一月二十五日 8 祈り
つづき。
○
会長が倒れた俺を置いて、すたすたと先を歩いていく。その手には、無骨な特殊警棒。電離された空気が鳴らすバチバチという音が聞こえてくることから、その警棒が帯電していることが知れた。スタンロッド――さっきの衝撃は、それか。
遠い月、巨大な観覧車、童話の城。折しもここは、遊園地の中心部に位置するメインストリートだ。四車線は確保できる広い道を今は、会長がただ一人、悠然と歩く。――いや、
道の先に、幽鬼のような黒い影が蠢いている。
月光を背にしているので、その明瞭な姿は分からない。けれど俺の脳髄は、朧けな輪郭からだけでも、その人物を判断する。そうできた。反復学習によって構築された、視覚の特殊回路。自分にとって特別な人間だけに用意されるそれの、彼女も一員だったから。
荊原――ゆうひ。
もう、来ていたのか。
照射された光を全て、そのまま弾き返してでもいるかのような漆黒の瞳。冴え冴えとした月光を帯びて、銀色に輝く長髪。その姿は幻想的というほかなかった。そんな彼女に握られているから、右手の厚いハンティング・ナイフも、どこか肉を斬るという本来の用途からは遠く、綺麗な物のように思える。
しかし、そんなファンタジーな雰囲気の中に、華奢な体の中に、確かにある。阿修羅のような怒気。あるいは狂気か。抜き身の刀と言う形容が、ふと俺の頭の中に浮かんだ。なるほど。これほど今の荊原を的確に表現できる言葉は、ないな。
「――」
「――」
二人はお互いの姿を認めると、お互いの殺意を認めると、どちらからともなく、走り出した。お互い、この瞬間を待ち侘びていたのだ。一方は殺したくて仕方なく、一方は死にたくて仕方なく。言葉をかわす暇さえ惜しい。もう一秒だって待てない。俺は二人の焦りのようなものを感じる――
くそおッ!
電撃に打たれたせいで、体がまるで自分の物じゃないみたいに動かない。結局どうしようもないって言うのか! 運命は変えられないのか! 俺は神とか運命とか、そんなものに弄ばれるだけの存在なのか! 違うはずだ。違う。全てが予め決まっているって言うなら、なんで生きている!? なぜ、ある? 俺の意思は! 意味があるはずだ、価値があるはずだ! 動け動け動け動け動け動け動け動け動け動け動けッ! 今動かなかったら、『俺』の意味がないんだよッ!
クソッ!
クソォぉおおぉおおおおおおおッ!
――けれど、いくら想っても、体は動かなかった。
というか、今更動いたところで、遥か遠くにいる二人に追いつけるはずもない。
それに気づくと、笑えてきた。はははははははっ!
――はははははははっ
結局、
――はははははははっ
駄目なんじゃないか。
――はははははははっ
何も変えられない。『俺』なんて存在に、やっぱり、意味なんてなかった。
やっぱり――
「――あるわよ?」
なんだと?
すぐそばで、声がした。首が動かないので見ることはできないが、この声は――
「お前が動かなければ、私は今確実にこんなところにいなかったわ。だから、意味はあったわよ」
「あばひゅっ!?」
「言えてないわよ。はぁ、全く締まらないわね。お前はいつもそう。最後の詰めが甘い」
やれやれだわ、と呑気に肩をすくめて見せるアマツ。おい馬鹿お前、さすがに今そんな状況じゃないんだぞ! 動けるなら早く――
「ふ……、言われずとも分かっているわよ愚弟」
俺の心を読んで、アマツは。
「安心なさい。今私の貴重な時間と労力を生贄に――特殊召喚っ!」
ずびし、と彼方を指さして、叫んだ。
「行きなさい! DQNっ!」
「DQNじゃねぇええええっつてんだろぉおおおあああああ!」
獅子咆哮。今まさに、激突する瞬間の二人の脇から一つの影が躍り出る。――彰だ! 彰は獲物にとびかかる豹のような、しなやかな獰猛さで二人の間に割って入り、会長が振り下ろす警棒を掌で受け、掴み――荊原が斬りかかるナイフを、その長い脚を鞭のようにしならせ、叩き落とす。二人を同時に――止めるなんて。あまりに鮮やかな手並みに、俺は一時現実感を喪失してしまう。それはそんな超人的技巧。やった! これで――
――いや、まだだ!
