境界事変篇 08『ヘンシン』
「……というわけです」
「はぁ」
テーブルの上に広げられた大量の資料を使った説明を一通り終えた井上の悠斗に対する印象は今ひとつ頼りない男だった。
緊張感の感じられない顔。
隣に座る大沢に比べても華奢な体格。
年齢から察するにこの場にいる誰よりもそれに親和性があるのは間違いないだろうが、それでも円が適任だと言って紹介してくるような相手には思えなかった。だからだろう。つい彼ではなく高坏円本人がこの件を担当してくれないだろうかと言ってしまったのは。
自らが蔑ろにされているも同然の物言いに少しでも怒ったり不満を態度に出してくれれば自分の発言を謝罪する機会に巡り合えたはずが、どうもこの悠斗という男は井上の発言に怒るどころか同意してみせたではないか。
唖然とする井上に反して心底不思議そうな表情を浮かべている円。表情を崩さずに心の内を見透かされないようにしている大沢は流石の歴戦の刑事とでも言うべきだろう。
「すまないが、私は荒事が苦手なんだ。こういう仕事の適任はやはり彼さ」
円の言葉は井上に向けられているが、その意識は悠斗に向けられている。
反論を許さない威圧感ではなく、その言葉に納得せざるを得ないような説得力を持たせた発言に悠斗は「わかりました」と了承し、井上は渋々ながら「そうですか」と答えるしかなかった。
これが自分の仕事だと再認識した悠斗がもう一度資料に目を通し始めた頃。円は自身の机の引き出しからとあるデバイスを取り出して彼の前に置いた。
光沢のある銀色の腕輪型デバイス。それは一般に流通しているものではなく既存のVR機器である【レヴシステム】の機能を拡張するものだ。
なぜそのようなものがここにあるのかと視線で問い掛ける井上に円は涼し気な顔をして、
「こういう時のために準備くらいはしているさ」
などとさも当然のことのように言ってのけた。
円が想定している”こういう時”というのがどういう状況なのかと問い詰めたい衝動に駆られながらも隣を見れば大沢は考えるだけ無駄だと達観した表情で首を横に振っていた。自分よりも遥かに関係性のある大沢にそう釘を刺されてしまえば井上は衝動を必死に堪えるしかない。
「これは何ですか?」
そんな井上の代わりに質問を投げかけてくれたのは他ならぬ悠斗当人だった。
「悠斗がいつも使っているレヴシステムで件のネットワーク、クローズネットに繋げるのに必要となるものさ」
「なんでそんなものを円さんが持っているんです?」
「言っただろう? いざと言う時のための準備くらいはしているとね」
「や、それじゃあ説明になっていないと思うんですけど」
期待していたような答えが返ってこないことに内心がっかりしている井上をまるで見透かしたように微笑を浮かべて一瞥して円は悠斗に向けた言葉を続ける。
「使い方をレクチャーしてやろう」
「いや、だから、俺の質問に……」
「と言っても使い方は簡単だ。いつものようにバーチャルネットにログインすればいい。そこにある個人のプライベートスペースにクローズネットに繋がっている入り口が現れているはずだ」
「聞いてないし……」
これで諦めたというように口を噤んでしまった悠斗になおも円は口頭で説明を続けている。それは意外なことにクローズネットに対して知見のある井上でも初めて耳にするようなものだった。井上にとってクローズネットとは専用の回線に専用の機器を用いて繋げるものであり、文字通り閉ざされたネットワークだった。しかし、目の前のそれはその認識を根本から覆してしまう。そんなこと技術提供者の一人であっても民間人個人で持っていてもいいような代物ではない。
あからさまに異常なものを目の当たりにしているという感覚がないのかと詰め寄りたくなるくらいに井上の隣に座る大沢はさも当然と受け入れている。本来ならば公権力のある大沢がそれを取り上げて詳しい事情聴取をするような事柄であるというのに。
「ちょっと待ってください」
「何かな?」
テーブルの上にある銀の腕輪を掴もうとする悠斗の手を止めて仕方なく井上が口火を切った。
「これは一般人が持っていていいような物じゃないです。こんなものが出回ればクローズネットは安全な閉ざされたネットワークではなくなってしまう」
「ふむ。心配しなくてもいいさ。これはここにある一つだけ。予備も無ければ、新たに作る予定もない」
