境界事変篇 02『プロローグ―後編―』
そこは使われていない倉庫を改造して作られた秘密の施設。
古めかしい建物の外観とは対照的に内部には最新の設備がこれでもかと導入されていて、さながらSF映画に出てくるどこかの研究室のよう。
最新鋭の電子機器が並ぶこの研究室には白衣を着た人とスーツ姿の人がそれぞれ異なる感じで忙しそうにしている。
服装の違う両者の割合は白衣を着た人が七割近く、残り二割がスーツ姿の人、一割はそれらに該当しない服を着ている。
驚くほど駆動音がしない各種電子機器では軒並み何かの作業が行われており、ここには現状誰一人として暇な人はいない――はずだった。
「遅い!」
何かしらの作業音とキーボードを打ち込む音、そして微かな話し声しかしなかった研究室に突然大きな声が轟いた。
思わず誰もがこの声の主の方を見る。そして声の主の顔を見て大半が”ああ”と納得の表情を浮かべているのだ。
「指定の時間はとっくに過ぎているだろう!」
そう近くにいる者に問い掛けるのは新品同様の白衣を着ている人が多い中、ほぼ唯一といっていいくらい着古した皺塗れ、謎の汚れがこびり付いている白衣を着ている女性。
背中まで伸ばされている黒髪は綺麗なウェーブを描いているが、それは毎朝綺麗にセットしているわけでも数日前に美容室に行ったわけでもなく、ただ髪を洗って乱雑に乾かしただけで天然の癖が強く出ているだけにすぎない。よく見れば寝ぐせもちらほらと見受けられるが、天然の癖毛のお陰で分かりにくくて助かっているというのが彼女の常日頃からの言い分だった。
「あの、少し遅れるって連絡があったと思うんですけど」
気弱そうな男性が十分ほど前に送られてきたメールを画面に出してノートパソコンの画面を見せた。
「わかっている。だから私は待っただろう?」
「まだ十分くらいしか経っていないんですよ?」
「十分だろう?」
心の底から疑問を感じている風に答えた女性に気弱そうな男性は困った顔をして言葉を詰まらせてしまう。
この気弱そうな男性。彼の格好はこの施設にいる人たちの中で最も割合が少ない特殊な制服に身を包んでいる人である。一見すると警察官の制服。しかし、現実彼が来ている制服と同型の制服を着ている警官はいない。つまりはこの施設で、それも限られた人員にのみ着ることが許された特別な衣装ということになる。
加えて驚いたことに女性もくたくたの白衣の下には同様の制服を着ている。
それがどういう意味を持つのか。
それを知るのはこの施設にいる人の大半であるが、それを大抵の市井の人は知らされることはない。
「まあまあ。もう少し待ちませんか? こちらに向かっているという連絡は来ているのですから」
彼らと同じ制服を着た老齢の男性がそう穏やかな声で話しかけてきた。
年齢の割には白髪一つなく、顔に皺も少ない。実年齢が六十間近とはいえ外見だけでは四十代にも見えないこともない男性だ。
髪を短く切り揃え、ピシッと来た制服には皺すら付いていない。
180後半という高身長に加えて、この年齢になってもまだ鍛え続けている肉体は無駄な脂肪一つないかのよう。
本人曰くそれでも年齢には勝てないと言い、掛けた眼鏡とは別に胸ポケットに入れているもう一つの眼鏡は老眼鏡だ。
人当たりがよく穏やかな笑みを浮かべている男を見た二人の表情はまるで違っていた。
「ですが…」
「三雲さーん」
不満を抑えきれない女性の横で気弱そうな男性が縋り付くような目で男をその名前を呼んだ。
「榊くんも。彼が到着する前にやるべきことがまだ残っているのではないですか?」
「それは…確かに……」
ばつが悪そうに視線を逸らす女性の机の上に雑に置かれている名札には”榊咲”とある。階級も所属も省かれているそれは、この施設では既存の肩書などまるで意味を成していないことを物語っていた。
それでも一応の上司部下という関係はある。それは責任の所在を明らかにするという意味もあるが、それよりも有事の際に意思系統を整然とするという目的の方が大きい。三雲という男性はこの二人にとって上司という位置付けになる。
