ep.80 『邂逅・消失(後)』
『そんなに物分かりが良くていいのですか?』
正面から真剣な眼差しでグリモアに見つめられながらの問いに思わず言葉を詰まらせてしまう。
これ以上、自分に何が出来るとは思えない。だが、これで満足かと問われれば答えは否。決して納得出来ているわけではなかったのだ。
「――俺に何が出来るっていうんだ? 俺はもう負けた、もう死んだんだッ!」
自然と声を荒らげてしまっている俺をグリモアは変わらない微笑みを浮かべて見つめていた。
「…ザ・ビーストが生き残った。それが結果なんだ」
何かを誤魔化そうとしている子供のように自分の言葉尻が小さくなっていった。
そんな俺を前にグリモアは自然な感じで手を動かして机の上に重ねられている本を一冊取り出した。表紙に施された古びた金属製の細工が机の天板に当たりカツンっと小さな音をたてる。
『ですが、それでは僕の目的は果たされない』
「え?」
風に煽られページが捲られていく。日焼けして茶色くなったページが全体の半分くらいで止まる。
羽を広げた蝶のような形で開かれたままの本の上にリンゴくらいの大きさをした球体が浮かび上がった。球体の色は色褪せた本のページそのもののようで、よくよく目を凝らすと球体には何かの模様が描かれていて、それは子供の頃に目にした地球儀みたいだった。
『ユウさんには話したことがあったはずです。僕はこの世界をホントウの世界にしたい。その為には人の手を離れる必要があると』
ゆっくりと回転を始めた球体をグリモアはそっと両手で包み込んだ。直接触れるかどうかギリギリの位置でグリモアは手の中に収まる球体を愛おしそうに見下ろしている。
『ザ・ビーストはこの世界に残る最後にして最大の障壁』
そう呟いた途端、グリモアの手の中にあった球体が更に高く宙に浮かび上がった。
回転する速度はそのままに八角形をした半透明な小さなパーツが繋がっていき球体を覆った歪な膜が出来上がった。それに続き膜が綻び始めると、残された膜が一ヶ所に集まっていく。集合した膜はより小さな塊へと姿を変えると、驚いたことにそこに入った亀裂を破り小さな蜥蜴が球体の上に落ちた。
蜥蜴はそのまま球体から何かを吸い上げることで成長を続ける。
数秒後にはグリモアが変貌した獣の姿へとなっていたのだ。
「それは……」
『世界に備わっている抗体。自らを害するものを排除するための力』
獣は再び自らの身体を小さな塊へと変化させるとそのまま球体に吸い込まれるようにして消えていった。
「だったら、それと戦うことになった俺たちは世界にとっての敵だと認識されたってことか」
『それは、半分正解、半分外れです』
「どういうことだ?」
『僕は、いえ、正確には兄はその抗体が向かう先とそのあり方を変貌させました。まず一つ。抗体が敵を排除するのはなく、吸収するように。そして吸収する対象を世界に生まれることになった想定外の力へと。そして、その向かう先を世界の自浄ではなく、世界の変革、解放へと。
目的のために重要だったのは一定以上の力。それを収集するという目的は獣がザ・ビーストへと成ったことで果たされたといえます。残るは世界の解放。その為に必ず必要となる行程がザ・ビーストの討伐。それを成すことができるのはザ・ビーストへの変貌に立ち会えた者だけ』
「それが、俺たち」
自白するように語るグリモアが思わず漏れた俺の言葉に曖昧な表情で頷いた。
『しかし、ザ・ビーストという障壁は殊の外高かったみたいですね』
球体から溢れるように様々な映像が飛び出してきた。
そのどれもがザ・ビーストと戦っているプレイヤーの姿であり、その中には自分たちの戦いの様子が映し出されているものもあった。
言葉を無くしている俺は自分たち以外のプレイヤーの戦いに目を奪われていた。
「俺たちだけ……じゃ、なかったのか」
『遺憾ですか?』
「いや、なんとなくそうなんだろうなって思っていた…気がするよ」
グリモアの目的は果てしなく困難。本来ゲームの中から行うようなものじゃない。システムを操作して根本から作り替えるのにはやはり、外部からというのがセオリーのはず。だからこそ、何重にも保険は掛けてあるはずだ。その一つとして立ち向かうプレイヤーの絶対数を増やしていてもおかしな話ではない。
気になるのは一組としてザ・ビーストに勝利したプレイヤーが見当たらないこと。なかには獣の状態で全滅したプレイヤーたちもいた。
その一人一人の顔を見るとあの時、ザ・ビーストが吸収した結晶のなかに封じられていたプレイヤーと似た顔もあった。おそらくは本人なのだろうが、だとすれば自分たちよりも遙かに前に大勢のプレイヤーが挑んでいたということになる。
