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こんとらくと・きりんぐ

サンビセンテ・フリーウェイ(こんとらくと・きりんぐ)

作者: 実茂 譲

 サンビセンテ・フリーウェイはしょっちゅう渋滞を起こすことで有名だった。渓谷を横切り、松林と小さな町がいくつかある台地のふもとをなぞって、人口二〇〇万のオレンジ・シティへと流れ込むこの道路は山火事、自動車事故、警察による検問、何の理由もなく突然起こる不可思議な車づまりで、不摂生な血管のように流れが止まってしまうのだ。

 ショートヘアの少女、または長髪の少年に見える殺し屋の涙色のクーペもまた渋滞に引っかかっていた。ぬるいジュースを飲みながら、うだるような夏の暑さに排気ガスの吐き気をもよおす熱気が加わったなかハンドルを握り、数センチ進んではまた止まるを繰り返すのはひどく不愉快だ。おまけに殺し屋は札束でいっぱいの旅行バッグを後ろの座席に放ってある。なかには三十発弾倉付きの九ミリ・サブマシンガンも入っていた。この州ではサブマシンガンの所持は違法だし、旅行バッグいっぱいの札束にも犯罪の臭いを嗅ぎつけるに違いない。こんなことなら有料道路を使えばよかったと後悔しても、後の祭り。前も後ろも十キロ以上の渋滞で進むも退くも叶わない。

〈ヒルサイド・モーテル この先五〇〇メートル〉の看板をもう二時間眺めている。サーモンピンクの楕円形にコテージ型のモーテルが描かれていて、サーファーショップ風の古いフォントでヒルサイド・モーテルの名が白に縁取られた青で走り書きされている。コテージは赤い瓦に白い漆喰壁の典型的なコロニアル様式で、おそらくプールもあるのだろう。

 ラジオのスイッチをいじると、ピロピロピロというハーモニカの音とともにラテンブルース歌手ジョニー・ロペス・ガルシアの『タレコミ・ブルース』が流れてきた。


  町でいきなりパクられたぁぁぁぁぁ

  なぁんもしてねえのにパクられたぁぁぁぁぁ

  パクられるときはいっつもそうぉぉぉぉぉ

  やってねえことでパクられるぅぅぅぅぅ

  ほんとにやったことはぁぁぁぁぁ

  全然ずうぇんずぇんバレねえのにぃぃぃぃぃーい


 殺し屋は今の自分が熱中症予備軍であることを認めつつ、冷たいビールの絶望的欠乏による、自暴自棄の衝動を――バッグのなかのマシンガンをこのくそったれた車の列に乱射してやるという衝動をプロらしく抑えようと頑張っていた。額や首筋に浮く汗をタオルでぬぐっては、ぬるいジュースを飲み、車のなかの温度計を見ると、三九・二度もある。醜く歪んだ吸殻でいっぱいの灰皿は殺し屋の心の鏡だ。煙草は喉を渇かすが、吸っていないとイライラする。

 トランクのなかのサブマシンガンは一分間に八〇〇発を発射できる。だが、待てよ。札束を使えばいいのではないか? だが、誰を買収すれば、この渋滞は片づくのだろう? 殺し屋は地震学者や竜巻観測の専門家がぶつかる壁にぶつかった。人の力の及ばないものを相手にする絶望を味わった。

 殺し屋のクーペの左隣の二台前には青いスポーツ・セダンが止まっていた。ハンドルを握っているのは水道修理器具のセールスマンだった。神経質な口元に茶色い口髭をかぶせたこの男は上着とネクタイを助手席に投げ捨て、水道修理器具のカタログで顔を扇いでいた。

 ひどく暑いのに、彼は車のウィンドウをきっちり閉じていたので、熱中症で死にたがっているように見えた。だが、理由は他にある。車のなかにこもった臭いを外に出したくなかったからだ。

 この、水道修理店へ掛け取りに出かけているありふれた中年セールスマンにしか見えない彼の車のトランクには折り曲げた二つの死体があった。たまたま今日は帰りが早くなり、家に戻ると、彼のベッドで女房が聖書のセールスマンとファックしていた。怒り狂った彼は年間優秀セールスマンに与えられるモンキーレンチ型のトロフィーで二人を殴り殺し、そして、自分がしでかしたことに恐れ慄いた。妻と間男の頭を叩き割ったセールスマンは凶器のトロフィーと二つの死体をトランクに詰め込んで、これを捨てるべく、車を駆った。護身用に家に置いていた三八口径のリヴォルヴァーをグラヴ・コンパートメントに放り込んで。

