ep.69 『混在する意思』
「人の手によって作られた物はいつか失ってしまうものだよ」
グリモアの話に対して冷静に、そして冷淡に答えたのはムラマサだった。
子供に物語を読み聞かせるかのように独白するグリモアがその最初の一言を発したのと同時にその手にある魔導書が開かれた。瞬間、グリモアの影が蠢き体の周りに纏わり付き始める。
生物のような動きをする影は遂にグリモアの体の全てを飲み込みその存在を変化させていた。
最初に訪れた変化はハルの巨人化のように体を大きくするもの。ハルとの違いはその顔に瞳が一つしか無かったこと。俗に『キュクロプス』と呼ばれる化生に酷似していた。しかし、その姿が窺えたのもほんの一瞬。次の瞬間には肉体のない骨だけになる。これは『スケルトン』というアンデッド系のモンスターそのもので、この姿でいたのもまた一瞬だった。
それから巨大な鳥の姿に、続けて虎に変わり、果ては動く巨木の姿になって、次いで小さな妖精のような姿へと。
影が膨張と収縮を繰り返し、変化が止まったのは僅か十数秒の後のこと。
重なる二つの存在が闇に内包されているかの如く、グリモアはその姿を変化させていたのだ。
通常時とは大きく異なる現在の姿はもうただの変化の域には収まらない。言うなれば変貌が相応しいだろう。
変貌を遂げたグリモアはムラマサの言葉を無視するかのように小さく呟いていた。
「ここまで『異質なモノ』を集めても、兄さんには届かない」
浮かぶ魔導書に添えられた手がゆっくりと握られていく。
指の一本一本が折り畳まれるその度にグリモアの手は平常なるそれと異質なるものが入れ替わるように見えた。
血の通った人の手と歪な骸骨の手。人よりも鋭く長い指はいったいどんな謂われが秘められているのか。
「神で在り悪魔でも在るもの。それこそが『竜』。清濁併せ呑む概念を有するからこそ、最も楔に相応しい」
鋭いグリモアの視線が俺を貫く。
「おらあああッ」
ドガンッと床に巨大なクレータができた。
巨人化したハルの拳が全力で打ち付けられたのだ。
けれどそれは元来床を砕くために振るわれたわけじゃない。変貌したグリモアを打ち抜くべくして繰り出されたものだ。それをグリモアがまるで幽霊かの如くふわりと浮かび回避したために床に当たってしまったというわけだ。
「さすがの力ですね」
「まだだッ」
「無駄です。そんな大振りの攻撃は当たりませんよ」
「チッ」
拳を下げて戦斧を振るうもそれすらグリモアは平然と回避してみせる。
続けざま二度の攻撃をノーダメージで終えたグリモアに突然刃が突きつけられた。
「もう、オレたちの言葉だけで止まるつもりはないんだね」
「そうですね。ここまでしてきたことが無駄になってしまいますから」
冷静なムラマサの問い掛けをグリモアが申し訳なさそうな笑みを浮かべて肯定する。
「ならば力尽くでも止めてみせるよ。<鬼化術・吹雪鬼>」
冷たい風が吹き荒れてムラマサを包む。
風を切るようにして現れたムラマサの額には三本の角。ムラマサが『鬼化』した姿だ。
「ふむ。『鬼』に『巨人』ですか。やはり……欲しいですね」
グリモアがそう独り言ちると、その全身が二重にぶれ、何も持たない空の手が広げられた。
「どうですか? 僕に皆さんの力を預けては貰えませんか?」
淡々と感情のない声でグリモアが聞いてきた。
しかし、俺たちはすぐに答えることが出来なかった。なんと言えば良いのか解らなかったからだ。
「この世界を残すことは皆さんにとっても悪い話じゃないでしょう?」
グリモアの目的が世界の維持ならば、それは決して悪いことだけじゃない。永遠とまではいかなくとも、長期間この世界で遊んでいられるのだから。けれど、グリモアはその永遠を望んでいる。それも人の手を離れ、真の世界として存在し続けることをだ。
荒唐無稽な夢物語。あるいはただの妄想話。そう取られてもおかしくも無いようなことをグリモアは真実として語っていたのだ。
「悪いけど、俺はグリモアの話は信じられない」
「どうしてですか?」
