境界事変篇 14『化け羊』
変貌したシャドーマンを”化け羊”と名付けたのは今度も篠原だった。
姿を変えたことで戦闘力が飛躍的に向上したのかそれまで己の技術で圧倒していた進藤を化け羊は自身の身体能力だけで押し返していく。
パンチもキックも技量が工場したわけではない。むしろ傍から見ればそれまでと何ら変わっていないとさせ言える。が、実際には進藤は着々と追い詰められようとしていた。
「くっ、どうすれば」
何でもない拳が進藤を穿つ。
とんでもない衝撃を受けて吹き飛ばされた進藤が地面を転がる。
受けた痛みは現実と何も変わらない。それでも仮想の肉体だからこそ呼吸ができないなんてことにはならなかったのは幸いか。
追撃が来る前にと起き上がり化け羊と距離を取る。
『進藤君、と言ったね』
「はい?」
『私は麹町と言います。ここの研究所の責任者と言えばわかりますか?』
「その、今は自己紹介している暇は」
『わかっています。榊君。この会話が聞こえてますね?』
『はい』
『ではこちらを使えるように最終調整をお願いします』
『これは……?』
『昨日榊君からもらったデータを私なりに使える代物に纏め上げてみました。もし現状手が無いというのでしたらこちらが使えるか検証くらいはしてもバチは当たらないと思いますよ』
自分の頭越しに聞こえてくる会話に注意を取られてしまいそうになりながらどうにかこうにか化け羊の攻撃を凌ぎ続けている。
通信を繋いだまま榊は送られてきたデータに目を通してみた。
そこに記されているのはとある攻撃プログラム。正確に言えば攻撃によって相手に与える影響にとある項目を付加するプログラムだ。
麹町の専門外とはいえ榊にとっては恩師。専門性という意味では劣るものの知見では勝っているからこそ組むことのできた要素なのだろう。問題はそれを直接GM05に組み込むには時間が足りていないこと。今できることと言えば。
「進藤君。少しだけ耐えて!」
返事を待たずしてログアウトして榊は鞄から取り出したノートPCのキーボードを叩き始めた。
もはや常人離れしたタイピングで組み上げられていくプログラムが完成したのは、驚くことに五分も経たずしてのことだった。
しかしこと戦闘という行為において五分という時間は存外に長い。
状況が二転三転としてしまうことも珍しくもなく、また圧倒的に状況なれば勝敗が決まってしまっていてもおかしくはない時間だ。
現場から目を放して目の前のPCのモニターにだけ集中していた榊が再度進藤が戦っている映像に目をやるとそこには想像もしていなかった光景が広がっていた。
公園のような広場にある用途不明な石の柱。等間隔で聳える柱の一つに押し込まれた進藤はGM05が破損することは免れていたものの、満身創痍というような状況に陥ってしまっていた。
崩れるように倒れかけるも堪えて防御体勢を取り、その上から化け羊が殴りかかる。フォームなどありもしない、加えて喧嘩慣れすらしていないような拳だというのに化け羊の身体能力によって避けられない速度に達し、当たれば威力は常識の外。
一瞬膝に力が入らず柱にもたれかかったまま倒れる進藤の頭上を貫く化け羊の拳は、石の柱を砕き大小様々な欠片を撒き散らす。
「……、………!」
聞き取れない声で叫ぶ化け羊が進藤を蹴り飛ばす。
防御してもなお吹き飛ばされる進藤はダメージを逃すために地面を転がっていく。
一定の距離ができたと思った瞬間に起き上がり、反撃を行おうとするも思い出されるのは自身の攻撃が全く効いていなかった化け蜘蛛との戦い。
拳を作るも意味がなかった。反撃を受ければ痛みを感じるのは自分自身。抱いた僅かな恐れが一瞬の躊躇を生み、その一瞬の間が変わらぬ劣勢を維持し続ける。
攻撃を受けては後退し、回避と共に距離を取る。そうすることで進藤はこれまでの時間やられずに堪えられたというわけだ。
けれどそれもいつまでも続くわけがない。いずれ化け羊の攻撃が進藤に致命的な一撃を与えるだろう。
だからこそ進藤は何か突破口がないかと化け羊と対峙しながら探し続けていた。
「くっ、この!」
殴りかかるのは圧倒的に自分が不利になると判断して進藤は回避行動の果てに距離を取ったタイミングでGM05Sを出現させては撃つことを繰り返していた。
