な持ち方をするのは投擲や短く軽い剣としての使用が主で逆手はよりスピードに特化した、俗にアサシンと呼ばれる戦い方を好むプレイヤーに多く見られた。
ヒカルは逆手。ということは速度重視の戦い方になるのだろう。だから短剣が軽くなったことにあれだけ喜んで見せたということか。
一人勝手に納得して視線を地面に横たわるダーク・オウルに向ける。
微かに動いているしHPもまだわずかだが残っている。倒しきれていないのは重々承知だが、どうも普段のボスモンスターとの戦闘とは雰囲気が違う。
「戦闘は終わったみたいなんだよな」
ダーク・オウルはまだそこに居るのに俺とヒカルのコンソールには戦闘終了を告げる表示が現れたのだ。
今回の戦闘で得られたのは経験値だけでドロップアイテムのようなものは一つとして手に入らなかった。戦闘で目論んでいたのは精霊樹の雫というアイテムの入手。けどそれには失敗してしまったようだ。
残念ではあるのだが、今は目の前で今にも息絶えようとしているダーク・オウルの方が気になって仕方ない。
別にモンスターだからとここで無視してもいいのだろうけど、それは、何かが違う。
「何をするつもりなんですか?」
突然ダーク・オウルに近付いていく俺にヒカルが驚いた声を出した。
ストレージから取り出したのは俺が所持しているなかでも効果の高い方のポーション。レベルの低いプレイヤーが使用すればそのHPの八割を、俺くらいのレベルでも五割は瞬時に回復してみせる。
「効くかどうか解からないけど」
モンスターにポーションを与えたことなどない。それは効果が現れるかどうかすら解からないということ。
効けばいい。そう願いながら近付いて行くとダーク・オウルが突然じたばたと暴れ出した。
けど、こちらを見るその瞳にあるのは敵意などではない。
むしろ、恐怖?
「落ち着けっ。もう戦うつもりはない」
剣銃をそっと地面に置き、ポーションを見せるように両手の平を掲げた。
それでもなお警戒心を残すダーク・オウルに俺は言葉を続ける。
「これは薬だ。お前に効くかどうかは分からないけど、試させてくれないか?」
ポーションの瓶の蓋を開け、一滴だけ自分の掌に落とし舐めてみる。
「どうだ? なんともないだろ」
そうすることでようやくダーク・オウルは警戒心を緩めたのか、力無くその頭を地面に垂らした。
「ほら、口を開けるんだ」
俺の言葉に促され、ダーク・オウルは口を開けた。
自分がしたことなのだが、傷を追ったダーク・オウルはどこか弱々しい。むしろ自分でしたことだからこそ見逃せなかったのかもしれない。これまで俺が戦ってきたモンスターもプレイヤーも傷を負い消滅するということは同じ。消えてしまっていたから気にならなかっただけで、これが現実なら間違いなくモンスターの死骸がそこに残されていたのだろう。
それを見て俺は平然としていられるだろうか。
誰かが倒した後だとしてもそれを見て俺は何も感じずにいられるのだろうか。
(慣れていく……のかもしれないな)
最初は違和感があるかもしれない。けど最初だけなのだろう。慣れてしまえばそれが普通になり、気にしなくなり、そして目にも留めなくなる。
当然のことなのだとしても、なんか嫌だな。
当たり前になりたくない。
そんな風になりたくない。
意識して初めて気付く思いから出たのがこの行動だ。
自分が傷つけたモンスターさえ見逃せないというあまりに矛盾した行動。
突如、俺の視界を眩い光が包み込んだ。
「これは……成功した、のか」
朝日が昇る。
それと同時にダーク・オウルの傷は癒され漆黒の羽毛が太陽の光を反射して綺麗に輝いている。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ。大丈夫。攻撃をしてくるつもりはないみたいだ」
一度大きく羽を広げたダーク・オウルはそのまま飛び上がり、精霊樹の枝の一つに止まった。
俺が初めて見た時と同じ場所。あそこがダーク・オウルの定位置なのだろう。羽を畳み澄み切った朝の空気を存分に吸収しているかのよう。
「でも精霊樹の雫は手に入りませんでしたね」
「ヒカルもか」
「はい。ドロップアイテムは無しでした。本当にこの区画にあるんでしょうか?」
「そう願うしかないさ」
この区画に入ってそれほど時間が経たないままダーク・オウルとの戦闘に突入してしまったせいで散策らしい散策は出来ていない。本格的に探し始めるとして、それはやはりあの精霊樹からだろう。
「この木も精霊樹なんですよね?」
「枯れてるみたいだけどな」
表示されている名称は同じ精霊樹。けれどこれを見たプレイヤーはおそらくその冠詞に枯れたを付けて呼ぶことだろう。