「そもそも、この世界が終わるなんてこと現実的じゃないだろ。確かに、仮想世界はいつ他人の手によって終焉を押しつけられるかはわからない。けど、それは当たり前のことじゃないか。それを回避しようとして他人の力を奪い続ける事が正しいことだなんて思えない」
「それはそうでしょう。僕は自分が正しいことをしている…だなんて一言も言っていたつもりはありませんよ」
「え?」
「この世界を残したいという願いも、その手段に今回のようなことを選んだのも、全部自分の意思。いえ、エゴなのは理解しています。だからこそ、ぶつかったからには全力で我を通すんです」
「そんなこと――」
「許されない、というんですか? 誰に? 運営に? 法に? 残念ながら法の設備は間に合っていません。それに運営の人には今回のこと知られていると思いますよ。存外抜け目のない人ですからね。その証拠に、ほら、さっき皆さんを襲ったじゃないですか。あれは僕の計画が進むことを妨害する目的があったと思いますよ。
ああ、直接僕を狙わないのは運営の権限を持つからといって手出しできないから、でしょうけど」
「アカウントが停止されないのか?」
「あれ? 言っていませんでしたっけ? 皆さんも同じですよ。今回のことに関係しているプレイヤーには総じてプロテクトが掛けられているんですから。運営だからとはいえそれを突破することはできません。どうしても突破しようとするのならこの世界の初期化すら考慮しないといけなくなります。まあ、そんなことさせるつもりはありませんけど」
最後冷たく言い放ったグリモアはうっすらと笑っていた。
俺が知る昔の無邪気な笑みを浮かべるグリモアでも、ここで再会する前の少しばかり遠慮がちな笑みとも違う。全てを見透かしているかのようで、それでいて全てを操っているかのような暗く歪んだ笑顔。それが今グリモアが向けている笑顔だ。
「そもそも、叔父はこうなることを気付いていたと思いますよ。兄が亡くなった時点でこの世界は人の手を離れることを。それでいてまだ人の手が届く場所に世界を留めようと必死になっているはずですから」
「そんな叔父さんをグリモアは見捨てるというのかい?」
「えっと、どうでしょう。実際ある程度の権限は運営側に残ると思いますよ。ただ、この世界そのものをどうこうすることは出来なくなるというだけで。でも、世界ってそういうものでしょう? 国や町はある程度人が操作することは出来ても世界そのものを操ることはできない。
自然の牙が向けられれば人に出来ることと言えば耐えることだけ。
根本的な破滅を迎えれば、人にそれから逃れる術はない。例えほんの一部が星から逃れることが出来るようになろうとも、この星を有する世界からは逃れられない」
「SFだな」
「ええ。僕もそう思います。けど、それが兄が思い描いていた世界なんです。明らかに人智を超えたもの。それが世界であると。森羅万象は人が見た一方の景色でしかないと。その物言いはどこかの宗教家みたいですが、そんな世界が作り出せれば、それは凄いことなのではないか。これが兄が最初にこの世界を構築したときに話してくれた言葉です」
兄の言葉を狂おしいまでに信じているグリモアはまさにその時のアラドの思いを現実にしようとしているようだ。
「僅か数十名の犠牲の果て。この世界は再誕します」
と、向けられた笑みはもう、人の物では無くなっていた。
仮面のように上から張り付いているのではなく、人としての仮面が剥がされ剥き出しになった本性が死神のような骸骨の顔で、妙に人間らしく笑っていたのだ。
『その影響が外部に出ないと何故言い切れる?』
突然第三者の声が響いた。
驚いて咄嗟に振り返ると、そこには先程自分たちが戦った同型のキャラクターが一体ピンッと背筋を伸ばして立っていた。
『ようやく、追いついたぞ』
「思っていたよりも時間が掛かりましたね。叔父さん」
『お前が外部と遮断するからだろうが。こっちはお前ほど突出した技術者がいるわけじゃないんだぞ』
「まったく、ちゃんとしてくださいよ。その有様だとこの世界を託すのに不安になってしまいますよ」
『生憎とお前ら兄弟みたいに天才じゃないんでな。ってか、本当にアレを実行していたとはな。何度報告を聞かされても信じたくはなかったんだがな』
