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遺された跡でアナタを想う

作者: 思島 行来

遺された跡でアナタを想う   思島行来


 わたしは「誠実さを欠かさない方向を取りつづけること」という、ひねった言い回しをとても好きだ。この表現は「誠実さ」を言うのではない(それでは言い過ぎだし、あまりに不可能だ)、そうではなくて、裏切らないという毎度更新される誓いのことなのだ。それは結局同じことに帰着するがまったく同じなのではなく、われわれに未来から思いもよらないところに到来するものを考慮に入れている。この到来があるがゆえに約束を守るのは不可能なのだが、それでも人は約束を更新し、ほかにやりようもなくその方向をとり続ける。   J・デリダ




 斎藤安未と出会ったのは、アルビという小さな料理屋だった。正確にいうと、彼女はそこで働いていたのだ。慣れない食器洗いや、注文取りをさりげなく手伝ってくれた。スペイン語学科という異国趣味への関心にもひかれて、親しくなった。年はわたしの方が一つ多かったが、わたしが家で過ごした19の春を、彼女は大学で過ごしていた。同じキャンパスに通う同級生。そうそう、バイト仲間で一緒にサッカーを見に行ったことも何度かあった。郊外のサッカー場では、全てを飲み込む歓声が、あらゆる壁を崩し去った。

 でも、実をいうとわたしは安未を少し苦手、だった。仕事を何でもテキパキとこなし、いつも涼しい顔をしている人。その気配りは、わたしに対してという訳ではないらしい。いやいや、どうやって安未は生きているのだろう。目の当たりにする様々なシーン、そのときどきに優しさが溢れ出て、それは誰に対してでもない。そんな風にもおもえてくる。周りのひと、友だち、まあ同じような言葉かもしれない。ただ安未がみんなと話しているとき、ちょっとした寂しさを感じた。かといって、ふと話し掛けられると、戸惑ってしまう。

 

 久しぶりに一緒にシフトに入った冬の日。扉を開けると、暖かい空気が流れでて、魚の焼ける匂いと共に私を包む。オリーブとローズマリィの香り、フライパンの響きが混じる。

「創作フレンチを出す店が増えてね。でも創作なのに、どの店も同じように見えるんだ。何だろな。手間や時間より、お洒落な創作料理というのは。」

職人肌のチーフのいつもの京都昔話が耳に入る。けれどシャッキリした声の調子は、想起というよりちょっとシンみりしていた。その横で安未は温野菜を皿に盛り付けていく。

「祇園あたりにはたくさん店があってな。あっこの店で働き始めたのはそう今の斎藤くんぐらいやったな」

やんちゃなチーフは、きっと昔はすごかったんだろう。でもなんか想像できない。

「チーフは何処に住んでいたんですか。」

安未の声の流れはせせらぎを思わせ、トーンには石床を通り抜けていくときのような丸みがある。

「御所の裏に商店街があってな、狭い借家に住んどった。まあ寮みたいなもんやな。斎藤くんはどこに住むんだ」

「東の方に、東山沿いや疎水の畔に。」

 聞き流した言葉、その意味を掴みとるまで、いっときがあった。

 安未は京都に行くんだ。

 仕事中に何を話したのか、よく覚えていない。

  



 とにかくその日、行き交う人も疎らになった夜の下通りアーケードを一緒に歩いたことは覚えている。半歩前を行く葉平の肩が触れそうになって、足をちょっと緩めた。右手に進む影を追いながら、投げかけたあてどない言葉は、光を八方に揺らめかせた。五分ばかりの時が流れると、わたしは立ち止まり、またね、と気丈に手を振った。そこはいつものバス停で、鹿六号に乗り込んだ葉平の背中に、わたしは一言ささやいた。去り行くバス停には微笑む気配が遺された。わたしが京都に旅立ったのは、二ヵ月後だった。


 ようやくとれた夏休み、これといってすることもないと京都に出かけてきた葉平と、足を向けた先にあったのが龍安寺だった。

鬱蒼とおい茂った晩夏の紅葉のせいで、天井に輝く夏の陽さえ、ようやく射し込む昼下がり。葉陰と光が戯れる樹底を二人そぞろ歩いた。遠く笹葉のせせらぎが聞こえ、冷んやりとした波がコケを渡る。そういえば可笑しな形のシダを熱心に写真に納めていく探索者もいたな。その光景がいささかゲンシの光景っぽかった。蛇行する路を降りていくと、池があった。その後、別に何かした記憶もない。



   3


夕暮れのやわらかい秋雨の中、再び訪れた寺は人だかりであった。心なしか静けさが見える顔々。時折弾けたような笑い声が聞こえる。山門を抜けるとすぐ、池が広がる。中央の小島の濡れた鳥居の朱が目になじむ。辺りでは、ようやく色づいた萌黄の花冠を掲げたハスが、水面を覆い尽くし、宙の中へと浮かび上がる。薄雲の映える池をぐるりと周る。今回の再訪は、出張の帰りのスーツ姿だった。


