悪魔召喚
紅茶と甘いケーキで心を満たしたアリスは現在の状況を大体把握していた。
まず、あの玉座の間からリセットは行われてはいない。
リセットの際に生じる時間の回帰現象の不起動。何より自身が弱体化しているという明確な事実が証明している。
アリスの力はミラー城に内包する魂の質と量で変わる。
何百年も人々を喰らってきた魂の数は計り知れず、アリスは絶大な力を有していた。しかし魂の大半が鏡也に浄化されたことで、アリスの存在は全盛期の百分の一にも満たないほど希薄になっている。
この建物は二階建ての一軒家だった。広い森の中にあり、ここがどこの国かはわからない。
今いる居間の広さは14か13畳ほど。本棚やテーブルなど大き目の家具や、階段とキッチンが内蔵されているため実際はもっとこぢんまりとしている。玄関以外に扉がひとつあるが、鍵がかかっていて入れなかった。二階には寝室があり、大きな寝台と衣装棚があった。
「まさか私の城が小さな一軒家になるとは、夢にも思いませんでした」
この家はミラー城だ。姿形が変わっても、城の主人であるアリスにはわかる。
ゲーム内ではこんなことはなかったが、あの化物どもの巣窟が随分と愛らしくなったものだ。
そしてあの扉。ここにはかつてのアリスの仲間たちが存在している。あの扉の向こう側に鏡也と戦い破れた者、物語の裏方に回った者、特にアリスとの関係が深い者の存在を感じられるのだ。
だが彼らは主人に答えなかった。これは極めて非常事態である。
彼らが離反を起こしたわけではない。そもそも彼らの意識が覚醒していないのだ。理由はわからないが、強制的の冬眠状態にされているようだった。その上で扉の先の空間が完全に謝絶されている。普段のアリスならば強制的に開ける力技も行使できたが、弱体化した今のアリスでは難しい。
あの扉の先に彼らは囚われているという事実と、何も出来ない自身にアリスは静かな怒りを発する。
だからといって、今のアリスにはこの状況を打破する術はない。
「内部からの助けは難しい。なら、外部に助力を頼みますか」
アリスは闇を広げ、闇の中から一枚の羊皮紙と黒い羽ペンを取り出す。
黒い羽ペンから垂れた黒い雫が羊皮紙に吸い込まれ、インクは禍々しい魔法陣を描き出した。
アリスは羊皮紙を暖炉に焼べ、悪魔を召喚する呪文を唱える。
『変現せよ、地獄の大総裁。嘗て天使の白き翼は神罰にて黒く焦げ、汝は灰へと還るだろう』
呪文を唱え終わると炎は青白く燃え盛り、室内に生じた不規則な風が灰が巻き上げる。
灰は漆黒の燕尾服を象り、光を反射するピカピカの黒い革靴と、三つ山の装飾が施された白のドレスグローブが手足となって生える。その時点で、全長180センチを超えた首なし死体が出来上がっていた。
やがて灰は頭部を象り始め、それは奇怪な鳥の骸骨を形成する。後頭部からは黒い羽毛が頭髪のように伸び生え、がらんどうな眼窩からは青白い炎が爛々と輝いている。
側頭部から二本の不気味な黒い角が出来上がると、鳥の骸骨は魂を吸い取るような恐ろしい老人の声音で息を吐く。
「ほう……アリスが我輩を呼び出すとは珍しい」
「相変わらずですね、カイム。呼び出すたびに部屋を灰で汚すの止めてくれないかしら」
アリスは灰にまみれた部屋の惨状を指差して、全長2メートル超えの巨躯を睨む。
「簡易召喚術式で召喚しておいて、その悪魔にケチをつけるのは君ぐらいだろうな。本来なら幾千ほど贄を頂くところを無償で来たのだぞ」
「そんなの知らないわ。それよりも貴方の能力で調べて欲しいの。もう一人の『ゲームマスター』として」
大悪魔カイム。
彼もアリス・ミラーのゲームマスターであり、正確にはそうではない。いわゆるスターシステムによって鏡の国が製作した全てのゲームに登場するキャラクターなのだ。
彼はゲームオーバーしたプレイヤーにややメタ発言なヒントを与える役目を持っていた。アリスと同じで高次元の視点を持つ彼は、全ての鏡の国シリーズでゲームマスター権限を保有する。だが、主要キャラではない分、他のゲームマスターたちと比べると権限は弱く調整されている。
アリス・ミラーの世界ではカイムはアリスの使い魔という設定があった。召喚が省略できたのは、過去に互いの契約が完了しているためだ。
既に魔力のパスが通じている状態のカイムは、どちらか一方が滅んでいなければ、どんな場所にいても呼び出すのは確実だった。
「……なるほど、理解した。鳥たちの目を通してこの世界のことを確認させてもらったよ」
彼は鳥たちの目を通して世界を見渡せる空間把握能力に長けている。
彼はこの数分の短いやり取りで状況を把握したらしい。
「この世界……ということは、ここはアリス・ミラーではないの?大きなバグ?まさか新たな続編による世界改変とか」
カイムは返答もなく沈黙し、窓から見える外の景色を眺め語り出す。
珍しく考え込んだカイムの言葉に、アリスも耳を傾けた。
「アリス・ミラーではない、というのは確かだ。私も長く生きてきたが……こういう事態はとても珍しい」
「どういうこと?」
