第六幕:眠る姫君
夜姫が気を失ってから数刻ほど経過した。
燃え去った天幕は袁術が用意した天幕で解決したがまだ問題はあった。
現在、劉備並びに袁術は彼の異母兄弟であり同じ総大将である袁紹の天幕に居た。
目の前には袁紹、曹操、孫堅の3人が椅子に座り2人を見ていた。
なぜ2人が居るのか?と言えば袁紹から訳を話すように呼び出されていたのだ。
あれから敵が義勇軍の陣を攻撃したという事が知れ渡り急いで駆け付けたのだが、死体が少ないのだ。
報告では軽く見積もっても千人は居たというのに死体は僅か数百。
退却したという報告も聞いていないし、したとしても何人かはやられている筈・・・・・
それが無いという事に疑問を感じて劉備とその場に居た袁術に訳を言う様に呼び寄せたのだ。
だが、劉備も袁術も口を閉ざしたままだ。
袁術に到っては致命的な傷痕が残る鎧を着ているのに生きている。
それを訊ねたが無言で答えない。
「・・・劉備。なぜ話さんのだ?」
袁紹はもう何度目か忘れた言葉を口にした。
それに対して劉備は口を貝の様に閉ざしたままだった。
「私はそなたを買っている積もりだ。力も貸している積もりだ」
その私が質問しているのになぜ答えない・・・・・・
「夜姫様に何か遭ったのか?」
曹操が袁術の質問に答えない劉備に鋭い視線を寄こして質問した。
「・・・お答え出来ないと言うより私にも分からないのです」
劉備は曹操の質問に初めて口を開いたが、答えにはなっていなかった。
「分からないとは?」
曹操はどういう事か、と訊ねたが劉備は首を横に振った。
「何が、どうなったのかです。何も・・・理解できなかったんです」
『・・・・・・』
3人は無言で劉備を見つめた。
真意を確かめる積もりだが本当に何も分からない顔だった。
「では何か気が付いたら教えてくれ」
袁紹はこのまま訊いても駄目だと判断したのだろう。
一度、帰るように言った。
「はい・・・」
劉備は一礼して天幕を出て行き袁術も同じだった。
残された3人も目撃者があれではどうしようもないと溜め息を吐かずにはいられなかった。
天幕を出て陣を後にした袁術は劉備より少し遅く歩きながら考えていた。
『夜姫様・・・・・・』
・・・彼女は自分を助けてくれた。
否。
あれは自分ではない別の人物に放った言葉だ。
誰なのかは分からない。
部下、家族と言っていたから部下か?
それとも家族か?
もし、部下なら・・・・・
『良い主人を持ったな』
部下の為にあれほど激昂する主人はそう居ない。
戦ともなれば誰が死ぬか分からないし死んで当たり前だ。
それに一々・・・付き合っていたら身が持たない。
だが、夜姫は部下が傷つけられた事に怒り悲しんだ。
部下を愛している証拠だ。
そんな主人の下で戦える武将や兵はどれだけ幸せだろうか?
しかし・・・分からない事もある。
『私“だけ”で良いの。輪廻の苦しみを味わうのは・・・・・・』
だけ・・・どういう意味だ?