冬になって葉が落ちたという感じではない。
生命力が尽き、二度と葉をつけることはない。そんな印象だけがこの木からは感じられた。
「でも……」
ヒカルが見上げた先にはダーク・オウルがいる。その体躯を支えているのだから精霊樹の枝はそれなりに頑丈らしい。
死んだ木の枝があそこまで丈夫なのは妙だ。
ふと浮かんできた疑問に思考を移したその時、ヒカルが神妙な面持ちを向けてきた。
「ユウに見て欲しいものがあるんです」
「何を?」
「あの下にあるものを、です」
ヒカルが指したのは精霊樹、そしてそれを支えている大地。更に言えばその周りにある水場。
「下って、まさか潜るのか?」
「はい。でないと見えませんから。あ、もしかして泳げない、とか?」
「泳げることは泳げるけど、そんなに得意じゃないな」
「泳げるのならそれでいいです。行きますよ」
などといってヒカルはコンソールを操作し始めた。
次の瞬間、ヒカルの外着が消滅しストレージに収まっていく。初期装備ではないだろうけどシンプルなデザインのインナーはヒカルの体のラインを如実に強調してしまっている。
「ちょっと待て、その格好で行くつもりなのか?」
外着が消えたにもかかわらずコンソールの操作を続けようとするヒカルを慌てて静止する。
このまま放っておくと更に装備を外してしまいそうだ。
「そのつもりですけど?」
「ゲーム内で泳いだことがないから聞くけど、服を着たままじゃダメなのか?」
俺があるのは水に落ちた経験だけ。戦闘の最中だったために気にしてはいなかったが、全身がずぶ濡れになっていたのもいつの間にか乾いてしまっていた。
「大丈夫だったと思いますけど」
「ならこのままで行かないか?」
「そんなに駄目ですか?」
「正直、目のやり場に困る」
健全な男の子としては喜ぶべきところかもしれないが、実際に隣に立たれて平然としていられるほど大人にはなりきれていない。
「わかりました」
再び外着を装備するヒカルにほっと肩を撫で下ろす。
「では行きましょう」
というヒカルの言葉に誘われるまま、俺は水場の中へと飛び込んだ。
ダーク・オウルに落とされたときには見てる余裕なんてなかった。だから知らなかった。精霊樹の根がこんなにも大地に広がっていることを。
呼吸は出来ないけれど、それほど苦しくはない。肺活量が現実の数倍に引き上げられているようだ。
しゃべることは出来ないのでヒカルが手で進行方向を示しながら泳ぎ進め、この水場を一周し終える頃に突然呼吸が苦しくなってきた。
あまりにも突然。それは残っていたはずのダイビングの時の酸素ボンベの酸素が一瞬にして消えてしまったかのよう。
急いで水面から顔を出して粗い呼吸を繰り返し酸素を肺に取り込んでいく。
「はぁ、はぁ、はぁ」
「大丈夫ですか?」
水中の適正は俺より高いのか、後に浮かび上がってきたはずのヒカルはまだ平気そうな顔をしている。
「だい……じょうぶ」
息も絶え絶えに応えるとヒカルはふと背後にある精霊樹を見上げていた。
「どうですか?」
「どうって……まあ枯れているようには見えないよなぁ」
けど元気というわけでもない。
人に例えると病気にかかってしまい元気がないといった感じか。
精霊樹のある水場の中心へと上がり服の裾を絞る。ボタボタと水を垂らしながら精霊樹の近くまで行くとそっと触れてみる。
「触って何かわかるんですか?」
「いや、さっぱり」
解かることなど何も無い。
表示されるのは今も変わらず名称だけ。それも精霊樹という単語だけだ。
せめて自分の持つアイテムのような説明文があればいいのに、そうすれば打開策が浮かんでくるかもしれないのにと思わずにはいられない。
「試しにポーションでもかけてみるか?」
遥か上の方にるダーク・オウルを見て何気なしに呟いていた。
「意味あるんですか、それ」
「無いかもな」
効くかどうかも解からなかったダーク・オウルにも効果があったのだ。エリアのオブジェクトに過ぎない精霊樹にも効果あるかもしれない。なんていうのはただの希望、そうあってほしいという願望だ。
案の定、ダーク・オウルに与えたのと同じ回復量をもつポーションをその根元にかけてみても何も変化らしい変化は見られなかった。
「栄養剤の代わりにはならなかったみたいですね?」
「ん? どうして栄養剤?」
「だってここは太陽の光も十分当たるみたいですし、水だってたくさんあるんですよ。植物が育つのに足りないのなんてあとは栄養くらいしかないじゃないですか」
成る程。
精霊樹がただのオブジェクトではないのだとした場合、それは普通の植物と同じように考えれば足りないものが見えてくる。
「それならこれを使ってみようか」
