第二十六幕:渦巻く洛陽
現在の政を行う洛陽。
ここは東周の平王が戦で荒れ果てた鎬京---長安から移した事が始まりとされている。
それ以降は政治経済の中心地となり後漢でもそれは変わらなかった。
本来なら皇帝が支配し民達も平和に暮らしている筈だが現在は乱世である。
そしてここを治めるのは皇帝ではなく董卓と言うのが不幸であった・・・これからの事を考えれば正に不幸としか言えない。
そんな洛陽の中ではある噂が出回っていた。
「おい、聞いたか?天の姫が洛陽に連れて来られたって?」
平民の一人が荷物を纏めている仲間に小声で話し掛けた。
「本当かよ。ただの噂だと思っていたが・・・・・・・」
仲間は周囲を警戒しながら小声で返す。
「それが事実なんだよ。何でも連合軍に居たらしいんだが攫われて連れて来られたって話だ」
「連合軍に・・・ちくしょう。ただの辺境将軍が皇帝を決めるなんて有り得ないのに・・・その上天の姫まで手中に収めたらどうなるんだよ」
「しっ・・・滅多な事を言うな」
仲間の口を慌てて話し掛けた男が手で抑え辺りを見回すが誰も居ない事に安堵し口を離した。
「こうしている間にも董卓は戦準備をしているって話だ」
「また戦かよ・・・いや、その前にここを焼き払うって話もあるんだ」
「嘘だろ?ここを燃やすって・・・・・・・・・」
男は仲間の言う言葉に次の言葉を言えなかった。
ここは歴史ある都であり歴代皇帝の墓まであるというのに焼き払うなど前代未聞であるが董卓ならやりかねないと二人は思い合う。
そんな二人は洛陽に建てられた雄大な城を見る・・・あそこに董卓は居る。
そして天の姫も・・・・・・・・・・・・・
「これからどうなるんだか・・・・・・・・」
二人の内一人が天を仰いで独白した。
この世に神が居るのならどうして・・・こんな惨い事をするのか?
二人はそう天に対して言いたかった。
その一方で雄大な城の中にある後宮では一人の娘が未だに寝ている。
清潔な銀と妖艶な紫が見事に混ざり合った髪を惜し気もなく寝台に曝して静かな寝息を立てており瞳は閉じられていた。
その寝顔はあどけなく何時まで見ても飽きないだろう・・・現に一人の男性は何時までも見ている。
「・・・・・・」
男は黙って椅子に座り娘を見続けており何も言わない。
また決して手も出さない・・・ただ見ているだけだ。
「う、うううん・・・・・・」
娘が顔を僅かに歪ませて身体を動かすも眼は開けないで身体だけを動かす。
「・・・悪い、夢か」
男は娘の様子を見て手を出そうとしたが・・・途中で止めて空を掴む。
「・・・触れられない」
自分の手は汚れている。
この娘を触れるには余りに汚れ過ぎて駄目だ・・・駄目なのだ。
自分に言い聞かせて男は虚しく空を掴んだ拳を元の位置へ戻して娘の様子をただ見守る。
「・・・なさい・・・が・・・な、から・・・ちを・・・・れな、かった・・・・・・」
娘は途切れ途切れに誰かへ謝罪している。
誰に?
分からないが余程娘には苦しい夢なのだろうとは推測できる。
うっすらと涙を流しながら謝り続けているのだから・・・・・・・・
「誰に謝っている・・・・・・・」
男は涙を流す娘に問いを投げたが答えなど返って来る訳ない。
それでも訊ねたいと言う衝動に襲われたし訊ねた事で彼女が泣く理由を知りたかったのだ。
彼女が泣く理由を知って自分に出来るなら力になれる・・・そう思ってしまう。
「教えてくれ・・・誰に謝っているのだ?」
男はもう一度だけ眠る娘に訊ねたが答えはやはりもらえなかった。
その事に悲しみと怒りを覚えるが仕方ないと何処かで諦めてしまう。
「殿、会議の時間です」
扉が叩かれ控え目な声が届いた。
男の声で後宮には限られた人物しか入れないから余程この男に信頼されているのだろうと安易に想像はつく。
「・・・直ぐ行く」
眠る娘を一瞥し男は椅子から立ち上がり扉に向かったが、また振り返り娘を見る。
「・・・・行って来る」
妻でも使用人でもないのに男は娘に言った・・・答えなど返って来ない事を承知で・・・・・・・・
扉を開け男は静かに出て閉めて右隣を見る。
二十代後半から三十代前半の男が直立不動で立っていたが男を見るなり軽く頭を下げた。
「申し訳ありません。ですが、時間でしたので失礼を知りつつ来ました」
「良い。それで“華雄”よ。準備はどうだ?」
男は頭を下げた男---華雄に訊ねた。
「はっ。急がせてはいますが、まだ時間が必要かと・・・・・・・・」
「急がせよ。こうしている間にも連合軍の奴等は近付いて来ている」
「勿論です。それで天の姫は眼を覚ましましたか?」
「・・・いいや。まだだ。ただ、誰かに謝罪し涙を流した」
「謝罪、ですか?」
華雄は謝罪という言葉に首を傾げる。
謝罪とはもって字の如く罪を謝る事であるが、天の姫は誰に謝っているのかは分からない。
「声は途切れ途切れで聞き取れなかったが謝罪しているのは確かだ」
「そう、ですか・・・・・」
男の言葉に華雄は自分が体験した事を思い出して答えを見つけようとしたが結局は出来ずに終わってしまった。