 殺してまだ数時間しか経っていないのに、死体は熱さに負けて、もう臭い出している。車のなかは死臭でいっぱいで、警官が彼の車の横に立ち、ウィンドウを下げろと命じただけでアウトだ。だから、窓は開けられない。目まいがするのは暑さのせいか、それともストレスのせいか分からなくなりつつある。

 くそったれが、とセールスマンはつぶやく。あの売女ばいた、よりにもよって、聖書のセールスマンと――くそ、くそ、くそ!

 セールスマンのカーラジオからもジョニー・ロペス・ガルシアの『タレコミ・ブルース』が流れていた。


  モーテルでいきなりパクられたぁぁぁぁぁ

  相手が十四だなんて知るわけねえぇぇぇぇぇ

  山みたいにでかいサツが言うぅぅぅぅぅ

 「未成年へのレイプでぶち込まれたくなきゃ

  最低十人のヤク中をタレこめ」


 殺し屋のクーペのすぐ後ろには映画スターの運転する真っ赤なビンテージ・スポーツ・カーがあった。

 薄くなりかけた髪を絶妙な配置バランスでごまかした子役上がりの四十二歳の彼の代表作は『クレイジー・コップ』『クレイジー・コップ2』『クレイジー・コップ3』『クレイジー・コップ4』『クレイジー・コップ・フォーエバー』『新クレイジー・コップ』などなど。

 子役のころはかわいらしいぽっちゃりした容姿でコメディ一辺倒だった彼も大きくなってからはアクション映画のスターとしてタフなイメージで売り出していたのだが、三年前、コカイン所持で捕まってキャリアをオジャンにしてしまった。さらにパパラッチのしつこい取材攻撃の前に泣き出してしまい、これまで培ってきたタフなイメージを台無しにしてしまった。執行猶予付きの判決を受けた彼はチャリティ活動に身を投じて、何とかイメージ回復に務め、ついに主演映画の話が舞い込んできた。題名は『帰ってきたクレイジー・コップ』。カムバックだ! シャンパンとサーモンのパーティ。で、そのお祝いにちょっとコカインを鼻から吸った。そして、いい気持ちにラリったところでこの渋滞につかまった。最悪の状況だった。彼の充血した真っ赤な目を見れば、なにかドラッグをやっているのは一目瞭然だったし、本人はラリって忘れていたが、彼がケツを乗せているそのシートの下にはコカインの小さな袋が隠されている。それは彼の全てを吹き飛ばし、刑務所にぶち込み、人生まるっと棒にふるだけの危険物だった。

 ああ、なんで、自分はまたドラッグなんかやってしまったのだろう。まったくすごいドンチャン騒ぎで気が緩んだのだ。神さま。お願いです。二度とドラッグには手を出しませんから、今すぐ自分の血管からコカインを抜いてください。検問の警官の薬物検査キットにひっかからないようにあなたのお力で何とかしてください。ああ、神さま。ああ。

 途方に暮れる映画スターのカーラジオからもジョニー・ロペス・ガルシアのしゃがれた声がきこえていた。


  おれはタレコミ野郎ぉぉぉぉぉ

  ダチをタレこむぅぅぅぅぅ

  ヤク仲間をタレこむぅぅぅぅぅ

  一本の大麻ジョイントをわけあった昔のスケを

  ノルマのためにタレこむぅぅぅぅぅ

  タレこむ相手がなければぁぁぁぁぁん

  かあちゃんをタレこめぇぇぇぇぇ


 殺し屋のクーペから三台前、妻と聖書のセールスマンを殺したセールスマンの右斜め前には白いワゴン型の救急車が止まっていた。運転席にいるのはグリーンのパジャマを着た狂人だった。狂人は自分のことをカルマリドリス星人だと思っていた。カルマリドリス星は地球から五十九万光年離れた場所にある星で、狂人はカルマリドリス星の政府を代表する全権大使だった。彼は全宇宙を滅ぼす三つ目の魔人を倒すべく、地球に派遣されたのだが、魔人に洗脳された地球人によって不当にも精神病院に監禁されていた。そして、十一年間、全宇宙が滅亡の危機に瀕していることにやきもきし、焦燥が彼の狂気をより深めていった。自分が監禁されている病室の鍵がたまたまかけ忘れられると、狂人は病室を飛び出し、病院を脱走した。精神病患者たちが管理している畑の納屋からスコップを取り出すと、取り押さえに来た警備員をスコップでぶちのめし、救急車を奪って逃げた。

