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過去作品・短編

きみだけがいない物語

作者: 八雲 辰毘古



 ……Epilogue……



 きみがいない物語をつづってみよう──


 まず朝が来る。閉めそこねたリネンのカーテンの隙間から、枕もとに向かって日差しがこぼれてくる。誰も起こしに来てくれない。けれども昨晩の部屋の管理の甘さが、まわりまわってぼくを起こしに来る。冷ややかな風が(さげす)むように布団の温もりを奪うのだ。べつに誰かいるわけじゃないのに、後ろめたさを隠すようにぼくは枕をかぶって羽布団の夢へと逃げ込む。

 それから二度寝に入る。やはり誰も起こしに来てくれない。だからついに目覚まし時計が鳴り響く。陳腐なアラーム音。初期設定の、芸のない音楽だ。きっと誰かと一緒にいたら少しぐらいは設定を変え、音楽サイトから何かしらダウンロードしていたかもしれない。けれどもこれはきみがいない物語だから、ぼくはつまらない音楽と一緒に、つまらない寝覚めを迎えることだろう。


 だが、ぼくのことだから一度目のアラームでは起きられない。きっと二度目、三度目……いや四度目に鳴ってようやくあたまを持ちあげるといった具合だ。

 スヌーズ機能は五分おきにアラームを鳴らしなおすから、このときでようやく八時二十分。だけどまだ起床というわけにはいかない。たしかに寝ぼけまなこをこすったあとで、ぼくはアラームの元凶を手に取り、現在時刻を確認するだろう。けれども面倒くさがりがわざわいして、ベッドの中でスマートフォンをいじるに決まっている。どうせ休日だ、少しぐらい寝過ごしたって問題ない、と。


 スマートフォンをいじって何をするって? 十中八九、SNSだろう。だってきみがいないんだから、それぐらいでしかひとりの淋しさを埋めることができない。ここ数年間で、ネットワークサービスも目を見張るほどの進歩を遂げている。いつでもどこでも、とりあえずWi-Fiがあればぼくは誰とでもコミュニケーションが取れる。そこで知人や友達に、おはようとか、徹夜して何やってんだよ、とかやりとりをしながら、タイムラインに流れてくる誰かの言葉や画像に反応してゆくのだ。けれどもそれだけでは心のわびしさは満たされることがない。

 そして飽きが来たとき、初めて起床する。気がついたらもう九時だ。なんて遅い目覚めだろう。ひとりきりだからって気がゆるんでいる。たるみきっている。おまけに表情も死んでいる。ほんとうに呼吸しているのだろうか、と疑いたくなるくらいに。


 でも、ぼくは気づいている。

 これはただ逃げているだけ、淋しさを紛らわせたかっただけなのだ、と。


 ──ご覧、これがいまのぼくだ。


 目の下のクマが残り、鏡のまえで力なく歯ブラシを動かしているこれがぼくの現状であり、日常なのだった。

 しょうじき情けないと思う。もしきみがいたなら、ふくれっ面をしてぼくの背中を張り飛ばしただろう。ただもうきみはいない。朝日よりも早く、そして強くあっけらかんと笑うきみの声は、もうどこにもいないのだ。


 だから、ぼくは現在進行形できみがいない物語をつづっている。胸にぽっかり空いた穴を埋めるためではなく、ぼくのこれからの白紙のページを埋めるために、だ。

 これはバッドエンドではない。べつに人生がハッピーエンドで終わるべきだと信じているわけではないけれども、そもそもこれを終わりだと考えるのはイヤだった。物語には必ず何かしらの結びがなくては、締まりが悪くなるに決まっているのだ。ならば、せめて想い出という形でもいいから、何かひとつ大切なものを残せるようにとぼくは筆を執る。


 さあ、書きかけの物語を始めよう。



 ……Monologue……



 彼女との出会いを思い出すためには、海に行かなくてはいけない。

 べつに記憶の劣化が始まっているというわけではなくて、近くにあった想い出の場所がことごとく無くなってしまったからだった。来年にはオリンピックが始まるとのことなので、都会の方ではやたらめったら街が改造されて、綺麗になってしまったのである。いま街を歩いたところで、過ぎた日の面影すら見ることができないだろう。それでは回想の素材として不適切だ。


