冬枯れ魔女の心に花が咲く
玄関のドアを強く叩く音がして、私はフラスコから顔を上げた。
――魔女ベリト! ここを開けろ!
続いて聞こえてきたのは、先ほどの無作法なノックと同じくらいに乱暴な声だった。隣で薬草の分量を量っていたローラが眉をひそめる。
――も~? 誰よ~? うるさいお客はお断りよ!
ローラは無視して作業を続けようとしたけれど、来客は「早く開けろ! ドアをぶち破るぞ!」などと不穏なことを言い出した。私たちは顔を見合わせる。
――ベリト……どうする?
――ドアを壊されては迷惑です。話だけでも聞いてあげましょう。
――うん、分かった。……どなたですかぁ?
警戒しているのか、ローラは扉越しに尋ねた。相手は「ご領主のキルステン様の使いで来た! ベリト、貴様を捕縛させてもらう!」と返す。
――捕縛!? 何もしてないのに何で!?
ローラが素っ頓狂な声を出した。相手は「白々しい嘘を吐くな!」とつっけんどんに言い放つ。
――キルステン領で流行っている疫病の原因はお前だろう! ご領主様は大変にお怒りだ!
――何を言って……。
――素直に罪を認めれば、一番痛みの少ない方法で処刑してやるとご領主様は仰せだ! その慈悲の心に感謝して、早くここから出てこい!
私たちはもう一度顔を見合わせた。
キルステン領の領主はお世辞にも有能とは言いがたい人物だ。考えなしの行動を取って、しょっちゅう領民に迷惑をかけている。
現に、「お前が疫病の原因だ」と言われても、私はまったく心当たりがなかった。
――ベリト! 聞いているのか! 早くここを開けろ!
私はとっさに、「そんなものは知らないから帰ってください」と言おうとした。だが、口を開く前にローラが応答してしまう。
――はあい、今行きま~す!
まさかの返事に、私は「ローラ!」とたしなめた。
――あんな無能な領主のお仲間に従うことはありません。放っておきなさい。
――でも、ベリトは無実だよ。ちゃんとそう主張しなきゃ。
――あの領主がそんな話を信じると思いますか? 彼と比べたら、カエルのほうがまだ利口ですよ。出ていったら最後、断頭台に直行です。
――ベリトは相変わらず辛辣だなぁ。
ローラは苦笑いしてポケットからハンカチを取り出した。棚に置いてあった薬品をそこに染み込ませる。
――ローラ、それは強力な睡眠薬ですよ。
私は怪訝な気持ちで指摘した。
――まさか、それを使って客人を眠らせる気ですか? 撃退するならもっと違った方法のほうが……。
――違う違う。
ローラはけらけらと笑った。
――これはね、あなたに使うの。
そう言って、ローラは目にも留まらぬ速さで私の顔にハンカチを押し当てた。いきなりのことに息を止める暇もない。
たちまち頭の中にもやがかかったようになる。足に力が入らなくなり、私はその場に倒れ伏した。
――恨まないで。これは私が選んだことなんだから。
最後に聞いたのは、親友がそう呟く声だった。
「……!」
私はベッドから跳ね起きる。ひどい寝汗をかいており、走ったあとのように息が上がっていた。
「また……あの夢を……」
うなだれながら再び毛布にくるまった。
この悪夢を見るのはもう何度目か。どんな安眠の薬も効いた試しがない。それだけではなく、この夢で飛び起きた日は、決まって悪いことが起きるのだ。
コンコン
ドアにノックの音がした。
夢ではなく、今回は現実だ。悪夢を見たのはこのせいかもしれない。あの夢もノックの音から始まったのだから。
私はもそもそとベッドから起き上がった。冷気が肌を刺すのを感じる。マッチを擦って暖炉に火をつけ、椅子にかけてあったショールを寝間着の上から羽織る。
来客など久方ぶりだが、丁寧な応対をする気はまるでなかった。大方、森で道に迷った者だろう。わざわざ着替える必要はない。
それでも、鏡の前で軽く身だしなみは整えた。乱れた長い銀の髪を手ぐしで梳かし、頬を軽く叩く。多少は寝ぼけた顔がましになっただろうか。鏡の中から見返していたのは、吊り目気味の目をした無愛想ないつもの私だった。
「どちら様ですか」
ドアを開ける。ポーチにいたのは見知らぬ男性だった。
年齢は二十代半ばくらいだろうか。目尻が垂れた優しげな雰囲気の顔をしている。すらりとした体つきで、身につけているのは高価な服だった。それなりの身分なのだろう。従者らしき人物を引き連れている。
