表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

アヌビス始動

世界は二つの理に割れていた。数式と機械で因果を制御し、電気を刻む文明――科学サイド。言葉と印で因果を撚り直し、見えない縁を引き寄せる文明――魔法サイド。五対五、十の国が互いの常識を武器にして、長いあいだ睨み合ってきた。


それでも一度だけ、同じ方向を見た時期がある。地の底から掘り出された光の鉱素、エナジーが見つかったときだ。わずかな欠片から都市を丸ごと動かすほどの電気や資材を錬り出せる。科学はそれを製錬し電力へと変換する術を持ち、魔法は潜在力を察しても、安定して電気や資源へ変える工程を持たなかった。だから六基のエナジー炉が建てられた。三基は科学の領に、三基は魔法の領に。所有は共有、産出の配分は十の国へ等しく。炉を回すのは科学サイドの専門家で、魔法サイドは学生を派遣し、見学ではなく実地で学んだ。段階ごとの講習と現場実習を修めれば、「運転補助課程修了票」と「技能適合票」に監督官の記名印が押され、補助工程への参加権限が与えられる。橋は架かったはずだった。


十年前、その橋は崩れ落ちた。魔法の領に建つ炉のひとつが、朝の交替時刻に白い息を吐くように爆ぜた。轟音はなく、しかし街は一瞬で廃墟になった。運転に従事していた科学の専門家は重傷を負い、意識を失い、帰らぬ者もいた。対照的に、最終実習を終えたばかりの魔法の学生たちは軽傷で全員が生き残った。彼らは事故直前、見学区画の切り替えで安全な側にいた、と報告した。科学側の監督官は確かに彼らの履修完了に記名していた。


結果だけを見れば、あまりにも都合がよかった。科学サイドは弁明を待たず、魔法領に残る二基から専門家を引き上げ、電力の供給を止めた。魔法サイドは横暴だと反発し、科学サイドは裏切りだと宣伝した。口を塞いだまま殴り合う形で、戦争は再燃した。


事後が起きなかった2基の原子炉は魔法領の学生たちが再稼働して現在の魔法領の電力を賄っている。


事故炉の街は、地図の上で安全と記された封鎖緩衝帯の中にある。だが、地図の安全は現場の安全を保証しない。衛星の線は美しくても、瓦礫の角は美しくない。そこへ入るために新設されたのが、十三人でひとつの特殊小隊――アヌビスだった。任務は調査、記録、そして生還。最優先も生還、次点も生還。死んでも記録を返す。


白いブリーフィングルームに、十三の影が並んでいた。最奥に立つのは小隊長、アーロン・ハイド。三十五、頬の線は削がれ、目の下に薄い隈。手元の端末には衛星とドローンと地中レーダーから引いた経路図が重ねられている。比較的安全とされる道筋と、危険が推定される領域が色調で分けられていた。文面には「安全性は高い。されど現場判断を以て常に用心されたし」と干からびた官僚語が添えられている。アーロンは、その色を隊員に配らないと決めていた。正解に甘えた足は、現場で滑る。


「状況を説明する」


低い声に、立方体の街が卓上に浮いた。中心は黒い穴、折れた橋脚、骨だけの高層。錆の縁取り。粉のような風。


「十年前、魔法領の炉で事故。運転の科学側は死傷。魔法の学生は軽傷で全員生存。これを契機に、科学は魔法領の二基から専門家を帰還させ、供給を止めた。現在、現場は緩衝帯内。形式上は魔法領だが、監視網は破れが多い。任務は内部の現況確認と記録。掃討ではない。観測だ」


