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家では姉と妹に迫られ、朝は通学前に幼馴染が迎えに来て、学校では女子たちがアプローチをかけてくる。取りあえずそんな生活が一週間続いた。これだけ聞くといかにも不平の言いようのない、極楽のような世界に思えるかもしれないが、うかつに女性と懇ろになろうものなら、いきなり絶命してもおかしくないという身の上では楽しむどころではない。俺は足繁く陰険部の部室に逃げ込むようになっていた。
「ういーっす」
金属の重い扉を開けて入ると、光輝はいつも通りパソコンに向かっている。
「この部屋を使うなら陰険部に入ってくださいよ」
「まあ、そう心の狭い事を言うな。俺は、お前の恩人なんだから」
「僕の心は狭いですよ。何せ、陰険部の部長ですから」
お決まりのやり取りをしながら俺はソファに深々ともたれ、息をついた。今や世界一モテる男であるはずなのに、リラックスできる場所がこんな幽霊染みた男のいる地下室だけとは、これはちょっと笑えないくらい悲しい状況ではないか。ウンコを漏らして以来、孤独には慣れているものの、居場所がなくなるということは経験したことがなかった。というか、居場所のない場所にゴリゴリと突っ込んで行って、周りの空気を壊しながらもそこに居座るということを続けてきたので居場所がないことで悩んだことはなかった。しかしながら、今それをやると周囲がこぞって俺を歓待し、俺は強固な見えない壁に囲まれ圧殺されてしまう。見えない壁はいつの間にか俺から居場所を奪うほどに手強くなっていた。
「それにしても、すごいですよ。ここ一週間くらい学校の裏サイト、八代さんの話で持ちきりだ」
「そんなもの、いつも通りだ」
自分で確認したことはほとんどないが、見えない壁と戦い始めた頃からそうだった。見えない壁と戦うために異常な行動を取っていたので当たり前である。むしろネタにならないレベルでは見えない壁とは戦えない。見えない壁を破壊するためには、それはもう気違いみたいな行動を取らなくてはならないのだ。それじゃあ何?お前はやっぱり気違いなの?うわ、近寄らんとこって思う人もあるかもしれないがそれは違う。合ってない。全然。そら、大体において行動はおかしな感じになるけど、本当に狂っていたらその場の空気を効果的に壊すことはできないからね。一度空気を読んで、敢えてそれに逆らのだから。つまりこれはやむを得ず取っている異常行動であって、俺自身は至って常識人なのである。誰も信じないかもしれないが。
「違うんですよ。今までは八代さんの奇行をネタに笑ってただけなのに、今は叩く側と擁護側に分かれて炎上してます。あはは、面白いなぁ。これきっと、擁護側が女子で叩く側が男子ですよ」光輝は喜色満面で画面をスクロールさせている。
すでに一週間ほぼ毎日顔を突き合わせているが、どうもこいつは人の負の感情を自らの栄養にしている節があり、やはり名前に反して腹の内は宇宙空間の暗黒物質よりも黒く、その汚さは肥溜めが清潔に見えるほどである。
「あ、もっと飯がうまくなりそうなニュースがありました。えーっと…ふん、ふん。ぐふ、ぐふふ」光輝はパソコン画面の文字を読みながら笑みを漏らす。「どうやら、ここ数日で全国的に若年夫婦が離婚し始めているらしいです。なになに、ほとんどは女性の側から別れ話を切り出していると…これって、八代さんがモテるようになったのと関係あるんじゃないですか?」
「知らねーよ」なんと無駄に勘の鋭い奴だ。それにしても若年夫婦だけなのか?俺の母親もそうだが、この妙な力にかかるのは年齢的な制限があるということか?まあ、それならそれで非常に幸いではある。
「しかし不思議ですねぇ。もしそうだとしたら異常ですよ。八代さんを知らない人にまで影響を及ぼすなんて。一体、どんな魔法を使ったんですか?」