 五年ぶりの再会、とはいえマタ相変わらず近づきがたい人だよ、安未さん。それで何を話すともなく、足を向けたのがここだったというわけだ。

「暖かい雨に打たれるのは好きだな」

「冷たい雨よりはね」

「濡れた砂利道を歩くと、サクッとなるんだ。丸みのある音が」

「石畳の上って、それはもうツルツルと滑るの」

 この町の影が落とした印象が一瞬顔の上をよぎる。軽く唇をかみ、彼女は続けた。

「葉平、あなたの知らないあの光景、見えるかな」

「わからない、まあ念じてみれば」

「ときどき話してると、ベットリと疲れが貼りついてくる。そんな気がするの」

 詳しい話は聞いてない。わかっているのは、安未はこの町で働くのを決めた。それだけだ。思い出したように電話が掛ってきて、またとくに話すとはなく、話している。わたしは応える。まあ不器用さが安未には心地よかったのかもしれない。


「何をしてるの」とっさの一言が出てこないが、応えてみる。

「風を見ていた」

「そうやってずっと。いつものように」思い出したように安未はふっと顔を和ませる。


 まあ昔からそうだったなこの光景。ヒトは、彼女と何をしゃべるのだろう。オレはいったい何を話しているのだろう。


「今日はもうずいぶんと、読めたんでしょうね。この町の話を聞いたりは?」

「あるいはもう話したくはないのかと、待ってたんだ。別にそう長くはなかったよ。水場が近いと快くそよぐし。」

「何を話したらいいのかな」

 視線を上げると丹念に整えられた玉砂利の流れがある。岩の周りに波紋が広がり、それが奇妙でもあった。


「聞かれ飽きたかと思ったんだ。何か変わったこととかあったの?」

「それが、とてつもないことが。黒猫が横切ったら、幸せが訪れたの」

「どうして」

「どうしても。信じられなかったけど、何でもありってね。高田先生に会ったの。海を隔てた十一月の底冷えの下で、突然。有り得ない。素敵な旦那さんだった」

「はあっ。何してたんよ、そんな所で」

「フルムーンよ。有給の。懐かしくて、お昼を一緒に食べたわ。次の日は出発だったけど。相変わらずよう」

「いいなあ。そんな生活しばらくないな」

 



 傘を閉じて中に入ると、古木の香りがする。

「わたし、こんな家が好き。いつまでも居たいような所」

「古い民家の香りを」

「香るの」

 そう言われてみると、自然と気持ちが広がっていくようでもある。ハヤる彼女の後に続いて奥へと入る。広間の向かいには庭が広がり、鈴なりに人が止まっている。


 縁側に並んで腰掛け、心を放つと、塗り固められた土塀の茶色が目に染み、青竹のささやきが涼しかった。この五年を、尽きない泉のように語った。五百年を経たお堂の縁で。


「ニしてもロクでもないこと、ばっかりだった。どいつもこいつも」

少しずつ安未らしい見慣れた素直な反応が戻った。そういえばこんな人だったな。まあ大変だったんだろう色々と。

 

 振り向こうとする、わたしの目の前にそっとすくめた安未の肩が、あった。肩越しに息づく暖かさが、やさしく伝わる。雨上がりの竹林の借景から吹き抜ける風を浴びて、側に安未はいた。

 二人の距離は三歩ぐらいあるような気もした、けれど、なだらかな肩に手を架けた。きめの粗い綿の肌触りは柔かい。柑橘の香りが、照り映える濃緑の葉のイメージ。

「安未、」

 何気ない声を出そうとしたが、かすかに声が震えた。語りかける言葉は、うまく探し出せなかった。ゆっくり振り向こうとした安未は、何かいいかけ、横顔が夕陽で染まった。西日に瞬いた拍子に、額にかかる一房の髪が左眼に傾いだ。茶色の瞳が奥に映り、語りかける。無言の交感。安未の肩を受け止めた手、その中に安未の存在を強く感じた。わたしは誰か。


 あの一言が必要だったのかは、わからない。夜更けまで他愛もない話をして別れた。


安未とは、それきりだ。


 

  4


 二人が話すときは、いつも過ぎ去ったときだった。水面に一滴の雫が落ちるその瞬間、拡がる波紋。その一コマを捕らえることは出来る。既に失われたものとして。そこには心を揺らせた根跡が残っている。ひとときは、色とりどり、その折々に燃えあがる。ときに光あふれて後景は霞み、ときに漆黒に覆われる。たとえ時の巡りに色あせようとも、またおもい描く。けれど心が写映されたそのときには、決して戻れない。そんな遺された跡をひとは置いていく。二度と蘇ることのない日々のよすがは、わたしを訪れては消えていく。


 あの場所を訪れると、新しい光の下に一枚の光景が浮かび上がる。



季節の移り変わりと共に、心情も変わるという古典的なものを書きたい。けれども。

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