重火器手のカイル・バーンズが舌打ちを飲み込んだ。「観測で腹は膨れない。どうせ向こうの仕込みだったんだろ。学生だけ軽傷? 臭うにも程がある」


副官のマルコ・ヴェイルが淡々と返す。整った顔、整った声。「臭いがどうであれ、我々の仕事は記録することだ。信じるかどうかは会議室の役目だ」


狙撃手のリラ・コールマンが銀髪を束ね直し、窓のない壁を一瞥した。「照準器は校正済み。風の匂いが悪い。高所の利点は見込めない」


「風の匂いがわかるって、相変わらずすごいよね」軽い声音が空気をほんの少し薄くした。「俺なんか飯の匂いしか嗅ぎ分けられないのに」


皮肉屋のオスカー・ドレイクが片頬だけで笑った。二十五、成績は全部ぎりぎり、肩書は一般兵。若い顔に若い笑い。軽い言葉。


「無駄」ミラ・エヴァンスは視線すら向けない。黒髪を短く刈り、言葉は必要最小限。「報告に役立たない」


「役立つ軽口があったら教えてくれ。メモるから」


「中身を伴わない軽口は嫌い」ジェイナ・ロウが工具袋を叩いて笑う。「盛り上げるなら、せめて頼りがいで盛り上げて」


通信兵のノア・フェリスが痩せた肩をすくめ、端末を覗き込む。「……外縁は通信良好、中心に行くほど遅延が増える見込み。しきい値上げれば画が飛ぶ。下げればゴミが増える。悩ましい」


「悩みは持ち帰れ」アーロンが短く切る。「追加。事故当時、魔法の学生の一部は『運転補助課程修了票』と『技能適合票』の交付を受けていた。監督官の記名も残っている。事実として記憶しておけ」


「事実だと?」カイルが笑い皺を深くする。「紙に押した印が何を証明する」


「紙は紙だ」マルコが代わりに受ける。「我々は紙より厚い証拠を拾う」


偵察兵のダリル・ホーグが早口で割り込んだ。「側方センサー、今のところ発振良好、偽像補正オン。緩衝帯の端だと磁場の揺れが報告されてるけど、ここでは未確認。未確認は怖い。怖いからよく見る」


「怖いは正常だ」寡黙なトーマス・ケインが低く言う。「怖いから生きる」


衛生兵のサミュエル・グレンが穏やかに頷く。「体調不良は事前に言ってくれ。酔い止め、鎮静、止血、簡易縫合を持っている。イアン、呼吸は吐くから始める」


「はいっ!」最年少のイアン・クロスが背を伸ばす。茶髪が弾む。「吐いてから吸う、ですね!」


「はっはっは、いい声だ」ヘンリー・ダグラスが豪快に笑って肩をばしんと叩く。「帰ってきたら肉だ、厚いのをな。隊長の奢りで」


「奢る気はない」アーロンの口元は動かないが、室内の温度が半度ほど和らいだように感じた。「ルールは三つ。射撃は許可を待て。観測を最優先。勝手に英雄になるな。……最後に、経路の推定について。地図は『安全性は高い。されど用心されたし』と言っている。だが地図は紙だ。現場は瓦礫だ。紙に命を預けるな」


「質問」リラが手短に問う。「魔法兵の目撃は?」


「断片的にある」マルコが答える。「影だけ、あるいは残留術式の反応。確証なし」


「確証なしが一番嫌いだな」ジェイナが工具袋の口を締めた。「確証が出たときには、もう遅いことが多い」


「遅い前提で動くな」ミラが静かに言った。


「じゃあ早い前提で喋る」オスカーが手を挙げる真似をする。「帰ってきたら飯は誰の奢り?」


「黙って」リラ。


「作業に集中」ミラ。


「口より手」ジェイナ。


「了解、三連コンボ」オスカーは肩をすくめ、えくぼを一瞬だけ見せた。


アーロンが視線を一巡させる。「他に?」

誰も手を上げない。重たい沈黙が、合図のように揃う。


「では準備に入れ。五分後に集合。出発だ」


椅子が床を擦る音が重なり、白い部屋から鉄と油の匂いがする通路へ、十三の足音が流れていく。


格納庫の扉が開くと、午後の光が薄く流れ込んだ。輸送車が三台、整然と鼻を並べている。荷台のコンテナには補給箱、簡易障壁、巻かれたロープ、発電ユニット。壁際のラックには予備のマガジンと、個人装備の予備パーツ。床に点々とした溶接の焼け跡は、いつ誰かが急ぎで補修した痕。