『貴方達は待っていて。そうすれば巡り逢えるから』
しかし夜姫は否定した。
『違うわね・・・私が貴方“達”に逢いに来たのね』
そして、こう言った。
今度は皆で幸せになりましょう・・・・・・
今度は・・・・・・
『何か遭ったのか?』
袁術は絞れるだけ絞った知恵で考えた。
「・・・・・・」
自分の知恵など高が知れているが答えを見つけた。
夜姫は過去に何か遭った・・・・・・
安直な答えでしかないが、それでも何か遭ったのだという事は見つける事が成功した。
「袁術様。貴方は、夜姫様をどう思いますか?」
唐突に劉備は袁術に問いを投げた。
「・・・この身に代えても護らなければならない方と思っている」
自分でも驚くほど袁術は劉備の問いに答えた。
以前なら質問など鼻で嗤い答えなかっただろう。
「あの方は私を助けてくれた。そして私に温もりを教えてくれた・・・恩人だ」
その恩には何があろうと返さなければならない。
「そなたはどうだ?あの時の夜姫様を見て恐怖を感じたのか?」
「いいえ。断じてそのような事はありません」
これに劉備は直ぐに否定した。
「夜姫様は敵をたった一人で、たった一振りで、殲滅しましたがそれで恐怖など感じません。ただ・・・・・・・」
「ただ、何だ?」
「ただ・・・夜姫様は、何か深い過去を持っている、と思いました」
「私もだ。あの方は過去に何かある」
知りたいが、当の本人が眠り続けている以上は分からない。
それに無理やり訊く気にもなれない。
それでも言える事が一つだけある。
『何があろうと護らなければならない存在』
「私は・・・そなたが嫌いだ」
袁術は足を止めて言った。
劉備もまた足を止めて袁術を真正面から見た。
「義勇軍だからではない・・・そなたが夜姫様を安心させられる心を持っているからだ」
私ではあの方を安心させられる心は持っていない。
「だから嫌いだ。だが、夜姫様を護りたいと願うそなたの気持ちは理解出来る」
手を組もう・・・・・・・・
「私には夜姫様が過ごし易いようにできる“力”がある。そなたには夜姫様を安心させられる“心”がある」
お互いに必要な物だと袁術は言った。
「それではどうなさるお積りですか?」
劉備は続きを促した。
「今日から私の陣へ来い。全員連れてな」
「それでは他の総大将に妬まれますよ?」
「元より覚悟の上だ。それに私を蔑む者は多い。そなたもまた私を嫌っているだろ?」
「はい。貴方は名家という生い立ちから他人を蔑む悪癖がある上に性格も陰険で最悪です」
「言ってくれるな。だが、良い気持ちだ」
“お前はマゾか?”
また誰かの声がした。
しかし、誰にも聞こえない。
ただ彼の言葉だけが空に漂っているだけだ。
「そなたと夜姫様位だ。そのように真正面から言うのは」
「袁紹様も言うではないですか」
「あの男とは違うのだ。それよりどうだ?」
「お言葉に甘えさせてもらいます」
劉備も今の状況では駄目だとは痛感していた。
夜姫を安心させられる事は出来る。
出来るが、自分達は義勇軍で金も無いし必要な兵力も無い。
袁術には自分達に足りない物がある。
自分と目の前に立つ袁術が手を組めば夜姫をもっと安心させられる上に快適に過ごせられる。
だから、貴方と手を組む。
「ですが、夜姫様に害なすとなれば容赦しませんよ」
「その言葉そっくり返す」
お互いに暫く見つめ合ったが、やがては歩きを再開した。
自分の陣へと戻った劉備は袁術に仕えている薬師と会った。
「夜姫様の具合はどうですか?」
劉備が薬師にそれを訊ねると薬師は問題ないと答えた。
「気を使って疲れているのでしょう。恐らく寝ていればその内目を覚まします。ですが、衣服などは血で汚れているので交換した方が宜しいかと」
「それなら直ぐに用意する」
袁術が薬師の言葉に返事をした。
「劉備。私は陣へと一時戻る。それまでは頼む」
「分かりました」
袁術は劉備が頷くのを確認してから薬師を伴い自分の陣へと戻って行った。
袁術と薬師が消えてから劉備は皆を集めた。
「明日から我々は袁術殿の陣に入る」