 全宇宙を滅亡の危機から救うべく特別任務を受けたカルマリドリス星の全権大使は宿敵三つ目の魔人をスコップで叩き殺さねばならないと思っていた。なぜなら、三つ目の魔人が本格的に活動を開始したからだ。その証拠が、この暑さと渋滞である。真夏の暑さと交通行政の不始末は実は三つ目の魔人がもたらした宇宙滅亡のための舞台装置であった。サンビセンテ・フリーウェイの渋滞から集めた人間の憎悪を増幅して宇宙へ放射し、全宇宙の知的生命体に戦争を起こさせるのが三つ目の魔人の目的なのだ。

 絶対にそんなことはさせんぞ、全宇宙の平和はおれが守るのだ、と狂人はカルマリドリス語で言った。ちなみに彼は入院中ずっとカルマリドリス語で話していたので、病院の医師も看護師も彼が何を言っているのかちんぷんかんぷんだった。それが彼の治療を難しくした。

 ラジオからはジョニー・ロペス・ガルシアのあわれな声。


  おれのタレコミにみんながキレたぁぁぁぁぁ

  ストリート・ギャングが賞金をかけるぅぅぅぅぅ

  コカイン・カルテルが賞金をかけるぅぅぅぅぅ

  五大ファミリーが賞金をかけるぅぅぅぅぅ

  みぃぃぃんなおれを憎んでるぅぅぅぅぅ

  ハジキを顔につきつけられてぇぇぇぇぇ

  ひええ、ゆるしてぇぇぇぇおえっ

  おれはひたすら土下座するぅぅぅぅぅ


 救急車のダッシュボードにはレコード店からかっぱらったブロマイドがマスキングテープへ貼りつけてある。デニムシャツにカーゴパンツを穿き、ポケットにハーモニカを突っ込んだラテン系の男が笑いかけていた。その男――ラテン・ブルース歌手ジョニー・ロペス・ガルシアこそ、狂人が倒すべき宿敵三つ目の魔人の変装した姿だった。

 狂人の救急車の右隣には黄色いスクールバスがあった。運転しているのは浅黒い顔の男で乗っているのは小学生ということになっていたが、実際は不法移民を乗せていた。不法移民はオレンジ農園で働くためにやってきた。不法移民のうち、一番若いものは十九歳で、一番年寄りなのは五十一歳だった。書類の上では彼らは二十五人の小学生だったが、実際は倍の五十人の不法移民だった。誰一人、この国にいられる正当な理由はなく、鮫のように狡猾な移民局の役人に見つかれば、蹴り飛ばされるようにして国に戻される。五十人の不法移民たちは自分たちの生まれ故郷には見切りをつけていた。貧困と麻薬組織とトルティーヤ一枚買うにも二時間の行列に並ばなければいけない国営スーパーマーケットに彼らはうんざりしたのだ。

 彼らの計画ではまず一人で密入国し、一年間、土を食って生きるつもりでオレンジ農園で働き、まとまった金ができたら、家族を呼び寄せることになっていた。スクールバスは人でぎゅうぎゅう詰めであるにも関わらず、なかでは闘鶏が行われ、彼らの祖国のちり紙ほどの価値もない紙幣が賭けられていた。このスクールバス型不法移民カジノはおそらく一番賑やかな車だった。誰かがギターを鳴らし、民謡を歌うのだが、民謡には必ず政治家みたいな野良犬と野良犬みたいな政治家が出て来て、最後には野良犬も政治家も情け容赦なく撃ち殺されるのだ。これだけ騒ぐと警官の注意を引くのではないかと考えるべきはずだったが、彼らは彼らの国の基準で警官というものを考えていて、もし警官に見つかっても、闘鶏のテラ銭をくれてやれば、目こぼししてくれると思っていた。