「重い。けど軽いよりマシ」カイルが弾帯を持ち上げ、うなじを鳴らした。「弾は多いほど心が軽い」


「ボルト一本落とすなよ」ジェイナが笑いながらも目は厳しい。「拾うのは命より面倒だ」


「無駄のある配置は嫌い」ミラが自分のプレートの位置を数ミリずらす。「ベルト、左に二目盛り」


「……通信、外縁は良好。中心は、たぶん嫌。遅延がじわじわ来る感じ」ノアが耳で電波を聴くように目を細めて言う。「アンテナの角度は都度合わせる」


「心拍、全員安定。イアン、指先の冷えは緊張の証拠だ。くだらない冗談でもいいから口を開け」サミュエルが救急袋の口を確認しながら視線だけで笑う。


「くだらない冗談なら任せてよ」オスカーが手袋を二回ひねってはめる。「帰ってきたら肉の他にスープをつけよう。体に優しいやつ」


「優しさは重くて邪魔」ミラが即答する。


「スープは軽いだろ。味も」オスカーが肩をすくめる。


「スープでも重くできるさ」ヘンリーが笑う。「肉を沈めればな」


「返事は百点」トーマスが低く一言だけ。オスカーが「採点早い」と笑う。


リラは黙ってバイポッドのネジを締め直し、覗き見たオスカーに冷ややかに言った。「触るな」


「触ってない、見ただけ」オスカーは両手を上げる。「見て学ぶのは学生以来してない?」


「私は学生の頃から独学だった」リラは短く切る。嫌味ではなく、事実だけが声になる。


「側方センサー、起動良好。偽像補正、規定値。磁場、揺れ……いまはなし」ダリルは自分の胸元で配線を指でたどる。「緊張は正常。正常は安心。安心しすぎは異常」


「異常は記録」マルコが歩きながら各員の装備に視線を滑らせる。「ヘルメットカメラは常時オン。遅延が出たら即報告。記録は嘘をつかないが、遅れる」


「遅れる嘘は嫌い」ミラがうなずく。


イアンが両手を擦って息を吐く。「吐いて吸う、吐いて吸う……よし。えっと、ジェイナさん、これ――絶縁工具の方ですよね?」


「よく見ろ。柄に黒いラインが入ってるだろ」ジェイナが優しくも速い手つきで工具の並びを整える。「間違えたら死ぬ。死にたくなかったら、間違える前に聞け」


「はい!」


「――なあ、隊長」カイルがアーロンに近づく。「本当に観測だけでいいのか。相手にゴーレムだか骸骨だかが出てきたら、黙って記録か」


「射撃許可を待て」アーロンは工具箱の蓋を閉めるみたいな口調で言う。「必要なら撃て。必要の基準は私が出す」


「必要の基準が遅れたら?」カイルの目は挑発の筋を見せる。


「遅れは私の責任だ。お前の責任は引き金を軽くしないことだ」アーロンは一瞬だけ視線を上げ、すぐに外した。「それと、口を軽くしないことも」


ヘンリーが笑って割って入る。「口が軽いのはオスカーの担当だろ」


「配属、口軽担当。新設ポスト?」オスカーが楽しそうに言う。「役職名が長いと格好いいよね」


「格好よさに意味はない」ミラは淡々と斬る。


「意味がないものばっかり愛されることもある」オスカーは手袋をもう一度ひねる。「例えば、俺」


「愛されてはいない」リラが断言した。その冷たさは刃ではなく、無風だった。


「……外縁通信、再確認。ノイズ少。遅延小。可」ノアが言い、ダリルが「側方センサー、可」となぞる。マルコが「手順、可」とまとめる。


サミュエルが全員の顔を順に見た。「トイレの最終。喉は潤しておけ。喉が乾いていると判断は鈍る」


