ep.29 『雲散霧消』
変貌を遂げた傀儡人形はその名を『レギオン』へと改めていた。
その名を見たときふと思い出していた。いったい何処だっただろう。何かの漫画か、何かのゲームか。俺の目に映るカタカナで表示されているレギオンという言葉には記憶の中にあるそれらでは『怨念集合体』のルビと同じだった。
まさに怨念という単語を現わしたような風貌のレギオンは全身を心臓のように脈動させている。鼓動を打つ度にその体の何処かしらが崩壊しそこから一段とどす黒い煙が立ちこめている。まるで吐き出された煙草の煙のように空へと昇り、次の瞬間にはレギオンの体が修復されていた。
どす黒い煙は風に浚われて消えることなく、レギオンの周囲に靄のようにして漂っている。
「くそっ。これじゃ近付くこともできない!」
今にも地団駄を踏みそうな勢いで言ったハルを傍に居たアラドが鼻で笑った。
「何だよ?」
「ハッ。いまさら毒にビビってンじゃねェよ」
状況は変わったようで変わっていない。
今も絶えず自分たちは毒の脅威に曝されたまま。
変貌を招くほどのダメージを与えることには成功しているものの、持久戦に耐えうるだけのポーションは残っていない。
「でも、私たちは近付かないと攻撃出来ないんだよ」
「だったら、こっちが死ぬ前にアレを倒せばいいだけだ」
竜の瞳がレギオンを捉える。
アラドの言い分は尤も。しかし、残っている解毒ポーションもHPの回復用のポーションの数も心許なくなった今、無謀とも言える突撃は憚られた。
「なンだ? オマエも動けねェってのか?」
顔の向きを変えること無くアラドが訊いてきた。
「いや、そんなことは無いさ。でも、ここまで来たんだ。多少慎重になるのは悪いコトじゃないだろ」
慎重、と言えば聞こえは良いが、この状況で動かないことを選ぶのならばそれはただの臆病だ。まるでそう言いたげなアラドの視線が突き刺さる。
「ならそこで見てろ」
前に出ることを躊躇する俺たちを置き去りにしてアラドがその背中の尾で地面を強く打ち付けた。
バンっという大きな音を伴って発生した衝撃波が大地を撫でる。
反動を利用して飛び上がったアラドは躊躇う素振りすら見せずにレギオンに向かっていった。
「<ガウスト・ハンド>」
レギオンよりも高く跳んだアラドがその両の手を大きく広げ振り抜いた。
背後から出現した黒い腕。それはアラドの影そのものであり、また、竜と化しているアラドが有するもう一つの武器でもあった。
無数の腕がレギオンの体を貪る。
掴み、引き裂き、貫かれるレギオンは悲鳴を上げること無く、不気味な唸り声を出したまま。黒い腕によって受けた損傷は瞬く間に修復されていく。
「効いていないのか?」
空中で繰り広げられている攻防を見上げているハルが戸惑いの混ざった声を漏らす。
「どうして毒を受けてない…の?」
驚いた顔をしているリタが言うように、アラドは時折黒い靄に包まれながらもその身に毒を受けることは無かった。
「チッ」
一回の攻撃は終わり、アラドは虚空を叩き方向転換すると俺たちの近くに着地した。
攻撃を受けたレギオンは全身を蠢かしながらも自身を修復させている。その際、レギオンの体から粘性の高い黒色の液体が真下に滴り落ちていた。
コールタールのような色をした水溜まりから広範囲に靄が広がる。
言葉を掛け合うよりも早く、俺たちはその靄から離れるべく数歩後ろに下がった。
「毒じゃないのに避ける必要があるのか?」
「これもある意味毒みたいなものなのよ。多分ね」
いち早く察知したリタは納得していない顔をしているハルにはっきりと言ってのけた。
「そうなんでしょ? アラドくん」
確信しながらも確認するように問うリタにアラドは鼻を鳴らして応える。
「やっぱり」
「それってどういうことなんだ?」
「多分だけど、この靄は毒を与えるためじゃなくて、触れたプレイヤーのパラメータを下げる効果があるんだと思う。そうじゃなきゃ、アラドくんのアーツを受けて平然としてないはずだし、全弾命中したのに与えたダメージが少なすぎるもの」
正解だと言うようにアラドが僅かに頷いた。
「だから今まで見たいな直接的な被害は無さそうなんだけど……」
「代わりに戦闘自体の難度が上がったって感じか」
「…うん」
変化したレギオンと変化する前の傀儡人形。どちらの方が戦いやすいかという明確な答えは無いが、現状を鑑みれば変化した後の方が好ましいのかもしれない。
「腹決めたみてェだな」
「ああ。一気に叩く。そのために……≪ソウル・ブースト≫」
出現した魔方陣が俺の体を透過する。
変化したレギオンの如く、俺の体も変化していく。
それは、今のアラドの姿に似た姿。
黒と赤の鎧を纏った人型の竜。それが今の自分の姿だ。
「全員で行くぞ!」
やはり先陣を切ったのはアラド。それに続くのは俺。それからハルとリタが並んで攻撃を仕掛ける。
迎撃ともつかない反撃を繰り出すレギオンの初撃はより濃い黒い靄の発生。
数え切れないほどの手足は伸縮を繰り返しては近付く人を阻害しようと蠢く。けれど所詮は鈍重な動きでしかない。空中にいるとはいえアラドは簡単に且つ的確にそれを回避してみせている。
「喰らいやがれ! <ガウスト・ハンド>」
