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ぬるい子宮の中で

 一階から二階に吹き抜ける巨大な水槽の中、目の覚めるような光に照らされた彼女の姿がそこにはあった。

「君と会話をしたのは、何年ぶりだろうか」

 赤沢は訊ねた。

“私と会話をした? その質問は適切じゃないね”

 ふわふわと漂いながら、彼女は表情無く言った。

 彼女の脇を、先ほど白い砂を巻き上げて舞い上がったエイが横切って行った。

「どういう事だ?」

 “彼女”の答えに、赤沢は戸惑いながら質問を返す。

“あなたはこの何年も会話らしい会話なんてしてこなかったはずよ”

「そんなはずはない。君と離れてからのこの何年間、曲がりなりにも俺は大学を出て就職をして、そして私立学校の教員として生活しているんだ」

 赤沢は反論した。

「会話がなければ日常生活すらままならないだろう」

“そうかしら? 私には、あなたがまともに会話をしている風には見えないのだけれど”

 “彼女”の姿は、一瞬真鯛の姿にかき消され後、再び一回と二階の中腹付近を回遊し始めた。

 赤沢はその姿を追いかけ、歩きながら語り掛けた。

「君はいつもそうだった。何かを見透かしたような態度をとって、俺を困惑させるだけ困惑させる」

“単純な話よ”

 彼女はあくまでも無表情に答えた。

“少なくとも会話というのは、相手に自分の言葉をしっかりと伝えようとする意志のあるかぎりにおいて成立するものなの。あなたはこの数年間、だれともそういう態度で接することはなかった、違う? あなたには、他者と会話、対話することなんてなかったのよ”

「君に何がわかる」

 赤沢は苛つき、少々強い言葉で“彼女”をなじった。

“あなたが何かを知っているというのであれば、じゃあ、あなたが私について知っていること、それを私に教えてくれるかしら”

「 君はナポレオンフィッシュ、学術的にはメガネモチノウオとも呼ばれている。成魚の時には隊長2mをこえる世界最大のベラの仲間だ。君の学術名は、若魚の時に体が淡褐色や淡緑色で、目の後ろにある黒い帯がまるでメガネをかけているように見えることに由来している。他のベラと同様に性転換することが知られている。老成魚はすべてオスで、体は暗緑色になり、前頭部がこぶ状に突き出してくる。今の君のようにね。そのようすがナポレオンがかぶっていた帽子に似ていることから、ナポレオンフィッシュの名前は由来している」

 すると“彼女”は、何一つわかっていない、といわんばかりにため息をついた。

“あなたが私について知っていることなんて、しょせんどこかの辞書から引用した内容でしかないじゃないの。そんなもの、何かを知っているということになるはずなんてないじゃない”

 その言葉を聞くと、赤沢は答えに窮した。

「確かにそうかもしれないな。しかし、この世の中において、何かについて真の知識を持っている人間なって、どこにいるっていうんだ?」

“くだらない一般論ね”

 その赤沢の答えを、“彼女”は完全に拒絶した。

“一般論に逃げ込むって、本当に楽よね。ただ、それは卑怯な行為よ。向き合うべきものに芯から向き合うことを回避しているのとおなじだもの。あなたはいつからそうなってしまったのかしら”

 赤沢は再び答えに窮した。

 何一つ、“彼女”に言い返すべき言葉がなくなってしまったからだ。

「ここにふわふわと浮いているだけの君に、何がわかる。人間という存在は、それほどシンプルにできちゃいないんだ」

 すると彼女は、急に泳ぐ方向を変え、ゆっくりと二階へと浮上していった。

 それはまるで、死に際した人が天に召されているかのようだった。

 葵体表に浮かぶ縞模様が、光の加減によって何が別の生きものが這って動いているように見えた。

“知っているくせに。ナポレオンフィッシュの寿命はおよそ30年。この水族館ができて以来、ナポレオンフィッシュとしての私は3人目よ。それでも私があなたにとって同一性を保っているのは、あなたがそうさせているからじゃないの。私なんて、しょせん“イメージ”であり“記号”でしかないの。わたしがあなたを縛り付けているんじゃない。あなたが私をこのぬるい水槽の中に縛り付けているのよ。私のシンプルさは、あなたのシンプルさの問題よ”

「確かに俺は、昔からシンプルには出来ていた」

 一階から二階へと、らせん状の階段を駆けあがりながら“彼女”に語り掛けた。

「それほどシンプルであるというならばなぜ、俺はこれほど息苦しく生きていかなければならない?」

 すると“彼女”は急にその向きを変え、じっと赤沢の顔を見つめた。

 そして魚的な微笑みを返し

“息苦しい思いをしているのね?”

