このままお嫁に行きたいな
本を読む人間を、知的だの、崇高だのというのは間違っている。それは父が証明している。
困ったことに、父は愛読家だ。それも、やれ哲学書だとか、やれSFだとか、節操無く漁る乱読者である。
普段はリビングのソファーを占拠して横たわり、だらしなくベルトを緩め手枕をする。その姿たるや、まるで豚の涅槃像。そのままいびきでもかいてくれれば、いくらかは可愛げがあるものを、ニタニタと下賤な笑みを浮かべながら、大きく目を見開いて書物を読み漁る姿には、実娘と云えども辟易する。救いと云えば、小説の媒体が紙から電子ファイルに変わったことかな。これには高い山のてっぺんから、高らかに歓喜の声をあげたくなるほど、私の中の大転機であった。というのも、豚のような父親の読書流儀もまた、やはり家畜に相応しいようで、ページをめくるたびにぺロリと左手の親指を舐めるものだから、紙媒体の時には、私はそれを目にする度にゾワゾワと体中に虫唾が走り、喉の奥から湧き上がる声にならない悲鳴を押し殺し、目をそらして堪えなければいけなかったのだ。残念ながら悪癖と云うのはそうやすやすとは直らぬよう(そも、本人が直すつもりがないが)で、指に唾液つけるのはそのままだが、舐められ汚された哀れな汚染物質は、小さなタブレット一つで事足りるようになった。以前は、無造作に積み上げられていく、穢れた嘗ての英知に恐怖したものだが、その悪夢から解放される日が来るとは。ああ、私はいま、神を信じます。
父はそのくせ、他人に対しては極めて潔癖でいたいのか、古本あるいは貸本というものを認めない。
「いいかい。人と云うものは、夢中に読み耽る姿こそ、もっとも醜いものなのだ。
鼻水をすすり、煎餅を食らい、鼻糞をほじるかもしれない。そんなもの、誰が手にするもんか。
本は新書で買わなければいけないよ」
父の言う事はごもっともだと、豚の涅槃を前にすればこそ、大きくうなずく。
それならば、無限の汚物に終止符を打った、タブレットとは、どれほど尊い発明なのだろうか。次は水洗いOKにして下さると大変助かります。塩素消毒とまでは、流石に高望みかしら。
誰も救いを求めない父親のニルバーナを尻目に、2階の自室へと足を進める。今は、学校から帰宅したばかりで、まだ、制服を脱いでさえいないのだ。父親がいた1階のリビングは、しっかりと暖房が効いていたが、主不在であった自室はさすがにそうはいかない。寒さに震えながら、私服に着替えるはめになる。お気に入りのニットセーターに手を通せば、学生服のペラペラのニットよりかは、いくらかは暖まる。まったく、制服と云うものは。毎日の服装に、あれこれ頭を悩ます煩わしさを解消してくれることには、非常に感謝するが、如何せん防寒具として心許ない。『若いのだから我慢しろ』と、暗黙のうちに了解させられているようで腹立たしい。
さらにコートを羽織ると、また1階へと下り、リビングの父親に金をせびる。言い方がまずかっただろうか。夕飯の材料費を頂戴するにしよう。
母親が居なくなって3日。こういうときは私が家事全般を任される。おかげで料理のまねごとはできるようになった。『実家に帰らせていただきます』、ドラマではおなじみのこの台詞が、まさか世間ではおおよそ聞くことのない、都市伝説の様な存在とは知らなかった。我が家では、年3回ほど耳にするもので。
そろそろ期末テストも始まるころだし、いい加減迎えに行って欲しいと父親に頼んだところ、「なに、あいつの好きな甘いお菓子でも見繕い、明日にでも迎えに行くさ」と、読書の合間、ものぐさに応えた。ねえ、母さん。娘として、同じ女としてさっぱり解らないのだけど、これのどこに惹かれたの?
しまった、手袋をすればよかったと、玄関を飛び出し数歩目で後悔している私に、隣の家の窓から、綾ちゃんがにょろりと首を出し、『やあ』と声をかける。用事かと尋ねるので食材の買い出しと伝えると、この寒い中殊勝にもついてくると言う。
鈴蘭のように華奢で可愛らしい綾ちゃん。高校に入ってからはより可憐に美しく、さぞや男どもにため息をつかせている事だろうかと妄想を巡らす。ああ、だめだ。綾ちゃん女子高だった。
縁無く別々の高校に通うことになった時は、目に水膜を張りながら週4回は顔を出せと無茶を言った綾ちゃんだったが、今でも少なからず、こうして交流が続いているのは、ひとえに彼女の誠実な人柄の賜物なのだろう。
ああ、ひどく寒いと思ったら、ひらひらと雪が舞い降りてきた。
雪はずるい。黒も灰色も、均しく白に塗りつぶす。横暴で、傲慢で、只々美しい。人の苦悩など我存ぜぬと、白々しくしんしんと舞う空を見上げれば、まるで空を飛んでいるような、違うな、空に落ちていくような錯覚を感じる。
積もるのが氷の結晶ではなく、どうせならご飯がいいな。そうしたら、今日は米を研がずに済むもの。
「このままお嫁に行きたいな」
ちょっと何言ってるのか分からない。突然の綾ちゃんの告白に、それどういう意味と尋ねるが、綾ちゃんはクスクス笑って、何となくだよと曖昧に応える。
雪を観て夕飯を思う女学生と、雪を観てお嫁さんを夢見る女学生。
いったいどちらが、家庭的なのかな。フリルのエプロンが似合うであろう綾ちゃんは、未だキャベツとレタスの区別がつかない。愛い奴め、私が貰ってやらんこともないよ。よし、餌付けにココアを奢ってやろう。なになに、遠慮はいらないさ、どうせ私の金じゃない。
食材を手に家に帰ると、そうだそうだと父親がソファーから立ちあがり、仕事用の鞄をあさりだす。何事かと警戒していると、鞄の中から外国製の板チョコを取りだした。同僚のお土産だそうだ。「それ、お上がりなさい」と私に手渡す。
食事前なのだから半分で結構と、真中でパキッと割る、そのつもりだったが手元が狂い、板チョコはかなり大きな塊と小さな欠片の2つに割れた。
「はい」
右手の大きなチョコを父親に差し出した。「おう」とだけ応えて手を伸ばし、わざわざ左手から小さな欠片を奪い取る。2,3口でぺろりと平らげ、またソファーに寝そべった。
少しだけ可愛らしいと思った。駄目だ駄目だ。これじゃあ、母と同じ因果を繰り返す。私は、本を読まぬ人と添い遂げる。そう心に決めているのだから。
さあて、米を研ぐか。