事の顛末を言うと皆は渋々ながらも納得した。
夜姫の事を考えればここよりもっと環境の良い場所に移すのが良い。
しかも、向こうは自分達も来いと言ってきた。
これならまだ納得が行く。
自分達の力不足を痛感しているからこそ渋々納得したのだ。
張飛は袁術が気に入らないと言っていたが夜姫の事を考えると仕方なく従うしか無かった。
それから少し時間が経ち袁術が数人の部下を引き連れ戻って来た。
「劉備。夜姫様はまだ覚めないか?」
「はい」
「そうか。先程、部下達に説明したが了承した」
当たり前のように思えたが簡単ではなかったようだ。
なぜ自分達が義勇軍と陣を共にしなければならないのだ?と憤りの声が上がったようだ。
それを袁術は説得し、何とか了承させた。
「申し訳ない」
「そなたの為ではない。夜姫様の為だ」
袁術は劉備の言葉に素っ気なく答えた。
「それから夜姫様の衣服は用意した。渡してくれ」
彼が渡してきたのは黄緑色の着物だった。
高そうな代物に違いないのだが、夜姫が着ているのに比べると見劣れする。
「流石にあれほどの物は用意できなかった」
誰もが袁術のように名家の者でも用意できない物があるのかと驚いた。
場所が場所だけなのも理由だがあれ自体が凄いのだ。
「助かります」
劉備が礼を述べると同時に典医が来た。
「夜姫様が目を覚ましました」
簡潔に典医は言った。
しかし、それだけで十分だった。
典医の言葉は簡潔だったが、眼が何か遭ったと告げていた。
急いで夜姫の所へと行くと夜姫は急ごしらえで用意された寝台から上半身を起こし虚ろな眼差しで何かを見ていた。
「夜姫様。お目覚めですか」
劉備が夜姫に語り掛けたが、何か様子が変と感じた。
額に髪の毛が張り付いているのだ。
しかも、息も些か荒い気がした・・・・・・・・
「劉備様・・・・・・・」
夜姫は声がする方向に虚ろな眼を向けた。
「何か、悪い夢でも見ましたか?」
「・・・はい」
頷くだけで夜姫は軽く息を吐いた。
「私が来た時には悲鳴を上げていました」
典医が小声で劉備に告げた。
「夢を見たんです。何処か分からない部屋に私は、鎖で繋がれていてそこに一人の男が来るんです」
背はそれほど高くはないが、傲岸とも言える態度に高そうな服を着て自分を・・・・汚す夢。
「大丈夫です。この劉備がお傍に居ります」
劉備は優しく夜姫の髪を撫でて安心させた。
「すいません・・・こんな話をして」
「いいえ。悪い気は話す事で抜けると言います。それで良いのです」
そう言って劉備は夜姫をある程度、落ち着かせてから要件を切り出した。
「夜姫様。お目覚め早々に悪いと思うのですが、新しい衣服をご用意しました」
「新しい衣服?」
「はい。流石に同じ服を何日も着ているのは不便でしょうから袁術様がご用意して下さいました」
「袁術様は、無事・・・なのですか?」
「えぇ。無事ですとも」
劉備は夜姫の言葉から・・・・袁術が斬られた後の記憶が無いのだと察した。
敢えて言わないでおいた。
言ってしまえば、夜姫は混乱するだろう。
それは避けたかった。
「袁術様は何処ですか?」
「ここに居ります」
袁術は寝台に近付き、肩膝を着いた。
「袁術様。傷は、大丈夫ですか?」
「はい。幸い劉備殿が駆け付けてくれたので助かりました」
夜姫様もご無事で何よりです。
袁術は夜姫が無事である事を改めて喜んだ。
「貴方が命がけで私を護って下さったからです」
お礼を言うのはこちらだ、と夜姫は言い返した。
「有り難き御言葉・・・・・・尽きましては今後の事についてお話があるのです。御身体は大丈夫ですか?」
「はい」
袁術は劉備に視線を移し「話しても良いか?」と訊ねた。
それに劉備は頷き確認してから袁術は話し始めた。
「・・・・・・・」
夜姫は最後まで無言で聞き続けた。
「夜姫様の事を考えるともっと安全な場所に移動させるべきと判断しました。もちろん劉備殿達も一緒です」
最後の言葉には・・・何処か嫉妬が込められていた。
自分ではない男が夜姫を安心させられる。