威嚇でも牽制でもない、しっかりと化け羊を狙った射撃だ。しかし撃ち出された弾丸は全て化け羊の体に届くことなく分厚い毛の鎧に阻まれてしまう。
無意味だと知りつつも数度の射撃を行い戦うが、やはり効果が無いとなれば化け羊は平然と弾丸を受けながら近づいてくる。
すぐに銃口を下げて回避ではなく退避に移る。
それでも背中を向けて逃げ出すわけにはいかず正面で向き合ったまま後ろに下がり続けた。
近付いてくる化け羊が乱暴に突き出す拳を避けきれずに直撃を受けた進藤は大きな衝撃と共に無数の火花を撒き散らしながら大きく後ろへと吹き飛ばされてしまう。
ごろごろと転がりながら地面に指を立ててブレーキを掛けることでどうにか止まったその直後、進藤の元に声が届く。
『お待たせ。どうにか間に合ったみたいね』
「ギリギリかもです」
『あら、随分と余裕そうじゃない』
聞こえてきたのは待ち望んでいた声。進藤はそれを耳にしてほっと安心していることを自覚していた。
起き上がって化け羊を睨みつけたまま距離を保っていると不意にGM05にとあるデータのインストールが完了したという知らせが視界に表示された。
「これは?」
『詳しい説明は省くわ。とにかくそれを使いなさい』
「使うって?」
簡単な使用方法が目の前に表示されるさなか、聞こえてくる声にはどこか余裕が感じられない。
いつもの強気な彼女とは違う何かに微かに不安を覚えたが、提示された選択肢を取る以外はないことも事実。素早くそれを実体化させるとずしりとした重さが空の左手に加わった。
それはGM05Sの銃口部に被せるようにして取り付けるアタッチメント。取り付けることでだいたい一回りほど大きくなるGM05Sはそれまでのハンドガン風のシルエットから片手で扱うハンドマシンガン風に変化するようだ。
『急ぎなさい! 来るわよ』
GM05と視界を共有している榊にはその視界の端に近づいてくる化け羊の姿が見えていた。
手の中のそれに集中してしまっていた進藤はハッとしたように顔を上げて近づいてくる化け羊を迎え打とうとして拳を作った。
『違う! 使うならGM05Sでしょ!』
耳元に鳴り響く榊の声に再度手元のGM05Sを見る。
近付いてくる化け羊とGM05Sを見比べて、その迫力に負けそうになる自分を奮い立たせながら慣れない手付きでアタッチメントを取り付けた。
『撃ちなさい!』
言われるがまま拳を振り上げる化け羊に向かって引き金を引く。
「うわっ」
ダンっとそれまでよりも重い銃声が轟き、想定していたよりも遥かに大きな反動に進藤は思わずGM05Sを手放してしまいそうになる。
照準がブレて追撃などできそうもない。
撃てたのは一発だけ。
しかし、状況はそれまでとは異なっていた。
「え?」
『よし!』
戸惑う進藤の声と手応えを感じて喜ぶ榊の声が重なった。
銃撃は効かないと舐めたまま直進していた化け羊が初めて撃ち込まれた弾丸にダメージを受けて足を止めていたのだ。
化け羊の撃たれた場所から白煙が立ち込めている。
それは銃弾を受けたにしては奇妙な現象だったが、間違いなくダメージを与えられていることの証左だった。
『今よ。畳みかけなさい!』
「はいっ」
思わず強くなる語気の榊に応え進藤は再度GM05Sを構える。
片手で構えたのでは反動を殺しきれない。それでは連続して撃つことなどできやしない。であれば当然、進藤は両手でそれを構えることにした。
一発、二発、三発と続けざまに放たれた弾丸は総じて化け羊に命中した。
いくつもの白煙が着弾点から立ち上がり、その度に化け羊は後ずさる。
本物の銃を撃っているわけではないというのに進藤の手は度重なる射撃の反動によってGM05Sを落としそうになる。
ぐっとグリップを握りしめて再度引き金に指を掛けて狙いを定める。
今のGM05Sは弾丸の装填は必要としない。仮想の銃であり、常に残弾が補充される仕様になっているからだ。
指が壊れても、手が壊れても構わないと一心不乱に引き金を引き続けるとようやく化け羊が膝を折った。
数十発の弾丸を浴びせたというのに未だ倒せていないことにこの戦闘を見守っていた麹町が眉間に皺を寄せて小さく「これでも足りないというのですか」と呟いていた。この言葉を聞かずとも榊もまた内心同じようなことを感じ始めていた。
有効打ではあるものの決定打になり得ない、それが今の自分たちの限界なのだろうかなどと思ったとしても口が裂けても言葉に出すことはできず榊はモニターの前で強く拳を握っていた。