 その言葉に、赤沢は重いため息をついた。

「アンフェアだな」

 そう言って頭を掻いた。

“そういうところは変わらないのね。意地っ張りの見栄っ張り、人一番ナイーブなくせして、そういうところをとことん隠そうとする”

「だから、アンフェアだって言ってるだろ」

 らせん階段の手すりにもたれかかり、“彼女”に話しかけた。

「俺ももうじき30だ。そう言う馬鹿にされ方は、多少なりとも腹が立つ」

“なにを言っているの”

 “彼女”は諭すように語り掛けた。

“あなたはいつまでたっても少年だわ。傷つきやすく、ナイーブで、それでいて見栄っ張りな少年のまま。ただあの時と違うのは、今のあなたは空っぽだわ。あなたの中にあった何か、それが何かは私にもわからないけど、あなたがすり減る中でどんどん摩耗して消えてしまったのね”

「同情なんていらないよ」

 強がるように答えた赤沢だったが、もはや対話の主導権がどちらにあるかは一目瞭然だった。

“そうね、同情するべき対象は、あのいたいけな女子高生だったかしら”

 “彼女”の言葉は真実であるが、幾分毒を含んでいるものであった。

 しばし重い空気が両者の間に漂う。

“悪かったわ” 

「いや、いいんだ。混じりっけなしの真実だ、それは」

 赤沢は再び、今度は足元を確かめるかのようにゆっくりと階段を昇った。

“じゃあ聞くわ。あなたは、いったい何を求めてあの少女と関係を持ったの? 自分がすり減ることなんて、最初からわかりきっていたことじゃない”

「こういう言い方は不適切かもしれないが」

 と前置きし、赤沢は言った。

「遊び、という言い方が正しくなければ、ひと時の慰安を求めてのものでしかなかったんだ」

“それであなたは癒されたのかしら?”

 うつむきがちに、赤沢は答えた。

「少なくとも、肉体に関しては、ね」

“ま、そんなところでしょうね”

 水槽の魚らしい、一瞬の切り返しで“彼女”は赤沢に背を向けた。

“でもそれは、彼女に対してだけじゃないわ。あなたは今までに関係を持ってきた全ての女性に対し、同じことをしてきた。きちんとその女性たちに向き合うこともなく、過度な負担を女性たちに押し付けてきたのね”

「悪かったとは思っている。深く傷つけてしまった、と反省もしている」

 しかし“彼女”は、またもやれやれ、と言ったため息をついた。

“本当に何もわかっていないのね。あなたごときの存在で傷つくほど女性は軟じゃないわ。むしろ、しっかりとあなたの身勝手さに復讐をして、そして去っていくのよ”

「復讐? どういう事だ?」

“あなた自身ときちんと向き合ってみなさい。さっきも言ったじゃない。あなたは、その女性たちによってすり減らされ、大切な部分が少しずつ、それこそスプーンで一さじずつ切り取られていったの。今私の目の前にいるあなたは、ただのうつろな器にすぎないわ”

 そのあまりにも重い言葉に、赤沢はただただ目の前を暗くするしかできなかった。

「そうかもしれないな。ただ、僕なりに、その中に求めていた関係性があったのかもしれない」

“求めていた関係性? それはいったい何かしら?”

 “彼女”の問いかけに、赤沢はしばし逡巡した後、口を開いた。

「俺は、君と交わることを求めていたのかもしれない。君という“記号”“イメージ”を、現実の女性に求め、その“イメージ”とのみ交わっていたのかもしれない」

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