「そういう事じゃありません。そもそもからして、どうしてこんな物がここにあるのか説明をしてください」
「これはある意味で副産物さ。私達がクローズネットを作った時に出た、ね」
「副産物?」
「元々クローズネットは専用の機器を使うのではなく既存のデバイスから使うことが想定されていたのさ。けれどそれではセキュリティレベルが心許ないということになってね。以降は専用の機器を用いることが前提となって構築されていったのさ。つまりこれは専用の機器を使う案が出る前に使われていたプロトタイプというわけさ」
「それがなんでこんな場所にあるんですか? 本来なら私達の手でしっかりと保管していなければならない物のはずでしょう」
「確かに。貴女の言うとおりだ。であればこそ、これがここにある理由にはある種の正当性がある、とは考えられないかね?」
「どんな正当性があるっていうんですか?」
「そうだね。例えば何かあった時のためにこれが本当に使える物にしなければならず、その制作が私の手で行われていた、というのはどうだい?」
質問に質問で返しているかのような問答ながら円はそこに正答を述べていると悠斗は感じていた。法外の、あるいは超法規的措置とでも言うべき事柄を平然とあり得るものとしてしまうような人望が高坏円にはある。悠斗の目の前に置かれている銀の腕輪もその一つ。むしろその事情を察しているからこそ大沢は口を挟まず聞いているのか、それとも聞いていないフリをしているように見える。一人納得できないと言っている井上の様子から慮るにクローズネット一つ取ったとしてその指揮系統は一つではないということらしい。
「ふーむ。これだけ説明してもまだ納得して貰えないか」
一旦悠斗が銀の腕輪を取ることを止めたと判断したのか井上はその手を放してソファに浅く前のめりになって腰掛けている。
そんな井上の様子に困ったと腕を組んでいる円はふと思い立ったように机の上にあるスマホでどこかに連絡を入れていた。すると一分と経たずに井上の個人用スマホが鳴った。短く数秒で止まったそれは通話の着信ではなく、メッセージの着信を伝える音。
すっとスマホを見るように促す円に釈然としない表情で井上は送られてきたメッセージを確認する。すると見る見るうちに彼女の顔は不機嫌そうになっていき、対照的に円は得意気な笑みを浮かべていた。
「これで納得してくれたかい?」
「納得はしてませんけど、理解はしました」
柔和な声で問い掛けると井上は絞り出すような声で答えていた。
何があったのだろうかと大沢がちらりと井上のスマホに目線を落とすと慌てて井上は自身のスマホの画面を下に向けて隠してしまう。しかしほんの僅かな一瞬だけだっとはいえ普段から一瞬の確認を常としている大沢には見えてしまった。そこには件名と差出人の欄は空白で本文には『認知済み』の一言とその下にあった一つの名前。記憶に間違いがなければクローズネット計画の責任者として上から数えた方が早い人物の名前があった。つまりはどんなに井上が異議を申し立ててもそれすら一蹴してしまうような状況だったというわけだ。
ふと感じた疲労を紛らわすために一度大きく息を吐き出しつつ壁にある時計に目をやると知らぬうちに時間は過ぎていて正午まであと一時間ほどとなってしまっていた。
「さて。使い方は理解したな?」
「あ、はい。一応」
「よろしい」
実践はしていないがとりあえずのやり方は覚えたと答える悠斗に円は満足そうに頷いている。
銀の腕輪を自分の左腕に付けた悠斗の彼が持つレヴシステムが自動同期を始める。そのままシステム構築が終われば実際にクローズネットにログインしてみることになるのだろう。
何かが起こる前に間に合ったと胸を撫で下ろす大沢の携帯がけたたましく鳴り出した。
断りを入れて部屋の隅に移動した大沢が電話に出て何やら話し込んでいると、程なくして慌てた様子で戻ってきた。
「どうしたんだい?」
「どれでもいい。ニュースを入れてくれ」
「あ、はい」
テーブルの上にあるリモコンを使い事務所に置かれているモニターの電源を入れる。そこからチャンネルを変えてこの時間にやっているニュースを見ると緊急速報としてどこかの建物で爆発事件が起きたことを報じていた。
