姿見に潜む悪魔
「おはよう、美紀さん」
視界は、白に包まれている。
それが雪のような色のレースを通った、朝日の光であることに気が付くのには、少しの時間がかかった。
「今日は気持ちいいくらいに晴れてるから、日にあたってみたら?」
スーツ姿の悠が、レースカーテンを控えめにめくって外を眺めている。
私はむくりと身体を起こして、彼が作ったカーテンの隙間を覗こうとしてみるが――、結局それはやめることにした。
「あっ、そのまま布団には潜らないでね。今からご飯作るんだから」
掛け布団の端を持ち上げていた私と、それに気づいてビシッと指を差す悠。
「…………うん。わかったよ」
渋々、私が身体を起こす動作をリピートすると、彼は優しい笑みを浮かべた。
「良かった。すぐにできるから、待っててね」
優は後ろを振り返ると、キッチンの方へ向かった。
私は、そんな小さくて柔らかい彼の背中をぼんやりと見つめていた。
ふと、私の視界の端に見慣れぬものが映る。
それは、部屋の隅に置かれた姿見の中にあった。
鏡面に映る、柔らかな悠の姿のすぐ後ろ。
黒い悪魔が、私のことをじっと見つめていた。
近頃、私は悠の後ろにいる黒い悪魔が見えるようになった。
悪魔は決まって部屋にある姿見越しに映って、まるで背後霊かのように、彼から離れようとしない。
長い前髪の隙間からは、ぎょろっとした黄色の眼球が覗いている。
身体は黒い獣の毛のようなもので覆われていて、背中にはトゲトゲとした黒くて小さい翼。
まるで、この世の物とは思えない生き物が、鏡面の中から私をじっと見つめているのだ。
時々、運悪くそれと目とあってしまうことがある。
すると、血液が凍るような、心臓を掴まれるような感覚に陥ってしまって、上手く息が吸えなくなってしまうから――、私はすぐに目を逸らすことにしている。
あとは、悪魔の方が、気まぐれに目を逸らしてくれるのを待つしかない。
再び、白い朝日のことを思い出した頃には、既に悠は部屋から姿を消していた。
奥にあるキッチンで、フライパンの上に何かを落としている。
姿見の中にいた悪魔も、悠の姿が映らなくなったことで、いつの間にか消えていた。
…………ザワザワとしていた私の心が、徐々に落ち着きを取り戻す。
私は小さく息をついてから、枕の横にあったスマホを手に取った。
「美紀さん。今日はパンだよ」
キッチンの方から聞こえた悠の声で、ぼやけていた頭が覚める。
気が付けば、部屋の中にも焼けたベーコンの匂いが仄かに漂っていた。
「ごめん。ちょっと焦げちゃったかも」
「ううん。大丈夫」
スーツの上にエプロンを身に付けた悠が、部屋に戻ってくる。
その手には、ベーコンエッグが乗った食パンが二人分――――。
再び、姿見の悪魔が私の横目に映る。
背中に虫が走ったかのように、全身の毛が逆立っていくのを感じた。
「どうしたの、美紀さん。怖い顔して」
「............ううん。何でもないよ」
「…………そっか」
彼は困ったように笑うと、机に皿を置いて腰を下ろした。
「じゃあ、食べよっか」
私と彼は、小さく「いただきます」をすると、食パンを齧り始めた。
「やっぱ、焼きすぎちゃったね」
なんて、彼は呑気にご飯を食べている。
けれど、正直に言えば、私はそれどころではなかった。
目を背けようとしても、私の視界の端に入る姿見から、黒い悪魔が私のことを見つめ続けているから。
黄色くて、ぎょろっとした目で、ずっと。
だから、私に出来たことといえば、スマホを弄るふりをしながら、彼とも目線を合わせないくらいに俯き続けることだけだった。
「…………美紀さん、何か怒ってる?」
朝ごはんを平らげると、突然彼はそんなことを言い始めた。
