幕間:道化と誓い
袁紹殿の天幕を出た私は諸葛亮を伴い急いで夜姫様の後を追い掛けていた。
夜姫様は速足で私の天幕に急いでいた。
典医殿が先導しているのだが夜姫様の方が速い。
それを雲長と益翼は追いかけて呼んでいるが夜姫様は足を止めない。
「何故あんなに怯えたのでしょうか?」
諸葛亮が呟き私は考えた。
夜姫様は何かに怯えていたのは確かだ。
・・・尋常じゃない位に。
それが何なのかは分からない。
分からないが余りに怯えている。
何だ?
分からない。
夜姫様は何に怯えていたのだ?
諸葛亮が更に足を速めた。
思考を止めて視線の先を見ると夜姫様が倒れていた。
それを典医殿達が介抱し様とする所だった。
「夜姫様!!」
私は走った。
諸葛亮もまた続いて走った。
急いで夜姫様の所へ行くと典医殿に身体を起こされながら泣いていた。
空虚な瞳からは留めなく真珠のように綺麗な涙が零れ落ちて行く。
まるで本当の真珠だ、と私は不覚にも見惚れてしまったがそれ所ではない。
「夜姫様。大丈夫ですか?」
私は話し掛けたが、夜姫様は答えない。
「怖い・・・怖い・・・誰か助けて・・・助けて・・・・・・・」
夜姫様は身体を起こされながら誰に言うまでもなく助けを求めた。
傍には典医殿達が居るのに、だ。
「・・・夜姫様。大丈夫ですか?」
私はもう一度、夜姫様に話し掛けたが駄目だった。
ひたすら怯え助けを求め続ける。
一体どうなされたのだ?
もう一度、考えてみる。
夜姫様が怯え始めたのは何時だ?
一つの答えに導かれた。
・・・曹操殿。
あの方が夜姫様の容姿を褒めてから怯え始めた。
・・・あの方が、原因か。
・・・・・・・曹孟徳。
乱世の奸雄と言われ、その通り数々の失礼な言い方だが悪知恵などを働かせて魏という大国を支配している。
あの方は天下を虎視眈々と狙っている。
だが、帝からの信頼は厚い・・・・・・・・・・
祖父であった曹騰そうとう様が“中常侍ちゅうじょうじ”・“大長秋だいちょうしゅう”を務めていた事も理由として上げられるだろう。
中常侍とは皇帝の傍で様々な取り次ぎなどを行う役職で大長秋は皇后府を取り仕切る宦官の最高位だ。
この2つの役職を曹操殿の祖父は務めていた。
この方はもうこの世に居ないが、その孫に当たる曹操殿を帝は厚く信頼している。
だからこそ、漢王朝の衰えを間近で曹操殿は感じて天下を狙い始めたのだろう。
いや・・・曹操殿だけではない。
皆が天下を狙い・・・天の姫である夜姫様を利用しようとしている。
恐らくその中でも曹操殿の気が強く・・・当てられたのだろう。
「いあ・・・来ないで・・・誰か・・・誰か・・・・」
夜姫様は尚も助けを求め続けている。
誰が何を言っても聞こえていない・・・・・・
くそ・・・くそっ・・・くそ!!
たった一人・・・目の前で苦しんでいる娘を助けられないで・・・漢王朝復興など出来るかっ
私は何も出来ない自分に激しい怒りを覚え拳を握り締めた。
血が滴り落ちるのを感じたが・・・こんな痛み・・・夜姫様の怯えに比べれば屁でも無い。
何か手は無いのか?
私は誰でも良いから助けを求めたかった。
『おお、随分と苛立ってるな?劉備殿』
頭の中に誰かの声が聞こえてきた。
ある程度歳を取った男の声だ。
誰だ?
私は頭の中に話し掛けてきた男に訊ねた。
『男に名乗る名前は持ち合わせてない。それより今、俺はお前さんの頭の中に話し掛けている。周りには気を付けろ』
言われた私はそれに頷いた。
『それよりそこのお姫さんを助けたいか?』
出来るのか?!
私は藁をも掴む勢いで声に訊ねた。
『あぁ。ただし・・・代償が必要だぜ?』
代償だと?
『俺はただ働きが嫌いだ。だから、あんたに代償を求める』
代償とは何だ?
私に払える物なら払ってやる。
『威勢の良い台詞だな。あんたが俺に対して払う代償は“茨の道”だ』
茨の道?