「アリス。私は管理者として製作者側の視点を持ち、現実の世界にも精通しているのだが、近年、日本の小説に異世界系と呼ばれるジャンルが熱いのだよ」
唐突な小説業界の話題にアリスは首を傾げる。
ゲームオーバーになったプレイヤーにメタ発言なヒント与えるカイムと違い、アリスはあくまでゲーム内のキャラクターだ。当然ゲーム内での知識しかない。
疑問符を浮かべるアリスにカイムは言葉を続ける。
「この異世界系には大きく分けて二種類あってね。主人公が異世界転生するものと、主人公が異世界へ転移してしまう、なんて話があるんだ」
「つまり、私たちはリセット直前に異世界へ転移したというの?」
「大陸の地形も地球は異なっているし、何よりこれほど異なった種族が生息する世界など、我輩の知識では異世界くらいのものだろうな。断言しよう。これはゲームではなく、現実の異世界だよ」
あまりにも突飛な話だが、アリスはすぐにカイムの話を信じた。
悪魔は契約者には嘘が吐けない。その上、お互い見知った仲なので疑いなどなかった。
だが受け入れ難い現実もある。
「鏡也は……いないのね」
「我輩の見た範囲では確認できなかった。転移したのは君たちというより、ミラー城そのものだろうな」
アリスは目に見えて気を落としていた。
まるで愛しい男を失った少女の姿にカイムは不意を突かれるが、だが納得もした。
いくらゲームマスターでも、世界そのものが退屈ならそれは苦痛でしかない。多くの作品に登場するカイムにも少なからずそういった駄作と呼ばれる世界の記憶がある。たしかに耐え難いものだった。
永遠に続く世界の中では、鏡也こそが彼女の存在意義であったのだ。
「大丈夫かね?」
「……問題ないわ。話を続けてちょうだい」
城の主としていつまでも嘆いている暇はない。
アリスは気持ちを切り替え、現状の把握に努め始める。
「この建物についてだが、これは序幕のステージとなるはずだった初期案の家だ。まあ、主人公が逃げ回るには狭いということですぐにボツになったが」
「でも、なぜこの家に?」
「この異世界の法則に縛られているのだろう。ゲームが正確な物語の繰り返しであるように、この異世界の法則に君たちは押し留められている」
「法則?」
「ふむ、我輩の憶測だが、本来の君たちはこの世界ではあまりにも強大な存在であるため、弱体化した状態では存在の維持が難しいのかもしれない。今はエネルギー不足によるランクダウンみたいなものだろう」
この城に不足したエネルギー。それは明白だった。
無表情だった顔が一変し、花が咲いたような笑顔でアリスは笑った。
「なんだ、結局やることはいつもと一緒。この城は終わって尚も死と殺戮を望むのね」
アリスの言葉に嬉々として答えるように、食器や家具が音を鳴らす。腹を空かせた愉快な咆哮。この城は今も犠牲者を求めて止まない。
「いいのかね?全ては我輩の憶測に過ぎず、君たちもやっと救われたはずだろう」
「たしかに私たちは救われた。でもね、もともとそんなことは関係ないの」
たしかにアリスたちは鏡也によって救われた。だからといって足を止めることはしない。殺戮を止められないのだ。
言うなれば、彼女たちは壊れた機械仕掛けの人形。壊れた人形は子供が押さえても、その手を払いのけただ進み続ける。歩みを止めるには電池が尽きるか、壊すしか手立てはない。
鏡也は人形を壊して止めた。
それが偶然に彼女たちにとっては救いになっただけだ。
「私たちは存在する限り殺戮を止められない。根本から狂っているのよ。何より多くの殺戮を繰り返した私たちが、ただこの異世界で名もなく薄れさせていいはずがない。それは過去に私たちの犠牲になった人、私たちに抗った英雄、私たちを打倒した宿敵への侮蔑に他ならないのだから」
燃える眼窩がアリスを覗く。
喜びも、怒りも、悲しみもない。無感情の微笑み。
ただ殺戮を生体反応で行おうとしている。その当たり前の行為に、さして強い感情が芽生えるはずもない。
城が元の姿へと戻るのに要する魂を、はたしてこの世界の人口で賄えるだろうか。どのみちアリスたちが存在する限り、この異世界は滅亡へと進んでいる。
カイムはこの異世界が阿鼻叫喚の地獄へと成り果てる様を想像し、その芸術的な光景に眼窩の炎を揺らめかす。悪魔としてアリスが作り出す惨劇は、彼にとって至上の喜劇であった。
「愚問であったな。やはり君との契約は我輩にとって間違いではなかった」
「あら、私もあなたとの契約を間違いだと思ったことはないわ。では早速初めましょうか。ティータイムはおしまい、お散歩の時間だわ」
アリスが椅子から立つと、カイムが彼女の手を取りエスコートする。洗練された動きと衣装が相俟って執事とお嬢様のようだ。
アリスが外に出ると、強い風が吹き森に喧騒が広がる。
その喧騒は、これから起こる惨劇におののく世界の悲鳴のように忙しなく鳴っていた。
「良い風ね。草を踏み潰して進むにはちょうどいいわ」
「ああ、確かに。きっと草たちの悲鳴も消してくれる」
壊れた人形は再び歩き始めた。
歩みを止める者はまだ現れない。