 だから今日も電車に乗って海を見にゆく。そこには寄せては返す潮騒(しおさい)の、永遠に繰り返すであろう調べが響いている。ときおり人の声がうるさいこともあるけれど、その点冬なら誰もいないから楽でいい。

 けれども、彼女との出会いは夏だった。確か大学サークルの旅行か何かで来たとき、浜辺で無くしたサンダルを見つけてもらったのがきっかけだった。あとで聞いたところによると、たまたま隣町の宿屋に彼女とその友人達が泊まっていて、海で遊ぶ日取りと時間が一致したのだということだった。


 それで、とにかくぼくは彼女に出会ったのだった。サンダルを手渡されたとき、ぼくはびっくりして、口ごもるようにしか感謝の言葉を述べられなかった。けれども彼女はさわやかな笑顔でどういたしましてと言うと、突然思い出したかのようにぼくの名前を言い当てたのである。

 ぼくはさらにびっくりした。どうして、と尋ねたら、彼女は笑ってヒミツだと答えたのだった。この謎はいまでもわかっていない。けれどもひとつだけ、彼女はサンダルを渡すときに気がかりな言葉をつぶやいていた。


『ようやく、会えたね』


 聞きまちがいかもしれなくて、とうとうその意味を聞かずじまいだった。恥ずかしいことだが、ぼくはすっかり浮かれて、運命かなにかだと思ったのだ。

 ぼくたちはそのまま流されるように連絡先を交換して別れた。出会いはあっけなかったけれども、思い返してみるととても美しい一枚絵のように蘇ってくるのだから、不思議なものだと思う。脳は都合のいいことばかり憶えているものだとよく言われているけれど、その通りなのかもしれない。



 ……Dialogue……



 突然「おい」と背後で声をかけられた。


 振り向くとそこに老人がいた。ため息が出るほどきれいな白髪と顔の小じわで老人と決めつけたが、その(たたず)まいは壮健だった。コートを着ていたが、散歩している付近の住民なのだろうか、とぼくは推測する。


「見慣れない顔だが。海開きにはほど遠い季節だぞ」

「ええ、どうも。けど、べつにぼくは泳ぎに来たわけじゃありませんよ」

「それじゃ、死ににきたのか? 自殺スポットにはあまり向いてないと思うが」

「まさか」とぼくは笑った。「想い出を掘り起こしていたんです。そのためにはひと気のないこの時期のほうが都合が良くて」

「想い出ねぇ。まだ若いのに」

「若いときほど後悔は強いもんですよ」

「達者なことを言うじゃねえか」


 かっかっかっ、と老人は元気に笑う。その身体はコートの上から見ても頑強そうで、ぼくなんか比にならない。つかつか歩み寄られると、なんだか怖くなって後じさりしたくなる。しかし老人は気にせず近づいてきた。


「それにしても、あんちゃん、ほんとに自殺しそうな顔してっぞ? 見てて危なっかしいったらありゃしない。

 むかしおれの親父も、なんてことない顔して首くくっちまってよ。人間、死ぬ気がなくても気がついたらぽっくり逝ってるもんなんだ。やめとけやめとけ、このままだとあんちゃんも海に呼ばれちまうよ」

「はあ……」


 出会っていきなりこうきたものだから、ぼくはいろいろ拍子抜けしてしまった。てっきり力づくで何かされるのかと思ってしまうほど、老人は大柄だった。けれども老人がしたのは、自身の身の上話だった。妻に先立たれてしまったこと。娘夫婦からの連絡が楽しみなこと。それでもひとりが淋しくて、しばしば散歩や筋トレをしていること……

 もしかすると、このひとはいいひとなのかもしれない。ぼくはそう直感して、思い切って言ってみた。


「すみません、少しお話に付き合ってもらってもいいですか?」



 ……Monologue……



 そう、出会いとはいつも突然訪れて、あっけなく過ぎ去ってしまうのだ。だから記憶するためには注意深く思い出さなければいけない。たぶんこうしているあいだにも、想い出の美化は進んでいて、その汚いところや雑音のようなものが磨き取られてしまっているのだろうから。


 ──彼女の話に戻ろう。


 ぼくと彼女はそれからよく大学で会うようになった。たぶんそれまでもよくすれ違っていたのかもしれない。けれどもあの日から意識するようになったのか、同じ講義だったり、雑踏の中だったりで見かけるようになったのだ。その度にぼくたちは声を掛け合い、教授の愚痴(ぐち)やら世間話やらをして、ときには一緒にご飯を食べながら、楽しい時間を過ごしたのだった。