 ちなみにこのバスではジョニー・ロペス・ガルシアはかからなかった。不法移民たちはみじめな声でみじめな唄を歌うジョニー・ロペス・ガルシアのことをホモ野郎だとなじった。ジョニー・ロペス・ガルシアがバスに乗るこの不法移民たちの国で生まれた、いわば同郷の人であり、彼もまた十年前、やはりこんなふうにぎゅうぎゅうづめのバスに乗り、密入国をしたのだが、それでもジョニー・ロペス・ガルシアは不法移民たちの好意を得ることはできなかった。妬みもあったのかもしれない。

 空にひばりが飛んでいる。鳥のように自由という言葉はこんなときに使う言葉なのだろう。テロリストは自分ももうじきあの鳥のように自由な存在になり、神の国へと旅立てるのだと思っていた。

 殺し屋のクーペの右一台後ろにテロリストのステーション・ワゴンがあった。積み込みスペースにはプラスチック爆弾があって、計画では州政府の中央政庁があるビルの地下駐車場で車ごと爆発し、ビルを倒してしまう計画だったのだが、渋滞にハマって動きが取れなくなっていた。自分の使命を信じることにかけては左斜め前方の救急車でハンドルを握る狂人と同様で、怒りについては殺し屋とセールスマンほどだった。映画スターの臆病さと不法移民たちの異常なまでの楽観主義とは無縁だった。テロリストははやく爆発したくてしょうがなかった。この世界は生きるに値せず、ただ、神の国だけが彼の永遠の住処にふさわしいのだ。

 計画の第二プランはもし警察に見つかりそうになったら、その場で吹き飛ぶというものだった。爆弾の量は半径一〇〇メートル以内の車を全て吹き飛ばせるほどのものだ。爆薬からは一本の灰色ビニール被膜のコードが伸びていて、その先にくっついているナースコールに似た赤いプラスチック製のボタンを押せば、それで荷台のプラスチック爆弾が爆発する。そうなれば、サンビセンテ・フリーウェイは向こう一〇〇年間、悲劇の代名詞になるだろう。

 テロリストの車でもジョニー・ロペス・ガルシアはかかっていなかった。そもそもカーラジオがなかった。ラジオがあるべき場所には爆弾の起爆装置がはめ込まれていた。

 そして、殺し屋、セールスマン、映画スター、狂人、不法移民、テロリストの車の前方に州警察のパトロール・カーがあった。殺し屋のクーペの五台先、狂人の救急車の二台先である。二人のベテラン巡査はサングラスをかけ、カウボーイハットをかぶり、ちっとも涼しくならないエアコン相手に毒を吐き、警察無線をきいていた。

 洗車場で強盗。精神病院から患者が脱走。シューメイカーズはベイカーズに五点の大差をつけて、八回裏ツーアウト、一塁、三塁。おそらくもう一点がダメ押しで入るだろう。大学対抗バスケットではマヌケがフリースローをしくじった。ジョニー・ロペス・ガルシアがかかると、まともなサーフロックをきかせるチャンネルはねえのかよ、とぶつくさ言いながら、ツマミをまわした。ストリートギャングの抗争。些細な交通違反の数々。応援を求める無線が入ったが、おれたちにどうしろってんだ?

 二人のベテラン巡査は知らず知らずのうちに後方のワケありドライバーたちの恐怖の的となっていたが、そんなことは気づかず、警察流のジョークの言い合いに夢中になっていた。ただ、二人は十年勤務のベテランで職務中に犯罪者を射殺したことがあるし、彼らのホルスターには九ミリ・オートマティック、座席のあいだには十二ゲージのショットガンがある。凶悪犯を簡単に無力化できる射出電気銃テーザーや車の窓を叩き割るのにちょうどいい鋼鉄製の黒いトンファーもあった。

 彼らの頭上には地元テレビ局のヘリコプターが飛んでいて、女性キャスターが渋滞情報を流していた。ヘリに乗っている人たちはクソ暑い渋滞のなかでヘリのローターがけたたましく鳴り響く音がどれだけドライバーをむかつかせるか知らず、低空で何度も渋滞する自動車の列を言ったり来たりしていた。ヘリはカーチェイスでも起こらない限り、この空から退くつもりはないようだった。

