境界事変篇 04『シャドーマン』
ただのデータの奔流だけではなく、知覚できる世界の一つとして存在しているクローズネットは本来とてつもないほどに広大である。が、今、進藤が立っているのは限定した地域を対象にしたネットワークテストの舞台として白羽の矢が立った場末のゲームセンターのゲーム機等のシステム管理をしているだけの空間。果てがないほど広大というわけではないが、決して狭いというわけでもない。イメージするのならどこかの市民体育館くらいの広さだろうか。
見上げても天井はなく、見回してみても壁すらない。見下ろした先には目の細かな方眼紙のように白色の升目がついた黒い床。
遠くまで見通せるはずの空間が、およそ数メートル先さえも霧がかかったようにぼやけてしまっている。自分の体や約二メートルほどの距離ならば霧がなく見通せていることと少し歩みを進める度に視界が切り開かれていくことを考慮すれば、この霧はセキュリティの一環として発生しているであろうことが推測できた。
「これが進藤の言っていたクローズネットってやつか」
手元のパソコンに映る進藤の視界を通して見えている世界を見て大沢がぽつりと呟いた。
進藤が歩くたびにちらちらと見えてくる黒いウエットスーツのような素体の上に機械的な装甲が備わる腕や足は些か現実離れしているように思えてくる。
GM05という個別番号は知らずともそれが伊達や酔狂で用意されただけの代物ではないことは大沢にも伝わっていた。
「ん?」
コンコンと車の窓が叩かれた。運転席側のウインドウを下げるとそこに立っていたのは制服を着た警官が三名。四十代くらいの男性と若い男女が二人。
「あの、本部からの連絡で来たんですけど。ここで何かあったんですか?」
代表して二人の上司らしき四十代の男性が大沢に訊ねた。
「あそこのゲームセンターはわかりますか?」
「はい。巡回のルートに入っていますから」
「そこで数日前に金が盗まれた事件があったことは?」
「勿論把握しています」
元気のいい声で四十代の男の後ろに立つ二十代前半くらいの男が言った。
「その事件そのものは解決しているのですが、それに関係した事件がこれから起こる可能性があるんです」
「ほんとうですか?!」
「事前に事件を防ぐことができれば一番いいのですが、仮に事件が起こる場合は迅速に犯人を捕まえなければなりません。ですので、一人は通報があったから念のための確認に来たとでも言って店主と合流。残りの二人は周辺の警戒をお願いできますか?」
「はっ」
「あの…何か起こるのは間違いないんですか?」
「おい!」
「あ、すみません」
「いや、いい」
唯一口を挟まなかった女性がおそるおそる訪ねてきた。その目には僅かな不信感があるように見える。彼女の視線を辿ると後部座席でデバイスを身に着けて動かない進藤の姿があった。どうやら自分たちがわけのわからない事態に巻き込まれていることを薄々と勘づいているようだ。
「起こる、というか一応はもう起きているはずです。しかし、実害が出るとすればこれから先のことになるはず」
「起きている、ですか?」
「ああ。すでにあのゲームセンターでは機械の鍵が何者かによって外されるという事態が起きている。今はまだ中身を盗まれてはいないみたいですが、現時点で店にいる客の内の誰かがふと良からぬ衝動に駆られるかもしれない」
「なるほど。それを防ぐためにも誰かが先に行くというわけですね」
「頼めますね?」
「勿論です。皆見、行けるな?」
「わかりました」
四十代の男が部下の女性に指示を送り、自分たちは周辺の警戒に赴いて行った。
『迅速な対応、流石ベテランの刑事さんですね』
三人の姿が見えなくなったころ、繋がったままになっている電話から声が聞こえてきた。
「これで良かったですかね」
『現場の対応としては最適だったと思います』
声の主は先程話をした榊という女性。進藤の態度から察するに異常課における彼の上司なのだろう。
「それで、進藤の奴はどんな感じなんですか?」
