波風の中の、十二月
これは、極私的な物語であるかもしれません。
もしくは、一切の共感を拒むものかもしれません。
しかしこれは、自分の心を動かしてくれた人たちへの、感謝の物語でもあります。
きっと我々は、心底絶望を覚えるようには出来ていないのかもしれません。
この場において自分が得た、最も重要な結論じみたものなのかもしれません。
具体的な名前を上げることは避けますが、様々な方々のつづる文章が、自分の中に潜む絶望を救い上げてくれました。
そのすべてのの方々に。
8か月早い、メリー・クリスマス。
「なぜ書くの?」
と問われるとき、こう自分は答えることにしている。
「なぜ読むの?」
質問に質問で返す、成立不可能であることを前提としたコミュニケーションのあり方。
かくして一人の白ヤギと一人の黒ヤギは、永久にその真意を求めるために手紙をつづり続ける。
我々は皆、白ヤギであり黒ヤギであり続けるしかない。
自分がなぜものを書くかなど、自分にだってわかりっこない。
自分がなぜものを読むかということをすら、理解できないというのに。
もはや我々は、この世の誰とも相互に心を通わせることにできない世界に生きているのだろう。
隠して白ヤギも黒ヤギも、自身の鉛筆を投げ捨て、またはタイプの電源を落とす。
すべてがオフになる、しかしそこに何の意味があろうか。
もともとは、全てオフだったじゃないか、なんら絶望するほどのことはない、誰かが言う。
しかし、もしそれが本当ならば、生きる価値などどこにあるというのだろうか。
言葉の存在する意義など、どこにあるのだろうか。
我々は、それでも書き続けるしかない。
人は誰も孤島である、というジョン・ダンの言葉、自分はそこに一筋の希望を見出す。
いや、見出さなければ悲しすぎる。
人は孤島であり、その孤島の住人である。
孤島の住人が、便に何がしかの言葉をつめ、コルクでしっかり蓋をして、その周囲を厳重に蝋で封を施し、何度も何度も海へとほおり続けるのだ。
誰かがそれを読んでくれることを祈りながら、そして、それがいかに絶望的な行為であるかを知りながら、それを海へとほおり続けるのだ。
ひどくたわいもなく、そして一方的な内容でかまわない。
本来なくてもいいジャンクを増やしているだけであろうとかまわない。
海は、我々の孤独なメッセージを、全て飲み込んでくれる程度には広大なのだから。
時折、自分という孤島に、小さなささやかなボトルが届くことがある。
その時、自分は丁寧にその包みを開き、そしてそこに込められたメッセージを胸に刻む。
なんだっていい、少なくとも、黒ヤギ白ヤギの書く、相互不信を前提としたメッセージに比べれば、それだけで価値のあるメッセージなのだから。
自分のほおったボトルも、もしかしたら、どこかの孤島に流れ着き、場合によっては読まれること泣く永遠に打ち捨てられていくのかもしれない。
しかし、いつか誰かがそれを広い、そして読み上げてくれること、そう考えられるだけで救われたいもちになる。
「なぜ書くの?」
冒頭の質問に戻ろう。
では、これらのことを頭の中に入れた上で、自分はこう答えることにした。
「なぜ読むの?」
と。
そしてその上で、広大な海にボトルをほおり投げる、途方もない作業へと戻ろうとおもう。
赤沢は静かにキーを落とす。
旧式の赤いポロは、苦しい唸り声を諦め、しゅしゅうという音を立てて動きを止めた。
それは、広大な駐車場に停車したただ一台の乗用車だった。
エンジンが振動を失っていくその様は、まるで安楽な死を得た末期の患者を思わせた。
赤沢はしばし、ヘッドレストに後ろ手を組み、やや倒したシートにもたれかかった。
冬の北陸の、塩と氷雪の混じった海風が車体を揺らす。
クリスマスを間近に控えても、赤沢の故郷には何一つ華やいだ様子が見られない。
商店やコンビニエンスストアでは、商戦を当て込んだコマーシャルを打ち出してはいるものの、すべてがちぐはぐだった。
