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ねじれたカフェテリア

「俺は、君と交わることを求めていたのかもしれない。君という“記号”“イメージ”を、現実の女性に求め、その“イメージ”とのみ交わっていたのかもしれない」

 赤沢の目の前に、ふわふわと中空を舞うように泳ぐ“彼女”の顔が正面から映し出された。

“……さっき自分で言ったじゃない”

 しばしの沈黙の後“彼女”は口を開いた。

“現実の私は、この巨大な水槽の、温んだ水の中を泳ぐ魚でしかないわ。しかしも、あなたのイメージでは女性として映って居るけれど、私は“わたし”でもあり“ぼく”でもあった不安定な存在でもあったのよ? “それ”というべきかしら。そんな私と、“記号”の上でもいいから交わりたかっただなんて、あなたはどうかしているわ”

「君に俺が嘘をついたって、仕方ないだろう」

 弁解をするように赤沢は言った。

「いった通りだ。確かに、君を肉体的に抱きたいだなんていえば、それは確かに馬鹿げたことだと思う。だけど違う。これはあくまでも“記号”であり“イメージ”としての君なんだ。むしろ、ナポレオンフィッシュとしての君でもない、何というか、もっと漠然としたそれでいて具体的なものでもあるんだ。君であり、君の中に存在する何かと、俺はずっと一つになりたいと願っているのかもしれない」

“疲れているのよ。もう一度、アメリカにでも行ってらっしゃいな”

 “彼女”は、突き放すような口調で言った。

“こんな薄暗い水族館で、男か女かもわからないような魚と話すあなたは、ものすごくみじめだわ。しかもそんなあいまいな存在と交わりたいと願っている。そんなものを投影された女性にとっては、いい迷惑よね”

 すると今度は、何か深い、心の中にでも潜っていくように一階の方へと降りていった。

 赤沢も、再びその影を追いかけた。

「なあ、俺は真剣なんだよ。はぐらかさないでくれ」

“はぐらかしてなんかいないわ。事実としてのみじめさ、今のあなたはそれそのものだわ。そんな“記号”“イメージ”に引きずられて、全く現実生活を生きようとしていない。他者との会話すら回避している。かわいそうに。あなたはまるで、自分がおぼれそうになっているのに全く自分自身がそれに気付いていない遭難者のようなものね”

「……そうかもしれないな」

 自嘲的に赤沢は呟いた。

 階段の下には、薄暗い闇に包まれたフロアーが広がっている。

「言われてみると、息苦しくてたまらないよ。もうあらゆるものを捨てて、どこかに逃げ出したくてたまらない。毎日そんなことばかりを考えているんだ」

 “彼女”は、キラキラと光る証明に美しく艶めかしい肢体を照らされながらため息をついた。

“あなたはどこへも行くことができないわ。というより、どこへ行ったとしても、そこに安住することはできないの。回遊魚に留まることが不可能なようにね。たとえ今の暮らしを捨て、この故郷に帰って来たとしても、きっとあなたはまた違う場所へ逃げようとするわ。あれほど息苦しく感じていた環境すら懐かしみだすにきまっているもの。あなたにはどこへ行く場所もないだけじゃないの。どこへも、帰る場所すら用意されていないの。この、故郷ですら――”

 ピピピッ

 赤沢の腕時計のアラームが鳴った。

 時計は正午を差している。

“そろそろ食事の時間だわ。あなたも少し休みなさい”

「……待っていてくれるか?」

 恐る恐る訊ねる赤沢。

“聞くまでもないわ”

 恐ろしいほどにクールに、“彼女”は答えた。

“ナポレオンフィッシュとしての私は、この巨大な水槽の中に閉じ込められたまま一生を終えるのよ? あなたの言う“記号”としての私は、それこそ私の一切の干渉なくあなた自身の問題だわ。それとも疲れすぎて判断力まで無くなっちゃったのかしら”

「すぐもどるよ」

 彼女の言葉も名k場に、赤沢は歩を二階へと進めた。

“別に私に言う必要もないわ。ゆっくりしていらっしゃい”