 暑さで判断力と忍耐力にガタがき始めていた殺し屋はサブマシンガンの射程がヘリを捉えるかどうか真剣に検討を始めた。

 セールスマンはウィンドウを閉め切っていたので、ヘリの音がほとんどきこえなかった。彼の頭のなかでは素っ裸の不実な妻と聖書のセールスマンをモンキーレンチ型トロフィーで殴り、脳みそが飛び散るシーンが何度も再生されていた。それは正義のロング・ラン・リバイバル放映であり、彼は自分には何の非もないと思っていた。そして、捕まるくらいなら死んでやるとも思っていた。殺し屋の怒りは冷たいビールで簡単におさまるが、セールスマンの怒りはもはやおさめようのない水準まで到達していた。

 ヘリコプターを見上げるテロリストの怒りはやや嫉妬が混じっていた。本当はもっと重要なテロ計画があるのに、なぜか師は自分をそのメンバーから外して、州政府ビルを吹き飛ばすほうの計画に命じたのだ。師の計画にケチをつけるつもりはないが、どうも師はもっと大きなテロを考えていて、それが旅客機を乗っ取って、この国で一番高い双子のビルに突っ込ませるつもりでいる。そのビルは世界でもっとも重要な都市に生えていて、聖戦を宣言するにあたって、一番効果がある。だから、彼が州政府ビルを吹き飛ばしても、人々の記憶に残らないだろう。自爆を恐れぬテロリストに一つ恐れることがあるなら、自分が死んだ後、誰からも忘れ去られることだった。

 様々な怒りを掻き立てたヘリコプターはこんな渋滞よりも海辺の観光客を撮影したほうがよさそうだと思ったのか、オレンジ・シティのほうへと去っていった。だが、ヘリコプターは、空には渋滞はないという、当たり前過ぎて、今まで気づかなかったことをドライバーたちに気づかせて、暖炉のなかの真っ赤な炭をゴツゴツつつくようにして、さらなる怒りをかきたてた。その怒りは、暖炉と真っ赤な炭という考えただけでも暑くなるような比喩を思いついたおのれの語彙に対してまで拡張された。

 サンビセンテ・フリーウェイは広大な湿地帯のすぐそばを通っていた。その沼地は宅地開発業者によって水の入口と出口をふさがれて、ひからびかけていた。沼を埋め立てるよりも干からびさせるほうが工事に金がかからないと思ったのだが、実際は残った水がよどみ、不潔な泡があちこちで弾けて、これがまた我慢のならない悪臭をサンビセンテ・フリーウェイへ流し込んでいた。

 中世の医者ならば『瘴気』と呼ぶこの病んだ空気だけでもドライバーたちの憎悪を掻き立てるのに、これに蚊が加わる。ガソリンの薄膜に包まれ七色の光を宿す沼の水面がボコリと泡を立て、それが弾けると泡のなかから蚊が一匹飛び立つのだ。蚊とは虫に姿を隠した魔王そのものだった。そいつらを召喚する七色の泡が次々と弾けて、何百匹という蚊がガソリンの薄膜と同じ七色の光を浮かせる透明な羽をプーンと耳障りな音で鳴らしながら、開きっぱなしの窓から車のなかへ侵入する。すると、渋滞と悪臭と酷暑でもう爆発寸前のドライバーは手近にある新聞や雑誌、水道器具のカタログを丸めて、狂ったようにふりまわし、ところかまわずバンバンバンバンと叩きつけるのだ。

 蚊はウィンドウを閉め切ったセールスマンのセダンやパトカーにまで入り込み、ドライバーたちをいらつかせた。特にセールスマンのトランクには腐乱しつつある死体が二つも積まれていたから、蚊にくわえて大きなレーズンみたいな蝿まで呼び寄せた。

 ガアアアアッ!

