始まりの朝
けたたましいアラーム音が、部屋の中に響き渡った。
枕下の時計を止めて、扇野翼は目を覚ます。
今朝の目覚めはあまりよくない。窓から差し込む陽光に目を細め、翼は布団から起き上がった。
洗面所で顔を洗うために、翼は自室を後にする。
襖を開けて廊下に出れば目の前には縁側がある。ふと視線を下に向けると、縁側に腰掛けて庭の景色を眺めている少女の姿が目に入った。
「おはよう、椿」
声を掛けると、少女はセミロングの髪をふわりと揺らし、翼の方へと振り向いた。
「あ、おはよう翼兄! 今日は少しお寝坊さんなんだね!」
腰を上げてこちらへ小走りで近づいてくるその姿に、翼は微笑を浮かべて頷く。
「ああ、昨日は親父と夜遅くまで話をしていたんだ」
「どんな話をしてたの?」
「まあ、色々だよ」
「ふーん?」
どうやら翼の説明に納得していないみたいだ。それだけ? と言いたげに椿は翼を見上げる。
「私には話してくれないの?」
「……ちょっと、話せることじゃないな」
苦笑を浮かべながら答えると、椿は合点がいったと言わんばかりに、ぽんと手のひらを合わせる。
「分かった! 男同士でえっちな話でもしてたんでしょ!」
「……何が悲しくて親父とそんな話をしなくちゃいけないんだ」
思春期だなと思いつつ、翼は軽く椿の頭を叩いた。
「椿はもう学校だろ? そろそろ仕度しないと遅れるぞ」
「分かってる。翼兄もあんまりゆっくりしてたら駄目だからね!」
小走りで廊下を駆けていく妹の姿を眺め、しばらくして翼は反対方向へと歩を進め始めた。
七時に家を出る椿に合わせて朝ご飯が用意されるため、家族の中で一番起きるのが遅い翼は、必然的に朝食を一人で食べる事になる。
三十分程度早く起きれば家族揃って食事をするのも可能だが、高校生にとって三十分睡眠時間が多いか少ないかで大分寝起きも違ってくるので、家族には悪いが睡眠を優先させてもらっている。
鳥のさえずる声を聞きながら襖を開け、居間へ足を踏み入れると、食事の準備をしていた一人の女性と目が合った。
「おはようございます。翼様」
お手本のような一礼をして微笑みかけてきたその女性は扇野家専属の仕いである志士屋夏帆だ。
専属の仕いと言われれば、まるで長年扇野家に仕えているように感じられるかもしれないが、彼女がこの家に身を捧げたのは六年前の事だ。その時の夏帆の年齢は十二歳。当時の翼は十歳だったから、年齢も対して変わらない。
幼かった彼女がこの家に仕える事となった経緯は分からないが、年齢が近かったのもあって、二人の関係は主君と従者というより、同年代の友人という感覚に近い。
まあ、だからと言って夏帆が家の者に対して敬称を付け忘れるという事はない。それはそれとして、翼も夏帆も割り切っている。
今日も変わらず様付けで挨拶をされ、翼は夏帆へ微笑を返しながら朝の挨拶をした。
「いつも親父達と分けて作ってくれているけど、別に作ったやつをそのままテーブルに置いておいてくれればいいんだぞ? それならお前に手間が掛からないし」
他の家族より遅く朝食を取る翼に合わせて、夏帆はいつも出来たての朝食を出してくれる。温かいお米やおかずを食べられるのは嬉しいが、夏帆に手間を掛けさせてしまうのは何だか申し訳ない。
「いえ。料理は私の趣味なので手間などと思っていませんよ。それに、翼様には少しでもおいしく頂いてほしいので」
「……そうか。なら、ありがたく頂くよ」
椅子を引いて腰を下ろし、箸を手に卵焼きをそっと口に運ぶ。卵をかき混ぜる段階で少量加えられた醤油の風味とふわふわとした食感が口の中に広がっていく。
味噌汁も申し分ない味だ。ご飯に思わず手が伸びる味付けが施されたおかずに対して、翼は自然に「美味い」と呟いていた。
その言葉を聞いて笑みを滲ませた夏帆は、翼の元から離れて台所で食器を洗い始める。
しばらくの間、水の流れる音と食器を洗う音だけが居間に木霊する。黙々と料理を口に運んでいた翼は、不意に夏帆の方へと視線を向けた。
「夏帆、親父は食事を終えた後、どこに行った?」
間を持たせるための質問というわけではない。ただ純粋に、翼は彼の父がどこにいるのかが気になった。
丁度皿洗いが終わったのか、夏帆は水を止めてタオルで手を拭き、振り返る。
「蓮哉様は食事を終えた後、離れに向かわれました。蓮哉様への言伝があるのでしたら、私が伝えさせていただきますが?」
「……いや、なんでもない。ただ何となくだよ。ごちそうさま」
翼は席から立ち上がり、そのまま居間の出口へと向かう。後ろから夏帆の視線を感じていたが、その感覚はすぐに消えた。
身支度を済ませ、これから学校へ行こうと玄関へ向かっていると、窓の外にある離れが視界に入った。
扇野家はそれなりに敷地が広い。それに入り口が門のようになっているのと、庭が無駄に大きい事から、この近辺でこの家は扇野屋敷と呼ばれている。
この家が建てられたのは数十年前。窓の外に見える離れも、その頃から存在しているものらしく、壁の外壁などは木の板が所々剥がれていたりする。
親父は今、あの中で何をやっているのだろうか?
興味という感情が芽生え始めた所で翼は首を横に振る。昨日の事があった後で、すぐに親父と顔を合わせる気にはなれない。
気付かぬ内に止まっていた歩みを再開させ、翼は玄関で靴を履き、誰に言うでもなく「行ってきます」と言って外に出た。