第十幕:月が出た夜
長安で皇帝の后達が住む後宮。
そこは皇帝以外の男子は出入りが禁止されており、もし入るとなれば男の一物を切り、宦官にならなくてはならない。
しかし、長安に宦官は居ない・・・・いや、居るには居るが決して後宮には入れなかったのだ。
ここ長安を治めているのは皇帝ではない。
居るには居るが、実権などは辺境の一将軍である董卓が握っている。
その董卓は後宮に居る天の姫に、この上なく執着しており誰にも会わせようとしない。
ある意味、自分が天の姫を手中に収めている、と内外部に知らしめているのかもしれないが、彼の事を見た者は違う、と言うだろう。
手中に収めた、とは文字通り手の中に収めた---つまり、手籠めにした。
と言えるが、董卓は天の姫に一度だけ触れたのみで、他は指一本触れていない。
声こそ掛けたりしたが、天の姫に手を上げた事もないし、自分の考えを押し付けたりしていないのだ。
彼の悪逆非道を知っている者が聞けば、信じられないと言うだろうが事実だ。
話は変わるが、董卓は天の姫を後宮に住まわせている。
しかし、その天の姫だが・・・・・未だに眠り続けていた。
「今日で三日目、ね」
後宮の一室---皇帝の正妃が住む部屋で、一人の娘が寝台を見下して一人、呟いた。
寝台に眠る娘の年齢は二十代だが、容姿は人間なのか、と思うほど・・・・・妖しいまでに美しかった。
髪は艶やかで、陶器のような肌と一緒に・・・・・まるで、職人が丹精込めて、隅々まで慎重にして丁寧に仕上げたようだ。
髪の色は銀と紫で、一本一本も実に丁寧であったが、人間の髪色ではない。
それもその筈である。
寝台に眠っているのは・・・・・天から舞い降りた姫君なのだ。
通称を天の姫、と言われているが、姫君を見下している娘---朱花は名前を教えられた。
織星夜姫だ。
恐らく夜姫が名前であろう、と推測するが本人から聞いていない。
朱花の言葉を借りるなら、今日で三日なのだ・・・・・眠り続けて。
その間に朱花と、もう一人の侍女---翆蘭は色々と話し合い、同時に眠り続ける夜姫の世話をした。
世話と言っても、寝返りを打って乱れた衣服の裾を直したり、掛け布団を直したり・・・・・それ位だ。
後は唇を見て、水を少量流す位だろう。
そんな事を三日も繰り返している。
しかも、直ぐ隣には冷たい死体があるから、些か嫌な気分だった。
初めは寝ている、と思っていたが董卓の腹心である華雄と胡しんから「その者は死人だ」と言われて腰を抜かしたのは記憶に残っている。
名は文秀と言い、夜姫を護って死んだ者だが、夜姫の命により同じ部屋に居る。
死んでから数日は経過している、と言うが・・・・・そんな気配がしない。
肌こそ青白いが、それ以外は人間と変わっていない。
普通、死ねば死後硬直なり、腐敗が進んだりするのだが、文秀に到っては何一つ当て嵌まらなかった。
これが余計に気味悪さを出すが、敢えて見なければ何でもない。
「はぁ・・・・何時になったら、貴女は目覚めるのでしょうか?」
朱花は嘆息して、夜姫に問い掛ける。
だが、返事はなかった。
自分は眠る姫の世話役か、と自嘲した時である。
扉が開いて、朱花と同じ位の年齢をした娘が入って来た。
宮廷侍女の衣装を身に纏った娘の名は翆蘭。
朱花と同じく地方豪族の娘だが、伝手で宮廷侍女となり夜姫の侍女を任された娘である。
「姫様は起きましたか?」
翆蘭が尋ねるも、朱花は首を横に振った。
「起きないわ。今日で三日目・・・・・そろそろ起きてくれないと、何の侍女か判らなくなるわ」
「仕方ないですね。はい、ヨルムンガルドさん」
翆蘭は朱花の言葉に相槌を打ち、夜姫の左手に巻き付いている蛇---ヨルムンガルドに小皿に収まった水を渡す。
このヨルムンガルドだが、今まで夜姫の左手に巻き付いて、自分達をジッと縦眼で見ていた。
