婚約者の義妹に完膚なきまでにやられた
「はじめまして、エリアーヌ・シュテンヒルドともうします」
婚約者に義妹ができたらしい。
婚約者のマリウスはシュテンヒルド伯爵家の次期当主である。サファイア・オデット侯爵令嬢は、オデット侯爵家の三女として生まれ、次期伯爵となるマリウスを支えるべく婚約が結ばれた。そのマリウスに義妹ができたらしいということを、サファイアは婚約者本人からではなく、友人たちを招いたお茶会で、ある伯爵令嬢から聞いたのだった。
最近、マリウスが忙しそうで、定例のお茶会もキャンセルが多く、何かあったのだろうと思っていたが、マリウスから話を聞くまではとサファイアは鷹揚に構えていた。そのため、まさか婚約者から事情を聞く前に、他人から「義妹ができた」と知らされ、さすがのサファイアも淑女の笑みが少し崩れる。
どうやら現シュテンヒルド伯爵の遠縁の子爵夫妻が事故で亡くなり、その一人娘を引き取ったのだという。ここ最近のマリウスの忙しそうな様子に納得しつつも、サファイアの心は少しざわついていた。
マリウスとはたしかに政略的な婚約ではあるが、婚約者として良好な関係を築いてきたつもりである。しかし、最近流行の恋愛物語が頭をかすめ、サファイアの手のひらにじわりと汗がにじんだ。
「まるで、『薔薇と楽園』みたいですわね〜」
その伯爵令嬢も同じことを思ったらしい、はた目にはにこやかに、なんでもないふうに言っているが、実際はただの嫌味である。ほかの令嬢たちはその話に乗るべきか取らざるべきか、気まずそうにほほ笑むばかりだ。友人とは言っても、みんなが皆仲良しこよしというわけではない。
とくにマリウスは、見目もよく紳士的で、次期伯爵家当主であるから、あわよくばと思っていた令嬢も少なくない。そこに、まるで家の力を使ったかのように収まったサファイアに一物を抱えている令嬢も少なくはないだろう。
そんな嫌味を笑顔でかわしながら、サファイアは『薔薇と楽園』のストーリーを思い出していた。
『薔薇と楽園』は、とある侯爵家が舞台の恋愛物語である。侯爵家子息に生まれた主人公が、ある日義妹として現れた令嬢と恋に落ちる。ところが、それを知った子息の婚約者である令嬢が、義妹をいじめ抜き、ついにはその婚約者の令嬢を追い出して、義妹と真実の愛で結ばれるというご都合主義の物語だ。侯爵子息がそんなに無責任でどうするのだとか、婚約者をないがしろにしていたら怒るのは当然だとか、思うところはたくさんあるが、これが市井では今人気なのだという。
サファイア自身はまだ読んだことはないが、侍女や使用人たちが盛り上がっているのは知っていた。そこに登場する婚約者の令嬢を、「悪役令嬢」と呼ぶそうだ。おそらく目の前の伯爵令嬢は、サファイアを遠回しに「悪役令嬢」と言っているのだろう。
「その物語でしたら、今市井で人気だと評判ですわね。わたくしは読んだことはございませんが……市井の物語にもくわしいなんて、すばらしいわ」
「貴族の分際で低俗な物語を読んで恥ずかしくないのか」と遠回しに言うと、その伯爵令嬢は顔を赤らめ、悔しそうにうつむく。サファイアは優雅に紅茶を口に含み、このあとのことを考えていた。
このまま、引っかかりを抱えたまま我慢をするほうが淑女としてはふさわしいのかもしれない。でも、もしそれで手遅れになったら?いくら男性側の瑕疵があっても、婚約破棄となれば傷がつくのはサファイアであり、オデット侯爵家だ。
それだけは我慢ならないと、サファイアは固く決意した。
お茶会を予定通り完遂し、サファイアはその足で母のもとに向かう。母ならば、シュテンヒルド伯爵家に引き取られたという娘のことを知っているかもしれない。父にいきなり聞くのは少しためらわれた。殿方はこういうとき大体「悋気を起こした」と解釈するのだ。
「お母様」
「サファイア、お茶会は終わったの?」
「ええ、滞りなく」
母は部屋で刺繍をしていたようだ。オデット侯爵夫人は刺繍の名手として有名で、現王妃陛下が王太子妃だったときには、直接刺繍の指導をしていたという。今も高位の貴族令嬢たちに刺繍を教えることが多く、暇さえあれば、母は技術の研鑽に勤しんでいた。
「……お母様、シュテンヒルド伯爵がお嬢様を引き取ったとお茶会で聞きまして」