男の胸元に付けられた名札には”三雲竜太”という名前と一緒に”GMリーダー”というこの施設における役職が記されていた。
気弱そうな男の胸元には”篠原尊”と記された名札。彼のそれには役職は何も記されていない。
「ほら、篠原くんも榊くんを手伝ってください」
「わかりました」
ぶつぶつと文句らしきものを呟きながらもものすごい速さでキーボードを叩く榊を補助すべく篠原はしぶしぶ自身に宛がわれたパソコンに向かった。
作業に取り掛かった二人の後姿をみて納得したように頷いて三雲はこの場を後にする。
それからさらに十分ほど時間は進み、一人の男が額に汗を浮かべて現れた。
男が着ているのは榊らと同じ制服。胸ポケットに掛けられた名札には”進藤新”と記されている。
「すいません! 遅くなりました」
「遅い!」
室内ということもあって最低限の小走りで駆け寄ってくる進藤にさっそく榊の檄が飛ぶ。
「すいません。道が混んでいて」
「言い訳しない!」
「はい!」
深々と頭を下げた進藤とそれを見下ろすように仁王立ちしている榊という光景を篠原がおろおろと眺めている。
「まあまあ。進藤くんの職場からここまでは距離がありますし、道路が渋滞していたのも本当みたいですから」
と自身のスマホで道路状況を確認しつつ助け舟を出したのは再度ここに戻ってきた三雲だった。それにより納得できないが納得したという顔をしている榊の横で小首を傾げている篠原が問い掛ける。
「こんな時間に渋滞なんて珍しくないですか? 何があったんですか?」
「どうやら自家用車同士の軽い衝突事故だったみたいだね。けが人は出なかったけど動かなくなった車を撤去するのに時間が掛かったみたいですよ」
「それってまた例の事故関連ですか?」
はっとしたように声を大にした篠原に三雲は腕を組みながら眉間に皺を寄せた。
「どうでしょうか? 事故車両のデータと事故のデータはこちらに来て解析されるかもしれませんが、運転ミスによる普通の事故ということも十分にあり得ますからね」
「なるほど。だからあっちが忙しくなっていたってわけですか」
「ええ。そのようです」
ちらりと榊が視線を送った先がほんの数分前から忙しなくなっている。常時忙しいと言えば忙しいこの施設で慌ただしくなるのは何かが起こったからというのがお決まりだ。
「まあ、あちらのことはあちらに任せて。私達は自分がなすべきことをするとしましょう。進藤くんも準備はできていますね?」
「は、はい!」
「だったらこれ」
力強く頷いた進藤に榊がスポーツサングラスを手渡した。
「それからこれも付けて」
加えて二つの細いスマートウォッチを両腕に付けるようにと指示を出す。
「実験室はいつでも使えます」
打って変わって真面目な声色で篠原が告げる。
「”イン”にはいつもの監視用のデバイスを使って」
「わかりました」
三雲に帯同されて進藤が向かったのは施設の奥にある小さな小部屋。そこには仰々しくも設置された特別仕様の椅子だけが置かれている。この椅子は座った者のバイタルを常時監視することが可能で、近い将来寝たきりの人や意識のない人の体調を正確に把握するという目的で導入が検討されている代物だ。
この小さな部屋に窓はあるが高所で外の光を取り込む以外の役割はない。
ある意味で外界から隔絶された部屋の中にある椅子に進藤が座ると自動で背もたれが倒れ、軽く寝転ぶような体制になった。
『進藤君。準備はいい?』
部屋の中に榊の声が響く。
壁に内蔵されたスピーカーを通して彼女の声が届けられ、部屋の内部の様子は天井にあるカメラにて外部のモニターに映し出されている。
「大丈夫です」
カメラに映る範囲、それでいて邪魔にならないように移動して壁際に立つ三雲の前で進藤が返事をした。
『クローズネットへのダイブインのタイミングを進藤さんに譲渡します』
「わかりました。カウント3で行きます」
『了解。カウントします。3…2…1…どうぞ』
「ダイブイン」
進藤がそう呟いた瞬間、彼の意識は彼の肉体を離れ仮想の世界にある仮想の肉体に宿る。