 そのうち何か面白そうな映画や美術館の展示があったときに、一緒に行こうと連絡するようになった。隣にいたらとても楽しいだろうな、という思いからだった。最初はさすがに緊張したものだったが、軽快に了承の返事があると、まるで許しを得た子供のようにはしゃいで、何度も何度も誘って行った。


 始めはたんに友人としてだった。けれども不思議なことに、会うたびにきらびやかになる彼女を見ていてどきりとすることがあった。服装が変わるのはもちろんのこと、髪の毛をいじくったり、ピアスを替えたり、買ったばかりのアクセサリを着けてきたりする彼女の変化に目が離せなくなったのだ。確かにその度にしてくるちょっとあざといアピールには辟易(へきえき)したけれど、気づくたびにどぎまぎする自分にも呆れられたからおあいこだ。ぼくはその時から次第に、彼女を異性として、もしくは恋愛対象として見ていたのである。

 そんな時だった。彼女の方から海に行こうと連絡があった。けげんに思いながら見た行き先は、初めて出会った海だった。だから、ひょっとするとなんて思っていた。それは恋に恋する男の子のファンタジーだと思っていた。きっともしかすると誘ったのはぼくの方だったかもしれない。けれども海に行ったのは確かなことで、そこで彼女かぼくのどっちかが告白し、もう片方がうなずいたのも確実なことだった。


 なんてことはない。

 ここまではどこにでもあるベタな恋愛小説なのだった。そう、ここまでは。



 ……Dialogue……



「へえ、いまどきの若えもんは、いいねえ。ロマンチックなもんだ」


 老人は海のある方を見ながら言った。

 ここはファミレス。どうせならご飯でも、と窓際の席に陣取って男ふたりで向かい合っているのだった。


「……なんか、すみません。のろけ話みたいで」

「いいよいいよ。そういうの、嫌いじゃないから。娘から夫の愚痴を聞くよりは楽しいしな」

「はあ……」

「でもさ、あんまり想い出に深入りしない方がいいよ。おれもひとのこと、言えた義理じゃないけど。鮮明に思い出せば出すほど、そういうのは無くなったことに気づいて苦しくなるんだ。どうせなら、そうだな、何か熱中できる新しい趣味でも見つけるんだな。新しいことをやっていれば、否が応でも上書きされて、なんとかなってるからね」

「はい……でも、ぼくは忘れたくないんです。あれは、あまりにも突然だったから、ぼくの中でもまだきちんと整理がつかなくて……」

「まあそうね。すぐに忘れて新しいものに飛びつけってほうが無茶なんだよな。すぐにできたら苦労しねーって」


 老人は苦笑した。そこにプレートのステーキがやってきたので、会話はいったん途切れた。それからしばらくガツガツむしゃむしゃと噛む音と、ナイフとフォークが皿とぶつかる音だけがぼくたちのあいだに流れていた。食事中は喋らない主義だったのは、お互い様で、この点でぼくたちは良き友になれそうだった。

 やがて食べ終わると、老人はずっと考えてきたことを告白するかのように、重々しい口調で尋ねてきた。


「なあ、こんなことは聞きたくないんだけど、あんちゃん、最後まで話してくれないかね? おれもここまで聞いてしまったから、最後まで聞きたくなったってのもある。ただそれ以上に、誰かに話してしまった方が、きっと楽になるんじゃないかな」


 ぼくは目を見開いた。目の前には老人の真摯(しんし)な表情があった。こんな表情をぼくはこれまでも何度か見てきた。けれどもそれが崩れて拒絶するさまも見てきた。端的に言って判断に困る場面だった。しかし、ここで話さずにいられるほど、ぼくも強くはなかったのである。


「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて……その、なんていうかですね」

「待て。単刀直入に聞こうか。彼女と別れた……いや、死んだのはいつだ?」


 ぼくは苦笑した。けっこう勘がいい。


「鋭いですね……でもどちらもちがうんですよ。最後なんてものはないんです。彼女は、()()()()()()()()()。誰にも、何も言わず、()()()()()()()()



 ……Monologue……



 予感も予告もなしに、彼女は消えた。まるでシンデレラの魔法の時間が終わったかのように、じつにあっけなく、それも唐突に。せめて真夜中の零時の鐘が鳴ってくれればよかったのに、それすらもなかった。ただ手の中で雪が溶けたかのように、彼女はいなくなってしまったのだ。

