境界事変篇 03『クローズネット』
その日、始業時間になっても全ての自動ドアが開かないという事態に陥ってしまっている美術館があった。美術館といってもここは高額な絵画や彫刻の類は一切貯蔵されていない、あるのは町の郷土資料ばかりという、あえて称するのならば小さな町の歴史を残すための郷土博物館。ところが町の歴史などといっても過去に歴史的な建造物があったわけではないこの町では歴史の資料として残されているのは昔の本や手紙、地図などという紙の資料ばかり。しかしそれらもキチンと管理されてガラスケースに収まりライトアップされて展示されることで一端の美術品のようになっている。日々訪れる人の数は少ないが、少ないからこそ安全に付近の小中学校の遠足先として使われることが多いというのがこの美術館を知る人の評価だろう。
朝の九時。
ドアが開かない美術館の前には出勤してきたというのに施設に入ることができないと困った顔をしている数名の職員が建物の日陰に入りシステム管理を担当している会社の人間を待っていた。
およそ二十分後。揃いの作業服を着た二名の作業員がやってきた。これでようやくドアが開けられると喜ぶ美術館職員を余所に作業員二名は所持しているパソコンと睨み合い、焦ったような心底困惑したような表情を浮かべている。それもそのはず。作業員の男たちはいつものように既定の手順で自動ドアに掛けられたロックを外しているというのにかかわらずいっこうに自動ドアが開かないのだ。まるで内側から本来用いられているものとは異なる鍵で閉ざされてしまっているかのように。
十数分悩みながらロックを外そうと作業員たちが奮闘していると突然ガタンという音がして自動ドアが動いた。
何事もなかったかのようにいつも通りにドアが開かれたことで美術館職員たちはそれぞれ作業員にお礼を言いながら建物の中へと入っていく。が、持ってきたパソコンを片付けつつ釈然としない表情で互いの顔を見合わせる作業員たち。彼らにとっては自分の作業で自動ドアを開くことができたのか、それとも理由もなくドアが開いたのか判断することができなかったからだ。作業を終えた後に報告はしなければならない。それにより何らかの措置が講じられることもあるだろう。
しかしそれはまた別の話。こうしてまた事件でも事故でもない、そして故障ですらない異常が一つ生まれて消えたのだ。
「ここが通報があった店ですか?」
「そうだ」
昨今珍しくなってしまった小型のゲームセンター店の入り口に立ち進藤が問い掛ける。その隣には大沢が握りしめたハンカチで汗を拭いながら頷いていた。
「えっと、確か、設置しているゲーム機からお金が盗まれた事件でしたっけ」
「ああ。小銭ばかりといえど立派な窃盗事件。おれたちの出番ってわけだ」
「そうですね」
「今回連絡があったのは通報というよりはその新着状況がどうなっているのかの確認だったらしいがな」
「はぁ。でも、そういうことっていくら当事者でも話すわけにはいきませんよね?」
「まあな。ってもまるきり無視をするわけにはいかないからこうしておれらがやってきたというわけだ」
などと話す大沢に相槌を打ちながらも進藤はどこか釈然としない顔をしている。
大沢が今いる部署は生活安全課。進藤が元々いたのは刑事課。大都市ではなく田舎の警察署では部署の区分が曖昧になることも珍しくはないがそれでも異なる部署に所属する二人が担当することは稀というよりもほぼあり得ないこと。そのあり得ないと解消する理由は現時点で進藤が所属している部署が関係している。それは数か月前に新設された頻発しているシステムエラーを代表する事故事件に対応するための部署。名前は『異常事態対策課』。縮めて”異常課”などと揶揄されることもある部署だ。
「とりあえず店長に話を聞いてみるか。今日も出勤してきているんだよな?」
「そのはずです」
「わかった。行くぞ」
「はい」
自動ドアが開き店内へと足を踏み入れる。
ドアを隔てて外にいた時には意識するほどでもなかったが、一歩店内に入るとそれぞれのゲーム機から発せられる五月蠅いくらいの音楽が止めどなく押し寄せてきた。
「懐かしいな」
「大沢さんもこういうとこに通ったりしてたんですか?」
「そりゃあ、子供の頃はそれなりにな。まあ、使える金も少なかったら来てゲームで遊ぶというよりは友達と待ち合わせをして喋りながらたまにゲームをするって感じだったけどな」