どういう事か分からず私は訊ねた。
『そのままの意味だ。お姫さんを助ける代わりにあんたには茨の道を歩んでもらうだけだ』
茨の道を歩む・・・・・・
・・・具体的にどういう事になるんだ?
『そうだな。世界を・・・国中を敵に回す事になる』
国中を敵に回す・・・・・・だと?
『あぁ。割に合わないかもしれないが・・・どうする?』
・・・・・・・
無言になる私になおも男は質問してきた。
今、苦しんでいる娘を捨て未来を楽するか?
娘を助け苦しい未来を歩むか・・・・・・
『さぁ、どうする?劉備玄徳様』
男は何処か楽しんでいる口調だった。
私は一度、夜姫様を見た。
夜姫様の顔は青白くなり始めた。
更には熱も出てきたと典医殿は告げた。
苦しそうな息をする夜姫様を見て私は決断した。
愚問・・・一人の娘も助けられず漢王朝復興など有り得ない!!
夜姫様を助ける。
そして私は茨の道を歩もうではないか。
例え世界を敵に回しても構わん!!
『それじゃあ契約成立だな』
だから、早く夜姫様を助けてくれ。
『そう焦るな。先ず姫さんの額に手を置きな』
私は言われた通り夜姫様の額に手を置いた。
皆は私の行動に視線を釘付けにするが私は構わなかった。
『・・・・・・・・・・』
何やら呪文を唱え始めた声の主。
私にはまったく分からない呪文だ。
怪術者か?
だが、今は夜姫様の方が先決だ。
私は考えるのを止めて夜姫様の容態を見続けた。
夜姫様の顔色が良くなり始めた。
そして・・・眠った。
『これで大丈夫だ。後は寝かせておけ』
声の主は息を吐いて私に告げた。
礼を言おう。
『礼なんか要らん。契約に従い俺はやっただけだ』
声の主はどうでも良さそうに言ってきた。
『本当に良かったのか?』
国中を敵に回すかもしれないのに・・・・・・・・
構わん。
夜姫様を助けられるなら私がどうなろうと構わない。
『大した度胸だ。気に入ったぜ。劉備玄徳』
また会おう、と声の主は言ってきた。
また?また会えるのか?
『あぁ。会えるさ。今度はお姫さんと会話をするが、な』
それじゃ、と言って私の中から何かが抜ける気がした。
だが、今は・・・・・・・・・
「雲長。直ぐに夜姫様を寝台に寝かせろ」
「御意に」
雲長は頷くと夜姫様を抱き上げて天幕へと走って行った。
「殿。一体あれは・・・・・・・」
諸葛亮が私に話し掛けてきたが私はそれを遮った。
「後で話す。今は夜姫様の身が心配だ」
「・・・分かりました」
諸葛亮は私の言葉に頷き、皆で夜姫様が連れて行かれた天幕へと向かった。
天幕に行く間、兵たちが私に訊いてきた。
『夜姫様は大丈夫ですか?』
皆・・・心から心配していた。
私はそれに対して大丈夫だ、と答えた。
「ですが、お顔の色が・・・・・・・」
「もう良くなった。どうやら、慣れない環境で疲れたらしい」
「そうですか・・・俺達に出来る事って無いでしょうか?」
「そうだな・・・・・」
私は考えてみた。
夜姫様を心配する彼等に何も無い、などと言うのは酷過ぎる。
かと言って何かあるのか?と言われると困る。
『それだったら、風呂にでも入れてやりな』
そなたは・・・・・・・
『また会おう、なんて格好付けたが直ぐに来た。まったく世話が掛る姫さんだ』
その声には昔を懐かしむような色合いがあった。
失礼だが、夜姫様を知り合いか?
『男の質問には答えない主義だ』
随分と男に厳しいのだな。
私は微かに笑みを浮かべた。
『男に優しくしても嬉しくないからな。それより風呂は出来るか?』
風呂?