「彰ッ!」
やっと電撃の痺れが切れた。俺は急いで駆け寄りながら言葉を発する。あの警棒は、打突するだけの道具じゃない。高圧電流を流すことが可能な、スタンロッド。掌で受けては――
けれど、俺の心配は杞憂に終わった。
グシッ、と鈍い音が響く。それはスタンロッドの悲鳴だ。夜を統べる皇帝の握撃は、その鉄柱をまるで木の棒ででもあるかのように、叩き折った。恐ろしい……さっきも思ったが、このお方人間じゃねぇ……。
「は、ハハ……なんだい、これ。ありえないでしょう」
会長が呆然と呟いた。
「――はぁっ、それに関しては、全く同感ですね」
会長に追いついて、俺は言う。でも、いかに信じ難くても、これが現実だ。
「貴方の――負けです会長」
会長はゆっくりとこちらを振り返る。力なく、笑っていた。
「悔しいが、そうみたいだね。でもま、しょうがないかぁ。どうやら、毎度死に損なうのが僕の運命らしい」
「違います」
「違う?」
「はい。これは運命なんかじゃない。俺が望んだ、世界です」
「……」
会長は、ニヤリと笑った。いつもの、会長らしい顔。
「ははは! なんたるキザったらしい台詞だろうね!」
茶化されて、俺の顔がほんのりと羞恥に染まり始める頃。
快活な笑いと共に会長は、
「でも――最高に格好いいよ。流石は僕のソウル・ブラザー」
満足気に、そう言った。照れくさいけれど、俺は最高に嬉しかった。
全てが今度こそ、終わった。誰もが安堵した、その時、
気づいたのはアマツだけだった。
「蒼司ッ!」
アマツが切迫した叫び声を挙げる。それに、俺の脊髄が自動的に反応した。一気に限界まで五感を研ぎすまして、警戒態勢を取る。途端に全てがスローモーションになった。
――彰も少し反応したようだが、あれでは足りない。なにせアマツが『叫んだ』のだ。あの常に余裕を湛えていて、常に全てを見知っているような、超然とした態度を取るアマツが、余裕もへったくれもなく、打算も、含みもなしで、叫んだのだ。この事態は、一手のミスで人が死んだり生きたりする局面でもなければ、ありえない――。
――俺は見る。正面、荊原が何かを構えている。彰は荊原と俺達の間に距離があり、その間に自分が入っているので油断していた。その僅かな隙、荊原の武器はナイフ、近接攻撃しかしないという思い込みが、この危機を生じさせた。
――クロスボウ。
荊原が構えているのはそれ。素人にも扱いやすく、しかもその威力は甲冑を突き破るほど強力。荊原は奥の手を隠し持っていたのだ。どうする? 声を挙げて彰に気づかせるか――間に合わない。気づいたところで、どうしようもない。微細な筋肉の振動。眼には自信がある。荊原は、撃つ。狙いは会長の心臓部か。
――撃った!
いや、でも、これなら――追える! 矢を掴むか? いや、目では追えても、体の反射がとても追いつかない。くそっ! ここまできて、やらせるかよ! 会長は死なせない。荊原を殺人者になんて――させない! こうなったら!
俺は最小の動作で、射線上に躍り込んだ。確実に直撃するコース。急所を避けるなんて余裕はない。
――くっそぉ、くじ運頼む!
ぶすっ、と嫌な音がした。
初めての感覚だった。身体の中に、鋭く冷たい何かが押し入ってくる感覚。血が逆流して、口から溢れる。何かを吐き戻している時のように、感情とは関係なく涙が滲んだ。
「あ、あ、あ、あ、ああああああああああああああああああああああああああぁッ!」
……。
深々として澄んで、蒼白い月夜に君が泣く。
だから俺の最後の意識は――祈りになった。
どうか神様、
もう彼女を泣かせないで。




