駄文
「辛いと思ったとき、悲しくなったとき、寂しくなったとき、この手紙を開いてみてね」
引き出しの奥底から取り出した封筒のおもてには、たしかにそう書いてあった。
裏返して、糊付けもされていない封を開ける。
ずっと覚えていたわけじゃない。ただ、誰かが耳元でそっと囁いたみたいに、ふいにこの手紙の存在を思い出した。導かれるように、その場所へ手を伸ばしていた。
少し乾いた指先に、やわらかな便箋の端が触れる。
丁寧に揃えられた角を崩さないよう、ゆっくりと紙を開いた。
何が書かれているのかという好奇心と、理由のわからない期待で、心臓が早鐘を打つ。
煩く響く鼓動を無視して、私は文字を追った。
「君へ」
久しく見ていなかった文字の形。
こんな字だっただろうか、と一瞬戸惑う。そういえば、一緒にいたころ、彼の字を意識して眺めたことなんてなかった。
整っていて、静かで、彼らしい字。
紙から彼の気配が立ちのぼる気がした。
「きっと、この手紙を読んでいるってことは、僕はもう君の隣にいないんだろうね」
小説みたいな書き出しだと思った。
でも、否定できない。私は今、ひとりだ。
「君が辛いとき、僕がいつもしていたことを思い出してみて」
「ほら、いつも笑ってたでしょ。“大丈夫だよ”って」
ダイニングテーブルで。
ソファで。
寝室で。
外では平気な顔をして、家に帰ると泣いてしまう私の頭を撫でて、彼はいつも微笑んでくれた。
あの頃は疑わなかった。
この人は、ずっと隣にいるんだって。
私を励ましてくれるのは、この人なんだって。
「こうして君の隣で励ませない未来が来るなんて、僕も考えてなかった」
そうなんだ。
彼も同じ気持ちだったんだ。
少し安心した、その直後__
「君がいない世界でも、僕は幸せにしてるよ。笑ってる。だから君も笑って」
少し強い筆圧で、しっかりとそう、記されていた。
……なに、それ。
私がいなくても、彼は幸せなの?
胸の奥が、じわじわと冷えていく。
希望を求めてこの手紙を開いた自分が、ひどく愚かに思えた。
私は、こんなにも__
こんなにも、寂しいのに。
「……なんて、言うとでも思った?」
「君がいない世界が幸せなわけない。想像するだけで怖くて、このペンが止まりそうになる」
「君がいないことは、僕にとっても同じくらい苦しい。今この手紙を読んでる君と、僕も同じ気持ちだよ」
目頭が熱くなる。
視界が滲んで、胸の奥が沸騰するみたいに苦しい。
彼が隣にいた温もり。
同じ柔軟剤の匂い。
私より深い呼吸。
しっとりとした指先。
全部が、鮮明に蘇る。
「……っ、ぁ……」
力が抜けて、床に崩れ落ちた。
頭を強く打ったけれど、痛いのかどうかも分からなかった。
この胸の痛みに比べたら、どんな痛みも取るに足らない。
嗚咽混じりの泣き声が、何もなくなった部屋に響く。
もう二度と満たされることのない、私たちの部屋に。
「隣にいられなくなって、寂しいのも、苦しいのも、辛いのも、痛いのも、君だけじゃない」
「この痛みは、おそろいだよ」
最後のおそろいは、
こんなにも痛くて、忘れたくないものだった。
どれくらい泣いただろう。
涙が枯れて、それでも何かを吐き出そうと口を押さえたとき、手紙の最後の言葉が目に入った。
「こんな手紙を読ませてごめん。君の辛さが増えたらごめん」
「それでも伝えたかった」
「大好きだよ。愛してる」
「これからは、自分の力で生きていくんだよ」
「じゃあ、僕は、もう行くね」
便箋を握りしめる。
ぐしゃり、と残酷な音がした。
本当に、ひどい手紙だ。
いなくなる前から、こんなものを用意して。
こんな言葉だけ残して。
ぐしゃぐしゃになった便箋を広げて、私は何度も読み返す。
最初から、最後まで。
何度も、何度も。
私は、必死に彼の言葉を胸に刻んだ。
彼が残した、最後の温度を。