 最初は何か悪い冗談だと思った。きっとぼくがあたふたして、泣き言をつぶやきかけたときに戻ってきてにやりと笑う……そんなシナリオを期待していた。けれども彼女は戻ってこなかった。昨夜までふたりで温かかったベッドが、ひとり分の体温を失ったのだ。それは温度計の数字では測れないほどの喪失感だった。


 もちろんスマートフォンで電話やメッセージを送って、安否の確認ぐらいはした。けれども一日経っても、二日三日と過ぎ去っても応答はなく、既読すらつかず、ましてや向こうから何か音沙汰があったわけでもない。それどころかSNSのダイアログを(さかのぼ)っても、一定以上の記録は消えてなくなっていた。遡り機能があまり充実していなかった時代のものだから、ふだんは気にもしなかっただろう。けれども彼女の履歴をたどりたかったぼくにとって、これはとても痛手だった。

 仕方なく、ぼくは彼女の友人知人たちを当たることにした。日頃のお喋りやダイアログを懸命に思い出して、片っ端から当たってみた。彼女の友達は驚愕に目を見開いて、ぼくと同じことをして、同じ驚きを堪能することになった。みなダイアログを遡れず、そもそもの出会いがいつだったのか、記憶があいまいになっているのだった。


 それでもひとつだけ、彼女の親友というひとから興味深い話を手に入れた。その話によると、彼女の出身は東北の太平洋側だという。いまでも終わらない傷痕を抱えた地域のひとつに、彼女のふるさとはあるのだ、と。

 思えばぼくは彼女の身の上話を聞いたことがなかった。わざわざ尋ねる必要もないと感じていたし、あの頃はただ彼女といる現在の時間が楽しかった。楽しすぎた。だからそれを壊して昔話をしてもらおうだなんて、そんな野暮な気持ちはつゆほども起きなかったのだ。けれどもこんな唐突なバッドエンドで終わるくらいなら、ぼくはあえて禁を犯して彼女の影を追いかけてみようと、そう決めた。


 それが七年前のことである。

 震災から一年が経っていたころだった。



 ……Dialogue……



「それで、ダメだったのかい?」


 老人は表情を変えず、そう言った。

 ぼくはふたたび苦笑する。あまり上手な話し方だと思ったことはないが、こうも先を読まれると面白くはない。


「はい。ボランティアとして数年間、いろんなことをやって、それから、仮設住宅のほうも見たんですけど、彼女の姓名どちらも関係あるひとがいなかった。ひょっとすると、だけど、震災と津波で流されてしまったのかもしれません」

「心の傷ってヤツかなぁ……じゃあ、その()、ひょっとすると海に呼ばれちまったのかねぇ」

「今となっては、もう何もわかりません。あとでわかったんですが、その親友の方も大学を卒業してからぱったり連絡が途絶えてて。社会人になってもしばしば調べていたんですが、そのうちだんだん、ぼくの記憶の方も薄れてきちゃったんです」

「そうかあ……」


 老人はしばらく黙った。

 それから、言った。


「不可解なことが多いなぁ。おとぎ話か、SF小説か、それともホラー? まじめに考えれば頭がこんがらがっちまうよ」

「そうなんです……だから、しょうじき話していいものかどうか、わからなかった。友人にこういう話をすると、みんな、すべてぼくがみた妄想だっていうんですよ。そうじゃないと証明したかった。けれど、何も残らなかったんですよ」


 老人はそこで、ダイアログを見せてくれと頼んだ。ぼくは言われた通りにスマートフォンを取り出して、SNSのアプリケーションを開いたけれど、やっぱりそこには彼女のアカウントも、履歴も、何ひとつ残っていなかった。あるのはただ、なんでもない知人や友人の名前のリストだけなのだ。

 けれども老人は親切なことに、ひとつひとつ表示して、これは? これは? と尋ねてくれた。そうやってふたりで言葉を交わしながら、過去を確かめ合う作業が、ぼくにはこれ以上にない救いのような気がした。ただ、多くもないけど数えるにはおっくうな連絡先の内訳を話しながら、ぼくは、やっぱりひょっとするとぼくの青春時代は夢まぼろしの類いだったのだろうかと思い始めていた。


