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 光輝の言うテストとは、今日これから俺とほのかが一緒に行動し、その間不意打ちのように俺がほのかに対して様々なお願いを繰り出すというもので、それを全て拒絶しきればほのかが俺に特別な感情を持っているわけではないと認定するというのだが、デートのマネごとのようなものができると分かった時点でほのかはすでに喜びを隠し切れていず、テストをやる意味があるのかは甚だ疑問だった。しかし、とにかくそんなデートのマネごとをすれば神にデートと見間違われて即落雷か何かで殺されるということになりかねないので、俺は光輝も付いてくるように言った。

「ええ、面倒くさいですよ。盗聴器があるから僕はここで聞いてます」

「ダメだ。てか、何でそんなもん持ってんだ。とにかく付いてこい。さもないと、分かるな?」

「でも、そしたらあなただって安全地帯を失うことになりますよ」

「それでもやるぞ?俺は」

「分かりましたよ。行けばいいんでしょ、行けば」

「そういうことだ」

「え、光輝くんも来るの?」ほのかは普通に残念そうな顔をする。本当に俺への好意を隠す気があるのか分からない。

「嫌ですよね?海野さんは八代さんと二人っきりが良かったんですもんね」

「そ、そんなことない」

「それじゃあ、何で残念そうな顔したんですかねぇ?んん?」

「あ、あなたが、そういう鬱陶しい人間だから」

「ひどい言われようですね」

「まあ、正論だな。それでどこ行くんだよ?」

「欲しい本があるので、駅ビルの書店に行きましょう」光輝が即答する。

「結局お前が決めるのか」

「だって、せっかく行くならついでに用事を済ませますよ」

「じゃあ、とにかく行こっ」

 どう見てもテンションが上がっているほのかの後に付いて、俺たちは部室を後にした。


「いいですか、このテスト中に必ず、海野さんに『明日以降も陰険部の部室に来てくれ』ってお願いして下さい。そうすれば、八代さんのことが好きだと思われたくないあの人は嫌だと拒絶しなければならない。すると、どうです?明日から海野さんは部室に来れなくなり、あそこは元通り僕たちの安息の場所になるわけです」

 駅ビルの中を歩きながら、ほのかが並んだ店に気を取られている間に光輝は俺にこのくだらないテストの真の目的を耳打ちした。

「お前、相変わらず容赦ないな」

「当たり前です。あの場所は貴重なんですよ。断固死守しなくては」

「まあ、そうだが…」何だかすでにこのテスト自体がバカバカしくて面倒くさい。

 書店のフロアまで来ると光輝はスッと、俺とほのかから離れる。

「それでは本を探して買ってきますので」

「おお」

「私たちは適当に見てるから」たち、という部分に力を込めて、ほのかは一緒に行動することを強くアピールした。

 いざ光輝が行ってしまうと、毎朝二人きりで登校しているにもかかわらず何だか異様に気まずくなった。

「お前、何か見るもんとかないの?」

「わ、私は別に…」

「そっか」

「正は?」

「別に」

「そう…」

 何だ、これ。何だ、この初デートみたいな雰囲気。アホか。こんな雰囲気に呑まれてどうする。徹底して疎遠になっていたはずのほのかが何やら嬉しそうに俺の隣でもじもじしているんだぞ。見えない壁が野放しになっているんだぞ。やっぱりこういう時こそ、見えない壁に攻撃を加えないといけないよね。そうだよね。

「あ、思い出した。俺、安部公房全集注文しようと思ってたんだ。あーでも金ねーなー。でも欲しいなー。ほのか、金貸してくれない?」

「え?いくら…って、何で私が正にお金貸さなきゃいけないの」発言の途中でテストの事を思い出し、咳払いしながらほのかは言いかけた内容を方向転換する。

「そんなもん。お前が俺にべた惚れだからに決まってるだろ」

「はあ?バッカじゃないの。意味分かんないし」

「もうさ、いい加減そうやって意地張るのは止めないか。そりゃね、最初の方こそはツンデレだって、ははん、恥ずかしくて素直になれないんだな、かわいいとこあるやんけって思うかもしれないけどね、ここまでくるともう食傷気味っていうか、明らかにこっちのこと好きなのに何やってんのこいつ、みたいな感じになってくるわけ。その上、訳の分からないところできつく当たられたりしたらどうですか?あなたなら、そんな人間に好意を持ちますか?持たないでしょ?人間、素直が一番だもんね。そもそも好意を素直に示せない原因は、その好意が拒絶されるのが怖いか、あるいは好意を向けることそれ自体が恥ずかしいの二つだし、どっちにしてもあんまり子供っぽいと思わないか?まあ、何が言いたいのかというと、お前も俺のこと好きなら好き、とは別に言わなくてもいいけれど、態度で示したらどうなのってこと。たとえば、正に今俺に金を貸すとか、もっと好意を示すなら何も貸すなんて言わないでそのまま金を融通するっていうのでも構わないわけじゃん。そうやって金をくれたらさすがに俺の好意も上がるよ。こうやって俺が言ったからくれたんだな、なんて微塵も思わないしね」