三人の警官との会話に集中していたということもあるが、手元のパソコンに映し出されている映像だけでは何が何だか大沢にとってはわけのわからないことそのものだった。
『進藤君は現在クローズネットに侵入してゲーム機のシステムを操作しているであろう人物を探しています』
「それが犯人ってことですか」
『おそらく』
「それってどういう…」
モニターの映像がどんどん鮮明になっていくとその奥に人影が見えた。つま先から頭のてっぺんまで黒一色、性別すら判別不能な外見の人影というよりも影でできた人という印象だ。
「おい、何だあれは? あれが犯人だってのか!?」
『わかりません。篠原君、急いで分析を』
『は、はい』
反射的に質問をした大沢を置いて電話の向こうが騒がしくなった。それもそのはず、大沢が手元のパソコンで見ている進藤が見ている光景は榊たちもまた同じように見ている。細かい事情を知らない大沢とは違いこういう事態に慣れているはずの異常課の面々もまた鉢合わせたこともないような状況に陥ってしまっていたのだから。
固唾を飲んでモニターを眺めている面々の前で進藤はゆっくりと人影に近づいていく。
霧が晴れその全貌が明らかになったその瞬間、進藤はその手に出現させていたGM05Sという特殊拳銃を構えて叫ぶ。
「動くなっ!」
進藤の存在に気付いてさえもいなかった人影は突然声を掛けられたことで体をびくっと体を震わせてゆっくりと振り返った。
「――っ」
息を呑む進藤とモニターの向こうにいる人たちが驚愕するのはほぼ同じタイミングだった。正面から対峙しあ人影はあからさまに異様。人間らしい造形はほとんど見受けられず、眼窩の奥で仄かに輝く二つの光がGM05を纏った進藤を捉えていた。
「お前は誰だ? ここに侵入して何をしている!?」
自身に向けられた不気味な視線に気圧されそうになりつつも精一杯跳ね返すように声を掛けた。
「答えろ!」
GM05Sを構えたままの格好でじりじりと近づいていく進藤に対しても人影は一切リアクションを見せない。進藤の存在など微塵も意に介さないというように人影は正面から向かい合ったまま微動だにしない。
『進藤君。時間を稼いで頂戴。私たちがその間に接続元を割り出すわ』
声に出さずに頷くことで返事をして再度進藤はGM05Sを構え直す。引き金に指を掛けることでいつでも撃てるぞという意思を示すも人影はなおも気にも留めた様子さえもない。
対峙する二者の間に嫌な沈黙が流れる。
一触即発の雰囲気を見守っている異常課のデスクにも独特な緊張感が漂っている。手を止めずキーボードを叩き作業を続ける音に混じって誰かが息を吞む音が微かに聞こえてきた。
「あ、あのー」
誰一人として声を発することが憚れる空気のなか突然聞こえてきたのは場の空気を無視した呑気そうな男の声。
「あの、榊さん」
「何なのさっきから。用がないなら黙ってなさい」
「そんなぁ。せっかく接続先がわかったのに」
「でかした篠原君」
辛辣な言葉を発した直後に手のひらを返して大型犬を可愛がるかのように篠原の頭を乱暴に撫でて褒める榊に異常課の他の人たちの視線が集まった。世が世なら立派なパワハラだと判断されるような物言いだが、それを受けている当人が一度辛辣な言葉を投げかけられたことよりも今褒められたことに心底嬉しそうにしているのだから、かつこれが彼らの日常的で和やかなコミュニケーションだと周知の事実となっていることでスルーされていた。
進藤尊の本来の役割はGM05のオペレーターだが彼が持つ電脳系の知識と技量は本職のサイバー犯罪対策課の面々やこの異常課にいる技術者に引けを取らない。
何事も本番に弱いというのが篠原尊という人物の最大にして最強の弱点のせいで民間の研究施設には就けず、次点の就職候補だった科警研にも落ちた。それでも自分の技能を生かせる場所を求めて親戚が働いていた警察官を目指し成ることはできたが、それでもサイバー犯罪対策課には就くこともなく数年は町の交番勤務に勤しんでいた。そんな篠原に転機が訪れたのが新設される異常課にスカウトされた時のこと。件の親戚というのが警察官僚の一人で篠原の技術に目を付けたことで今の立場に行き着いたのだった。