「これって、この町にあるライトモールですよね? ほら、あの看板。そうですよ。間違いなくライトモールです」
興奮した様子で告げる井上とは対照的に大沢は険しい顔をして黙り込んでしまった。それから一言二言通話の向こうの相手と言葉を交わして戻ってくると眉間に深い皺を刻んでどう話せばいいのか迷っているようだ。
「大沢さんが危惧していた事態になったのかい?」
「いや、まだそうはっきりとは言えねぇけどよ」
「その可能性が高い、と?」
大沢が神妙な面持ちでこくりと頷く。
話す二人の様子に事の重大さを今更ながら理解した井上はしゅんと息を潜めて座り直していた。
「確認だが、この事件はクローズネット関連の事件なんだね?」
「確定はしていないらしいが、ほとんど間違いないって話だ。今は爆発の影響から現場は混乱しているみたいで、避難もあまり進んでないらしい。いや、ちょっと待ってくれ」
送られてきたメッセージを無言で読み上げている大沢が少し考えた後に一言「送るぞ」と言ってメッセージをそのまま円のPCに転送した。円は転送されてきたメッセージをニュースをやっているモニターに映し出して全員の目に映るようにしたのだった。
「これは――」
「どうやら間違いないみたいだね」
息を呑む井上と得心が言ったと頷く円の声が重なる。
「クローズネットの中の映像が見られればいいんだが」
現状をより把握するためにはと呟く大沢に井上がそれなら任せてくれと、円にPCを操作する許可を得て軽快にキーボードを叩き始めた。
程なくしてさらに分割されたモニター内の映像の一つに見慣れないネットワークの映像が映し出された。
「これがクローズネットの映像かい?」
「はい。よくある監視カメラの映像みたいな感じでしか見えないんですけど」
「十分だ」
食い入るようにモニターを見る四人の目に遂にその影が映る。
「あれが”シャドーマン”」
ぽつりと呟いた悠斗の言葉に井上が大きく頷いていた。
再度送られてきたメッセージを大沢が確認してさらにそれを円に転送。そこからまたしてもモニターに映し出すとこの爆発事件の情報がこの場にいる全員に共有された。
「爆発は空調設備の異常とそこに設置されていた爆発物によるもの。死傷者はまだ出ていない、か」
「避難はどうなっているんです?」
「警察と消防で行われているらしいが、手動で爆発を起こす可能性が残っている以上、現場に踏み込めずにいるのが現状みたいだな」
「おや?」
クローズネット内の映像にシャドーマンとは異なる人の姿が映る。
「GM05」
「進藤か!?」
機械的な装甲に身を包んだ人物。その手には銃のようなものが握られている。
「避難が始まったぞ」
「どうやら彼がシャドーマンの注意を引いている間にということのようだね」
「そう上手くいくと良いが」
心配そうにいう大沢の見ている先でGM05がシャドーマンの確保に挑戦している。
最初は上手くいっている感じだった。シャドーマンは抵抗を見せず両手を上げたまま操作盤らしきものから離れていく。事態が変わったのはその後だ。いつの間にかその手の中に握られていた何かを自身の体に押し当てるような素振りを見せた後、シャドーマンはその全身を変貌させていた。人型の体に蜘蛛の特徴。蜘蛛人間とでも言うべき怪物がその場に立っていた。
そこからはもはや戦闘などではなかった。
装甲を纏っているGM05が見るも無残にボコボコにされている様子だけが映し出されている。
大沢の携帯にまたしてもメッセージが届く。そこにはシャドーマンが変貌した存在を”化け蜘蛛”と仮称することが決まったとの報せだった。
「――ッ。今はんなことどうでもいいだろうが! 進藤は無事なのか!?」
今にも携帯を投げ捨ててしまわんばかりの勢いで叫ぶ大沢の問いに答えられる人物はこの場にはいない。連絡をして訊ねようにも自分にかまけてられるような状況ではないことは明らか。
一瞬の逡巡の後、大沢の目はモニターではなくそれを見つめている悠斗に向けられた。
「頼むッ。あいつを助けてやってくれ!」
できるのかなどをは問わない。そんなことに考えが回らないほど装甲を破壊されつつも攻撃を受け続けているGM05の様子は悲惨なものだった。
「ログアウトすれば、そうすればGM05は――」
「あいつは、そんなことできるような奴かよ。強すぎる責任感で自分が逃げたらどうするんだみたいなことを考えているに違いないんだ」