 俯いて聞いていたほのかは、俺が話し終えてもしばらく黙っていたが、しばらくして蚊の鳴くような声で何かぼそりと言った。

「ん?」

「分かった。貸してあげるわよ、お金。別に正の好意なんていらないけど」

 こいつ…案外手強いな。

「いくらなの?」

「まあ、計算してないけど二十万あれば足りると思う」

「は?二十万?」

「そう、二十万。一冊六千円くらいで三十巻あるから」

「そんなに持ってるわけないでしょ」

「貯金もないのか?」

「な、何であんたのためにわざわざ下ろさなきゃならないの」

「だから、お前は俺のこと好きなんでしょ?お前の俺への好意は二十万も貸せない程度のものなの?まあ、それならそれでいいんだけどさ。俺はね、人間って本当に好きな相手にはどこまでも尽くせると思う。本当に好きなんだからね。だから俺は、もし付き合ったりするならそういう女性がいいな、と思うわけよ。そんくらい俺を愛してくれる人なら、こっちもその人のために色々と割こうかなっていう気持ちになるしね。でもまあ、何もほのかにそれを求めるのは筋違いだよな、分かってる、分かってる。そういうのは言われて、半ば強制的にやるんじゃ意味ないし。うんうん、その程度だってどの程度だって気持ちは気持ちだからね。まあ、もちろんそれによって俺の対応は変わるわけだけど、だからといって好きならこれくらいしてみろよっていうのは、どう考えてもおかしいしね」

「ちょっと、下ろしてくる」

「は?」

「お金、下ろしてくるから待ってて。別に正に好かれたいわけじゃないけど、貸してあげるから」

 バカか、こいつ。いや、よっぽど主人公補正の力は強いらしい。この資本主義社会においてはどんな人間でも優先順位のかなり高い位置に置いている金を、こんなバカみたいな煽りで易々と手放すとは呆れを通り越して恐怖するレベルである。

「ちょっと待て。お前、本当に俺に二十万貸す気?」

「そうだけど」

 何かおかしいの、というほのかの顔を見て、俺は一瞬気圧されそうになったが何とか踏みとどまる。

「そうやって自分の大切なお金を、ただ好きだからっていう理由だけで簡単に譲渡してしまっていいんですか?」

「え?だって、さっき正が…」

 思いっきり矛盾するが、構うものか。そうやって矛盾を気にするから空気や見えない壁が生じるのだ。

「俺はね、そういうのは違うと思う。バイトで稼いだ金だか親や親戚からもらったお年玉だか知らないけど、そういう大事な金をそうやって貢ぐというのは、最も低俗な使い方だと思う。というのもね、結局金を貢ぐっていうのはその人の関心を自分に引きとめておきたいからするわけでしょ。そしてできれば飼殺しを狙う。これはもらう方にもあげる方にもその気がなくったって、もう人身売買や奴隷制と変わらないよね?そんなことない、私はあの人がより良く生活できるようにお金を渡すんだって言う人もいるかもしれないけど、そう思っていたってお金を与え続ければもらう側は必然的にそれに依存してくるし、まともな人間ならくれる人に頭が上がらなくなってくる。よしんばいい金蔓だとしか思ってなかったとしたって、傍から見れば飼殺されているのとほとんど変わらない。だから貢ぐというのは金の使い方としてはおかしいと思うんだよね。そういうことをする人がいるから、金さえあれば何でもできる、とか、何をしてもいい、みたいな勘違いも甚だしい思想が蔓延する。蔓延した結果どうですか?この現代になっても先進国が支援と称して巧みに発展途上国から利益を搾り取っている。搾取された途上国ではその結果どうですか?何よりも尊いはずの人命がお金なんかよりも遥かに軽く扱われ、散っている。そんなことでいいんですか?いいわけない。なら、そういう風潮に加担するかのような行動を取ったらダメだろ?一時の感情で世界の経済格差を肯定するような行動を取りかけたということは自覚したほうがいいと思うよ。うん、マジで」