「さて、これでリストは全部調べたわけだが……なあ、もうひとつ踏み込んでいいか? その()の本名を教えてくれないか? 警戒しなくていい。七年前の夏に隣町の宿屋に泊まってたって話が本当なら、そこの宿帳に名前があると思うんだ」

「ああ、その通りですね。気づきませんでした……」

「バカ、人探しの基本だよ。刑事ドラマとか見ないのか。これだから若いもんは」


 そしてぼくは彼女の姓名を言った。

 ここ数年間、口に出すことを避けていた名前を。


 ところが、老人はそこで場違いに微笑んだ。どうかしたのかと訊くと、彼ははにかむように、こう答えたのだ。


「偶然だな、と思ったんだ。その苗字、娘が嫁いだ先の名前とおんなじなんだよ」

「へえ……ほんとうに偶然ですね」


 それで、ぼくもつい場違いに笑ってしまった。けれどもこの笑いは、思ったよりも凍えていたぼくの心を溶かして、温めてくれたのだった。


「さて。何かあったらおれの方から連絡させてもらうよ。今日は帰りな。変なことがあって、海に呼ばれちまったらそれこそおじゃんさ。旅をするのも楽しいだろうけどよ、あんちゃんは、もう自分の時間を取り戻していいはずだ。忘れて前に進んだっていいはずだ」



 ……Monologue……



 老人の言葉は、まるで自分に言い聞かせているかのようだったが、あえてそれを指摘しないでおいた。そんなことをしたら、ぼくと彼のあいだをかろうじて繋いでいる(えにし)の糸が、ぷつんと切れそうな気がしたからだ。しょうじきに言うと、まだひとりで歩くには心細いから、この糸が細かったとしても、手放したくはなかったのだ。

 ぼくたちはそれから駅まで歩いて、そこで別れた。電車に乗り、悲しそうに手を振る老人を見ながら、ぼくは帰路につく。けれども帰宅する際に思い返してみると、これはあの日彼女に会ったときの追体験なような気がして、微笑ましくもあり、悲しくもなった。


 なんだ、まだ忘れられてないじゃないか、と我ながら苦笑したくなる。けれどもそれでいい気がしてきた。忘れてなかったことにできるなら、最初からそうしていたんだ。

 そうだろう? 忘れないから前に進めるんだ。来た道が残ってることを、振り返って確かめるために。


 ──そして七年が過ぎた。


 あのあと老人からはちょくちょく連絡があったが、虚しい報告が多かった。例えば隣町の宿屋が、営業不振で潰れてしまっていたとか、ぼくの泊まったホテルが改装して面影もなくなっていただとか。想い出の場所が次々とロードローラーに掛けられるこの状況は、オリンピックが終わったあとも続いていたのだ。むしろそれがきっかけにさらに進んだと言っていい。国際情勢は相変わらず不安定で、ネットは政治やなんかの意見でぎすぎすしていたけれど、ひとびとはとにかく未来へ進もうとしていたのだ。

 ぼくもそうした世情の波に呑まれて、夜遅くまで帰れない日々が続いた。入社時には小さかった我が社も、いまでは一躍有名になって仕事が大変だった。かつて二十世紀の大企業も経営破綻で転んでしまう中、何がこれから生きるのか、わからない嵐の海の舵取りのような状態が続いていたのだ。そんな中に昔を振り返って感傷にふけっている時間なんてない。だから、皮肉なことに、老人の言葉は正しかったわけだ。ぼくはだんだんと、彼女と過ごした時間に囚われることをやめ、自分の時間を取り戻しつつあったのだから。


 ただ、ぼくと老人の交流は以降も切れることなかった。というより、むしろ親交を深めていた。このあいだなど、いつのまにか生まれていた孫娘の成長記録などを読まされて大変だったのだ。

 それはある夏の日のことだった。たまたま有給が取れて、ひさびさに会わないかと連絡があったので、電車に乗って行った。窓から見えるのは、海の見える町。駅からの道のりで聞こえる、寄せては返す潮騒の響きは、ぼくが老人と出会ったときよりも活発で、けれどもぼくが彼女と会ったときほど懐かしくはなかった。


 老人はすっかり目や耳が悪くなり、メガネと補聴器が外せないほどだったけど、まだ元気そうだった。かっかっかっ、と笑う声は(しゃが)れていても健在で、お元気ですかと尋ねるまでもなく、ぼくは笑ってひさしぶりのあいさつをしたのだった。