「おはよう」
男性がにこやかに挨拶をすると、白い吐息が宙に漂った。
「君がベリトさんかな? 僕はマチアス・フォン・キルステン。よろしくね」
「……キルステン?」
私は頬を強ばらせた。
……なるほど。とうとうこの日が来たというわけか。
それにしても、キルステン家の者が直々に訪問してくるとは、随分な気合いの入れようだ。
「支度をします。少し待っていなさい。いくらあとは処刑されるだけの身とはいえ、身なりくらいは整えたいですから」
「……処刑?」
マチアスは目を瞬いた。
「ええと……何のことを言っているのかな?」
「何って……疫病を広めた魔女を断罪しにきたのでしょう?」
「君が疫病を広めた!?」
マチアスが訳の分からなさそうな顔になった。
「何を言っているんだい? 君がやったのはそれとは真逆のことじゃないか! ベリトさんは皆を助けようとしたんだよね?」
「……」
「とりあえず中に入れてくれるかな? 僕も従者も凍えそうなんだ。もう春なのに、この辺りはまるで冬みたいな気温だね」
マチアスは弱り切った笑顔で二の腕をこすった。私はドアノブに手をかける。
「帰ってください」
そのままドアを閉めた。
****
「ベリトさん! こんなところにいたんだね!」
翌日。私が森の中でキノコ狩りをしていると、昨日の男性……マチアスがどこからともなくひょっこりと現われた。
「家を訪ねても留守だったから探してたんだよ。見つかってよかった」
「向こうへ行ってください」
私は手元のキノコから目を離さずに言う。けれど、マチアスは意に介した様子もなく私の隣にかがみ込んだ。
「昨日はいきなり帰っちゃってごめんね。僕の従者が風邪を引いてしまって」
そういえば、今日の彼は一人だ。
いや、問題はそこではない。昨日、私はマチアスをすげなく追い返したはずだ。それなのに彼は私を責める気配がない。
気を使っているつもりだろうか。腹立たしい。
「やっぱりこの辺りは寒いね。君も体調を崩さないようにね」
昨日と違い、マチアスはコートとマフラーで完全防備している。
寒いのは私の周りだけだ。
そう思ったけれど、口に出しはしなかった。マチアスの言葉を無視して、せっせとキノコを拾い集める。
無言で作業を続ける私をマチアスはしばらく見つめていた。けれど、五分くらいしたらどこかへ行ってしまう。私は愛想もかわいげもないつまらない女だとやっと分かってくれたらしい。
などと安堵していたら、ニコニコ顔でマチアスが戻ってきた。マフラーに何かを包んでいるらしく、首から解いて手に持っている。
「見て、大量だよ!」
マチアスのマフラーの中にはたくさんのキノコが入っていた。私はぽかんとなる。
「これを取りにいっていたのですか?」
「この森は豊かなところだね」
マチアスは満足そうだ。茶色っぽいキノコを手に取り、「ほら、これなんてとっても美味しそう!」と言う。
「……それを食べると三日後に血を吐きながら絶命しますよ」
本当は食用のキノコだったのだが、苛立ち紛れに嘘を吐いてやった。マチアスの笑顔が凍りつく。私は採ったものを入れたバスケットを持って、マチアスに背を向けて歩き出した。
「君は植物に詳しいんだね」
マチアスもマフラーに入れた山盛りのキノコを手にあとを追ってくる。
「疫病の薬もその知識を活かして作ったの?」
マチアスは収穫物の中から「吐血キノコ」をより分けつつ、質問をした。
「うちの領地で疫病が流行りだしたのは六年くらい前だって聞いたよ。……大勢の人が亡くなったけれど、君の薬で命を取り留めた人もたくさんいたんだってね」
私は何も答えない。マチアスが続ける。
「君は本当に素晴らしい才能と優しい心を持った女性だよ。……父もそのことを認められたらよかったんだけど」
「父?」
マチアスが付け足した一言に私は思わず反応した。
「キルステン領の領主はあなたのお父上なのですか?」
マチアスがキルステン家の関係者なのは知っていたが、まさか領主と親子関係にあったとは。彼は「正確には『前領主』だね」と言う。
「父は二年前に疫病で亡くなったよ。だから隣国に留学していた僕が呼び戻され、跡を継いだんだ。つまり、今は僕がキルステン領の長だね」