チョウチョウウオを刺身にして盛り合わせにしたところで、いったいどれだけの人がそれを喜ぶというのだろうか。
それでもそれをありがたがって、あえて喜ぶ人ももしかしたらいないではないのかもしれない。
いずれにしろ、それは赤沢とは全く違った世界での出来事なのだ。
母親から借りたポロではあるが、赤沢は無造作にタバコに火をつけて吸い込み、そしてそれを窓も開けることなく吐き出した。
学校では今頃、明日の終業式を控え、通知表の作成やらなにやらあわただしく動いているだろう。
師走、頭に浮かんだ陳腐な言葉に、赤沢は思わず苦笑いを浮かべた。
くだらない、赤沢は誰に聞かせるでもない言葉を紫煙とともに吐き出した。
窓の外には、寒々しい風景が広がる。
それでも、東京の浮ついた年末の風景に溶け込むよりはどれほどましだろう、それだけでも周囲の冷たい視線の中で、忙しい時期に一足早い冬休みを取っただけの価値はあるかも知れない、赤沢はそう考えた。
両切りのピースを半分程度まで吸うと、赤沢はそれを窓の外に放り投げた。
バックシートからゴツゴツとしたワークブーツを出すとそれには着替え、そしてファーのついたフライトジャケットとニット帽を装着した。
そして意を決したようにドアを開けると、数メートル離れた白いコンクリート作りの建物へと足を踏み出した。
ポケットに手を突っ込み、冬の日本海の波風に身をさらす。
体に残っていた暖気が、一気に陸の方へと持ち去られていく。
しかし、悪い気分ではなかった。
新幹線で数時間かけて戻ってきた故郷、東京に慣れ親しんだ体が、ようやく自分の故郷になじんできたような気がした。
出入り口付近で見上げれば、その周囲をエアサイクルのレールが囲っているのが見える。
子どもの頃の遠足で、一度だけ乗ったことがある。
是非とももう一度乗って見たいと思っていたが、当然といえば当然か、冬季は営業を休止していた。
再び赤沢は建物へ向けて歩みを進めた。
再び赤沢は上を見上げる。
そこには「××市立××水族館」という、銅版作りの看板が見えた。
さぞかし懐かしさに心を奪われるか、あるいはそう期待して、思い立ったかのようにこの水族館へと足を運んだ赤沢だったが、心の中からわきあがるものは、何一つ存在しなかった。
心の中に思い浮かべていた水族館は、とにかく巨大で清潔な、楽園のような建物であったはずだ。
しかし目の前に存在するのは、潮風にさらされ、白いコンクリートにもコケがむし、まるでチェルノブイリの石棺を思わせるような石の塊に過ぎなかった。
赤沢は思わずタバコに火をつけかけた。
すると初老の警備員が、喫煙場所を指し示しそこで喫煙するようにといってきた。
小さな反発を覚えた赤沢は、昔はそこいら辺で好き勝手にすっていたじゃないか、あなた方の若い頃に許されてきたことを、何故自分達が成人してからそれをとがめられなければならないのか、そのように食って掛かりたい衝動に駆られた。
しかし、明らかに分が悪い。
健康増進の名の下に喫煙者は隅へと追いやられ、そして最新の水族館は風雨の中で朽ちていく。
何のことはない、時代が変わっただけなんだ、そう自分を納得させてタバコとライターを胸ポケットにしまった。
そこに言いも悪いも存在しない、ただ、時間は一方向にしか流れないものなのだ。
赤沢はため息をつくと、そのまま水族館の玄関へと足を踏み入れた。
水族館の玄関、自動扉が開く。
冬の冷気を少しでも和らげようとするためであろう、風除室にしてすでに湿っぽく、そしてかび臭い熱気が充満していた。
水族館の玄関には、来場者の気持ちを盛り上げたいのか、それとも、若い飼育員達が自分たちで自分の気持ちを盛り上げるためか、巨大なクリスマスツリーが飾ってあった。
置いた理由は、おそらく後者であろう、赤沢はそう思った。
そう思うと、赤沢はこの派手なツリーは、巨大な性欲の塊にしか見えなくなった。
気持ち悪い、赤沢は心底そう思った。
巨大なアメリカ製のアイスクリームのようなツリーを過ぎ去ると、そこにはこちらも巨大なアザラシの剥製があった。