ストレージにあるポーションは回復量の高いものや低いものだけではない。本来なら持ち歩く必要のないポーションを調薬するための原液もストレージには収まっていた。
「栄養剤の代わりになるかどうかは分からないけど、ポーションよりは効果が高いはずだ」
「それは使えないんですか?」
「誰に?」
「私たちにです。効果が高いのなら普通のポーションよりも流通しているような気がするのですけど」
「ああ、それは無理なんだよ。薬も量を間違えれば毒になるみたいに、ポーションも適切な濃さになるまで薄めないとHPが回復しないんだ」
なによりその濃さで効果が高い低いができるわけではなく、ポーションの効果の幅は作る時の薬草から薬液の抽出度合いによるものが多い。
更にその抽出した薬液を濃縮させたものが原液となるのだ。
瓶の蓋を開け中身を先程ポーションをかけた場所へと注ぐ。
効果があればそれでいいし、無くても仕方のないこと。そう割り切るには少々勿体なく感じるアイテムの使い方だが、ここまでくれば気にしてなどいられない。
不意に突風が巻き起こった。
風に揺らされる枝から飛び上がったダーク・オウルがそのまま空中を旋回すると、同時に目の前の精霊樹が仄かな光を放ち始めた。
「効果……あったみたいだな」
「というか、あり過ぎな気がしますけど」
「……だな」
光ったと思ったその瞬間、精霊樹は蕾を付け、花開き、青々とした葉が付き始めた。
精霊樹が元気になったと喜んでいられたのは僅かな間だけ、もはや急成長とも言えるその変化は留まることをしらない。
「あ、戻ってきた」
見上げている精霊樹の高さが倍くらいになったところで急成長が止まる。花や葉だけではなく、幹の太さまでもそれまでとは比べ物にならないほどになっている。
精霊樹の変化が収まったことでダーク・オウルが戻ってきたようで先程と同じように枝に止まろうとして探しているような素振りを見せた。少しだけ精霊樹の周りを飛び回った後、適当な枝を見つけそこに羽を落ち着かせていた。
「これが本来の精霊樹なんですね」
「かもしれないな。だったら精霊樹の雫はここにあるはずだ」
水の中に潜っても見つけられなかったのだから、見てくれを変えた精霊樹の周りにあると信じ探し始める。
ヒカルは成長を果たした精霊樹に圧倒されているのかその場から動こうとしない。
「きゃっ」
「どうした?」
精霊樹の近くにいるヒカルを見ると葉が生えたことで重みを増した枝に触れようと手を伸ばしているところだった。
時間が経って乾いているはずの髪が濡れいているのはどういうことだろう?
「あ、や、その……何でもないです」
「なんでもって、また水の中にでも飛び込んだのか?」
「そんなわけないですよ」
「だったら――」
「あの葉に貯まっていた朝露を被っちゃっただけですって」
よく見てみれば精霊樹の葉の中でもある程度の大きさがある葉には朝露が貯まっていた。実在しているものでいうのなら巨大な蓮の葉のようなものだろうか。確かあれにも水が貯まることがあったような気はする。
「朝露……」
精霊樹を見上げその葉の一つ一つを見比べる。
大きい葉にも朝露が貯まっていないものもある。その違いがあるようには見えない。ただ、あるものにはあり、ないものにはない。それだけだ。
「そうか……これが、これこそが雫なんだ」
「ユウ?」
「この精霊樹の葉に貯まった朝露こそが精霊樹の雫だったんだ」
精霊樹にある朝露。それこそが雫。それこそが俺たちの探し求めてきたもの。
「でもあれはアイテムじゃないですよね? だって持ち歩けないみたいですから」
「いや、アイテムさ。ここ場所でだけ使える特別なね」
鳥籠をストレージから取り出し、そのちょうど真上に朝露の貯まっている葉がくるように地面に置く。
「離れてた方がいいぞ。また濡れたくないだろう」
「わかってますよ」
そっと葉の端に触れると貯まっている朝露は葉を伝い鳥籠の上に落ちた。
出来るだけ鳥籠全体にかかるようにと朝露の貯まっている葉の中でも大きいものを選んだのだけど、まさかここまでの量になっているとは。
小さいバケツくらいは満たすことができそうだ。
鳥籠にぶつかった水滴は弾け、小さな王冠のように波紋が広がった。
精霊樹の雫がアイテムではなかったとしても、あの葉に貯まった朝露がそうなのだとすれば、俺たちが迷いの森に来た目的は果たした。
これが正解だったのかどうか、その結果がようやく分かる。
次の展開がどうなるのか。漠然とそんなことを考えていると地面に置かれた鳥籠が開き始めた。
まるで蕾が花開くように、格子が一本づつ外れ、地面に鮮やかな紋様を作り出す。
「溺れるわぁああああ」
透き通るような声を出しながら何かが鳥籠の中から飛び出してきた。