実際に化け羊と対峙している進藤は初めて自身の攻撃が効いていることに光明を見出していた。これを続けていれば倒せると根拠のない直感に従い化け羊が膝を折った後も、再度立ち上がって殴りかかってくる時にも絶えず撃ち続けていた。
全身から白煙を立ち上がらせたまま化け羊は一歩強く前に足を踏み出した。
感じているはずの痛みも化け羊には自分を止める要因にならない。それこそ効かなかった銃弾が自身を脅かす存在になった今、それを排除することが何よりも優先されるからだ。
おもむろに化け羊が自身の体を覆っている毛を一つ束にして掴み勢いよく引き抜いた。
まるで二メートルほどの長さに切られたロープであるようにそれが化け羊がの手に握られると次の瞬間にそれは奇妙な光沢を帯び始める。
だらんと垂れていたロープが一瞬にして固まりピンと伸びる。一本の棒となったその先が二又に分かれて一つの武器へと変わったのだ。
「何?」
初めて見る現象に虚を突かれて一瞬引き金を引く手が止まる。
その一瞬を見逃さずに化け羊はその手の中に形成した”さすまた”のような武器を操って進藤の手を絡めとり、その手からGM05Sを弾き飛ばした。
まるで熟練の使い手のように見事な一連の動作を見せて化け羊はさらに進藤を突き飛ばす。
「ぐあっ」
苦悶の声を漏らして倒れる進藤の視線の先で地面に落ちたGM05Sがすうっと消えた。
『進藤君!? もう一度GM05Sを出して――』
その指示が届くよりも早く化け羊は伸ばした進藤の手をさすまたで地面に押さえ付け、蹲る体を強く蹴り上げた。
「くっ」
またしても短い声を出して痛みを堪え化け羊から逃れようとするが、強く押さえ付けられた右手が動かせずその場から移動することさえできなかった。
動けない進藤に化け羊は度重なる攻撃を加えていく。
無数の火花が舞い、装備しているGM05が悲鳴を上げる。
思い出される先の戦いに榊も篠原も息を呑んだ。
左手を体の前に構えて防御姿勢を取っている進藤すら身の危険をひしひしと感じ取っていた。
仮にここで意識を失えばレヴシステムの安全装置が働き意識を現実に引き戻されるだろう。しかしそうなった場合、目の前の化け羊はどうなるのか。
悠々とこの場から消えるだろうか。
それとも、またしてもこの空間を荒らすのだろうか。
どちらにしても目の前の犯人を取り逃すことには変わらないと進藤は強く唇を噛んで意識を手放さないようにして千載一遇のチャンスを待ち続けた。
ガンガンっと響く殴打の音。
ひしゃげてくぼんだGM05の体。
絶え間なく襲い掛かる大きな痛みに進藤の体から力が抜けたその瞬間、化け羊は右手を押さえ付けていたさすまたを引き戻し、それを進藤の首に目掛けて突き出した。
絶体絶命、致死の一撃。
根性で開け続けた進藤の瞳が映す光景を目の当たりにして、それを見ていた面々は思わずモニターから目を背けてしまう。
強い胆力でそれを見続けていた榊だけは眼前に迫るさすまたが進藤の首に当たる直前に止まった瞬間を目の当たりにすることができた。
何故という抱いた疑問に対する回答は即座に提示される。
進藤が顔を向けたその先でさすまたに自身の武器を当てて止めている存在を見たのだ。
「な、なんで……?」
霞む声で呟く進藤の問いにそれは答えない。
全身を体のラインに沿った鎧に包み、仮面のような兜を付けた存在。
それは紛れもなく、先の戦いで化け蜘蛛を討伐した”何か”だったのだ。
進藤も、榊も、麹町も、この場にいる誰もがいるはずがないと思っている存在。それは紛れもなく”竜化”というヘンシンを行った悠斗であった。
悠斗は自身の武器である剣銃でさすまたを受け止めて両手に力を込めてぐっと抑えている。
「……!」
化け羊が聞き取れない言葉で叫ぶ。
平然とした様子でそれを聞き流した悠斗はさすまたを下から蹴り上げて、剣銃の刃が離れた瞬間に素早い水平斬りを繰り出した。
アタッチメントを取り付けたGM05Sで初めてダメージを与えられるようになった化け羊の体表の毛が軽々と切り裂かれる。
そのまま連続斬りを繰り出し化け羊を押し返していく。
「はっ!」
化け羊が後退して進藤との間にできた空間に、進藤を庇うように割り入って強く左手で殴り飛ばす。