見るとそこには、小さな看板が立てかけてあった。
“ゴマフアザラシのキュウちゃんは、××年8月、永眠しました”
赤沢はその瞳を覗き込んだ。
何か水晶玉のような、精気のない眼球がそこにはあった。
遠く北極海からこの極東の島国に搬送され、来訪者の見せものとなり、死してもなおその躯は保存され展示される。
もしアザラシの生を人生と呼ぶことが許されるのであれば、彼の人生に一体何の意味があったのだろう。
先ほどのクリスマスツリーと並べられたそのアザラシのはく製のコントラストは奇妙だった。
一方は旺盛な生への欲求、一方はそれが全て抜け落ちた抜け殻。
なんて悪趣味なんだろう、赤沢はそう思った。
風除室を抜けると、そこには古びた券売機が存在した。
赤沢はその隣のコインロッカーにフライトジャケットを押し込み施錠すると、千円札を数枚取り出し、そこに放り込んだ。
苦しそうな唸り声と共に、何度かその紙幣は吐き出され、それを数回繰り返し、ようやくチケットを購入できた。
そのチケットを手に取り、赤沢はそこにかかれている言葉を、あえて口に出して読んでみた。
大人一人。
そうか、自分はすでに一人の大人なのか、改めて現実を突きつけられたような気がした。
大人になったら何になりたいか、子どものころは無邪気に思い浮かべていた。
きっと何もかもが、思うがままに手に入るはずだった。
しかし今、自分の手元には何一つ残っていない。
あの日思い描いた日々は、とうの昔に自分から過ぎ去ってしまっていた。
赤沢は軽いめまいを覚え、しばし壁にもたれかからざるを得なかった。
チケットを受付の女性に提示する。
にこやかな微笑みを返してはくれたが、どこか投げやりな感じを覚えた。
市採用の公務員なのだろうか、年末のこの時期に地方の寂れた水族館に足を運ぶ男の相手をする事への倦怠感が漂ってきた。
きっと彼女の心の中には、クリスマスツリーを飾った時に思い描いた男性との心温まるクリスマスの情景が思い浮かんでいることだろう。
ミシン目から向こうをもぎ取られたチケットの版権をポケットに無造作にしまうと、赤沢は振り返ることもなく無数の水槽の松、湿った薄暗い洞窟のような水族館へと歩調を速めた。
冬の、しかも年末のうらびれた水族館。
冬休みにはまだ早いせいもあり、客と呼べる人間は赤沢しかいなかった。
歩みを進める赤沢のその両隣には、色とりどりの熱帯魚の姿が見えた。
吹き付ける冷たい海風の中にたたずむ水族館、その中に漂う熱帯の魚たち、何もかもがアンバランスだ、赤沢は思った。
よく見れば、水槽の上部のアクリルにひびが入り、水漏れしている個所が見える。
数十年前は最新の設備を備えた水族館だったはずなのだが。
アンバランスなだけではない。
すべてが時代遅れでもあるのだ。
空調のカビの匂いに加え、魚たちの餌だろうか、生臭い何かの匂いも漂っていた。
しかし、赤沢の心は、奇妙な幸福と安らぎの中にいた。
少しづつ形は変わっているようで、やはりその本質は変わってはいない。
もしそこにその姿を見ることができるのならば――――
赤沢は両脇の水槽に目をくれることもなく、足早に中央の大水槽へと歩を進めた。
薄暗い羨道のような水槽を抜けるとそこには、二階まで吹き抜けの巨大な水槽が待ち構えていた。
あの日と同じく、薄暗い館内の中に、大聖堂のパイプオルガンのように荘厳に、その巨大な水槽は赤沢を見下ろしていた。
そして赤沢はその巨大な水槽の中に“彼女”を探した。
一階明るく照らし出される水槽の中、赤沢は何度もその筒状の水槽の一階の部分を往復した。
そして、その一階と二階の中腹部分に、彼女はいた。
「久しぶりだね」
赤沢は“彼女”に語り掛けた。
“そうね、本当に久しぶりね”
“彼女”も赤沢に語りかけた。
「君は、全くあの時と変わっていない」
赤沢は再び語り掛けた。
その“彼女”は、この巨大な、青々とした水をたたえた水槽の中にいた。
その彼女の姿、彼女は、巨大なメガネモチノウオ、ナポレオンフィッシュの姿をしていた。