 ほのかは明らかな矛盾に戸惑い、途中何度も口を挟みたそうにしていたが、俺は何とか最後までしゃべりきった。しゃべりきってしまうと、ほのかは矛盾を指摘することはせず、ただ俺の言ったことを消化するように俯きがちに黙りこんだ。

「ま、まあ、正にしてはいいこと言うじゃん。そうだね、確かに。私がちょっと考えなしだったかも」

「分かってくれた?」

「一応」

「そうか」でも、やっぱり俺は『好き』っていうのはそういう世の中の道徳を超えた感情だと思うんだよね、と再び壮絶に手のひらを返そうかと考えていると、

「お待たせしました」と言いながら、買い物を済ませた光輝が戻ってきた。「どうですか?海野さんは何か思わず願い事を聞き入れたりしましたか?」

「し、してないから!」

「少し怪しかったけどな」

「まあ、ムキになってる時点でお察しなんですが」

「お前、それを言ったら…」

 俺たちは書店を出て、下りエスカレーターに乗った。

「この後はどうするんだ?」

「何も考えていません。どうぞ、お好きに」

「そ、それじゃあ、え、映画とかは?別に正と見たいわけじゃないけどさ」

「なら無理に行くことないだろ」

「でも、どうせ暇なら見てもいいかなって」

「八代さんと映画に行きたいんですね、分かりました」

「何でそうなるの?」

「そうにしかならねーだろ」

 次の目的地が決まらない内に一階まで下りてきてしまった。

「で、どうすんだよ?」

「じゃあ、もう映画でいいんじゃないですか?僕は先に帰りますから二人で楽しんできて下さい」光輝は極めて投げやりに言う。

「光輝くんがそう言うなら、まあ、仕方ないわね。行ってあげるわよ、正と二人で」

「光輝、お前ね、殺すよ?」

「冗談ですって。でも僕、映画とかお金な」

「ふざけんじゃねぇぞ!」

 光輝の声は突如轟いてきた怒声に掻き消された。声の方を見ると、どうやら駅ビルの案内所で男性客の一人が受付嬢を怒鳴りつけているらしい。

「なんで下りエスカレーターと上がりエスカレーターが隣り合ってるんだよ。おかしいだろ、それ。おかげでこっちは人とぶつかりそうになって、それを避けたらその拍子に柱に足をぶつけたんだぞ。どうしてくれるの?」

「申し訳ございません」

「申し訳ございません、じゃないよ。どうしてくれるのって訊いてるの」

 やり取りを一往復聞いただけで面倒なことが察せるぐらい、理不尽なクレーマーである。

「うわ、関わらない、関わらない」

「嫌な感じね」

 光輝とほのかが距離を取りながら通り過ぎようとしているのもほとんど意識しないで、俺はただ『あ、これだよね』と思っていた。このね、もう相手が客となったらどんな理不尽なことでも取りあえず詫びなきゃいけないみたいな、もう客の方が絶対立場が上みたいな、固定的で決まり切った空気。他の客も面倒事に巻き込まれるのは嫌だから見て見ぬふりの空気。この空気、あかんよね。見えない壁の発生元だよね。野放しはまずいよね。今徹底的に叩いておかないとダメだよね。

「ちょ、八代さん?」

「正…」

 俺は案内所の方へ真っすぐ歩きだしていた。微塵の迷いもなく。

「大体ね、客の動きとかで予想できるわけでしょ?それなのに」

「あの、ちょっといいですか?」

 俺が割って入ると、クレーマーの男の言葉が途切れ、それまで粛々とした表情で話を聞いていた受付嬢が俺の顔を見て俄かに頬を赤らめて俯く。

「なんだ、お前は」

「お客様、こちらでうかがいます」クレーマーが文句を言いかけたところで、後ろからもう一人出てきた受付嬢がはきはきと言った。こいつはやけに嬉しそうな顔をしている。「どういったご用件でしょうか?」

 究極のスマイルだった。この女性がどれくらいこの業界にいるのかは知らないが、恐らく彼女の持てる全てを出し切った笑顔だろう。その表情はまさに『あなたに奉仕できることが私に与えられ得る最高の喜びです』と語っていた。あんまり強烈に受け入れられたので危うく引きかけたが、とにかく今は見えない壁の発生元と戦わなければならない。