「……そうでしたか」
ここ何年も外界との接触を断った生活をしていたので、そんなことはちっとも知らなかった。
「帰国して驚いたよ。まさか領内で病気が流行っていたなんて。父がくれた手紙には、そんなことは一言も書いていなかった。父はいつだって、『領民たちは私の治世に満足している』と書き記していたからね」
「治世に満足している?」
私は拳を固く握りしめた。
「バカなことを。彼は無実の罪で人を殺すような領主なのですよ」
「……そのとおりだね」
実父を罵倒されてもマチアスは嫌な顔をしなかった。その代わり、辛そうに目を伏せる。
「父は疫病の流行を食い止めようとして失敗した。そのことで領民から糾弾されるのを恐れ、誰かに事態の責任をなすりつけようとしたんだ。それが……『魔女』だった」
マチアスは複雑な表情で私を見た。
「魔女は不思議な力を持っている。それが疫病の原因だと皆に信じ込ませようとしたんだ。そして、その元凶を取り除くことで、民の信頼を取り戻そうとした。だけど、父はまたしても失敗を犯した。魔女と間違えて別人を処刑してしまったんだ」
「……それ以上はやめなさい」
自宅の小屋が見えてきた。私は唇を噛む。
「これ以上くだらないことを口にすると許しませんよ」
起きているときまで昔のことを思い出したくはない。当時が再現されるのは悪夢の中だけで充分だ。
「……もしかして、処刑された女性は君の知り合いだったのかい?」
マチアスが意外そうな顔をする。私は答えなかったが、彼はその推測が正しいと悟ったらしい。顔から血の気が引いた。
「……ベリトさんには本当に申し訳ないことをした」
庭先で立ち止まり、マチアスが頭を下げて謝罪する。
「濡れ衣を着せただけじゃなくて、知り合いまで最悪の形で巻き込んでしまって……。僕がキルステン領の現状をきちんと把握して、もっと早く帰国するべきだったんだ」
父親からの「領地の運営は全て上手くいっている」という偽の情報を鵜呑みにしていたことを、マチアスは心から悔いているようだった。
「頭を上げなさい」
私はマチアスから目をそらした。
「その話はするなと言ったはずです。もう忘れたのですか」
「……」
マチアスは何か言いたそうだった。私は彼の持っていたマフラーを取り上げ、中身をバスケットに移す。そして、マフラーをマチアスの首に巻いた。
「もう行きなさい。これ以上私の傍にいると、あなたも風邪を引きますよ」
「君の傍に?」
私は舌打ちしそうになる。口が滑ってしまった自分が呪わしい。
マチアスが事情を聞きたそうな顔をしている。私は仕方なく訳を説明した。
「今の私は力を制御できません。溢れ出した魔力が冷気となり、辺りを冬のように変えてしまうのです」
「ああ、それで……」
マチアスは庭を見渡した。春だというのに、私の庭の植物はすっかり枯れ果てている。私がほとんど小屋に籠もりきりの生活を送っているから、ここに冷気が充満して何も育たないのだ。
森は青々としているだけに、余計にこの庭は荒廃して見えた。常世の冬を思わせる光景だ。
「『今の私は』ってことは、昔からこうだったわけじゃないんだよね? きっと何かきっかけが……」
「お行きなさい」
再び命じ、小屋の戸を開けた。
「あなたの謝罪は受け入れます。それで充分でしょう」
後ろ手に扉を閉める。私は唇を噛んだ。
彼の言うとおりだ。私がこんなふうになったのはローラが死んでからだ。親友の死が私の全てを変えてしまった。
あれからもう三年がたつのに、私の心は当時に囚われたままだ。そんなところにマチアスが……ローラを処刑した男の息子が現われた。
本来なら彼を憎むべきかもしれない。けれど、そんな気は湧いてこなかった。
ローラが最後に「恨まないで」と言ったときと同じだ。私は勝手な行動をした彼女を恨んだことは一度もなかった。なぜなら私が一番憎いのは、ほかならぬ私自身だからだ。この三年間、私はずっと自分を憎悪し続けてきた。
その気持ちはこれから先も変わることはない。私は永遠に自分を許さずに生きていく。そう決めていたのだ。
****
それからしばらくの間、マチアスは姿を見せなかった。
日常が戻ってきたことに私は安堵した。