 ぼくと老人の談話は、初めて会ったときよりもずっと愉快になっていた。過ぎ去った日々のことを思い出し、劣化が始まりかけた記憶を寄せ集めながら、ああでもない、こうでもないと言葉を紡いでゆく。その中には少なからずまちがいがあったけれど、ぼくたちはそんなことを気にしなかった。所詮ささいなことなのだ。事実として、物証として残っているのはほんのわずかで、記憶はそのあいだを縫ってつなげる糸程度の役割しか果たしていない。その縫い方の良し悪しを指摘するのは、やっぱり野暮ってものだろう。


 ところで、話している最中に興味深いことがひとつあった。老人の孫娘のことである。彼女はまだ七つになるかならないかの年頃の幼子だったのだけれど、会話をさえぎって、しきりに老人を海に誘うのだ。その健気さがとても愛らしくて、うっかり微笑みかけてしまったら、彼女は警戒して、老人の背中に隠れてしまったのだ。

 老人は彼女を(いさ)めた。そのとき出た名前が、なんとぼくの探した彼女の名前だったのだ。どういうことかと尋ねてみると、老人は、頼まれて孫娘の名付けをしたのだと言っていた。



 ……Dialogue……



「苦しまぎれにとっさに出た名前がそれでな。べつに悪気があったわけじゃない。許してくれ……」

「べつに怒っちゃいませんよ。でも、そうするとぼくは彼女の同姓同名の子を目の前にしてるわけだね」

「いや、ほんとすまん。忘れろとさんざん言ったのはおれのほうなのに」

「構いませんよ。もう過ぎたことですし、吹っ切れてますから」


 孫娘はその会話の意味について行けず、ただぼんやりとぼくたちを見つめているばかりだった。

 そこに母親らしきひとが来て、ごめんなさいと謝って娘を連れて行ってしまった。なんだか申し訳ない気持ちになると、老人が立ち上がり、言った。


「よし、おれも海に行こう。あんちゃんも一緒に来るかい?」


 ぼくは、うなずいた。



 ……Monologue……



 海はひとでごった返していたが、相変わらずだった。ここには永遠の時が流れていると思うのは、詩人の考え方かもしれない。ただ、寄せては返し、返しては寄せる潮騒は、ぼくが生まれるよりも前に、ひょっとすると人類の誕生以前から存在していたはずなのだ。そこに懐かしさを感じないわけが、どうしてあるだろう。出会ったばかりの老人は、盛んに「海に呼ばれる」という表現を用いていたが、いまではその意味するところがわかる気がしたのだ。それだけ歳をとったということなのだろうか。

 ぼくはただ海水浴に戯れるひとびとを眺めていた。老人のほうは、孫娘に呼ばれて浜辺で遊び相手をしている。家族によく愛された、素晴らしい祖父であるようだ。もっとも家族はいいぞ、と自慢する彼には、ぼくはただ苦笑いするしかなかったのだが。


 時刻はすでに午後。日差しの強い時間も過ぎて、だんだんと傾く中、太陽は次第に海へと沈もうとしていた。水平線を黄金に輝かせるその光景は、あまりの美しさに見とれて、言葉を失ってしまうほどだった。

 けれども見とれ過ぎたのか、ぼくは気がついたら周りに誰もいないことに気がついた。誰もいない浜辺。ただ潮騒だけがうるさく鳴り響く。そんな中を、ぼくは立ち歩いて帰路を思い出してみる。ところが、ひさびさすぎて、どこに行けばいいのかわからない。スマートフォンで老人に通話をしようかとも思ったが、なぜか圏外になっていた。


 これは困ったぞ、と思いながら、とにかく歩いてみることにした。さくさくという砂浜の音が耳に心地よく、踏んで来た足跡は次々と波打ち際に掻き消されていく。ぼくの人生の足跡もこういうものだったろうか、と思ったりもするけれど、まだ懐古にひたるには早すぎるような気もした。

 ずっと歩いていた。景色は全然変わらず、ぼくは同じところをぐるぐる回っているんじゃないかと錯覚していた。じっさい、どうすればこの砂浜から抜け出せるのかわからなくなっていた。ただ進むことしか出来ず、振り返ってもたどってきた道がわからない。そんなところまで来てしまったのだ。