進藤の無事を確かめるように一瞬振り返り一瞥した悠斗はしっかりとした足取りで化け羊へと向かって行く。
圧倒的な強者感を滲み出しているヘンシンした悠斗をこの時初めて進藤ははっきりとした意識の中で見ることになった。
感じるのは自分とは違う何か。その何かが掴み切れないまま進藤はただ始まった二者の戦いを見守ることしかできないでいた。
「……!」
「ふっ」
聞き取れない叫び声を上げて向かってくる化け羊のさすまたを悠斗は軽く体の軸を変えて回避すると今度は掴み引き寄せてバランスが崩れた一瞬を狙い剣銃を持つ方の手で斬り付けるのではなく強く拳を叩きつけた。
鋭い拳が突き刺さった腹に手を当てながらバタバタと後退する化け羊をゆっくりとした足取りで追い詰めていく悠斗。再度猛進する攻撃をひらりと躱してキックやパンチを打ち込み軌道をコントロールする様はさながら闘牛士のよう。
優劣はおろか勝敗は決したと進藤の目に映る二者だが、化け羊はまだ諦めていないのか無謀にも攻撃をし続けている。
気付けばダメージを帯びてボロボロになったGM05のように化け羊も全身に無数の傷を刻んでいた。
「はっ」
気合を込めた短い声を発して強く化け羊を蹴り飛ばす。
それまでの攻撃で足に力が入らなくなっていたのか、化け羊は地面を滑るように後退した先でガクッと膝から崩れ落ちた。
悠斗は化け羊から直線上に立ち剣銃を構える。
三回立て続けに剣形態のままトリガーを引く度に剣銃の刀身に宿る光が強くなっていく。
さながら死刑宣告のカウントダウンであるかのような光の明滅に化け羊は本能的な恐怖を感じて全身を竦めて怯えている。が、そのまま死神の鎌が振り下ろされるのを待っていられるかとやぶれかぶれな勢いで襲い掛かってくる。
化け羊にとっても全力の一撃。
振り抜かれるさすまたに刃など付いていないはずなのにそれを受ければ首が刎ね飛ばされる光景を幻視した進藤は息を呑むも対峙している悠斗は極めて冷静に腰を落として居合斬りの要領で斬撃を放つ。
初めて目にした飛ぶ斬撃はさすまたが悠斗に届くよりも遥かに速くその体を両断してみせた。
武術における残心のように悠斗は静かに次の攻撃に備えた構えを取る。
悠斗と進藤が見つめる先で、腰から頭の上に至る巨大な切り傷を刻み付けた化け羊が大爆発を起こした。
吹き付けてくる爆風から体を庇うように手を翳す進藤。悠斗は平然とした様子で爆風を受け流していた。
凄まじい爆発は起こったものの炎は無い。というよりも初めから何もなかったかのように爆発が消えてしまっていたのだ。
剣銃を下げて構えを解く悠斗。
「待て!」
そのままこの場から去ろうと歩き出す彼を進藤は咄嗟に呼び止めていた。
化け羊には言葉が通じているかはわからない。けれどこの存在ならばと痛みに堪えて立ち上がった進藤を振り返った悠斗が見つめている。
「お前は…何だ? 誰、なんだ……?」
化け羊を圧倒してみせた悠斗に進藤が感じているのは怖れ。それと同時に危険視せざるを得ないと自分を奮い立たせるも、口から出た声は微かに震えてしまっていた。
「答えろ!」
無言のまま答えようとしない悠斗に進藤は声を荒らげた。
「……」
ゆっくりと悠斗は剣銃を構える。
刃が届く距離にいないのだから安心だなどとは思えない。咄嗟に実体化させたGM05Sの銃口を向けたその瞬間、剣形態から銃形態へと姿を変えていた剣銃から一発の光弾が放たれた。
「なっ!」
息を呑む進藤の目の前で大きな光が弾けた。
それと同時に視界を白が覆い尽くす。
「はっ!?」
気付けば安全装置が働き、進藤は現実へと引き戻されていた。
勢いよく体を起こすもそこには自分以外誰もいない。それもそのはず、進藤がクローズネットに突入したのは秘匿性が保たれている自車の運転席だった。何かが起きたかもしれないという情報を受けて百市大学に向かい、実際何かが起こったのだと篠原から知らされると直接大学構内に赴くのではなく来客用の駐車場に車を停めてログインを行ったのだ。
かの世界で受けたダメージは実際に体に現れなくとも脳が受けたと感じ取る。そのために戦闘の後には体を休めなければ動くことができないのだが、この時の進藤にとってはこの時間がとてももどかしく感じられた。
今すぐに何が起きたのか確かめに行きたい。そんな思いに反して彼の体は動こうとはしなかった。