だが、ある日の昼下がり、マチアスは何事もなかったかのように、またしても平然とした顔で現われたのである。
「庭を借りてもいいかい?」
マチアスは開口一にそう言った。
「なぜですか」
追い返そうとしてもどうせ居座ってしまうんだろうと思った私は、もはや諦めの境地だ。マチアスを白い目で見ながら、質問の真意を問いただす。
「これを植えようと思って」
マチアスが懐から取り出したのは小さな袋だった。中には黒い種がいくつか入っている。
「寒冷地でも育つ植物だよ。行商人から取り寄せたんだ」
「あなた、暇なのですか?」
私は顔をしかめた。
「領主がいつまでもこんなところをうろついたりして。土いじりをしている暇があったら、疫病の根絶にでも力を注いだらどうなのです」
「疫病なら、昨年終息宣言を出したよ」
マチアスが驚いたような顔をする。
「知らなかったの?」
「……ええ。ここ何年も森の外には出ていませんから」
ぷいと顔を背けた。この知らせを持ってきたのがほかの人物なら、もっと素直に喜べたのに。
「ねえ、ベリトさん。庭を借りてもいいでしょう?」
マチアスが食い下がった。
「君が冷気を発生させたとしても、この植物ならきっと育つからさ。……ね?」
「植物栽培ならよそでやりなさい。領主の館にも庭くらいあるでしょう」
「僕はここに植えたいんだよ」
マチアスが強固に主張した。
「だってさ、この家の周りが花でいっぱいになったら素敵じゃない?」
――ベリト! お庭にお花とか植えない? きっとすごく素敵になるよ!
不意に古い記憶が蘇ってきて、胸が苦しくなった。
マチアスは知っていたのだろうか。この荒れ果てた庭がかつては花で溢れていたことに。
私は頭を強く振る。
「ローラ、ワガママを言わないでください。私は薬草と毒草にしか詳しくありません。観賞用の花なんか植えても、すぐに枯らしてしまうに……」
「……僕、マチアスだけど?」
冷静に指摘されて我に返る。動揺のあまり、すぐには言葉が出てこない。
「……勝手になさい」
気まずくなって、とうとう折れてしまった。
「向こうの納屋に園芸用具が一式あります。言っておきますが、私は一切手を貸しませんからね。どうなっても自己責任ですよ」
「ありがとう、ベリトさん!」
マチアスは顔を輝かせてコートを脱ぐと、納屋にすっ飛んでいった。私は膝にブランケットをかけ、ポーチの椅子に座って彼が庭いじりをする様子を眺める。
「なんだかよく分からないから、色々持ってきたよ!」
マチアスは手押し車に道具をあれこれ詰め込んで戻ってきた。まるで納屋の中身を丸ごと移動させたかのような騒ぎに唖然としてしまう。
「さて……まずは種を埋める穴を掘らないとね」
マチアスは大型のシャベルを肩に担ぐ。初っ端から先行き不安な展開に、私は思わず席を立った。
「落とし穴を作るのではないのですよ」
私は手押し車の中から小型のスコップを取りだした。
「種を植えるだけならこれで充分です。……ああ! そんなところに穴を掘ってはいけません。家に入るときに踏んでしまうではありませんか。……そこもだめです。大木の日陰になってしまいますよ。……ほら、ここにでも植えなさい。どこに埋めたか分かるように、柵で囲っておくべきでしょうね。……柵の立て方が分からない? これだからお坊ちゃま育ちは……」
気がつけば私が全てをやっていた。なぜこんなことに、と手についた泥を落としながら眉根を寄せる。
「さすがベリトさん!」
一方のマチアスは上機嫌だ。
「君は園芸にも詳しいんだね! 僕が来られないときは面倒を見てもらってもいいかな?」
「嫌です。手は貸さないと言ったはずです」
これだけ助力したあとでこんなことを言っても説得力は皆無だろう。「まあそう言わずに」とマチアスはやんわり受け流した。
「ベリトさんはほかにも役に立つ知識をいっぱい持っているんだろうね。昔、疫病患者に配った薬にも特別な薬草を使ってたみたいだし」
「どうしてそのことを?」
「専門家に薬の成分を分析させたんだよ。それで、その結果を基に新しい薬を作って患者に投与したんだ。結果は大当たりだった。疫病は無事に終息したよ」
マチアスは園芸用具を片づけ始める。