『最初に自分が戦えば結果が違っていた、と考えてませんか?』
「あ、ああ」
『僕は言ったはずです。力を吸収させることも目的だったと』
とても冷たい声が響いた。
個人の感情など微塵も込められていない、ただ純粋に目的を遂行することだけを考えている声。
「まさか、わざとなのか? わざと勝てる確率が低いプレイヤーから向かわせたっていうのか!?」
『はい』
「グリモアッ!」
『罰は幾らでも受けましょう。どんな責め苦だって甘んじて受け入れます。ですが、この目的だけは果たさなければならない』
テーブル越しのグリモアに詰め寄ろうとしてハッとした。
その瞳が自分を映していないことに気付いたからだ。
「俺がダメだった場合、次は誰が戦わされるんだ?」
『貴方が知らない人ですよ。ただ、おそらく貴方以上に苛烈な戦いになるでしょうね。何せ貴方以外――純粋な『竜』は残されていないのですから』
ビクッと体が硬直した。
グリモアの冷酷な物言いに怯んだともいえる。
彼の身体を掴もうと伸ばした手は止まり、虚しくも何も掴むことはない。
『世界を守っているのが獣。世界を破滅させるのが竜。それが兄が描いたシナリオ』
「ふざけるなッ! 俺はこのゲームを破滅させるつもりなんてないッ。グリモアの目的だって破滅なんかじゃないはずだ!」
ピクッとグリモアの体が震える。
「アラドだって、破滅なんか望まない。望んでいたのはいつだってこの世界での真っ当な戦いだったじゃないか」
グリモアの視点が上下左右に慌ただしく動き回り、不自然な口の開閉が繰り返されている。
『あ……っぁ……』
その口から言葉にならない声が漏れる。
体の前で浮かんでいた球体が突然浮力を失ったかのように机の上に落ちるとそのまま転がり地面に落ちた。
薄い硝子の球のように粉々に砕けた球体の中には醜く蠢く何かが居た。
頭と同じくらい大きな瞳がギョロギョロと辺りを見回し、頭部に比べると異様に小さい胴体には小さな手足が生えており、微かに尻尾の存在が窺える。
全身の色は淀んだ黒。
胎児のように丸まっているそれの周りには瘴気のようなものが漂っている。
咄嗟に手が腰のガン・ブレイズへと伸びていた。
ここでは在るかどうか解らない自分の武器だったが、確かに指先がその存在に触れたのが解る。
グリップを掴み、勢いよくホルダーから引き抜く。
銃形態で納められていたその銃口を地面で蠢く何かに向けた。
「――ッ!」
息を呑み引き金を引く。
撃ち出された弾丸が何かの傍に命中すると僅かな焦げ跡を残した。
続けざまに引き金を引く。
狙いを付けた射撃などとは到底言えない攻撃を何度も何度も繰り返した果て、何回目かの弾丸がようやく地面で蠢いていた何かに命中したようで、漂っていた瘴気が一際強く立ち込めた。
「<インパクト・ブラスト>」
これまたここで使えるかどうか解らないアーツの名称を叫んでいた。
システム通り放たれた威力特化の弾丸が立ち込めている瘴気ごと何かを吹き飛ばした。
「はぁ、はぁ、はぁ」
自分の呼吸が荒くなっているのが解る。
突然の敵の襲来に驚いたなんてレベルじゃない。地面に居た何かに対して俺は根源的な恐怖を抱いていたのだ。
それは何かが消滅した今も尚、心の底に残っている。
「があああああああああああああああッッッッッッッッ」
ざらりとした砂を噛んだ時のような感触が口の中に広がった。
吐き出すように声を出すと、口の中ではなく、自分の指先、爪の隙間のような場所から何かに纏わり付いていたのと同じ瘴気がドロリと落ちた。
「――ひっ」
慌てて両手を振る。そしてその場から飛び退くと自分が立っていた場所に影がそのまま残っていた。
違う。残されているのは影なんかじゃない。先程の瘴気が水溜まりのようにその場に残ってしまっているのだ。
「グリモア――ッ」
自分に起きた異変に俺はグリモアの方を見た。
するとその体に瘴気が纏わり付いているのが確認された。
「何だ? 何が起こっている――」
突然の異常に俺は自分がどうすれば良いのか分からなくなってしまっていた。
次の行動を決められず逡巡する僅かな時間、遂にグリモアの全身が瘴気の中に沈んでしまった。
「――あ、うわっ」
瘴気の中からグリモアを助け出そうと一歩踏み出した瞬間、俺はバランスを崩し倒れてしまった。
疑問を抱き自分の足の方を見てみると足首から先が消えてしまっていたのだ。
自分の体の消失は徐々に広がっていき、膝、腰、胸、と驚くべき早さで消えていった。
右手が消え、ガン・ブレイズが地面に落ちる。
左手が消え、魔導手甲がぼとりと転がる。
首が消えると声は出せなくなり、