「会議は既に皆、集まっているのか?」
男が訊ねてきたので考えるのを中断したからである。
「はい。ですが、かなり揉めるとは思います」
何せこれからの事を考えれば揉めに揉めるのは当然であるからだ、と華雄は男に説明したが男は鼻で嗤った。
「だから何だ?今さら考えを変える気は無い。逆らう者は容赦しない」
今までずっとそうして生きてきたのだ・・・今さらやり方を変える事など出来ない。
そう男は言い歩き出し華雄は少し遅れて付いて行く。
『やり方を変える気はない、か・・・・これは荒れるな』
華雄は今から始める会議が荒れに荒れると予想し頭を悩ませたが精一杯やろうと決めた。
会議が開かれる場所には既に参加する者たちが居り男と華雄が来た事で気を引き締めて会議の主役である男---董卓が座るのを待つ。
董卓が鷹揚に座り第一声を放つのを皆は待った。
「・・・天の姫を手に入れた」
第一声に皆は驚きどよめいた。
天の姫・・・これは話には聞いている。
天から降り立った麗しき姫君は董卓の悪逆非道振りを嘆き連合軍を助ける為に来た、と・・・・・・・・
そう洛陽を始めとした土地では広まっており民達の間でもそう信じられており近い内に董卓は死ぬと言う者さえ居る。
その姫が董卓の手に落ちたと本人の口から言われたのだから動揺するのも無理は無い。
「現在、天の姫は寝ている。しかし、何れは眼を覚ますだろう。それまでは誰も近付いてはならん」
董卓は動揺する者達に声を掛けたが脅しであった。
天の姫ともなれば自分に逆らう者にとって格好の神輿となるのは眼に見えている。
現在この男---董卓に逆らう者は連合軍の他にも大勢いるが、その者たちは自分が採用した者なのだから皮肉としか言えないし笑うしかない。
「失礼ですが殿、誰も近付いてはならないと言いますが御食事の世話などはどうなさるんですか?」
一人の男が弱々しい声で董卓に訊ねた。
ちょっとした事でも怒るし何をされるか分からない以上・・・怯えて訊くのも無理は無い。
「天の姫は娘だ。まさか、わしを含めた男達で世話する訳にもいかんだろ?侍女達にやらせる訳にもいかん」
「それは、どういう理由、でしょうか?」
「分からんか?本来なら天の姫に下界の人間が触れるなどあってはならん。わしを含めて、な」
「で、ですが、殿は天の姫の寝室に行っているのではないですか?」
「行っている。だが、触れてはおらん。文句でもあるのか」
「め、滅相もありませんっ」
男は董卓が一睨みしただけで震え上がり慌てて下がった。
「しかし、殿。天の姫は戦える方です。万が一の事を考えて監視の兵などを置いては如何でしょうか?」
天の姫を連れ帰った男として洛陽に名を広めた男---胡しんが董卓に進言したが董卓は首を横に振った。
「良い。聞けば呂布や華雄、更にはそなたなどの名のある豪傑さえ相手にしたのだろ?雑兵を千人用意した所で無理だ」
「ですが、私が見る限りある程度まで戦うと力を失います」
「それは本当か?」
「はい。私の時がそうでしたので・・・・・・・」
胡軫に皆の視線が集まり胡軫は顔を伏せた。
天の姫を連れ帰った・・・これに嘘は無い。
嘘は無いが彼は戦っていない。
ただ、彼の部下と呂布などが戦っただけだがその現場は見ている。
そして彼が見る限り天の姫は一定の時間しか戦えない、と見たらしい。
「その理由は?」
「そこまでは分かりません。ですが、一定の時間を過ぎてしまえば問題ない、かと。それ以上過ぎると寝てしまいますので」
「なるほど・・・では、胡しん。そなたは華雄と共に兵を選び監視として置け。ただし、決して変な真似はさせるな」
「勿論です」
「親父殿、そうなら是非ともこの私に・・・・・・・・」
胡しんを押し退けるようにして董卓の養子であり飛将と謳われる呂布が前に出る。
「呂布か。そなたが天の姫を監視すると?」
董卓は呂布に視線を移し訊ねるが明らかに疑いの眼差しを向けていたのは誰が見ても明白であった。
「はい。失礼ながら私を含め配下は皆、天の姫と一度ならず二度も戦っております。ならば、監視も当然かと存じます」
「呂布殿、そなたは天の姫に手傷を負わされた恨みがある。その恨みを晴らそうとしているのではないか?」
胡軫がここぞとばかりに呂布に言う。
当然言われた呂布としては面白くないから噛み付いてくる。
「黙れっ。一武将が俺を馬鹿にするか」
「馬鹿になどしておりません。私は事実を言っているだけです。それに天の姫が眼を覚めてそなた等を見たらどう思う?少なくとも悲鳴を上げるだろう」
「貴様ッ」
「止めろ。二人とも」
董卓は言い争いを始めた二人を直ぐに止めて二人も直ぐに従った。
「胡軫並びに華雄。そなた等が監視をしろ。呂布、貴様は来るであろう連合軍に備えておけ」
「・・・承知」
「分かりました」
胡軫は勝ち誇った笑みを浮かべ快く承諾したが呂布は面白くない顔であり眉間に皺を寄せていた。
『・・・天の姫が、この洛陽に居る・・・・・・使えるな』
呂布を見て誰かが微笑んだ。
しかし、その笑みを見た者は誰も居なかった。