「帰国後、僕が真っ先に取り組んだのが疫病対策だった。その過程で君のことを知ったんだ。どこからともなく現われて薬を配って去っていく女性。彼女は一度も見返りを求めたことはなかったとか。君のお陰で死の淵から生還した人は皆こう言っていたよ。『あの人は女神だ』って。僕も同じことを思った」
マチアスが穏やかに笑いかけてくる。どうしたらいいのか分からず、私は目をそらしたくなった。
「ここへ来たのは父のしたことを君に謝るためだけど、単に僕がベリトさんに会いたかったから、っていうのもあるんだよ。女神がどんな人かこの目で確かめたかったんだ」
「では、さぞかし失望したことでしょうね」
「そんなことないよ。君が優しい人だって僕はちゃんと分かってる。やっぱりベリトさんは女神なんだよ。それに、すごく美人で知的だし……」
「お黙りなさい。それ以上訳の分からないことを言うと承知しませんよ」
私は体を強ばらせる。褒められるのは嫌いだ。ひどく恥ずかしくなって、顔が赤くなってしまうから。
マチアスが小さくくしゃみをした。庭いじりのためにコートを脱いでいたから、体が冷えてしまったのだろう。私はため息を吐いた。
「ほら、お上がりなさい」
小屋のドアを開ける。
「お茶くらい出してあげましょう。そんな凍えそうな顔で庭先をうろつかれたら迷惑です」
「いいのかい!? やっぱりベリトさんは優しいんだね!」
「バカなことを言っていないで、私の気が変わらないうちに早く来なさい」
我ながらどうしてこんな提案をしてしまったのか心底不思議だ。マチアスのことなんて放っておけばいいのに。
もしかして彼がローラと似ているからだろうか。
明るい性格や花を愛する気持ち、それに、私が冷たく突き放してもまとわりついてくるところ。私はローラのことも初めはなかなか受け入れようとしなかった。けれど、いつの間にか彼女はかけがえのない存在になっていたのだ。
ということは、マチアスもこの先私にとって価値ある人物になると?
……いや、そんなのありえない。あってはいけない。
思い返してみればいい。私と親しくなった結果、ローラの身に何が起きたのか。彼女は断頭台の露と消えた。私の代わりに処刑されたのだ。
そんなことを繰り返してはいけない。私はこの森でひっそりと生きる。もう誰も大切には思わない。他人はもちろん、自分自身すらも。
そう決めていたのに。
「この紅茶、美味しいね。初めて飲んだ味だけど、ベリトさんのオリジナルブレンドなの?」
マチアスの笑顔に胸の奥が疼くのを感じた。彼といると、失ったもののことを思い出す。それはひどく辛い体験であるはずなのに、どこか穏やかな気持ちにもさせられた。まるで心に春風が吹き込んだようだ。
くだらない。私は冬枯れの魔女なのに。
冬枯れの魔女には一生春なんて来ない。私が生きるのは永遠の冬だ。
そう自分を戒めてはみたものの、枯れ果てたはずの心にかすかな変化が起こっている。
そのことだけは認めざるを得なかった。
****
「まったく、マチアスは何をしているのですか」
ある朝。私はブツブツと文句を言いながら水やりをしていた。
植物の世話には根気が必要だというのに、彼はもう十日以上も顔を見せていない。お陰で私がこうして面倒を見るはめになってしまった。
「せっかく芽が出てきたというのに……」
丸く囲った柵の中から、緑の新芽がぴょこぴょこと顔を出している。なかなか和む光景だ。思わず頬が緩む。
「あっ、ベリトさんが笑ってる!」
突然の大声にじょうろを取り落としそうになった。森の小道をマチアスが歩いてくる。
「……すぐに忘れなさい」
「嫌だよ。こんな幸運、めったにないからね」
何が幸運だ。マチアスが近くにいると知っていたら、全力で無表情を保っていたというのに。
「今までどこにいたのですか?」
「ちょっと領主の館に帰ってたんだ。トラブルがあってね。でも、もう解決したから大丈夫だよ」
「連絡も寄越さないで勝手にいなくならないでください」
「僕のこと、心配してくれてた?」
「……してません。種の世話を放置しないでほしいと思っただけです」
本当のことだ。心配などしていない。私はただ、今までいた人が突然いなくなるのが嫌いなだけだ。
……今までいた人? マチアスが? 彼はもう私の生活の一部になりかけている、と?