母は刺繍の手を止め、サファイアの隣に座りその手を握る。
「旦那様から、わたくしも少しお話を聞いているわ。サファイア、心配になったの?」
「ええ。市井で流行っているという物語もありますし……」
サファイアの顔がかっと熱くなる。ただの物語に引っ張られ、余計な心配をしてしまった自分に羞恥を覚えた。
「ふふ、まだまだ稚いこと。でも、マリウス様が不誠実な方ではないと、サファイアならわかるわね?」
「はい」
「そうは言っても、最近マリウス様はお忙しそうですし……。旦那様からそれとなく様子を伺っていただくよう、わたくしから言ってみるわ」
「お母様、ありがとうございます」
「いいのよ。ただ、あなたは伯爵夫人になるのだから、どんと構えることも必要だわ」
「はい、わかりました……」
母はそう言いながらも愛おしそうにサファイアの頬を撫でる。サファイアはそれがうれしく、しばらく目を閉じて母のぬくもりを感じていた。
父がそのあとすぐ動いてくれたらしい。サファイアのもとにマリウスから手紙が届き、「新しい家族を紹介したい」と連絡があった。どきりと心臓がはねたが、サファイアは「ぜひお会いしたいです」とすぐに返事する。
こうしてとんとん拍子に、サファイアはシュテンヒルド伯爵家に招待されたのだった。
当日、マリウスの迎えを緊張の面持ちで待っていると、母にかるく肩を叩かれる。「どんと構える」――母の言葉を思い出し、サファイアの緊張もいくぶんかほぐれた。
迎えにきたマリウスはいつも通りで、父と母にていねいにサファイアを預かることを告げ、サファイアを大切そうにエスコートして馬車に乗せる。馬車に二人きりになると、すぐに最近のことを謝罪された。
「最近家のほうがバタバタしていて、サファイアとの時間が取れなくて申し訳なかった」
「とんでもございません。今こうしてマリウス様にお会いできているんですもの。それだけでうれしいわ」
サファイアは嫌味のひとつも言わず、にっこりとほほ笑む。マリウスも安心したようにほっと息をついた。
「実は……遠縁の子爵家で不幸があって、そこの一人娘をわが家で引き取ることになったんだ」
「……そんなことが。まずはお悔やみ申し上げます」
すでに知っていることでも、サファイアは今初めて聞いたように驚いてみせる。
「そんなわけで手続きやそのほかの処理で忙しかったんだけど、ようやく落ち着いて、サファイアに義妹を紹介できるようになったんだ」
義妹、という言葉に、サファイアの手に自然と力が入る。
「その……マリウス様の義妹とは、どのような方なんでしょうか?」
「ああ、名前はエリアーヌというんだ。そうだなあ……かわいらしい子だと思うよ。もちろん、サファイアの美しさにはかなわないけど」
まっすぐなマリウスの言葉にサファイアははにかみながらも、「かわいらしい」という言葉にどうしても胸をざわつかせざるを得なかった。
シュテンヒルド伯爵家に到着すると、伯爵は仕事で不在のため、夫人が出迎えてくれた。
「サファイアちゃん!なかなか会えなくてさみしかったわ〜」
シュテンヒルド伯爵夫人に抱きしめられ、サファイアは思わず笑みがこぼれる。シュテンヒルド伯爵夫人は、御年四十とは思えないほど若々しく、無邪気なところのある夫人である。嫌味を言われても嫌味と気づかない天然なところがあり、彼女を前にするとどんな人間でもその棘がとれていくらしい。サファイアのもやもやもとけていくような気がした。
「母上!あまりサファイアに抱きつかないでください」
「やだわ、マリウスったら妬いてるのね?余裕のない男はモテないわよ、ねえ、サファイアちゃん?」
「母上!」
焦るマリウスをからかうように笑って、夫人はサファイアの手をとったまま「こっちよ」と案内をする。マリウスの様子や夫人の様子を見ても、マリウスと義妹があの物語のような関係になっているとは思えず、サファイアはすっかりいつもの自分を取り戻していた。
サロンに案内されると、夫人が声をかける。
「エリアーヌ、お客様よ」
どこにいるのだろうとサファイアが視線をさまよわせると、ソファからとても小さい女の子が緊張の面持ちでとてとてと目の前に歩いてきた。
「はじめまして、エリアーヌ・シュテンヒルドともうします」