「いやね、ちょっと要望というか、まあ率直に言っちゃうと文句なんですけど、一つあるんですね」

「それは大変申し訳ございません。どこか至らぬ点がございましたでしょうか?」

「まあまあ、そんな大層なもんじゃないんだけどね、こいつ」

 俺が隣でまだ受付嬢に怒鳴りつけている男を指さすと、にこやかに応対していた俺の方の受付嬢の顔が固まった。隣のやり取りも停止し、周囲からも声がフッと消える。完全に空気が凍った。ははは、ざまあみろ。みさらせ。このタコがっ。

 ややあってから動きを取り戻した受付嬢が「は、はあ…」と遠慮がちに先を促すような促さないような声を上げる。

「だからね、この男。なんでこんなゴミ人間の標本みたいなクズを入店させているのかなと疑問に思ったわけですよ。だってそうでしょう?第一、うるさい。美女の美声ならいざ知らず、何なんですか、このむさ苦しい男のだみ声は。精神攻撃ですか?公害認定されますよ?そもそもこういうゴミの入店を許すから、許されたゴミの方は店内で周囲の人間とゴミである自分との格差を見せつけられてコンプレックスが募り、結果、根も葉もないことでクレームをつけるという真にゴミらしい行動を引き起こしてしまう。人間は皆平等、それは確かに聞こえのいい理想だとは思いますけどね、果たしてこうしたゴミまでも人間として扱う必要があるのか。むしろ、それによって侵害される我々人間の権利こそを守らねばならないのではないか。俺が疑問に思うのはこういうことです。きっと中途半端に人間扱いされてゴミの方も困ってますよ。なあ、ゴミ」

 にこやかな表情を作って親しげに男の肩へ乗せた手は、勢いよく弾かれた。

「黙れっつうんだよ!」

 男は顔を真っ赤にし、まさに怒髪天を突く如く怒っていた。顔を赤くして怒る人間を初めて見たが、これが最初で最後になりそうなくらい男は怒っている。

「黙って聞いてりゃ、人のことゴミゴミ言いやがって。ゴミはてめぇだろうが!ふざけんじゃねぇぞ、ゴミ野郎!!」

 まったくもって全面的に同意する。人をゴミ呼ばわりする奴は、いずれ当人もゴミ同然である。だがしかし、こちとら見えない壁との戦いのために全てを捨てる覚悟であり、そのためにはゴミにだって甘んじてなるつもり。俺は自分のやっていることがあまりに愚かであると知りながらも、敢えてそれを貫き通すのである。その姿さえ別にカッコよくないにも関わらず。

「ははは、ゴミが一丁前に怒ってるんじゃねぇよ」

「黙れ、クソが」

 男が思い切り拳を突き出してきたので、俺はぽーんと後ろへ飛びのいて避けた。

 それにしてもよくここまで我慢したものである。あまりのことに驚いて動けなかったのだろうか。俺なら見ず知らずのガキにゴミ呼ばわりされたら即顔面グーパンだろう。

「切れたら即暴力とかホント、ゴミらしいですな」

「ぶっ殺してやる!」

 心にもないことを言って相手の怒りを煽るのはまことに心が痛む。心が痛むんだけど、男の怒り方がなんか面白い。むろん大変不謹慎かつ失礼であることは重々承知だけど、どうもからかい甲斐がある。

「やってみな」

 俺は駆けだした。

「待ちやがれ」

 すかさず男が追ってくる。

「お客さまー」という受付嬢の声や「ちょっと、正」というほのかの声を背中で受け流しながらエスカレーターを駆け上がる。そのまま二階を突き進むと、ランジェリーショップが見えてきたので、ちょっと躊躇したが俺はそこへ飛び込んだ。さすがに女性用下着店に入るのは躊躇うだろうと思って振り返ると、怒りに我を忘れた男はまるで抵抗なく突入してきた。周囲の女性客は悲鳴こそ上げないものの、露骨に眉をひそめている。怒り狂う男に対してだけ。モテるということは何とも恐ろしいことである。

「これでもくらえ!」

 俺は手近な棚にぎっしりと並んでいたパンティーをむんずと掴んで男へ投げつけた。

「どあっ」

 突然色とりどりのパンティーが顔面めがけて飛んできたのに驚いて、男は足を止めて顔を庇った。俺はそのまま棚にあるだけのパンティーを投げつける。さすがに女性客から悲鳴が上がり始めた。