私は頬の内側を噛んだ。
近頃の私は、どうしておかしなことばかり考えてしまうのだろう。
「かわいいね」
「ええ、そうですね」
マチアスが話題を変えてくれてほっとした。柵の中で健気に育ち始めている芽を見つめる。
「花が咲けばさらに愛らしくなるでしょうね。そのためにも、あなたもきちんと水やりを……」
「いや、芽のことじゃなくて」
マチアスが話を遮った。
「ベリトさんはかわいいね、って言ったんだよ」
「……はい?」
「ほら、赤くなった。つい憎まれ口を叩いちゃうところも愛嬌があるけど、そういう素直な反応はもっと素敵だよ」
頭が真っ白になってしまい、しばらく固まる。
彼は一体何を言っているのだろう。
「……からかわないでください」
「からかってないよ」
「……余計に始末に負えないです」
マチアスを置き去りにして小屋に入る。やたらと室内が暑く感じて上着を脱いだ。暖炉の火が強すぎるのだろうか。
「ベリトさーん、入れてよー!」
マチアスがドアをノックする。黙りなさい、と心の中では言い返していたのに、体が勝手に動いて彼を入室させてしまった。
マチアスがポットを手に取る。
「お茶、ある? なんだか喉が渇いちゃって。それに無性に恋しくてね」
「それ以上はやめなさい。私が恋しいだなんて、一日に二回も人を口説いて楽しいのですか?」
「……お茶の話だよ?」
頭が混乱していたせいで恥ずかしい勘違いをしてしまった。ティーカップをひっくり返しそうになる。マチアスがクスクスと笑った。
「もちろんベリトさんのことも恋しかったよ?」
「気を使わないでください。あなたは本当に人が悪いですね」
マチアスの前に乱暴にティーカップを置く。「飲んだら帰りなさい」とぶっきらぼうに言うと、「それじゃあ、ゆっくりと味わわないとね」と返ってきた。
「今度、僕も茶葉を持ってくるよ」
マチアスがカップを傾けながら言う。
「留学中によく飲んでいたフレーバーがあるんだ。隣国から取り寄せたものだけど、きっと君も気に入ると思う」
「だといいのですが」
愛想のない返事だが、マチアスは気にしていない。穏やかな笑顔で私を見ている。
「……ねえ、ベリトさん」
優しい声でマチアスが話しかけてくる。
「何ていうかさ……こうして二人でいると、幸せな感じがしない?」
「……そうでしょうか」
つっけんどんな声を出したけれど、私は内心で動揺した。
幸せ、という単語を聞いた途端に、日だまりでうたた寝をしているときのような安らかな気分になったからだ。
それは先ほど照れを覚えたときとも違う感覚だった。もっと優しく、柔らかな気持ち。幸せというのはこんな心地だったのだろうか。
……いいや。こんなことを考えてはいけない。
もう二度とローラは幸せになれないのに。それなのに、私だけ幸福をつかんでもいいとでも? 犯した罪を忘れ、のうのうと生きろと?
そんなことは絶対にだめだ。私は自分を許してはならない。救われてはいけないのだ。
だから、マチアスが私に「幸せ」をくれるなら、それを拒絶する必要があった。
拒絶できるものなら、の話だが。
「……お茶のお代わりはいかがです?」
私の質問に、マチアスは「いただくよ」と笑顔で答えた。
****
「そんな……どうして!?」
翌朝、水やりに行くと芽の葉先がうっすらと茶色くなっていた。
「昨日までは何ともなかったのに……」
寒くもないのに動揺で声が震えている。口元に手を当てた。
「これを見たらマチアスは何というでしょうか……」
きっとショックを受けるに違いない。彼は花が咲くのをとても楽しみにしていたのだから。
いてもたってもいられなくなって納屋へと走り、液体肥料を取ってきて専用の道具で土に注射した。
「それにしても、なぜ急に……」
真っ先に浮かんできた理由は、私が冬枯れの魔女だから、だった。
冬枯れの魔女の庭には花は咲かない。そういうことなのかもしれない。当たり前だ。私は人一人の命を奪ったのだ。そんな私が新たな命を育もうなど、どだい無理な話だったのである。
「ベリトさん」