「喉が乾くのは緊張の証拠だろ」カイルが水筒を空にする。「判断を鈍らせない緊張の仕方を教えてくれ」


「吐いて吸う」トーマスがぶれない。「吸って吐くな。先に吐く」


イアンが真似をして、オスカーがつられて大げさに息を吐く。ヘンリーが笑う。ジェイナが呆れた顔で笑う。ミラは笑わない。リラも笑わない。ノアは端末から顔を上げない。ダリルは手の震えが少し収まっている。マルコは時計を見る。アーロンは全体を一度だけ見回し、端末の画面を暗くした。


「一つだけ、確認」アーロンが言う。「敵影の確認はないが、可能性はある。だから用心しろ――解散」


そのタイミングで、オスカーが半歩進み出て、両手を広げた。「最後の発言の機会をください。帰ってきたら――」


「黙れ」リラ、ミラ、ジェイナがほぼ同時に言う。三人三様の声色が、見事に和音になった。


「了解。民主主義」オスカーは肩をすくめて笑い、しかしその笑いは少しだけ薄かった。


「隊形の再確認」マルコが短く告げる。「降車後は徒歩、菱形。前衛カイル、左右警戒リラとミラ、後衛サミュエル。中央に隊長と私。ダリルは側方センサー、ノアは通信維持。ジェイナ最後尾で障害処理。イアンはジェイナの隣。オスカーは中央左寄り」


「中央左寄り、迷子にならない席。ありがとう」オスカーが片手を挙げる。


「迷子にはならない」ミラが即座に切る。


「なりたくてもなれないよ」ヘンリーが笑ってオスカーの頬を軽く指で突く。「目立つからな、お前」


「目立つのは顔より態度だろ」カイルが肩で笑う。「態度が軽い」


「軽い態度は重い状況で役に立つこともある」サミュエルが柔らかく言う。「緊張を抜くには、誰かが笑わないといけない」


「笑わせ方にも品が要る」リラの声は刃ではないが、角度を間違えると刺さる。


「品、納品予定日未定」オスカーが手のひらを見つめて言う。「急ぎの発注は高いよ?」


ジェイナがため息混じりに笑った。「納期遅延は許さない。現場は待ってくれない」


「現場は待たない。だから行く」アーロンが腰に装備を締め直し、顎で格納庫の出口を示した。「乗れ」


その一言で、空気が変わる。冗談と文句は即座に収まり、十三の体が同じ方向に傾く。

床の黄色いラインに沿って列が動き、輸送車のドアが一台ずつ開く。金具が鳴り、踏み板がきしむ。最初に乗り込むのは前衛のカイル。重い弾帯が金属と擦れて低い音を立てる。リラが無言で続き、ミラが淡々と足を置く。ヘンリーが笑いながら頭をかがめ、トーマスが一言もなく続く。ダリルは一瞬だけ深呼吸をしてから足を上げ、ノアは端末を胸に抱えたまま滑り込む。ジェイナは工具袋を片手で持ち上げ、イアンの背中を押してから自分が乗り込む。サミュエルは最後に医療箱の留め具を確かめ、軽く二度叩いてから乗り込む。マルコはドアの位置と順番を目で数え、迷いなく足を置く。


オスカーは入り口で一秒だけ立ち止まり、振り返って格納庫の天井を見上げた。広い白。誰も見ていない。彼は肩をすくめ、荷台にひょいと身を投げる。


最後にアーロンが乗り込む。ドアが閉まり、格納庫の光が細い線になって消えた。

エンジンが低く唸り、車体がゆっくりと前へ動き出す。

十三人の呼吸が、揺れに合わせて少しずつ同じ波になる。

誰もまだ、誰を信じていいか知らない。

誰もまだ、誰を疑うべきか知らない。

ただ、今は――乗り込んだ。出発だ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