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二階の娘

 お昼前だ。そろそろ腹が減ってくる。それで、冷蔵庫の中をゴソゴソと漁る。あった、あった。冷凍パスタと鶏肉の甘酢あんかけ。あと冷蔵室に野菜サラダあったっけ?これでいいか。食卓に腰かけた健一は、とりあえず空腹を凌ぐ。パクパクと喰う。ようやく自制心が戻ったようだ。ありがたい。

 今日は、会社も休日だ。今日だけは、ゆっくりと羽を伸ばすことが出来る。食べ終えて、食後のコーヒーを飲むことにする。健一はコーヒー豆にうるさい。こだわりがある。いつも決まって、コーヒー豆は、コスタリカ産と決めている。あの強い酸味が癖になる。それをミルで挽いて、ドリップする。この間が堪らなく楽しい。そして、ゆっくりとコーヒーを味わう。今日は、窓から、外の景色でも見てみるか?健一は、カップを持って、窓辺にアームチェアを置くと、外を見た。よく晴れた良い天気だ。どこかで、小鳥も鳴いている。向こうを見た。向かいは、道路を挟んで、豪華な一軒家が建っている。健一は、格安マンションの一階だから、雲泥の差だ。いいなあ、どんな暮らし、してるんだろう?

 するとである。向かいの家の二階の窓が、静かに開いたのである。おやっと、健一が見ていると、その窓の中から、ひとりの若い娘が顔を出して外を見ているようだ。その娘を一目見た途端に、健一は激しい胸の高鳴りを覚えた。綺麗だ。美しい娘であった。端正で、鼻筋の通った色白の娘。髪型までは暗くて分からないが、かなりの美貌の持ち主だ。健一は、一目見て惚れ込んだ。好きになったのである。あの娘、何とか僕の彼女になればなあ、なんて夢想しながら、うっとりと眺めていると、やがて、彼女は、外の景色を見てしまって、気が済んだのか、また静かに窓を閉めてしまった。

 しかし、健一は気が気ではない。彼女を見てしまったからだ。それからというもの、見るもの、見るもののすべてに、彼女の面影が重なって見える。これを恋というのだろうか?彼は、どうしようもないやるせなさに、こころのやりどころを失ってしまった。

 翌日は、月曜日で出勤である。健一は、重い足取りで、会社へと向かう。何だか気が気ではないのは変わらない。マンションを出るときも、扉の鍵をかけるのをうっかりと忘れて、気づいたのは、しばらく歩いてからだ。ぼんやりとしているせいだとは分かっていてもどうしようもない。そんな調子だから、駅の改札口も素通りしようとして、機械に止められた。惚けているようだ。会社でもそうだ。彼は、某商社の企画部に勤務していたが、午前中の会議で、つい、ウトウトと居眠りをしてしまったのだ。それを隣にいた同僚が、こっそりと起こしてくれたが、堪ったものじゃない。そんなこんなも、すべて彼女のせいなのだが、言えるわけもない。恋は盲目とは、いうものだが、まさにそうである。彼は、目の前が見えてなかった。何とか、彼女と話でも出来ればなあ、という儚い願望であった。

 こんな調子だから、労働もクソもなくなってくる。とにかく仕事にならない。それで、まともに働くのは、早めに切り上げて、早々に帰宅する。で、仕事のストレスが溜まったのか、何だかムシャクシャしてきた。誰かに当たるか、難癖でもつけたくなってくる。それで、帰りの駅近のコンビニのことである。

 客がやたらと多い。それがむかつく。そのコンビニで、夕食のカツカレー弁当と、特大シーザーサラダと、ブラックコーヒー缶を購入する。しかし、それにしても、レジに並ぶ客が多くて長い列だ。腹が立って来た。それで、健一は、ついに業を煮やして、大声を上げて、

「おい、早く行けよ!こっちは、急いでんだぜ!」

と、叫んでしまった。皆が振り向いた。怖い顔をしている。そんなもの、負けるか。

「クソ、知るかよ!」

 何だか、余計にむかついてくる。それで、何とかレジを済ませて、床に唾を吐いて店を出た。

 それでも、満腹の効果は凄いものがある。マンションに帰宅して、夕食を取り、コーヒーを飲んでいると、だんだんと気が済んで落ち着いて考えられるようになってきた。すると、また、あの娘が気になってくる。あの娘、いるかな?それで、また、チェアを窓辺に置いて、窓を開け、隣の家を見る。二階の窓だ。

 しばらくは、健一は、馬鹿みたいな顔をして、隣の二階の窓を穴が開くくらい、ジッと見つめていたが、1時間も過ぎただろうか、突然に、窓が開いた。

 あの娘だった。相変わらずの美人だ。こっちには、まったく気づかない様子で、夜空を見上げている。楽しそうだ。ピンクのネグリジェもセクシーでよく似合う。彼女は、しばらく夜空を満喫していたが、またピシャリと窓を閉めてしまった。

 でも、健一は満足であった。また、彼女に会えたのだ。嬉しかった。それで、気分良く、部屋でクラシック音楽のワーグナーを聴いていたのだが、またぞろに会いたい、話したいという願望が募ってくる。これは、どうしようもなかった。昨日の繰り返しである。話したい。会って、親密に話したいという切なる願いが、健一の頭に渦巻く。どうすればいいんだろう。訳分からん。それで、ともかくも、寝室のベッドで悶々として眠ることにした。でも眠れない。それで、うつらうつらしているうちに、いつの間にか朝が来た。

 翌日も、同じようなことである。朝の出勤時に、玄関の鍵を掛けるのを忘れて、自動改札機で止められた。もう、訳が分からない。会社でも、同じことである。コピー作業で、コピーする書類の裏面を大量に印刷してしまい、白紙だらけになった。会議の時も、いくら待っても、皆が来ない。おかしいなと思って、隣の部屋を覗いたら、とっくの昔に会議は始まっている。それで、慌てて席についたが、怒った上司から大目玉を食らった。自分のデスクにつくときも、持っていたコーヒーカップからコーヒーをこぼしてしまい、隣の同僚の上着を汚してしまう。そんなこんなで、また仕事にならず、帰宅したが、また寝不足と仕事のストレスで、帰りはイライラしてくる。

 帰りの電車の中だ。車内は、乗客でごった返していた。健一は、立って、吊り革につかまっていたが、妙に混んでいる。おかしいと思ったら、車内に車椅子の女が幅をきかせて陣取っている。よく見えないが、まだ若いようだ。こんな時に、いい加減にしろよ、と思っていると、ついに大声で、

「おい、そこの車椅子、ちょっとは考えて乗れよ!迷惑なんだよ!」

と、叫んでいた。

 するとである。その車椅子の女性が、ゆっくりとこちらを振り向いた。その瞬間に、健一は愕然とした。

 それは、あの二階の娘であった。間違いない。何度も見ているから、間違えようがない。しまった、と思った。

 しかし、手遅れである。娘は、少し悲しげに下をうつむき、そのままの姿勢で、次の駅が来ると、さっさと電車を降りていった。もう、どうしようもない。健一の顔は、しっかりと彼女に見られている。もう、駄目だ。

 これで、健一の恋物語も終わった。皮肉な結末ではある。あとは、時が彼を癒してくれるのを待つしかないのである。彼はまだ若い。まだまだ、未来はあるのだ。

 健一は、マンションの窓辺から、隣の家の閉じられた二階の窓を見上げて、何度も、溜息をついているのであった.......................。

 

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