それが狂おしくて我慢できなかった。
声を上げて言いたかった。私が貴方を安心させたい・・・護ってみせる。
だが、その気持ちを袁術は抑えた。
自分はあの時、敵に斬られ死ぬ所だった。
助けたのは夜姫だ。
そんな相手に護るなどおこがましいにも程がある。
もっと強くなり・・・改めて言おう。
袁術はそう言って自分を抑えた。
「夜姫様。私共も参りますから行きましょう」
劉備は沈黙している夜姫に説得するように話し掛けた。
「・・・劉備様はご迷惑ではないのですか?袁術様はご迷惑ではないのですか?」
夜姫は2人に訊ねた。
「ご迷惑など・・・貴方様を迎えられて光栄です」
「でも、私は何も出来ないですし・・・眼も見えないんですよ?」
夜姫は自分は迷惑以外の何でも無い、という口調で語った。
「夜姫様。失礼ですが貴方様はご自分を卑下し過ぎます」
袁術は夜姫に跪いたまま叱り付けるような口調で話し始めた。
「貴方様は何も出来ないと仰いましたが、それは違います。貴方が居るお陰で劉備殿達は今も奮戦しておられる。そして私もまた貴方様に出会い諭された事で眼が覚めたんです」
貴方様には人を良い方向へと導く力がある。
それはとても大事な事だ。
「私は貴方様を迷惑などと思った類いはありません」
利用価値がある、とは思ったと正直に袁術は語った。
「それは私が天の姫、だからですよね?」
「はい。ですが今はそのような気持ちはありません。この身は全て貴方様の為に捧げます」
「どうして、私に・・・・・・・」
「貴方様を・・・・・・・・・・」
そこまで言ったが、袁術は止めた。
いま言うのは駄目だ。
もっと自分を磨いてから改めて言おう。
そんな気持ちが出たから言わなかった。
「いえ。何でもありません。それで夜姫様。御答えは?」
「・・・ご迷惑・・・・いえ。どうか、私を連れて行って下さい」
お願いします、と夜姫は頭を下げた。
「畏まりました。尽きましては、私の方から送った衣服を着て下さい」
血が付いたそれでは兵たちの眼があるから、と心の中で言いながら頼んだ。
「分かりました。時間が掛りますが、よろしいですか?」
「勿論です。女性が着飾るのは時間が掛りますからね」
「袁術様は・・・女性の扱いに長けていますね」
夜姫は僅かに笑みを浮かべて言った。
「え?あ、いや、その・・・・・・」
「冗談ですよ」
「夜姫様・・・・・・」
袁術はあんまりだと顔をした。
その笑みを見て皆が破顔して笑い出した。
「では夜姫様。こちらへ」
典医は夜姫の手を取り人目を離れた。
劉備達はその場で夜姫が帰って来るまでこれからの事を話し合う事にした。
「では、夜姫様は一番奥の天幕へ移動するという事で」
劉備は確認するように袁術に訊ねた。
「あぁ。あそこなら一番、安全な地帯だ。そなた達義勇軍はその天幕の近く。無論私も一緒だ」
「孫堅殿は?」
孫堅は総大将の一人だが袁術の部下だ。
そのため陣は袁術の近くもとい中にある。
「孫堅にも伝えておいたが、快く受け入れてくれた」
「そうですか」
「うむ。それからこれは部下からの要望なのだが・・・夜姫様と宴を共にしたいと言っている」
仮にも陣へ招き入れるのだから、今の内に諸々の将達と交流を深めようというのが建て前らしい。
「それは夜姫様に訊かないと何とも言えませんね」
劉備の言葉に袁術は頷いたがこうも言った。
「だが、夜姫様の性格を考えると話せば出ると言うのではないか?」
自分が迷惑を被っていると言っている夜姫だ。
それで皆が満足できるなら、と考えるのは当たり前かもしれない。
「ですが、夜姫様はまだ起きたばかりですよ」
「それでもあの方の事だ。体調など大丈夫と言って聞かんだろう」
「そうですね・・・・・・・」
2人はどうするべきか、と思い悩んだ。
それから暫くして夜姫が典医に連れられて帰ってきた。
袁術の渡した衣服を身に纏った夜姫は2人の前に立ち謝罪した。
「時間を掛けてすいません・・・・・・」
「いえ。それでは参りましょう」
袁術に言われた夜姫は小さく頷いた。
そして皆でその場を去った。