 と、そこに。

 ぼくは小さなサンダルを見つけた。


 おそらく小学生向けの小さなものだろう。海水浴に来た子供が、はしゃいで脱ぎ捨てていったものなのかもしれない。ぼくには関係のないものだ。けれどもなんだか懐かしい気がして、これを手にとって、また歩き出した。

 ふたたび周囲を見回すと、もう夜になっていた。空には満天の星空があり、まるでこの世ならざる世界の景色だった。透明な潮騒と、冷たい星の光を浴びながら、ぼくは、けれどもここには何もない、と思った。時間も記憶もない、そんな虚無の空間に取り残されてしまったのではないか、と。


 そんな時だった。



 ……Dialogue……



「どうしたの?」


 振り返ると、そこに女の子がいた。

 あの老人の孫娘だった。しかしその目は初対面のそれではない。


「道に迷ったの?」


 答えに窮していると、さらに続けた。とりあえずうなずくと、彼女は無表情なまま、言葉を吐き出した。


「わたしも迷っているの。歩きたい道があったんだけど、足が痛くなっちゃった」


 彼女はそう言って、右の裸足を上げた。よく見ると、ぼくが持っていたサンダルは、彼女の左に履かれているそれと同じだった。


「ねえ、もしかして……」と、言いかけて、ぼくはハッとした。この光景は、どこかで見たことがある。「このサンダル、きみのものかな?」

「あ、」と彼女の顔はほころんだ。「ありがとう、見つけてくれて!」


 その笑顔を見て、ぼくはびっくりした。

 だって、それはもうずっとずっと昔に見たっきり、記憶の奥底に埋もれてしまったあの笑顔に、そっくりだったのだから。


「……ようやく、会えたね」

「え?」と彼女は聞き返す。

「いいや、なんでもないんだ。ただ、懐かしくて、嬉しくて……」


 ぼくは思わず泣いていた。そんなことはありえない。ありえないのだけれど、もしそうだったとしたならば、それは永遠の救いになるのではないか。

 ぼくはこのとき、人間の記憶のあやふやさと、その想像力の豊かさを(いわ)いたくなって、同時に(のろ)いたくもなったのだった。



 ……Prologue……



 さあ、シミュレーションを始めよう。

 きみのいない生活を、きみがいない物語を──


 朝が来る。閉めそこねたリネンのカーテンから日差しが来るけど、ぼくは気にしない。布団の奥に潜り込んで、それから、今日は平日だと思い出してから飛び起きる。

 あわてて歯磨きをして、トースターに食パンを突っ込んで、マーガリンを取り出しながら、パジャマを脱ぐ。クローゼットを開けてスーツを取り出すと、ネクタイを締めながら出来立てホヤホヤのトーストをかっ喰らい、忘れ物点検をしてからドアを飛び出す。まるでひとり暮らしの新社会人みたいで、でもそれが、生まれ変わったように瑞々しい雰囲気を(かも)している。


 この様子をきみが見たらどう思うだろう? きっと喜んでくれるだろうか? それとも新しい女ができたのかと嫉妬深く勘ぐるのだろうか? どっちもありそうで、どっちもなさそうな気がする。けれど、どっちかであってほしいなとは思う。だって、きみはこれからぼくと会うんだから。それは遠い未来のことかもしれないし、もう過ぎたことなのかもしれない。ただ、すべてはきっとどこかでつながっているのだろうと、そう思うのだ。

 きみを捜して老人に出会い、老人の出会いがきみを見いだしたのするならば……いや、これはきっと妄想だ。けれども興味深い事実は想像力で補完されて、美しい記憶の一枚絵を描きあげてしまった。それはほんとうのことではないかもしれないけれど、ぼくが書こうと思っていた物語よりもずっと綺麗で、救いになっている。


 だからぼくは書くのをやめた。

 書きかけの物語は、きっと書きかけのままだから美しい。これを終わらせるのは、ぼくが死ぬとき、墓場に持ち込まれたときに初めてピリオドが打たれる。そういう風にできている。ならば書き切るのは野暮な話で、生きている限りずっとずっと書き足されてゆくものにちがいないのだ。


 ただ、もしこの物語に、この生活に名前をつけるとするならば、ぼくはきっとこう名付けることだろう。


 きみだけがいない物語、と──

10/30.計算ミスしてたので直しました

6年前→7年前に修正

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