『進藤新。クローズネットにダイブ正常に移行しました。呼吸、脈拍、脳波、どれも正常値を維持しています。これならいつテストを開始しても大丈夫です』
篠原の言葉を聞き届けた三雲は部屋を出てそのまま榊がいる場所へと向かう。
仮想世界に作られた部屋は特別なオブジェクトなど一つもない、だだっ広いだけの空間。壁も床も天井もその全てがテクスチャが張られていないポリゴンが剥き出しの状態のまま。
この空間に立つ進藤の姿は首から下にマリンスポーツ用のウエットスーツのようなものを纏っている状態だった。
『戦闘用装備実体化します』
軽く手を広げて自然体に立つ進藤の体に機械的な装甲が纏わられていく。
装甲の展開は足元から順に上っていき、最後に頭全体を覆うフルフェイスのヘルメットが装備される。
西洋風の鎧を纏った騎士でも、鎧兜を装備した武者でもない。ある意味で現代的なパワードスーツを纏った進藤がそこに立っている。
『”GM05”正常に装着されました』
篠原のアナウンスの直後、進藤が軽く手を動かしたりして変化した自身の体の状態を確かめていた。
この時、進藤が纏った装備の形式名にあるGMはガードモデルの頭文字、05は完成した試作モデルの型番である。
一応の完成をみたという意味で四つもの前作があるが、このGM05が優れているのはその汎用性の高さ。装備そのものの個性をできるだけ排して、あくまでも身体能力の向上に重きを置いたことが正式採用に至った要因であった。
『進藤君。テストを始めるわよ』
「わかりました。いつでも大丈夫です」
榊がGM05を装備した進藤に声を掛けて篠原に目線で合図を送る。
『射撃訓練を開始します』
その瞬間、進藤の手の中に特殊な形状をした拳銃が出現した。GM05S。現実ではない仮想世界だからこそ弾丸の装填を必要としない、設定上弾切れなく撃ち続けられる代物である。
ピーっとブザーが鳴り、何もない壁から円盤状のターゲットが射出された。
素早くGM05Sを構えた進藤はターゲットに狙いを定めて引き金を引く。
撃ち出された弾丸を視認することはこの射撃訓練を見ている人にはできず、把握できているのはGM03を装備して身体能力を向上させている進藤自身くらいだった。
モニター越しに見ている人の目には発砲音と同時にターゲットが弾ける様しか映らない。それでも次々と撃ち出されていくそれが砕かれる様子に完成を上げる人が多く見られた。
「どうですかな、皆さん」
進藤が射撃を続けている最中、別のモニターに向けて三雲が問うた。
モニターの向こうにいるのはこの施設にいる人だけじゃない。関係している機関のお偉いさんが軒並み雁首揃えてこのテストを見守っているのだ。
三雲の問いに返ってきた声の多くを占めていたのは感嘆の言葉。
しかし中にはGM05に疑いを持つ人もいた。その中で特に声が大きい人が告げたのは性能が常識の範囲内に収まっていることに対する疑問という名の不満だった。
弾切れがないとはいえ何故普通の拳銃を使っているのか。
そもそもからして身体能力を高めるだけの代物に意味があるのか。
テストを見ている人は事前にある程度の説明を受けているはずなのにあえてその説明を理解していないような口ぶりで挑発するように言ってきたのだ。
そんな発言にあからさまな不満を態度に出したのが榊。彼女こそがこのGM05という代物を作成した当人であるからだ。ここで声を大に不満を漏らすことがなかったのは後ろに立つ三雲が彼女を宥めるように手元のメモ用紙に”落ち着け”と書いて寄越したからだった。
「事前に資料をお渡ししたように、仮想世界とはいえただ性能を高いものを装備すればいいというわけではないのです」
そう口火を切って説明を始めようとした三雲は次の言葉を作成者の榊に任せることにした。
バトンを渡された榊はニヤリと笑みを浮かべると頷きモニターを覗き込んだ。
そして指でピストルの形を作るとあらかじめサンプリングしてある銃声を轟かせた。
何事かと異口同音の怒号が飛ぶ。