「そらそらそらそら」

 しかし、所詮パンティーは布っきれに過ぎず、男はすぐに怯みから立ち直った。

「舐めてんじゃねぇぞ!」男はパンティーごときで怯んだ自分にも腹を立てているような怒声を放った。そんな男の頭には一枚の青いパンティーが引っかかっている。「この、クソ野郎が」

 今度は男がブラジャーをハンガーごと投げつけてくる。

「ちょ、おま、それは、痛いって」

 男はまるで聞く耳持たずに投げ続けてくる。まあ、怒っているので当然である。俺は慌ててブラジャーを避けつつランジェリーショップを飛び出した。

「待ちやがれ!」

 男が鬼のような形相で追撃してくる。しかし頭にパンティーが引っかかったままであり、客観的にはどう見ても変態である。しかしながら思わず吹き出しそうになった時、俺は自分の襟にブラジャーが引っかかっていることに気がついた。だが取っている余裕がない。仕方なしに俺はそのまま三階へと上がった。

 ブラジャーをなびかせた男とパンティーをはためかせた男がやって来て、三階の平日夕刻のショッピングモール的雰囲気は一瞬で消し飛んだ。

 これは使える。

 鬼気迫る表情の男から追われながらも俺はそう思った。この恰好ならば大概の空気は一瞬で壊せる。見えない壁へでかい攻撃を入れるチャンス。ここはなるべく多くの場所をめぐって空気を壊していくに越したことはない。

 俺はそのまま三階で男と婦人服を投げ合った後、四階へ上がって無印良品を投げ合い、五階の書店で本を投げ合ってから再び四階、三階と折り返していった。騒ぎは簡単に駅ビル全域に広がった。気がつけば周りで写メを撮っている人間が大勢いる。今頃ツイッターはさぞかし盛り上がっていることだろう。

 ようやく一階まで下りてくると、不意に後ろの男が「ぎゃあ」という声を上げた。振り返れば、誰が呼んだのか、待ち構えていた警官に後ろの男が取り押さえられていた。

「正、大丈夫なの?」

 男が取り押さえられたのを確認して足を止めると、ほのかが寄ってきた。

「まあ、けど、ちょっと、疲れた」日ごろからこうして全力疾走することは少なくないが、やはり息が切れる。「光輝は?」

「知らない。正が逃げ出した時に、嬉しそうな顔して後を追いかけて行ったけど」

 そうほのかが言った途端、今しがた俺が駆け下りてきたエスカレーターから光輝が下りてきた。確かに嬉々とした表情である。

「いやあ、八代さんすごいなぁ。僕は感服しましたよ。やっぱり見込んだ通りだ。あなたほどのバカはいませんね。稀に見るイカレ野郎ですよ、八代さんは」

「お前ね、そんなぶち殺されたいのか?」

「褒めてるんですよ、僕は。さすがだな。人間、相当のバカでもなかなかあそこまで常識に逆行できるものじゃないですよ。ぐふふ、もう完全に頭イカれてますね。いやあ、楽しませてもらいました」

 どう考えても『お前バカだなぁ、あはは』くらいにしか思っていないであろう光輝を殴ろうと手を伸ばしかけると、取り押さえられた男が「あいつだ、あいつのせいなんだ!」とこっちへ向けて怒鳴った。

「俺のせいとは心外ですね」

 男の方へ近づいていくと、警官に取り押さえられながらも男の怒りはますます滾っているようである。

「ふざけんじゃねぇ、ぶっ殺すぞ。絶対、復讐してやるからな」

「止めなさい。復讐は何も生みませんよ」

 明らかに復讐されても仕方ないことをした奴にくさい正論を諭されたせいで、男はついに怒りが頂点に達したのか、言葉にならない声を発しながらじたばたともがき出した。

 おお、怒ってる、怒ってる。それはそうだろう。俺がもし男の立場ならどんなことがあっても俺に復讐するだろうな。俺は相手の立場に立てる人間だからそれは分かる。しかし、この人間社会に張り巡らされた見えない壁と戦っているのだから、こっちに相手の事を慮っている余裕はない。だから今も『うわ、さすがにこれはやばいか』などと普通の人間がするように引いている場合ではなく、容赦なくこの火に油を注がなくてはならない。

「まあまあ、落ち着いてください。これで取りあえずあなたはこの後警察署へ行くことが決定したわけです。どうですか、今の気持ちは?ねえ、今どんな気持ち?ねぇねぇ」

 その時、ポンと俺の肩に手が置かれた。振り返ると、警察官である。

「君が共犯者だね。ちょっと署まで来てくれるかな」

「え?」

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