控えめに顔を挙げてみれば、悠はまるで捨てられた子犬のような目で私を見つめている。
「…………どうして?」
私は悠に気付かれないように、ちらりと姿見を確認してみると、どうやら悪魔は、今は私に興味を失っているようだった。
どこに注目しているかは分からないが、少なくとも私のことは見ていない。
今なら、落ち着いて悠と話すことが出来る。
「なんか、最近さ、視線を合わせてくれないことが増えたなって思って」
「…………それはごめん。私が悪いの。ちょっと、目を合わせるのが照れくさくて」
「そうなの? でも、今更?」
「うん。自分でも不思議なんだけど。ごめんね。すぐ慣れると思うから」
「そっか。わかった」
私のいい加減な嘘に、悠は目に見えるほど大袈裟に肩を撫でおろした。
「…………僕の方こそ、ごめんね。たまに、不安になったりしちゃうんだ」
「不安って、何が?」
「美紀さん、たまに何を考えているのかわからない時があるから。怒らせてたりしないかな、とか、……ちゃんと好きでいてくれてるのかな、とか」
悠の言葉で、急に私の中の何かが熱くなる。
「好きにきまってるじゃん」
口に出した後で、自分が怒っていることに気が付いた。
少しだけ、心を落ち着かせてから話を続ける。
「例えばさ、悠の可愛いところとか好きだよ」
「…………えっ、可愛い?」
「うん。悠のいつでも必死で、でも、ちょっとおっちょこちょいなところが好き」
悠は少し考えるような素振りを見せると、段々と顔から不満の色をにじみ出させた。
「え、えぇ~。それって褒められてる?」
「うん。褒めてるつもりだよ」
私は、再びちらりと姿見の方へ視線を向けた。
姿見の中の悪魔は、何処を見ているのだろうか。
一点を見つめたまま、ピクリとも動かない。
「じゃあさ、他にもあったりする?」
私は即答する。
「あるよ。沢山」
「…………なら、よくばりだけど、聞かせてほしい」
照れ隠しか、悠は「あはは」と笑った。
「............優しいところ、とか。私が風邪をひいた時、大したことなくても、いつも仕事休もうとしてくれるよね」
「だって、それは美紀さんが心配だから」
「うん。そういうところが優しいと思うよ。あとは、ハグをしてくれるところ」
「…………ええ? それって当たり前じゃない?」
「違うよ。全然違う。悠のは、なんか温かいから」
「…………あ、温かい?」
よほど理解できないのだろうか、悠はついに首を傾げた。
「いいんだよ。わからなくて」
「うん。そっか。…………大体、それくらい?」
「ううん。まだ、あるよ」
――――私と一緒に、堕ちていってくれるところ。
「…………でも、最後のは秘密」
「ええ~」
嬉しそうな顔で、悠は残念がっている。
彼の背後。姿見の中から、悪魔が私のことを見つめている。
それに気が付いた私は、とっさに姿見から目を背けようとするけど。
ふと、とあることに気が付いて、それをやめた。
――――笑っている。
姿見の悪魔が笑いながら、私のことを見つめている。
初めて見る光景に、私は目を逸らすことができなかった。
まるで、心を奪われてしまったかのように、目を離せない。
「美紀さん?」
「えっ?」
「どうしたの、急に固まっちゃって」
「…………あっ、ごめん。なんでもないよ」
「そう? 何か嬉しいことでもあったのかと思ったのに」
「…………なんで?」
「だって、美紀さん、珍しく笑ってたから」
ああ、そうか。
私だったのか。
「…………ねぇ、悠?」
「何?」
「ずっと、一緒に居ようね」
「…………急にどうしたの?」
「なんとなく、思っただけだよ」
「…………そっか。でも、もちろん。ずっと一緒に居ようね」
姿見の中では、黒い悪魔が笑っていた。