異常課で篠原がやることは多岐あれどそれらすべてがあくまでもサポート。そういう建前と気持ちの持ちようが彼の弱点を補うことに一役買っていることは誰も知らないと本人は思っているが、大抵の人にはなんとなく察されてしまっていた。
とはいえ疑いようのない篠原の技術によってものの数分で謎の人影が接続している場所の特定が為されたのだ。
念のために榊も篠原によって暴かれた情報を確認する。元々そこにミスはないと信じている彼女だがダブルチェックは欠かせない。さっと目を通してさらにその情報を彼女たちの上司である三雲の元へと転送した。
「三雲さん」
「わかっています」
すかさず手元の電話を繋ぐ。
「三雲です。至急この住所に捜査員を派遣してください」
今頃は指示と情報を受け取った警察の誰かが全速力で向かっていることだろう。
「さて。それではそろそろ」
「はい。進藤君、準備はいい? 実戦よ」
『わかりました』
榊の声を受けてすかさず進藤は返事をして気を引き締めた。
GM05Sを持つ手に自ずと力が入る。
「こちらの声は聞こえているな。お前を確保する。下手な抵抗はしないほうがいいぞ。抵抗した場合、こちらも実力を行使することになるからな」
距離を詰めながらそう告げる進藤だったが、人影はまたしてもリアクションを見せない。それどころか余裕綽々といった雰囲気がひしひしと伝わってくる。
仮想の世界は現実ではない。
仮想の体は実際の体ではない。
つまり、仮想の自分は自分ではない。
どこまで技術が進歩してリアリティを増したとしてもどこか他人事としてしか感じられないというのがVR技術の現実だった。
が、それはこのクローズネットでは通用しない。
原理は不明だがこの世界で受けたダメージは本物として認知してしまうのだ。クローズネットではバーチャルネットに大量に存在しているVRゲームにあるような痛覚遮断や痛覚軽減といった措置が全く機能していないのだ。
この世界で殴られれば、現実に戻っても殴られたような感覚が残り、痛みを感じる。
この世界で撃たれれば、中々そんな経験はないだろうが、実際に撃たれたように強烈な痛みを感じることだろう。
この世界で斬られれば、もし四肢が一つでも落とされてしまえば、喪失と痛みが襲いくる。
それをあの人影は理解しているのだろうか。
それとも知らないからこそ平然としているというのだろうか。
これまでの訓練で仮想世界であっても他人を傷つけることになるという事実を進藤は受け入れていた。GM05という装甲を纏い実動員となると決めて受けた数多の訓練の果て、殴った時に拳に残る感覚も、引いた引き金の感覚も、相手を斬り付けたときの感覚にも多少慣れてしまっていた。
それが良いことだなんて思わない。
けれど必要なことであると理解できる。
「くっ」
ゆっくりと距離を詰める先で突然人影が拳を振り上げて襲い掛かってきた。
格闘技の技術など見られないがむしゃらなパンチ。まるで叫んでいるかのように暗闇が覗く大口を開けて迫るその様子は自身の視界と同期したモニターで見ている人たちを驚かせるには十分だった。
進藤は冷静にその拳をガードする。
体の前に構えた左腕に鈍い痛みが走った。
「シャドーマン」
「何よそれ?」
「えっと、僕の子供の頃に流行ったんですけど、影の人間っていう未確認生命体です。それをモチーフにして色んなVRゲームに出てきたりしているんですけど、知りません?」
体裁きや動かし方が現実の人間とは違って見える影の存在が間隔を開けず続けざまにゆらりゆらりと攻撃を仕掛けてくる様子に篠原が零した言葉に合わせて親切にもその姿が映し出されている荒い画質の画像をモニターに表示した。
進藤と対峙している人影と画像のシャドーマン。確かによく似ている。
