第四十四幕:邪魔な存在
もう直ぐ夜が明けようとしていた。
しかし、夜が明けない時間帯でも動く者は動く。
現に今も大勢の者達が走っている。
松明は燃えているが、民達は汗を掻いていた。
普通の汗ではなく、冷たい汗である。
つまり冷や汗だ。
現在では野生動物の恐ろしさを余り知らない者は多いだろう。
それこそ都会の者達なら尚更である。
しかし、都会に住む者達などは尚更だが田舎に住む者達は違う。
常に野生動物の被害に泣かされているし、怯えているのだ。
彼等---洛陽に住んでいた民達も同じ事であろう。
洛陽は都であり、城壁に囲まれて異民族の襲来も動物の襲撃も無かった。
城壁の中に居れば安全。
それが民達の印象であり考えであったが、今は夜を松明を持ち集団で移動している。
如何に武将などが傍に居るとしても、彼等を助けるとは限らない。
何より自分達は彼等を嫌っている。
嫌っている者に助けられる位なら、動物に殺された方がマシだ。
そう思う者も居た。
“動物に殺された方がマシ、ね。果たして、本当に死ぬ瀬戸際になっても思っていられるかな?”
誰かの声がした。
その声は誰にも・・・・特定の者には聞こえたが民達には聞こえなかった。
声は馬鹿にした口調だったが、ある意味では的を射ている。
死ぬ瀬戸際になってから、自分の人生を後悔する者は多い。
彼等もこうして動物に殺された方がマシ、と思っているが果たして・・・・死ぬ間際に後悔しないだろうか?
声の主は今まで長い年月を生きてきた。
人間達以上に、だ。
その為、人間という生き物がどれだけ醜い生き物なのか知っている。
ただ、人間にしかない素晴らしい物もある、という事を同時に知っていた。
それは彼が・・・・彼ら達が仕える姫君にも通じる事だ。
『人間というのは面白い生き物よ。時には善行で、時には悪行をするんだもの。矛盾しているわ。でも、そこが面白いのよ』
酒の席で姫君---織星夜姫は自分に語った。
大半は人間など取るに足らない醜悪な生き物、と断言したが彼を始めとした少数は夜姫の言葉が理解できた。
“まぁ、姫さんは人間に近いから、そう思うんだろうな”
自分の場合は長い月日で観察した結果に過ぎないが、夜姫の場合は人間に近い。
だからこそ、ああいう風な評価をしたのだろう。
“まぁ良い。どうせ、お前等の大半は野垂れ死に確定だ”
何せ自分達の姫君を愚弄した。
それだけで万死に値する。
死んで当然であり、死なないなど許されない。
それが彼と夜姫の傍に居る者達の結論だった。
“さてはて、我らの姫様はどうしているかな?”
声の主が移動する。
気配が動いたのだ。
気配の先には一台の馬車を囲むように馬上に乗り、武器を持った者が居た。
彼等は四方に居り、馬車を護っている。
馬車に乗っているのは一人の娘だ。
年齢は二十代で、銀と紫が絶妙に混ざり合った神秘的な髪をしていた。
着ている服も今の時代には無い生地で、素肌と相まって美しい。
しかし、瞳は虚ろで・・・虚無感さえ漂っているように見えた。
その娘は両手で武骨な剣を握り締めており、左手には蛇が絡まり寄り添っている。
娘の名は織星夜姫。
彼女こそ天の姫、と言われて董卓軍に攫われた娘である。
夜姫は馬車に揺られながら剣を手放さない。
何故か、その剣が・・・・とても大事な物、と自分の感覚が言っているのだ。
剣など今まで生きてきた中で握った事など無い。
それなのに夜姫は酷く懐かしかった。
『私は、この剣を知っている。だけど、何処で?』
何度も自問自答を繰り返すが、答えは決まって見つからない。
幼い頃から不思議な夢は見てきた。
見覚えのない宮殿、戦場、はたまた浴室、執務室、草原など場所は多い。
更に顔などは曇って見えない者達が大勢いて、自分はその者達と談笑を交わして酒を飲んだ。
その中に・・・・この剣を差した者も居る筈。