 深海魚や海月、海獣のそう言草に一切の視線をくれることもなく、赤沢は歩を進めた。

 二階の奥、大展望台へと続く明るい通路に、カフェテリアが存在した。

 懐かしいな、赤沢は思った。

 子どものころ、絶対にこのようなところで食事をすることはなかった。

 価格も割高で、なおかつ混んでいる。

 赤沢は常に母親の作った弁当を持参した。

 しかし、今はその頃とはちがう。

 赤沢のために弁当を作ってくれるような人は存在せず、一人で弁当をとるような年齢でもなかった。

 赤沢は素直にカフェテリアの、今時珍しい重いアルミ戸の取っ手を引いた。

 

 キイイィ、油を長いことさしていないのだろうか、ドア全体がゆがんだような音を立てた。

 そこには、おきまりのクリスマスツリー。

 そして、昼時にもかかわらずごくわずかな客のみが目についた。

 赤沢は海の見える窓際に席を見つけると、木製の椅子を引いて着席した。

 アクリル製の立てかけのメニュー表に目を通す。

 カレーにうどんに、エビピラフ、昔ながらの喫茶店のメニュー。

 水族館にシーフードピラフ化、赤沢は苦笑した。

 それをひっくり返すと、スナックメニューが掲載されていた。

 チョコレートパフェにクリームソーダ、クリームあんみつ。

 耳をすませば、有線放送からマドンナの『マテリアル・ガール』が響く。

 いったい今はいつの時代なのだろう、赤沢はまるでサイズの合わないジーパンをはかされているかのような混乱を覚えた。

 赤沢はその中の数点に目をつけると、片手を上げて店員に注意を促した。

 店員はその様子に気が付き、注文票を片手に赤沢の席へと小走りで近寄って来た。

 赤沢はバドワイザーとフレンチフライ、そして枝豆を注文した。

 さらさらと手早く注文をとった女性は、そのまま厨房へと消えていった。

 赤沢は手持無沙汰にポケットにタバコを探すが、周囲に一切の灰皿が存在しなかった。

 天井を見上げれば、そこかしこに宿命的なタバコのヤニがこびりついていたが、いつのころからか、ここでの喫煙が禁止されたためだろう。

 赤沢は仕方なくタバコを胸ポケットにしまった。


 仕方なく再び周囲を観察してみると、赤沢以外に客は二人、一組のカップルしかいなかった。

 見たところ、テスト休み、明日に終業式を控えた高校生だろうか。

 同情すべきところだろうか、この近辺いまともなデートスポットが存在しないためだろう、このようなうらぶれた水族館に足を運ぶしかないのだ。

 しかし、それにもかかわらず二人は以外にも楽しそうだった。

 付き合ってわずかな期間なのだろうか、それともクリスマスというイベントを控えているためなのだろうか、その浮ついた雰囲気は赤沢にも伝わってきた。

 しかし、その奥にみえる、展望台への出入り口の外には、鉛色の空と、カチカチとガラスを叩く氷の粒のような雪、そして荒れ狂う冬の日本海の海。

 彼らの人生を象徴しているようで、赤沢は少々嫌な気分になった。

 あせるなよ、人生はこれからじゃないか、不意に大声で彼らに話しかけたくなったが、当然のごとくやめておいた。

 ――あなたには、帰る場所なんて存在しない――

 “彼女”の言葉が、心にこびりついて離れようとしなかった。

 帰る場所とはどういう事だろうか。

 確かに赤沢には、東京を変える場所と思うことはできない。

 どうしても、そこが人生においての仮住まいであるとしか考えられなかった。

 であれば、この故郷はどうであろうか。

 しかし自分は確かにこの故郷を捨てた人間なのだ。

 であるとするならば――

 そう考えているところに、ごとり、注文のバドワイザーとフレンチフライ、枝豆がテーブルの上に並べられた。

 赤沢はそれ以上考えることをあきらめ、バドワイザーをグラスに注ぎ、一気に飲み干した。

 心地よいパンチがジャブのように赤沢の農を揺らし、体全体をマッサージのようにほぐしていく。

 ふう、一息呼吸を老いた赤沢は、彼女の言う通り、自分の体がいかにこわばり、疲労していたかに気が付いた。

 これは仕事によるものなのだろうか、それとも彼女との会話により生じたものなのであろうか、赤沢にはわからなかった。

 赤沢は首をコキコキとならすと、次のバドワイザーをグラスに注ぎ、そしてフレンチフライと枝ママによる簡単な食事を口にした。

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