へらへらと笑う榊はそれを無視して、
「人が持つ意識というものは仮想世界であっても現実世界であっても大きな違いはありません」
きっぱりと言い切った。
「仮想の肉体がどんなに強固なものであっても人は攻撃を受けると怯み、感じることがないとはいえ痛みを幻視する。進藤新のような人材であってもそれは変わりません」
尚も断言する榊の発言を受けてもなお不満を漏らすものは変わらずそれでもと返してくる。
「例えば決して傷付かない肉体。例えば拳一つで何物でも破壊できるような攻撃力。設定的な数値としてそれらを与えることは可能でしょう。しかし、それを当然のものであると。通常な己の肉体であると知覚することは限りなく困難です」
モニターの中にある進藤は連続して発射されているターゲットが複数になったことに動揺することもなく平静に撃ち落としていく。
「進藤さん。次のラッシュの後に格闘訓練に移行します」
『わかりました』
淡々と訓練の項目を進める篠原の言葉に進藤が応える。
すると左右の壁だけじゃなく床や天井から一斉にターゲットが撃ち出された。
GM05に組み込まれたサポートAIが的確に狙いを定め、進藤の射撃を支援する。
どれから狙うべきかGM05の指示のもと射抜いていくこと数秒。全てのターゲットが破壊され虚空に消えていった。
「疑似モンスター出現します」
GM05Sの銃口を下げて一瞬の休憩を取っていた進藤の眼前に人型のモンスターが出現した。それはゲーム【ARMS・ONLINE】に出現する人型モンスターを流用したもので云わば仮想敵の存在だ。
「進藤君。最初は素手で戦ってみてくれる?」
『了解です』
篠原がコマンドを打ち込むと人型モンスターは進藤に襲い掛かった。
格闘術などない、それでいて喧嘩でもない。モンスターという存在の身体能力に頼り切った力任せの攻撃だ。
それを進藤は身に着けた格闘術で対応していく。
ボクシング、空手、それに柔術。
趣味と実益を兼ねた結果を遺憾なく発揮して進藤は人型のモンスターを追い詰めていく。
これがゲームと違うのは進藤にも人型モンスターにも体力を示した数値がないこと。つまりは現実の格闘戦ように相手を戦闘に追い込む必要があるのだった。
もしこの時の進藤に一撃必殺の攻撃力があったら。確かにすぐに人型モンスターを葬ることができたかもしれない。しかし現実に沿った物理エンジンが搭載されているこの世界ではその攻撃による反動が己を傷付ける恐れがある。過剰な攻撃力は己を襲う諸刃の剣と化す場合がある。それが進藤の格闘を見ている榊が文句を言ってくる人たちに向けて発せられた言葉だった。
だが格闘では勝敗は決さない。
そのことを指摘されると次に榊は進藤に武器を使うように指示を出した。
「GM05B、GM05G、装備されました」
進藤が装備したのは剣と盾。
右手で盾を持ち、左手で剣を持ったその様はまさしく中世の騎士そのもの。しかしその盾は現代的な形をしており、剣は剣とは名ばかりの警棒のようなものだった。
進藤は人型モンスターの攻撃を盾で受けて返す刀で斬り付ける。
見た目では刃など付いていない剣GM05Bは人型モンスターの体を確かに斬り裂く。まるで不可視の刃が発生しているかのような切れ味だ。
『はあああっ!』
気合を入れて進藤はGM05Bを振り続ける。
現実ならば人型モンスターの体には無数の傷が付き大量の血が流れ出ていることだろう。しかし仮想世界では血は流れず、攻撃の度に特撮さながら火花が舞い散った。
繰り返された攻撃によって遂に人型モンスターは膝を折った。
そのまま仰向けに倒れた人型のモンスターは爆発したことで格闘訓練は終わりを告げた。
いつの間にかモニターの向こうの人に対する応答の役割は榊から三雲に戻り、榊は戦闘訓練を終えたばかりの進藤に「お疲れさま」と声を掛ける。
篠原のガイドのもと現実へと帰ってきた進藤を待っていたのは戦闘訓練を経た上での会議。相も変わらずモニターの向こうの人たちの対応している三雲を余所に始まったそれはどこか楽し気な雰囲気を持っていた。