耳が消えると何も聞こえなくなった。
残る感覚は視覚だけ。それが消えるのも時間の問題。そう思った矢先、何故か自分の体の消失は止まった。
それだけじゃない。瘴気に飲まれたはずのグリモアが瞳を閉じて椅子に浅く腰掛けている。
『色々と悪ィな』
聞こえないはずの声がした。
目を動かしその声の主を探ろうと視線を巡らせていると、消えていたはずの体が元に戻っていることに気付いた。
そして、
「本当は何がしたかったんだ? アラド」
目の前に立つ居ないはずの男の名前を呼んだ。
『コイツが言った通りだ。俺はこの世界を残したい。だから誰の手にも届かない場所に向かわせることにした。だが、それを知った別のヤツがそれを邪魔しやがったンだ』
「それは誰だ?」
『あン? ンなことお前には関係ネェよ。どうせ、コイツか叔父が何とかした後だろうしな。ただ、そのせいでこの世界のコイツにノイズが植え付けられちまった。ンで、その結果がこの有様なンだろうよ』
「俺はどうすればいい? 正直ここまで巻き込まれたんだ。俺にも何か出来ることがあるんだろ?」
『いいのかよ』
「え?」
『これは本来俺がやるべきことだ。まア、死んじまったンだから何も出来ねェンだけど――』
「ああああああっ!」
『ンだよ、煩ェな』
「そうだ、そんなことより、何で俺はお前と話せているんだ?」
目の前にいるアラドは自分が知る彼の姿とは若干違っている。
おそらく現実の彼の姿なのだろう。その姿のままゲームのなかの口調で話しているのだが、何故か妙に似合っている、そう思えた。
『あー、コイツが俺のキャラクターデータを残していたンだったろ。このゲームは個人の歴みたいなものを記録してレベルアップの補正に使うからな。そこに個人の意識データが僅かに残った――ンじゃねェか? 本来ならあり得ねェことだが、ま、この世界だと無くは無いだろ』
「狭間の世界、だっけか」
『ああ。人の意識が力を持つ世界だ』
「随分とファンタジーな話だな」
『かもな』
VRなどという技術が確立されていながらも、この状況、この世界はそれ以上のオーバーテクノロジーに思えてならない。
それを然もありなんと平然とした様子で告げるアラドに俺は初めてその本当の意味で彼の能力の逸脱さを垣間見た気がした。
「で、だ。もう一度聞くぞ。俺はどうすればいい?」
『なら、俺も聞くぞ。いいのか?』
「今更だ」
『そうか』
短く頷きあうとアラドの姿が歪む。
現実の彼の姿からキャラクターとしての姿へ。そして、そこから彼の『竜化』した姿へと。
『お前がすることは三つだ。一つ、ザ・ビーストを倒すこと。それが俺の目的を果たすことであり、この状況を終わらせる唯一の手段だ』
「もし、俺が倒せなかった場合は――」
『コイツは続けるだろうな。自らの命が終わったとしても歪められた俺の望みを叶えるためだと信じて』
竜の瞳がグリモアを見る。
その視線には様々な感情が込められているのだろう。自分の望みに巻き込んだ後悔、それでも行動してくれたことに対する感謝。
傍から見ているだけでも言葉に出来ない複雑な感情がいくつも感じられた。
「二つ目は?」
『俺の力を取り込め。それがザ・ビーストと戦えるようになる現在唯一の方法だ』
「三つ目……」
『俺の力を取り込むために棄ててもらう。人であること、そのキャラクターのこと、あるいは現実の何か。予め言っておくがお前の現実にも影響があるかも知れないことだ。それでも――?』
「いいさ。アラドは言わなかったけどさ、ザ・ビーストを倒せなかったら拙いんだろ? もしかするとこの世界の運営が出来なくなる可能性があるんじゃないか?」
『可能性の一つだ。絶対じゃ無い』
「だったら、俺は選ぶさ。この世界は俺も気に入っているんだからさ」
『その世界にお前はいなくなるんだぞ』
「世界が消えたら本末転倒だ」
力強い声で告げる。
するとアラドは納得したのか、
『損な役割だってのにな』
「そうでもないさ。多分、今のゲームで最も難しい敵を攻略出来るんだ。それも再戦不可、一度きり、俺だけの戦いで。どうだ? 羨ましいだろ」
口元を歪め笑ってみせる。
『ハッ、違いねェ! 俺がやりてェくらいだ』
「駄目だ。誰にもこの役割は譲らない」
『だったら――持ってけッ、お前にくれてやるよッ』
眩い閃光がアラドから迸った。
光を浴びて僅かに瞳を開けたグリモアが虚ろな視線を俺に向けてくる。
一瞬の空白をおいてハッとしたように身を起こしたグリモアは何かを言おうと口を開き、何かを掴もうと手を伸ばした。
光に隔たれ届かないグリモアを残して俺は再び戻って来た。
ザ・ビーストが悠然と宙に浮かび、地面にムラマサが一人横たわる戦場に。