「だが、クローズネットでは危険なのだろう?」
「わかってる! わかってんだよ。そんなことは…あいつも……」
冷静な円の物言いに大沢は尚も声を荒らげた。
「さて、そうは言ってもだ。確認だ、悠斗。これはゲームじゃない。体力ゲージなんてものも無ければ、安全なんてものもない。受ける痛みは現実と同じ、あるいは現実では感じることもないようなものを受けるかもしれない。それでも――」
「だとしても、あの人を放っておくことはできない。俺にできることがあるのなら、俺は…」
「良いだろう。行きたまえ。サポートは私が引き受けた」
「はい!」
レヴシステムを装着し、仮想世界へと赴く。
眠るように座る悠斗を一瞥してすぐに大沢は目線をモニターへと向けた。
「悠斗聞こえているか?」
『はい』
悠斗の声はモニターから聞こえてくる。背もたれを倒した椅子に体を預けて眠るように動かない悠斗の意識は仮想世界にあり、そこでの悠斗の姿は現実の彼に似せて作成されたアバターとなっている。
「キミとは視界のリンクを構築することはしていない。故にこちらからキミの見ているものを確認することはできないが、キミの後を追わせるドローンを用意した。後方に出現しているはずだが、確認できるかい?」
『えっと、あれなか。見えてますか?』
自身の背後に音もなく浮かんでいる菱形の物体に向けて手を振る悠斗の姿がモニターに映し出されている。
「ドローンは問題なく稼働しているみたいだな。それではキミのプライベートスペースにあるクローズネットに入るための扉を探してくれ」
『わかりました』
広大とまではいわないが、それなりに広い空間には壁際に様々な形をしたオブジェクトが設置されている。その一つ一つが悠斗のレヴシステムにインストールされているアプリケーションであり、普段遊んでいるゲームや資料や報告書作成に用いているツールなどもそれぞれ異なるオブジェクトとして存在している。
『これですか?』
「そうだ」
一つ一つを確認していくのではなくウインドウショッピングするかのようにさっと流し見で見慣れないものを探しているとすぐにそれを発見することができた。
「では大沢さん。あの蜘蛛の化け物がいる所のURLを教えてくれませんか? それを使えば悠斗は直接現場に侵入することができるはずだ」
「あ、ああ。これだ。それからあの怪物は化け蜘蛛と言うことになったらしい」
「ふむ。呼び名は別にそれでいいだろう。悠斗聞こえていたね? これからメッセージでURLを送る。使い方は――」
『扉にあるコンソールに入力すれば良いんですよね』
「そうだ。理解が速くて助かる」
既存のネットワークとは違い、現在のクローズネットではランダムな数字とアルファベットが組み合わされてURLが作成される。入力ミスにならないように一つ一つ確かめながら入力していく様は昨今のネットに慣れ親しんだ世代とは思えないほど。
全ての文字を入力すると悠斗の前にある扉がひとりでに開かれた。奥にあるであろう通路や部屋を描写するのではなく、ただ光が満ちているという表現に留まっているのはそれを描写する必要性がなかったからだろう。
「さて、クローズネットに突入する前に悠斗にはやってもらいたいことがある」
『何ですか?』
「なあに、簡単なこそさ。キミがいつも【ARMS・ONLINE】で使っているように戦闘に適した姿になってもらうだけだ」
プライベートスペースでは当然のように戦いを想定した姿ではなく、ニュートラルなアバターの姿となる。現実の自分の姿を模したもの。何かのマスコットのようなもの。その姿は千差万別なれど、今の悠斗は戦いに赴くには相応しくない姿をしている。勇猛果敢に参戦すると意気込んだ所でこの状態であれば戦場に武器を持たない一般人が飛び込むも同然。
「キミがかの世界でいつも使っている<竜化>というスキル。それをクローズネットでも使えるようになっているんだ」
『え?』
「発動キーワードは”ヘンシン”。さあ、宣言したまえ。そして閉ざされしネットワークへと飛び込みたまえ」
芝居がかった物言いで告げる円に促されて悠斗は開かれた扉の前で「ヘンシン」と呟くその瞬間、悠斗の体に波紋が広がり、それまでとは異なる、全身にアーマーを纏った状態へと変化した。
「行け!」
『はい!』