「へぇ。大沢さんにも子供の頃があったんですね」
「当たり前だろうが」
目を細めて呟いた大沢とは対照的に進藤は物珍しいものを見るように店内を見回しながら奥へと進む。
最新鋭のゲーム機こそ無いが、修理を繰り返してきたことで今でも現役に動いているゲーム機がいくつも設置されていて、ここを好んで通っているのは昔を懐かしむ大人だけではなく、昨今のゲームよりも古いゲーム機だからこそ安価で物珍しさとシンプルな操作感が新鮮に感じられると近隣の子供が多い。
この店の店長の人柄と通う人たちの素性が比較的明らかとなっていることも合わせて、何かがあった時の子供の避難所として認定されているシールが店の一口に大きく張り出されていた。
「へぇ。ここではお菓子も売っているんですね」
「こりゃあ、菓子っていうよりも駄菓子だな」
店の奥にあるレジが置かれたカウンターの横にある商品棚には一つ数十円くらいの小さなお菓子が所狭しと陳列されている。近くには飲み物の自動販売機もあるが、小中学生くらいの子供にとっては駄菓子の棚の横に置かれている冷蔵庫に陳列されている割安のジュースの方が親しまれているのだろう。
「珍しいのか?」
「はぁ。こういうものにはあまり縁がなくて」
「なんだったら買ってやろうか? ほれ」
進藤が何気なしに掴んでいる駄菓子を見て大沢がにやりと笑って言った。パッケージに記されている値段は30円。一口サイズの小さなチョコ菓子だ。
「い、いりませんよ」
「そうか? そういうのもけっこう美味いもんだぞ」
「そうなんですか?」
「まあ、おれの時代だと一つ十円か二十円くらいだったけどな。それにもう少し大きかった気もするし」
棚に戻しかけて手を止めた進藤は親指と人差し指で摘まんだチョコ菓子を見た。
「かれこれ五年くらいまえからそのお菓子は今の大きさになっているんですよ」
などと言いながら姿を現したのはこの店の店主。オレンジ色のエプロンを着た大沢よりも少しだけ年齢が上の男性だ。
「し、失礼しました。あなたがこのゲームセンターの店主の方ですか?」
「尾立です」
「大沢です。こっちが…」
「進藤です」
「どうも」
大沢と進藤が自身の身分を記した警察手帳を広げて見せる。その代わりに尾立は自身の名刺を差し出していた。
「それでお金が盗まれた機械というのはどれなんです?」
「こっちです」
世間話など必要ないというようにさっそく本題に入った進藤に促された尾立が電源が落とされているゲーム機の元へと二人を案内した。それは百円を投下してクレーンを動かして中に入っている飴などのお菓子を獲得するもの。やはり大人が遊ぶ類のものというよりは子供に向けて置かれているもののようだ。
「最初の通報ではもう一つあったと聞きましたけど」
「それはあれですね」
「こっちは動いているみたいですが」
今もお客が遊ぼうとしている流行りのキャラクターのぬいぐるみが入れられているクレーンゲームだ。
「それは、その……うちの稼ぎ頭の一つなので」
「ああ、なるほど」
「駄目でしたか?」
「いえ、問題ないですよ」
決して潤沢な営業が為されているわけではない場末のゲームセンターで比較的稼働率の高い機械を動かさないわけにはならないようだ。
「あれだと指紋を取ったりはできないですよね」
「元々不特定多数の人間が遊ぶ機械だ。最初っから無数の指紋が付いている上にその一つ一つを検証するにしても膨大な労力が掛かってくるだろうからな。元よりあてにされていないから許可されたってことだろうさ」
「なるほど」
小声で話しかけてくる進藤に大沢は溜め息交じりに応えた。
次いで大沢が尾立に問い掛ける。
「もう一度話を聞かせてください。これらの機械からお金が盗まれたのはいつのことですか?」
「大体一週間ほど前ですね」
「その間に我々以外にも警察の人間が来ましたよね」
「はい。その時に、えっと、指紋採取って言うんですか。それをしてました」
「なるほど。では昨夜再度連絡してきたのはどうしてですか?」
「それは、まだ犯人が見つかっていないのか気になって」
「それだけですか?」
じっと見つめる大沢の目から逃れるように尾立が顔を背けた。
「もしかしてここからお金を盗んだ人に心当たりがあるのでは?」
「実は…」