 セールスマンは頭を振り回し、腕をふりまわし、窓に拳を叩きつけ、虫の大量殺戮を期待しつつ、煙草を吹かした。

 テロリストには蚊を叩き疲れて、内省の時間がやってきていた。偉大なる神は何の目的があって、蚊、夏の酷暑、そしてサンビセンテ・フリーウェイを創ったのか? 偉大なる神の思し召しがあるに違いないが、何度考えても、テロリストはこのハイウェイがこの世に存在する理由を見つけられなかった。貧乏な国とメガロポリスを結ぶ以外に何か理由があるのだろうか。

 涙色のクーペは静かなものだった。殺し屋は、腕のいい殺し屋とは自制が利くのだとばかりに目を閉じ、小さく高い蚊の羽音を無視し、肌に飛びつき血を吸うべく針を刺す遠慮の無さを無視し、蚊が頬を伝う汗に飲み込まれてもがきながら死んでいくときに奏でる声なき断末魔も無視した。他のドライバーみたいに蚊を叩き殺すために丸めた雑誌を振り回したりなど、決してしなかった。

「平常心、平常心」

 安らかな顔を気取って、そう言う殺し屋の腿の上にはサブマシンガンが置いてあって、その細い指がセーフティ・レバーをパチパチパチパチ弾きまくり、安全装置を解いたり、またかけたりを繰り返した。

 サンビセンテ・フリーウェイに詰まった人間のなかで蚊に怒りを覚えなかったのはビンテージ・スポーツ・カーのカスタム・ステアリングを握る映画スターだけだった。彼は血液中のコカインというより悲愴なファクターを抱えていたので、蚊の羽音など耳に入らなかった。彼の肌に降りて、血を吸った蚊はコカインのオーバードーズで痙攣し、毛深い腕のなかで針を突き刺したままショック死していた。彼はバスの不法移民たちを除けば、サンビセンテ・フリーウェイ唯一の怒りを知らぬ人であり、彼の心はただひたすら悲しみに沈んでいた。

 バスの不法移民たちでは騒動が持ち上がっていた。ミゲルがマヌエルの小銭を盗んだとか、パンチョとウセビオはデキているとか、口にしただけで人を殺す立派な動機になる口論が立て続けに発生して、この窮屈なコミュニティに自己防衛本能が持ち込まれたのだ。バスのなかは物質的にも精神的にも窮屈なものとなりつつあった。

 不法移民のバスはサンビセンテ・フリーウェイの縮図といえなくもなかった。たとえば、宇宙人が宇宙船からサンビセンテ・フリーウェイを見下ろせば、地球人の牢屋は四つの車輪がついた鉄の箱でできていると思うだろうし、不法移民でいっぱいのボンネット・バスを覗き込めば、そこに人間サイズに縮小されたサンビセンテ・フリーウェイを見つけることだろう。そして、ミゲルでもカルロスでも誰でもいいから、一人を観察すれば、そこに細胞と電気信号の監獄を発見するはずだ。肉体は魂の牢獄なのだ。

 宇宙人は自分はカルマリドリス星の全権大使だと思っている狂人に関心を示すだろうか? それともその宇宙人こそはカルマリドリス星人なのだろうか? ならば、世界は引っくり返る。狂人は正常な人間となり、カルマリドリス星の存在を認めない彼以外の全ての人類――殺し屋、水道器具のセールスマン、映画スター、五十人の不法移民、テロリスト、二人の警官こそ――そして、もちろんジョニー・ロペス・ガルシアも!――異常者であり、狂人なのだ。だが、宇宙船は不法移民の観察で満足し、彼らの星へと帰っていった。結局、宇宙人にとって、狂人は狂人に過ぎず、また観察しても面白いものではないのかもしれない。彼らの星にだって、狂人はたくさんいるのだから、わざわざ地球までやってきて、狂人を観察するなんて馬鹿げているのかもしれない。

 ちなみに宇宙船は人間の目に見えないようコーティングされていた。それは人間に対し、宇宙人がいかなる介入干渉を禁じる地球保護条約があるからだ。宇宙人たちにとって、地球は非常に魅力的な自然公園だった。事象を三次元でしか捉えられない下等な生命体がここまで文明(と下等な生命体たちが勘違いしているもの)を生み出した星は全宇宙で地球だけなのだ。これは非常に珍しい例だったので、人間がこれからどのような文明をつくるのかは全宇宙の知的生命体にとって大切な関心だった。だから、宇宙人は自分たちが人間に対してうっかり何らかの影響を与えることを恐れていた。そうなったら、地球の面白さが半減してしまう!

 現在のところ、人類はプルトニウムをもてあましている。それは宇宙人にとって非常に愉快な出来事だった。ぷっ、プルトニウムなど十万年経てば半分になってしまう無害な物質なのに!