そう考えるのが自然、と夜姫は思い記憶を呼び覚まそうとしたが無理だった。
肝心な所で記憶は呼び覚まそうとしても、無理だった・・・・・・・・・・
「・・・肝心な所で、どうして役に立たないのよ」
苛立ちを覚えた夜姫は、つい言葉に出した。
蛇が僅かに顔を上げて夜姫を見る。
ギュッ・・・・・・・・・
剣を握り夜姫は顔を俯かせる。
それを四方を囲む者達は、どうしたものかと首を傾げた。
『おい、天の姫。何だか苛立ってないか?』
『あぁ、何だか見た目はか弱いが、声は凄いな』
『と言うか陽人の戦いじゃ、あの呂布様を退けたって話だぞ』
『本当かよ。やっぱり天の姫だな』
四人は眼で互いに話し合う。
しかし、夜姫を見る眼差しは何処か妹か娘を心配する感じだった。
悪名高き董卓に仕える彼等は、これまで非道な事もしてきた身である。
かと言って血も涙も無いという訳じゃない。
彼等にだって家族、恋人などは居る。
感情はあるのだ。
天の姫を護衛しろ、と華雄に言われた時は身に余る光栄と思ったが、今は何とかしたい。
親近感さえ湧いている。
その娘が苛立っているから、心配するのも人情と言えるだろう。
『誰か言えよ』
これが四人の共通する言葉だった。
とは言え、四人揃って声を掛ける勇気も度胸も持ち合わせていない。
今の夜姫に話し掛けても、何の意味も無いだろう。
いや、それ以前に敵方の自分達が・・・・・どんな事を言えと言うのだ。
それを言い訳に四人は黙って、様子を見る事に徹した。
「・・・・・・・」
蛇が夜姫を心配するように、顔を擦り寄せる。
だが、それすら夜姫は判らない。
今の自分に激しい怒りを覚えずにはいられない。
『何も判らない・・・どうして、私はこんなに役立たずなの!!』
今にして思えば、自分の人生において役に立った時があったのか?
そう疑問に思う。
孤児院で育った彼女だが、大半は何かしらの理由から親元で暮らせない者達だ。
休日などの日は両親が来て、家に帰ったり遊びに行く。
それを自分は羨望の眼差しで見て・・・・一人、遊んだ。
大人は自分を励ましてくれたが、それすら仕事であり他の仕事もあった筈、と子供心の時に思う。
成長して学校に通うようになってからも、似たような物だった。
小中学校では特別な日を除き給食制だったから良い。
しかし、その特別な日の時は・・・・苦心しながら自分で弁当を作ったりした。
それでも出来ない時は大人に手伝ってもらった。
自分はそういう小さな事でも他人に迷惑を掛けて、役に立てなかった・・・・・・・・・・
この世界に来てからもそうだ。
眼も見えない、戦う事も出来ない。
それなのに天の姫、と誤解されて生活している。
挙句の果てに董卓に攫われてしまった。
きっと劉備達は連合軍から叩かれているに違いない。
『関羽様と張飛様は足手纏い、邪魔・・・・・そう言った』
今は彼等の気持ちが理解できる。
「・・・・・・・私は、邪魔者・・・・・・・・・・・・」
ポツリ、と夜姫は独白した。
所詮・・・・この程度でしかないんだ。
何だか、それが嫌というほど判らせられた気がして、夜姫は思考を中断し俯いた。
泣きたい所だが、人眼もある以上・・・・・それすら出来ない。
それでも・・・・・・・・・・・・
「・・・・・・・・・」
ポツ・・・・ポツ・・・・ポツ・・・・ポツ・・・・・・
剣を握っていた手は、何時の間にか膝の上に置かれている。
その剣は傍らに置かれており、夜姫の手に握られていない。
だから、手の甲に真珠が落ちる。
落ちて、落ちて、落ち続けて行く。
やがて・・・空からも降り出した。
突然の雨に皆は驚くが、直ぐに各々の持ち物で頭などを覆う。
四人は慌てて、夜姫に何かやろうとした。
しかし、夜姫は無言で俯き続けた。
それに彼等が気付く事は・・・・無かった。