尾立と大沢の話を聞きながら進藤は一度被害届が出されているにもかかわらず、警察が調べに来た数日後にはそれが引き下げられていたことを思い出した。一応の理由は開店から間もなくの犯行で被害額が少なかったこと。捜査のためにゲーム機を動かせないことが経営を圧迫するからとあった。しかしそれにしては犯人の発見が気になったから再度連絡してきたというのは妙な気がする。
進藤が黙って二人の話を聞いていると声を潜めた尾立がポツポツと話し始めた。
曰く、黙っていたが尾立には犯人の目ぼしは立っているということ。それは警察の人と一緒に監視カメラの映像を見た時のことだったらしい。今時珍しく画像が粗く一応録画しているだけという代物だが、見る人が見ればそれが誰なのか分かってしまったのだという。
それは常連の子供の犯行。
しかも特別悪さをするような人物ではなく、尾立が話を聞いた所、同級生に脅されてやらされたということだったらしい。盗んだお金も一円たりとも使われることはなく、あくまでも盗むという行為を強要されただけ。
尾立が一緒に子供の家に赴き事情を親に説明するとその時に子供は大変叱られたらしいが、盗まれたお金が手元に戻ってきたこと、考慮すべき事情があったこと、それから盗みを強要するような友達とは縁を切るべきだと説得したこと。なによりも子供自身が大粒の涙を流しながら誠心誠意謝ってきたことでこれ以上は大事にしないで片を付けることにしたのだという。被害届が取り下げられたのはそういう経緯があったというわけだ。
「普段から鍵は掛けられていたんですよね?」
それまで黙って話を聞いていた進藤がふと停止されているゲーム機のお金が貯まっているであろう場所を見て訊ねた。
「それは勿論。機械自体は古いものですけど、ここにあるものは全部改修されて最新の電子システムによって管理されているんです」
「だったらその子供は鍵を壊してお金を盗んだんですか?」
「それが、その子が言うには元から鍵が外れて蓋が開いていたっていうんです。実際鍵を壊された形跡もこじ開けられたような傷もなかったですし、そもそも子供の力で無理矢理開けられるような代物ではないですから」
「信じたと」
「というよりも他に説明が付きませんし」
「そうですね」
頷き尾立の言葉を肯定した進藤はしゃがんで硬く閉ざされているコインボックスの蓋に触れた。専用の鍵を差し込まない限り取っての代わりになるようなものさえなく、道具を用いらず素手で開けるのは限りなく困難のようだ。
「つまりあなたが連絡してきたのは犯人の確保は別にしてどうして鍵が開いていたのかを知りたいということですか?」
「……はい。すいません」
「いや、そういう事情なら納得しました」
目を伏せて謝る尾立に大沢は一度注意を促すも渋々理解を示していた。
それからしばらく動いていないゲーム機とにらめっこしてポツリと呟く。
「こいつは進藤の領分だろうな」
「みたいですね」
ポケットの中の携帯端末を取り出して、進藤はこの建物に繋がっているネットワークの調査を始めた。と言っても進藤が何かできるわけではない。その端末に入っている専用のアプリが自動的に様々な調査を行うだけだ。
「それが異常課で使っているアプリなのか?」
「はい。作成者曰く本家のサイバー対策課が使っているもの性能が良いもの、らしいです」
「で、どうだったんだ?」
「えっと、異常なネットワークは検出されませんでした」
「ほう」
「というよりもこの店が繋がっているのは”クローズネット”ですよね?」
何気ない進藤の問いに尾立が驚いたように目を丸くした。
「はい。そうです。で、でも、クローズネットに加入しているのはこの店だけじゃなくてこの辺の店の大半は加入していたと思います」
「何だそのクローズネットってのは?」
「現在世界各国で使われているグローバルネットと国内で広く使われているバーチャルネットはわかりますよね?」
「まあ、少しはな」
「グローバルネットが国際的に開かれたネットワークであるのに対してバーチャルネットは国内限定のネットワークです。で、クローズネットはそれよりも更に閉ざされたローカルネットワークシステムとしてリリースされたものです。ただし一般に流通するようなものではなくて、公的機関と大きな民間企業、他にはネットワークテストの目的で限られた地域にだけ公開されている代物です。開発者が言うには究極のローカルネットらしいです」