 午後二時はアスファルトからもやがゆらぎ、捻じ曲がった世界が強烈な陽光にシバかれる時間だ。ラジオはぶっ通しでジョニー・ロペス・ガルシアの『タレコミ・ブルース』をかけ続けている。

 もう十分前から、殺し屋はサブマシンガンの安全装置をいじるのをやめていた。セーフティ・レバーは連射が可能な位置で止まっていた。薄く開けたまぶたの奥で殺し屋の目からは既にハイライトが消え、死んだ魚の目をしていた。もうマシンガンについては撃つか撃たないかではなく、どの車から撃つかの次元に話が進んでいた。撃つと涼しくなる車を撃ちたかった。となると、冷蔵装置を積んでいるトラックなど、まさにおあつらえ向きで……。

 殺し屋のよどんだ目がビール会社のトラックに止まった。殺し屋はサイドブレーキをかけると、ドアを蹴り開け、涙色のクーペから飛び出し、車のあいだを縫うように駆けた。そして、トラックの運転席のウィンドウの横に立った。この状態から銃を抜いて顔を撃つというのは何百回とやったやり方だ。

 殺し屋の手が振り上げられる。

 そこにはサブマシンガンではなく、札束が握られていた。

「後ろのドアを開けて」

 殺し屋は冷蔵装置が働いている荷台へ入ると、ひんやりした空気のありがたみを感じるべく、目を閉じて、十数えた。そして、ボール箱の一つを引っぺがして、冷たいビール壜を一本、引っこ抜くと、十徳ナイフを取り出して、栓を抜き、一息に飲み干した。

 殺し屋の目にハイライトが戻り、世界が突然好ましいものに思えてきた。蚊も、ジョニー・ロペス・ガルシアの惨めな唄も、サンビセンテ・フリーウェイの全ても、とても好ましく紳士的で愛想のよいものに思えてきた。

 もう一本のビールを飲み干すと、サンビセンテ・フリーウェイは聖地となった。守らねばならぬ大切なものにすら思えてきた。殺し屋は救われたのだ。まるで生まれ変わったような清々しさを胸に、両手にはビール壜を八本抱えて、殺し屋は涙色のクーペの運転席に戻った。サイドブレーキを解除すると、奇跡が起きた。

 殺し屋の前の車が、セールスマンの、映画スターの、狂人の、不法移民たちの、テロリスト、二人の警官の前の車がゆっくり動き始めたのだ。

 最初は一メートルで止まり、次は五メートルで止まり、十メートル、五十メートル、そして、ついに車は本来そうあるべきである状態へと戻った。つまり、流動状態だ。

「ハレルヤ!」

 セールスマンは叫んだ。彼は怒りの余り、彼の罪を帳消しにできる土地が道路のすぐ横にあることに気づかなかった。だが、今、気づいた。セールスマンの青のスポーツ・セダンはサンビセンテ・フリーウェイを降りて、湿地帯へと曲がる未舗装の道を砂ぼこりを上げながら走り、その砂ぼこりが落ちないうちにトランクの死体を沼に放り込んだ。ここはいつも悪臭がしているから、死体を捨てても臭いでバレることはないし、おまけにしばらくすると宅地開発業者がこの上に郊外住宅地をどかんと作る。そうなったら、誰が二つの死体を見つけることができるだろう? セールスマンは救われたのだ。

「ハレルヤ!」

 映画スターは叫んだ。気づくと、車が流れ始めていたが、それよりも彼の毛深い腕のなかで死んでいった何百という蚊たちがコカイン入りの血を吸ったおかげで、映画スターの体からギリギリセーフのレベルまでコカインの血中濃度が落ちたのだ。そして、頭がしゃっきりすると、彼は座席の下のコカインに気づき、高速で走りながら、その小さなパケを破り、なかのコカインを散らしてやった。映画スターは救われたのだ。

「×××××××!」

 狂人はカルマリドリス語で叫んだ。

 たったいま、ラジオから三つ目の魔人が変装した姿であるジョニー・ロペス・ガルシアの断末魔が流れてきたのだ。それは『タレコミ・ブルース』の曲の終わりで、


  死んじゃうよぉぉぉぉぉ


 と、いう歌詞を繰り返しながら、フェードアウトしていくのだが、狂人はそれを三つ目の魔人が倒れ、宇宙滅亡の危機が去ったのだと彼なりに解釈した。その歌詞自体はさっきから流れていたのだが、狂人にしか分からない微弱な電波がこの断末魔は本物だと教えていた。きっとカルマリドリス星へ送っていたテレパシーが届いたに違いない。カルマリドリス星人からなる特殊部隊がジョニー・ロペス・ガルシアこと三つ目の魔人を仕留めたのだ。宇宙は救われた。狂人は救われたのだ。