「必要なこと、ですから。それに僕はちゃんと自分という存在を賭けていますよ」
『保護者の立場からすると、それすら止めたいもんなんだがな』
表情もなく、口もない、ただのっぺらぼうのようなキャラクターから出てくる声とグリモアは殊更親しげに話している。
この時だけは変貌してから感じて異様な空気もどこかに消えており、現実味のある人間がグリモアというキャラクターの向こうに見えた気がした。
「兄さんの夢でしたから」
『本人は叶わないだろうって言っていたぞ』
「まあ、プレイヤーとしては今のゲームに満足しているみたいでしたから」
『何故、と聞くのは野暮なんだろうな』
「僕の現実を知っている叔父さんだからこそ、認めてくれないと」
『俺は世間様から最悪に近い印象を持たれそうだがな』
「その辺は謝っておきますよ」
『で、お前のワガママに巻き込まれたのがそこに居る連中ってことか』
「はい。僕みたいな奴に目を付けられた不運な人達です」
『ったく、解って言っているんだか。おい、そこの三人』
突如声を掛けられた俺たちは戸惑いながらもその場で返事をした。
『無責任極まりないが、出来ればコイツを止めてやってくれ。それが俺の叔父としての願いだ。だが、もしコイツを止められなかった場合は俺が全ての責任ってやつを負うことになっているんだろうからな。そう気兼ねしなくていいぞ』
「ちょっと待ってください。貴方が一番最初に言った外部に対する影響っていうのは何なんですか?」
『あー、それかー。それはだな……』
「僕が言います。世界を自律させようというのなら、当然何もかもが従来通りというわけにはいきません。確実に多少の不具合は現われると思います」
「具体的には?」
「そうですね。一時的なネットワークの断絶か、あるいはこの世界と繋がっているデータの混乱か。あるいは類推するシステムの不調などですかね。どれか一つが起こったとしても、おそらく経済、生活において少なくない影響が出ると思いますよ」
「なっ!?」
「それを貴方は止めないっていうのかい?」
驚き絶句しているハルとは違いムラマサは現われたグリモアの叔父さんに静かに激昂した声をぶつけていた。
『何も出来ないっていうのが正確かな。何せウチの会社が誇っていた天才兄弟がその全てを賭けて実行していることだからね。こちらで出来ることと言えば大元であるサーバの電源を落とすくらいさ。けどね、それをするとコイツが言っていたことのいくつかは君たちの成否に関わらず現実出てくることになるんだ。だからそれをするのはちょっと現実的ではないかな。
それ以前にこの事態を正確に把握している人のほうが少ない上に、何故問題なのか理解していない人も多いんだ。何せコイツはこの世界の運営はこれまで通り此方任せ。言ってしまえばやろうとしていることはただのサーバの移転と同等だって上層部の連中に嘯いてしまったんだからね。
ま、何にしてもだ。つまり現状、これは世界の危機を防ぐための戦いではないが、世界の変革を賭けた戦いになってしまっているというわけさ。そして君たちは望まずともその最後の舞台に立ってしまっている。加えてその原因はこの兄弟などではなく、この世界にもたらされた“自律性”なんだろう?』
「はい」
『と、いうわけさ。だから俺はここで見ているから世界の命運を賭けた戦いってやつを初めてくれよ。アラドの遺志ってんなら俺もことの成り行きを見守る義務がある』
そういうとグリモアの叔父さんはゆっくりと壁の端の方へと歩いて行ってしまった。
「長々と中断して申し訳ありませんでした。では、続きを始めましょうか。この世界がどのような変革を望んでいるのか。それを知るためにも僕らは世界に身を捧げるんです」
狂気を孕んだグリモアの言葉が投げかけられた。
どうしてだろう。さっきからグリモアの言葉が少しずつ変異している気がしてならない。まるで何かに浸食されているかのようだとすら感じられてしまう。
大本はグリモアという個人であることは間違い無いだろう。しかし、その言葉の端々に、その行いの裏に、その瞳が見つめている先に、グリモアとは違う何かを見た気がした。