まるで、自分達を値踏みするような眼で、朱花は高が蛇、と侮って手を出したが、その直後に指を咬まれている。
毒は無かったようだが、意外と咬まれると痛かった。
その為、朱花は翆蘭と入れ替わる形で、場所を変える。
「董卓達と会った?」
朱花は夜姫の掛け布団を直す翆蘭に尋ねた。
「いいえ。ただ、文官と思われる方たちが・・・・・好奇な眼で見てきました」
あれが天の姫に仕える侍女か・・・・・・・・
そんな眼で見られて、翆蘭としては快くなかった。
「私も見られたわ。まったく、私達は見世物じゃないのよ」
「そうですけど、やはり天の姫の侍女というのが知れ渡っておりますから」
これも仕方ない、と翆蘭は言いつつ、眠る夜姫を静かに見つめた。
「恐らく夜姫様も、ここに来てからは・・・・・そういう眼で見られたでしょう」
「そうかもしれないわね。おまけに民達が途中で反乱を起こした、と言っていたから・・・・・・人質にされそうになったかも、ね」
天の姫を手中に収めれば、一つの勢力として独立できる。
この乱世で民達は苦労しているのは、地方豪族の娘である二人には判った。
誰もが生き残るのに必死で、どんな手も使う。
天の姫ともなれば、利用できる価値は計り知れない。
その上で、この容姿だ・・・・誰もが欲しがる存在だ。
董卓も例外ではないだろう。
「何だか、とんでもない方の世話役になったわね」
「ですね。ですが、何れ目覚めますよ。もう、遅いです。そろそろ私達も・・・・・あら?」
翆蘭が寝よう、と朱花に言おうとした時である。
ヨルムンガルドが唐突に夜姫の左手から離れて、窓の方へ近付いて行く。
窓に行くと・・・・・小さな身体からは思えない力で、窓を自力で開けた。
これに二人は驚いたが、同時に窓から入って来る月の光に神秘さを感じた。
古来より月は魔が宿る、と言われているが同時に・・・・・・神秘的な面でも人々を魅了して止まない。
そんな月の光は今も二人を魅了していた・・・・・だが、ある人物は違う。
「・・・・月が、出たわね」
静かに寝台から声が聞こえてきた。
一流の職人が最後まで仕上げた楽器のような声だ。
二人はバッ、と視線を向ける。
ヨルムンガルドも縦眼を向けるが、驚愕する二人とは裏腹に・・・・・待ち侘びていたような眼線だった。
寝台に寝ていたのは天の姫こと織星夜姫。
その娘が3日目の今日、眼を覚ましたのだ。
夜姫は寝台から起き上り、窓へ行くと月を眺めた。
「・・・・・佳い月ね」
静かに夜姫は二人に語り掛けた。
「え、えぇ、そうですね」
「ほ、本当に・・・・・」
最初に会った時と同じである彼女に、二人は緊張しながら答えた。
「そんなに恐がらないで。別に貴女を食べたりしないわ・・・・・・褥の中では別だけど」
最後の方は聞こえないように夜姫は言い、今度は横で手を組んだ状態で寝かされていた・・・・・文秀を見た。
「・・・・文秀、月が出たわ。私にとっては佳い月の晩よ。貴方にも直ぐ見せるわ」
そう言って夜姫は文秀という死体に近付いた。
徐に左手を伸ばして、彼の額に置く。
「目覚めよ・・・・我が臣下よ。汝は我を護り死した身であるが、まだ魂は浮遊している。さぁ、再び肉体に戻り、目覚めよ。そして我が手足となり、我が家族となり、共に都へ参らんとしよう」
目覚めよ・・・・文秀。
最後に名を告げると、開いた窓から白い物体が浮遊して、文秀の心臓に吸い込まれて行った。
そして・・・・・・・・・・・・
「ん、んんん・・・・・・・?」
パチリ、と文秀の眼が開かれた。
『き、きゃああああああああ!!』
二人は死人が目覚めた事に、恐怖を感じたのか長安中に響き渡るような絶叫を上げた。
その声に大勢の兵達が駆け付けて、つい先日まで冷たかった者が動いている所を見て、二人と同じく悲鳴を上げたのは別の話である。