背後から声をかけられ、飛び上がりそうになった。
「日差しのお陰かな? 今日はなんだか温かいね。こんな日はいいことが起こりそうだよ」
残念だがその予感は大ハズレである。慌てて後ろ手に芽を隠したけれど、マチアスは目ざとく異変に気づいてしまった。
「それは……」
「……ご覧のとおりです。枯れかけているんです。私のせいで」
「ベリトさんの?」
「だってそうでしょう? 私は冬枯れの魔女なのですよ。冬は命が育まれる季節ではありません」
マチアスに背を向けた。胸の奥に痛みが走る。
「もう行きなさい。ここには二度と来てはいけません」
私は人を寄せつけずに生きる。近頃の私はその誓いをすっかり疎かにしていた。新芽が枯れたのはそんな怠慢に対する罰だろう。
マチアス私の正面に回り込んだ。こちらの顔を覗き込みながら静かな口調で語りかけてくる。
「ベリトさんがそんなに辛そうなのは、芽が枯れちゃったせい? それとも……僕がいなくなるのが嫌だから?」
両方だ、なんてとても言えない。
癪だが認めるしかなかった。マチアスは特別な存在だ。冷たく凍てついた私の心を溶かせるのは彼しかいない。
けれど、そんなことを望んではいけないのだ。
「その質問には答えられません。私は一人でいなければならないのです。お願いですから分かってください」
「分からないよ。ベリトさん、何も話してくれないんだから」
「話すことなど何もありません」
「じゃあ、やっぱり一人にはさせられないよ」
マチアスが私を抱きしめた。
彼に触れられたのはこれが初めてだ。私は人肌の温もりをすっかり忘れていた。どこからともなく安心感が押し寄せてきて、無性に彼の背中に縋りつきたくなってしまう。
「ローラと出会ったのは、疫病が流行しているただ中のことでした」
その触れ合いで、私の心の奥でわだかまっていたものがはじけ飛んだ。
マチアスの胸に頬を埋めながら、過去をポツリポツリと語る。
私の薬でローラが疫病から救われたこと。
それ以来、ローラは私の傍を離れなくなったこと。
何度も衝突しつつも、ついに彼女を親友と認めるに至ったこと。
そして……彼女が私の身代わりになった日のこと。
「睡眠薬の効果が切れたときには、すでに手遅れでした」
重苦しい口調で呟く。
「ローラは処刑されてしまっていた。疫病を広めた悪しき魔女として。彼女は何もしていないのに……」
マチアスの背中に回した腕に力を込める。
「ローラの処刑の報を聞いたときから、私は魔力を制御できなくなりました。私の周りには常に冷気が漂うようになったのです」
私は話を締めくくった。
ローラのことを話したのはマチアスが初めてだった。私はひどく消耗していた。今まで悪夢や思い出の中でしか再現してこなかった出来事を、この口を通して追体験したからだろう。ぐったりと疲れ、体がだるかった。
けれど、それと同時にどこかすっきりとした気分にもなっている。ようやく肩の荷が下りた。そんな気分だった。
きっと、私はずっとこの鬱屈とした気持ちを誰かと共有したかったのだろう。これは一人で抱えるには重たすぎる記憶だから。
「ベリトさんはローラさんのことが大好きだったんだね」
「……ええ」
私は小さく頷いた。
「ローラは私に『恨まないで』と言い残しました。そんなことをわざわざ言わなくても、私が彼女を恨むはずなどないのに。彼女が大切でなければ……こんなにも苦しまなかったでしょう」
「恨まないで、か」
マチアスが考え込むように呟く。私は顔を上げ、「どうしました?」と尋ねた。
「ローラさんが恨むなと言ったのは、誰のことなんだろうね?」
「どういうことです?」
「君は彼女の言葉をこう解釈したんだろう? 『勝手に身代わりになった私を恨まないで』って。でも、実は違ったんじゃないかな? ローラさんはこう言いたかったとしたら? 『生き残った自分自身を恨まないで』。つまり……ベリトさんに自分で自分を憎むことをやめてほしかったんじゃないかな?」
そんなことは考えたこともなかった。私は私を恨んではいけない? ローラがそんなことを望んでいた?