「あー、つまりどういうことだ?」
「簡単に言えば一般人はそのネットに繋げることは勿論、その存在を知ることさえもないものと考えて貰えればいいです」
「それがこんな場末のゲーセンにか」
「尾立さんが言うように限定地域対象のネットワークテストっていうことなんでしょう」
付近の店舗も加入しているという尾立の言葉通りならば進藤の話との齟齬はないと大沢が納得しかけたその直後、突然ピーっという音が大量のゲーム機の音に混じって聞こえてきた。
「この音は?」
「ゲーム機のコインボックスのロックが解除された音です」
「どの機械か分かりますか?」
「えっと、調べればすぐに」
「急いでお願いします」
「わかりました」
カウンターに置かれたパソコンを操作するために移動した尾立を見送った大沢の隣で進藤は自らのスマホで異常課に連絡を入れていた。神妙な面持ちで通話している進藤を余所に該当の機械に当たりを付けて戻ってきた尾立に連れられて大沢は入り口付近の機械の前にやってきた。
二人の大人が真剣な眼差しで腰を屈めて機械を観察しているという異様な光景にこのゲームセンターを訪れていた客たちが何事かと集まりだしている。
「あ、開いてます!」
ロックが外れたことで少し開かれた蓋を見つけて尾立が叫んだ。
慌てて駆け寄った大沢が「失礼」と断りそれを開ける。初めて見る機械の構造は一見するだけではわからないが、内部にある投下された硬貨を溜めておくためのコインボックスはすぐに見つけられた。
「確かにこんな感じだったなら盗むことも難しくはないかもな」
一番重要で一番困難な鍵を外すという工程が省かれているのだから子供でも容易ではあると納得できた。尾立に他の異常がないか確認してもらって蓋を閉じる。するとひとりでにロックが掛かりそれは硬く閉ざされてしまった。
「大沢さん!」
と名前を呼んで駆け寄ってきた進藤が自分のスマホを大沢に手渡した。進藤がスマホを耳に当てるようにジェスチャーすると大沢は繋がったままのスマホを自身の耳に当てる。
『私は異常事態対策課の榊です。貴方が大沢叶警部補ですね。今からそこのクローズネットの調査を行うので進藤君に協力してください』
「それは別に構いませんが」
『では、まずは貴方の車に向かってください。即座に進藤君はそこのクローズネットに接続。デバイスは携帯してる?』
「はい」
『よろしい。ダイブした後はこちらでもモニターしていますから何かあればこちらでも対処できるはずよ』
「わかりました」
そう言い残して榊との通話が切れる。
またしてもピーっと音がした。それも一つだけじゃない。続けざまに三つ、店内の至る所から。
「尾立さん。すぐにゲーム機の確認と再度ロックをしてください」
「は、はい」
「お客さん方はゲーム機に触れないように」
ぐるりと店内を見渡して大沢が声を張って指示を出す。
好奇心に駆られる子供はそれでもそれぞれのゲーム機に近づこうとしているが、店内にいる大人はすぐに大沢の意図を汲み壁際へと移動したり、ゲーム機とは関係のない先程駄菓子が売っていた場所へと移動していた。
進藤のスマホを本人に返して二人は店の駐車場に停めた車に戻っていく。尾立には何かあればすぐに来るようにと伝えて店を後にした。
数分もかけずに車に戻ると大沢は運転席に、進藤は後部座席に乗り込んだ。
「おれは何をすればいい?」
「大沢さんはここで僕の体を見守っていてください。知っていると思いますけどVR空間にダイブすると体は無防備になってしまいますから」
「わかった」
「では、行きます」
専用の機器を装備して進藤は浅く椅子に体を預ける。
「ダイブイン」
小さく呟き進藤の意識は体を離れて仮想空間へと赴く。システムによって繋がるのはグローバルネットでも国内用のバーチャルネットでもない。限られた地域だけ繋がっているクローズネット。
大多数の人間に向けられたものではなく、また商業向けでもない、件のネットワークが存在しているということそのものに価値があるそこは剥き出しのポリゴンによって作られた世界。
仮想世界で用いる進藤新本人の体ではなく、専用のデバイスによって使用可能となる仮想の肉体。
機械的な装甲を纏った状態で仮想世界に立つ進藤が目を開けるとその視界が大沢が持つパソコンの画面と榊たちがいる異常課のモニターに映し出された。