「今日も平和だぜ」

 二人の警官たちも救われた。殺し屋がサブマシンガンを乱射せず、絶望したセールスマンの自殺による現場保存のために炎天下のなか自動車を誘導することもなく、狂人がシャベルをふりまわすこともなく、映画スターをコカイン使用と不法所持で引っぱり、映画スターの敏腕弁護士が仕組んだ、その後十年続く裁判でしょっちゅう証人席に呼ばれることもなく、自爆テロに巻き込まれることもなく、殺気だった五十人の不法移民をたった二人で相手することもなく済んだ。彼らはこれから分署に戻って、その日の報告書を書き、家に帰って、かわいい女房とベッドの上でトランポリンごっこに勤しむことができるのだ。それは学術的表現でいうところの交尾、有性生殖活動、またの名をファック。

「神は偉大なり!」

 テロリストは叫んだが、それはサンビセンテ・フリーウェイを抜けて、オレンジ・シティのアップタウンへ入り、二十階建ての州政府ビルの地下駐車場へ突っ込んでから叫んだのだった。

 駐車場の検査ゲートをアクセル全開で突破すると、警備員が撃った弾がステーション・ワゴンの後部にめり込んだ。いくつも駐車されている州職員の自家用車のあいだを走りまわっているあいだも警備員の銃撃が続き、ついにショットガンの発射したダブル・オー・バック弾がテロリストの頭を吹き飛ばしたが、既に起爆ボタンは押されていた。旅客機をハイジャックして、世界で一番大きな双子のビルに突っ込む計画は失敗し、関係者が全員逮捕された。その日、世界中に駆けめぐったニュースは州政府ビル爆破であった。人類はニュースでテロリストの名を知り、その名は忘れられることはない。テロリストは――彼なりの論理で――救われたのだ。

 州政府ビルが爆破されたとき、不法移民たちのバスはお互いを貶しあいながら、オレンジ農園のある州北部へと向かっていた。ビルが爆発したとき、バスは二〇〇メートル離れた道路を走っていた。不法移民たちはバスを止めさせると、事故の現場へ走った。彼らはビルの爆破に慣れていた。彼らの国では麻薬組織がしょっちゅうビルを爆破して大勢の人たちを殺していたのだ。

 だから、ビルが爆破されたら、とりあえず救助に向かうという考え方が頭のなかで出来上がっていた。そして、実際、爆破が起きると、お互いなじりあっていたミゲルもカルロスもパンチョもみんな、五十人の不法移民は瓦礫の山に突っ込んで、二次災害のことなど屁とも思わず、コンクリートを持ち上げて、白人グリンゴたちを助けてやった。彼らの経験は崩れそうな瓦礫とそうでない瓦礫を見分ける目を与えていたし、建物が崩れてからの七十二時間が黄金よりも尊いことを知らせていた。

 結局、彼らは瓦礫のなかから一七二人を救い出した。

 五十人の不法移民はヒーローとなった。そして名誉市民となり、オレンジ農園で一年働くことなく、胸を張って堂々と家族を呼び寄せることができた。

 不法移民たちは救われたのだ。

渋滞にイライラした方へ。

同じ「こんとらくと・きりんぐ」シリーズの「泳げ、殺し屋、泳げ!」をオススメします。

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― 新着の感想 ―
[一言] いつも楽しく拝読しておりますにやり。ちゃっかり宣伝のあとがきまでが一連の、めちゃめちゃクールな短編でした。冴え冴えとワザ&ハイセンス。不快な閉塞感がだんだんゆっくり、極限までためられてぷちゅ…
[一言] クレイジーコップの七段活用、いいですねえ。
[一言] 見事なほどイカれたキャラばかりですね。登場人物の元がイカれているから、そこから起きる出来事も狂ったものになっていく。面白かったです。 最近、仕事で行った先で叩き売りのデカい『トロフィー』を…
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