『あぁ。お姫さんは女だぞ?しかも、毎日・・・とは言わないが2、3日に1回は湯に浸かる』
風呂・・・我々は湯に浸かる事は滅多にない。
水が足りないのだ。
それは宮廷でも同じではある。
濡れた手ぬぐいで身体を拭く程度だ。
だが、夜姫様はどうやら2、3日に1回は湯に浸かるらしいが・・・ここは戦場だ。
何処も水は欲しいし無駄遣いは控えている。
『水が足りないなら俺が用意してやる。お前さんは風呂を作れ』
分かった。
風呂を作るのは出来なくはない。
ただ、木材を集めるのに時間が掛る。
『どれ位だ?』
明日の朝まで、と思う。
『なら明日の朝まで姫さんを寝かしつけておくから用意しろ。水は風呂が出来次第用意する』
分かった。
しかし、そなたは何者だ?
水を用意するなど簡単ではないぞ?
『何度言えば分かる。男の質問には答えないんだよ。しつこい男は嫌われるぞ。まぁ、度胸に免じて答えてやる』
何処までも尊大な言い方だったが不思議と腹は立たなかった。
『一言で言えば道化。人を笑わせて楽しませる奴だ』
楽しませる?
私は楽しくないぞ。
『俺は女専門だ。野郎の笑いなんて反吐が出る』
そうか。
では、夜姫様の事を頼む。
ただし、何かしてみろ?
そなたを見付けだして首を刎ねてやる。
『おお、怖いねー』
斬られては堪らない、と男---道化は言うと私の頭から消え去った。
「諸君。夜姫様はこの地に来てから一度も湯に浸かっていない。風呂を用意できぬか?水は私が用意する」
私は兵達に道化から言われた事を伝えた。
「風呂なら出来ますっ」
「では、それを頼む。夜姫様は我々と違い女性だからな」
分かりました、と威勢よく言うと兵たちは風呂の準備をした。
「さぁ、急いで天幕に行くぞ」
私は再び天幕へと急いだ。
天幕に到着した私達は直ぐ中に入った。
寝台には夜姫様が寝かされていた。
もう顔色は悪くない。
「義兄者。一体、あれは何をしたのだ?」
雲長が振り返り私を見てきた。
他の者も同じだった。
「うむ。実は・・・・・・・」
私は皆に道化の事を話した。
最後まで聞き終えた皆の反応は同じだった。
「流石は義兄者だっ。夜姫様を助ける為に茨の道を歩むんだからな!!」
益翼が声を大きくして私を褒めたが、直ぐに雲長に叱られた。
「しかし、義兄者。その道化という者は何者でしょうか?」
雲長が訊いてきたが私は分からない、とだけ答えた。
「だが、少なくとも夜姫様の敵ではない気がする」
敵なら私に話し掛けず黙って夜姫様が死ぬのを見ていれば良いだけだ。
それを敢えて助ける事を考えると敵ではない気がする。
「それに夜姫様とは知り合いの気もする」
あの声から察するに知り合いだと察する事は出来た。
「しかし、水を用意するなんて仙人じゃあるまいし・・・・・・」
益翼は道化を仙人では?と言ったが確証は無い様子だった。
「殿。その者は殿の頭の中に話し掛けたのですよね?」
諸葛亮が扇を弄りながら私に訊ねてきた。
「うむ。突然、私の頭の中に話し掛けてきた。そして夜姫様を治した」
仙人・・・そうでなくても人間ではない。
「私にも分かりませんね。ですが、夜姫様の容態が治ったのなら良いです。しかし、国中を敵に回すとは・・・・・・・・・・」
「諸葛亮よ。私は漢王朝を復興する夢がある。それには茨の道も歩む事だろう。それが確実になっただけだ。そう気を落とすな」
「ですが、国中を敵に回すという事は漢王朝も敵に回すと思いますが?」
「そうだとしても、一時の誤解だ。誤解は解ける。案ずるな」
言葉では楽観的に言ったが、心では不安だった。
道化は国中を敵に回す、と言った。
それは漢王朝もまた敵に回るという事を意味している。
それでも私は夜姫様を助けたかった。
漢王朝と戦う気は毛頭ない。
私は漢王朝にこの身を捧げている。
殺されるのならそれで本望だが・・・夜姫様の安全を見るまでは死ねない、と思う自分が居る。
しかし、悪い気はしない。
漢王朝復興と同じ位・・・いや、それ以上に私は夜姫様を護りたかった。
それが今の私の正直な気持ちだ。
夜姫様の方へ視線を向けると・・・・可愛らしい天女の寝顔が見えた。
純粋な寝顔・・・まるで赤子だ。
この笑顔を汚してはならない。
汚す者は誰であろうと力の限り退けてみせる。
私は夜姫様の寝顔を見て改めて決意を固めた。