ドレスのすそをかるくつまんで、まだおぼつかない足取りで淑女の礼をとるエリアーヌに、サファイアは言いようのない胸の高鳴りを覚えていた。
「はじめまして、サファイア・オデットと申します」
「サファイアちゃんは、マリウスの婚約者なのよ」
伯爵夫人は、立派にあいさつをしたエリアーヌの頭を優しく撫でる。
「こんやく……?」
「そうね、エリアーヌのおねえさまになる人よ」
「まあ、気が早いですわ」
「早いことはない!」
サファイアが言うと、マリウスが容赦なく否定してくる。驚いて顔を見ると、照れたのか目線をそらされた。その二人のやり取りを見て、エリアーヌの顔がぱあっと明るくなる。
「おねえさま!おねえさまのこと、おねえさまとおよびしたいですっ」
エリアーヌのかわいらしいお願いに、サファイアの心にすとんと何かが刺さった気がした。
「おねえさま!このご本をいっしょによみませんか?」
エリアーヌの小さい手をつなぎ、サファイアは案内されるままエリアーヌに与えられた部屋に向かう。マリウスも無言でついてきていた。
エリアーヌはまだ五歳の女の子で、両親が亡くなったばかりのころは毎日泣き暮らしていたらしい。最近ようやく落ち着いてきて、笑顔も取り戻しつつあるようだ。こんなに小さな女の子の計り知れない悲しみを思い、サファイアは自分の醜い嫉妬を恥じた。そして、義妹として自分もエリアーヌをかわいがろうと心に決める。
「いいわね。一緒に読みましょう」
サファイアはエリアーヌを自分の膝に乗せ、絵本を広げる。
「サファイア、重くないか?」
向かいに座るマリウスに言われるが、サファイアは絵本に目を落としたまま、「大丈夫ですわ」と首を振る。エリアーヌに請われるまま、サファイアは一冊の絵本を読み上げた。エリアーヌはサファイアがたどたどしい演技を見せるたび、手をたたいて「すごい」と喜んでくれる。それがうれしくて、サファイアはますます興が乗るのだった。
絵本を読み終わると、エリアーヌが眠そうに目をこすり始めた。
「エリアーヌ、お昼寝しましょうか?」
「……まだ、おねえさまと、おはなししたいです」
「あら、うれしいわ。でも、すごく眠そうよ?」
「おねえさま、おきても、いてくれる?」
「もちろんよ。起きたらまたお話ししましょう」
サファイアの声に安心したのか、エリアーヌはそのままサファイアにもたれて眠り始めた。
「サファイア、エリアーヌを」
エリアーヌをベッドに寝かせるためだろう。マリウスが腕を広げる。サファイアはマリウスと眠るエリアーヌを交互に見て、彼女を抱きしめる腕に力を込めた。
「マリウス様、すみません。でもわたくし、エリアーヌがかわいくてかわいくて。とても我慢できそうにありません。このままで、ぜひいさせてください……!」
「……う、うん」
マリウスは広げた腕の行き場をなくし、そのままサファイアの隣に座る。様子のおかしいマリウスに、サファイアは気づかない。
「本当にかわいいわ。なんてかわいいのかしら。……マリウス様、会わせてくださって、ありがとうございます」
「うん……よかったよ……」
マリウスの微妙な表情に、サファイアは一切気づかない。
サファイアは、シュテンヒルド伯爵家に来るまでの憂いなどすっかり忘れ、なんなら隣でサファイアたちを悲しそうに見つめるマリウスの存在も半分忘れかけ、エリアーヌが目覚めたらどんな話をしようかと思いをはせる。
エリアーヌに刺繍を教えるのはまだ早いだろうか。母に一緒に習うのもきっと楽しい。エリアーヌが喜びそうな絵本やぬいぐるみを用意しなければと、サファイアは腕の中で眠る天使に夢中である。
「そうだ、サファイア。今度一緒に出かけないか?」
「え?でしたら、エリアーヌも一緒がいいですわ。彼女は何が好きかしら」
「……あの、これってデート……」
「楽しみですわね、エリアーヌとのお出かけ!」
「……そうだね」
マリウスの脳内に、市井で流行っているらしい物語がよぎる。――婚約者に義妹ができて、婚約破棄される話だったろうか?
自分の存在などおかまいなしに、ひたすら義妹をかわいがる婚約者を見て、今以上にサファイアを大切にしないと、いつか自分が義妹のおまけ扱いになるのではと身が震えるのだった。