「もちろん、今となっては彼女の言葉の真意は分からない」
マチアスがかぶりを振った。
「でも、僕ならそう言い残すと思うな。ベリトさんは優しいから、自分自身を憎むとローラさんは分かっていたはずだ。彼女にとってそれは耐えがたいことだったんだよ。大切な人が自らを傷つけながらこの先ずっと生きていくなんて、絶対にだめだと思ったんじゃないかな?」
「私は……幸せを望んでもいいのでしょうか」
マチアスの言葉を頭の中で反芻しながら、囁くように尋ねた。
「ローラを置いて、私一人が幸福になってもいいと?」
「君が不幸の中に身を置いていたって、ローラさんの幸せには繋がらないよ。それに、彼女は君が不幸せでいることを望むと思う?」
「……思いません」
ローラの発言の意図は分からないままだけれど、それだけははっきりと断言できた。彼女は私を愛してくれていた。その身を賭して守ろうとした相手が不幸になってほしいなんて思うはずがない。
「私は幸せになってもいいのですね」
冬の終わりが来たのが肌で感じられた。
空気に含まれていた冷気が徐々に薄まっていく。凍えきっていた指先に熱が戻り、全身が温かなものに包まれる感覚がした。心までが軽くなったようだ。私はつま先立ちになり、マチアスの唇にそっと口づけた。
マチアスは穏やかにそのキスを受け止める。
「……驚かないのですね」
「こうなるって分かっていたからね」
「いつからですか?」
「芽が枯れているのを見たときから」
マチアスが柵の中の新芽に目をやった。意味が分からずきょとんとしていると、彼は含み笑いを漏らす。
「この植物、寒冷地帯に生えているものなんだよね。だからさ、ベリトさんの発する冷気が弱くなったら、育たなくなるんじゃないかと思って。つまり、僕を好きになってベリトさんの心に変化が生じたから枯れたんじゃないかと思ったんだよ。……何で黙ってたんだ、って責めないでよ? 説明している暇なんてなかったんだから」
思わず脱力しそうになった。
気温が高くなったことで弱ってしまったのなら、あの植物の周りだけ魔法で冷たい空気を作り出せばいい。それならきちんと成長するはずだ。
「魔力の流出が止まったと思ったら、今度は意図的に冷気を放出することになるわけですか」
「ねえ、ベリトさん。もっとほかの花もこの庭に植えてみようよ」
マチアスが楽しそうに言った。
「今なら寒冷地以外で咲く花も育てられるでしょう?」
「……ええ、そうですね」
花でいっぱいの庭はきっとローラも気に入るに違いない。
彼女が死んでしまったことも、私が親友を身代わりにして生き延びたという事実も変わらない。この件に関して、私は一生自分を許せないままだろう。
けれど、もうそのことにばかり囚われるのはやめようと思った。私は罪を抱えたまま生きる。ローラの思い出と共に幸せになる。それは決して不可能ではないはずだ。
――恨まないで。これは私が選んだことなんだから。
ローラの残した言葉のように、私もこれからは自分の選択した人生を自由に生きてみせよう。
****
それから数カ月がたち、夏も終わりかける頃、私は領都にある墓地に赴いていた。
「ローラ、今日は赤い花を持ってきましたよ」
墓石の前にそっと花束を置く。
「私の庭で育ったものです。次に来るときは、秋の花を持ってきますね」
元々、処刑されたローラに個別の墓標はなかった。この墓は、彼女の冤罪が晴れたあとに建てられたものだ。
「本当はマチアスも一緒に来る予定でしたが、会合があるとかで遅くなるそうです。彼も忙しい身のようですね」
「ベリトさん!」
タイミングよくマチアスが手を振りながらやって来た。
「お仕事は終わったのですか?」
「うん。早く君に会いたかったから急いで片づけてきたよ」
マチアスが微笑む。
「お花、僕も持ってきたんだよ」
マチアスは私が持参した花束の横に、オレンジ色の花でできた花冠を置いた。
「これ、私の庭には植わっていない種類ですね。とても綺麗です」
「気に入った? 種を取り寄せられるか確かめておくよ」
マチアスが私の肩を抱いた。二人で墓地をあとにする。
「このあと、君の家に寄っていってもいい?」
「ええ、もちろん。お茶を淹れてあげましょう」
穏やかな会話を交わす。
――こうして二人でいると、幸せな感じがしない?
マチアスのあの問いに、今なら「はい」と答えられるだろう。
冬枯れの呪縛から解き放たれた私を待つのは、花に囲まれた森の家と、隣を歩く愛しい人。
この状況を幸せと呼ばずして何というのだろうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
少しでも作品がお気に召しましたら、下の☆☆☆☆☆を★★★★★にしていただけると嬉しいです。