再び無数の黒色の腕がアラドの両手から伸びる。
その腕がレギオンを捉えると今度も確実に掴み引き裂いていった。
「くっ、これが弱体化か。毒よりは直接的じゃないにしても堪えるものがあるな」
竜化してパラメータが上昇しているはずなのに黒い靄に触れた途端、体が重くなった。それこそ竜化する前よりも遙かに重く感じられる程だ。
それが弱体化の効果なのだとすれば、毒とは違う危険を孕んでいることは明白。
全てのパラメータが減少するということを前提とした立ち振る舞いを念頭に、レギオンとの戦闘を組み立てる。
「<爆斧>!」
「<轟断炎>」
タイミングを合わせたハルとリタのアーツが種類の違う炎を発生させる。
ハルの戦斧は爆発を伴った炎。リタの大剣からは凄まじい火柱がレギオンを下から燃やし焦がす。
「<インパクト・ブラスト>」
ガン・ブレイズを銃形態に変え、すかさずアーツを発動させる。
撃ち出される弾丸は的確にレギオンの体に風穴を開けた。
「ん? 何か変な感じだ」
ちゃんとしたダメージを与えられた。そう思わせる光景だった。
体に穴を開けて、下の方からその身を焦がし、無数の腕によって引き裂かれている。
だというのに平然というにはあまりにもな様相を呈しているが、レギオンはそれまでと変わらぬ様子で自分たちと対峙している。
俺たちの攻撃が止んだ時、レギオンが自らその身を掴んだ。
短かったり長かったり、真っ直ぐだったりひん曲がっていたりするいくつもの腕でいくつもの顔が付いている体にいくつもの爪痕を刻み付ける。
ボタッボタッと音を立てて投げ捨てられるレギオンの肉片。
千切った端から直ぐさま修復されていく体に反して無数の手の中にある肉片はそのまま。いや、掴み取った時よりも肥大して今や野球のボールくらいの大きさになっている。
狙いを定めることも無く、無造作に投げ捨てられるレギオンの肉片は地面にぶつかると赤黒い液体を撒き散らしながら爆発した。
放射線状に広がる赤黒い染みを避けながら、俺たちは再びアーツを発動させて攻撃を行った。
爆発に加えて炎が起こり、閃光が貫き黒い腕がレギオンを貪る。
同じ技、同じ攻撃でも与えられるダメージまで同じとは限らない。
今も黒い靄に曝されて自分のパラメータを下げられてしまっている。一度減少した数値から更にもう一段階低い数値へ。
防御力の低下は死に直結し、攻撃力の低下は勝利を遠のかせて、機動力の減少が危機を招く。
おおよそ全てのパラメータが減っているという実感が自然と焦りを抱かせた。
「どうするんだ? このままだと俺たちは――」
負けると言わなかったのは言葉にすることでそれが現実になってしまうことを忌避したからか。
「わかってる。けど、攻撃するしかないだろ」
「効いているようには見えないんだけど!」
「それでもやるの!」
珍しく弱気になるハルにリタが発破を掛ける。
そんな俺たちを尻目にアラドが懸命に攻撃を仕掛け続けた。
「これでいけるのか?」
重くなる体。
あからさまに武器の威力が弱まり、鎧越しでも伝わってくる自身の防御力の低下具合。
これまでに感じたことのない不安が押し寄せてくるが、それでいて戦意だけは損なうまいと気を引き締める。
変化が乏しいこの戦闘における最後の攻防の始まりを告げる号砲はアラドの必殺技の宣言だった。
レギオンが纏う黒い靄を出現させた黒い腕による集中攻撃によって強引に突き破り、強引に取り付いた。
両手の爪を立てて、爪先を突き刺す。
背中の尾で空気を叩き、自らの体を金鎚で打ち付ける釘のようにしてレギオンに固定する。
「<デモリッシュ・オーバー>」
アラドが竜化して放つ必殺技だ。
両手から放たれる純粋な破壊の衝撃波がレギオンの体を透過して波紋が波打つ。
空中に浮遊したままであるレギオンがその衝撃波に押され、徐々に後退していく。
「オラアアァ!」
波紋を挟んで向かい合うアラドが気合いを込めた叫びを上げる。
後退を続けていたレギオンがゆっくりと硬度を下げた。
「今だ、リタ!」
「ええ!」
地上に近付くレギオンに向かい、ハルとリタがそれぞれの武器を構える。
「<爆砕斧>」
「<轟断轟炎>」
発動にかかるタイムロスを考慮したらしく、ハルとリタは必殺技ではなく普段使っているアーツの上位版を繰り出していた。
一際大きな爆発とメラメラと燃える巨大な炎の刃がレギオンを襲う。
炎が背後から、前面はアラドが放ち続ける衝撃波。
二つの攻撃を同時に受けてレギオンの体からは血のように黒い靄が拭き出していた。
「ユウ!」
それは誰の声だったか。
爆発やいくつもの攻撃音に混ざってはっきりとは聞き取れなかった。しかし、自分を呼ぶ声だということだけは分かった。
「任せろ! <ブレイキング・バースト>!」
俺の必殺技を放つ。
ガン・ブレイズの銃口から放たれる二色の光線。
赤と黒が混じり合うそれがレギオンの体を真っ直ぐ貫いた。
光がゆっくりと消えていく。
そして、次の瞬間、全くの無音を伴う静寂を破るたった一つの破滅が訪れた。
レギオンの肉体が宙に浮かび円形の衝撃波を発しながら崩壊したのだ。
「ふぃ。終わったみたいだな」
黒い靄がその衝撃波によって晴らされて、空には雲一つ無い青空が広がっていた。