「いいわ。現時点からあの存在をシャドーマンと呼称。進藤君。特定できた場所には捜査員を既に向かわせているからさっさと倒してちゃって」
榊がシャドーマンを倒しても問題ないと伝えると進藤は遂に引き金を引いた。
撃ち出される弾丸はシャドーマンの体に命中すると同時に小さな爆発のようなものを引き起こす。着弾と同時に弾ける弾丸が繰り返し撃ち出されていく。
この時ようやく現実を理解したのか、よろめいて後退するシャドーマンは表情のはっきりしない顔で戸惑いと攻撃を止めてくれという懇願の意思を込めた表情を浮かべる。
モニター越しでは何となく表情らしきものが現れた程度にしかわからないが、至近距離で対峙している進藤にはその意思がはっきりと伝わってしまった。
シャドーマンと呼称することになった人影の向こうには当たり前に人がいる。現実ではないからと平然と行っていた犯罪行為も痛みという現実が襲い掛かったことで理解したのだろう。これで抵抗を止めておとなしくなってくれるかと進藤がGM05Sを下ろしたその刹那、モニターの向こうで大沢が「アホが!」と声を荒らげた。思わず振り返って後部座席にいる現実の進藤を見てすぐにモニターに視線を戻す。
GM05Sという明確な驚異が微かに弱まったその瞬間にシャドーマンが進藤を強く殴りつけた。
「うわっ」
顔を殴られ、腹を殴られ、たまらずに退いた進藤から逃げるようにシャドーマンが駆け出した。向かう先はこの空間の端。そこには虚空で渦巻く謎の穴がある。
「あれは…」
『進藤君。逃がさないで!』
「は、はい!」
走りながら銃口を向ける。
今度こそ躊躇しないで急所を狙い引き金を引いた。
ダンッダンッと二度の銃声が轟きシャドーマンの背中で弾ける。爆発の衝撃によろめき足を止めたシャドーマンに追いつき進藤はその背中に思い切り拳を振り下ろした。
硬い装甲に覆われた拳だ。その一撃は重いハンマーを叩きつけたも同然。シャドーマンは地面に叩き潰された蛙のように四肢を投げ出して倒れた。
うつ伏せに寝かされたシャドーマンを跨ぐように立ち、真下に銃口を向けるとジタバタと腕を動かしてどうにか脱出しようとするシャドーマンの胸の中心を撃った。
ここはゲームではない。
体力の残量を表わした数値など存在しないし、どれだけ攻撃を与えれば相手を倒せるなんて保障はない。だからこそこの世界での戦闘はある意味でより現実味を帯びている。相手を戦闘不能に追い込むには現実と同じくらいのダメージを与える必要があるというわけだ。
しかし相手が動かなくなるまで攻撃を続けるということは常人にとっては限りなく大きいストレスとなってしまう。それを補うのが道具であり、進藤にとっては纏っているGM05という装備だ。それにただ相手にダメージを与える弾丸を撃ち出すのならばわざわざGM05Sなどという特殊な拳銃を用意する必要はない。それが持つ最大にして最高の利点は撃ち出す弾丸を切り替えることができること。
引き金を引く前にGM05Sの銃身に触れる。そうすることで切り替わる衝撃弾ならばシャドーマンの動きを封じることができるはず。
ダンッ、ダンッ、ダンッっと三発もの衝撃弾が撃ち込まれ、シャドーマンは全身を痙攣させつつ、この場から消えた。
「榊さん。向こうはどうなってますか?」
消えたシャドーマンを見送っていた進藤の手の中からGM05Sが消えた。
『大丈夫。たった今、確保の連絡が来ましたよ』
答えたのは三雲だ。
『現実の彼には大きなダメージもなく、意識もはっきりしているみたいです。まあ、しばらくは自分の意志で動けないと思いますが』
強制的な脱力。
鈍く残る全身の痛み。
一瞬の意識の混濁。
大きな問題にはなっていないが、これらが犯人確保後の調査と検査によって判明したローカルネット内で受けたダメージの現実へのフィードバック。
これが生命を危ぶませることは論外だが、対象の逃走を阻むという意味では成功だと感じる人がいるのも間違いないが、やはり不用意に傷つけるべきではないという意見も根強く残った最初の実戦だった。