「そのことは気にしないんじゃなかったのか?」
「八代さんが陰険部の活動に協力してくれないから、そういう詰まらないことが気になってくるんですよ」
「気にするな。そもそも陰険部の活動とやらが陰険過ぎるんだ」
「だって、陰険部ですもん」
「そうやって陰険なことばっかり考えてるから、体から人間的ぬくもりが消えて人外みたいな容貌になるんだよ」
「随分な言いようですね。まあ、自覚はしてますが。ぐふふ」
「ここは一つ、俺が可愛い女の子たちを陰険部に入部させてやろうか?簡単にハーレム空間を作り出せるぞ」
「止めて下さい。絶対、止めて下さい」初めて光輝の表情が真面目になった。「そもそも、八代さんに言われて渋々集まった女の集団の中にいるとか、何の罰ゲームですか」
「ははははは」
思わず俺が笑うと、光輝は悔しそうな顔をした。
「八代さん、家ではウハウハなんじゃないですか?」
「ん?急に何だ?」
「だって、姉や妹からもモテてるんでしょ?」
「ああ、まあ」てか、こいつはいつの間に家族構成まで調べ上げたんだ。「何でそれがウハウハなんだよ?」
「いやあ、どうも八代さんはシスコンだっていう情報が多々あるもので」
「確かに仲はいいけどシスコンじゃねぇよ」
「どうですかね。ただ仲がいいというのと、シスコンの境界線は人それぞれでしょう?」
「ないな」確かに学校の女どもに対するように強い態度には出られていないが、それは一応身内であるからで、シスコンであるからではない。
「ふーん。そうですか」
「そうだ」
俺は立ち上がって冷蔵庫を開け、中にあるウーロン茶のペットボトルを開けた。
「ああ、それ僕のですよ」
「そうケチケチするな」
「横暴だなぁ」
ウーロン茶を喉に流し込むと、思わずため息が出た。
「しかし、もはやこんなむさ苦しいとこぐらいしか落ち着ける場所がないとは何ともやりきれんな」
「勝手に入って来ておいて何言ってるんですか。まったく…あ、それじゃあ、こういうのはどうですか。八代さんに惚れている女たちで、彼女の座をかけてバトルロイヤルをしてもらう。女子の数も減るし面白いショーが見られるかもしれませんよ」
「アホか。そんな血なまぐさいもの見たくないわ」
「ならばやはり一人ずつ付き合っては振り、どん底に落としていくというのは?」
「お前ね、歪み過ぎだぞ」
「ぐふふ。僕はね、小学生の時、親友から好きな子のことを調べてくれって頼まれたので、徹底的にプロファイルしてリークしたら感謝されるどころかドン引きされましてね。それ以降、人は信じないようにしているんです。そして、信じないだけでなくあらゆる人間に天罰を下すことに決めたんです。そのために日々作戦を練っているのですよ。この状況だって戦略的孤立なんですから」
「ああ、分かった、分かった」絶対に気のせいだけど何だかこいつが妙に自分と似た事をしているような気がして嫌になってきた。
「それにしても不思議だなぁ」
「何が?」
「八代さん、あれだけモテてるのに一切それを楽しもうともせずに、徹底的に女子どもから逃げてるんだから。ひょっとしてホモですか?」光輝はわざとらしくケツを抑える。
「ちげーよ。野郎のケツの穴には興味無い」
「それじゃあ、あれですか?性的に不能なんですか?十七歳にして?」
「なわけあるか。精力ビンビンだ、ビンビン」
「じゃあ、何なんですか。八代さんみたいな状況だったら、僕ならヤッては捨て、ヤッては捨てで思うさま女遍歴を重ねますよ」
「お前、陰険を通り越してあれだな、クズだわ」
「ぐふふ。ありがとうございまーす」
「まあ、こっちにも色々と事情があるんだよ」もちろん、女と付き合おうなどとしたら、その瞬間に即人生が終了するからそれを避けているわけだが、ここでそれをこいつに言っても信じないであろうことは明白である。それどころか『あ、脳内設定をお持ちの方だったんですか、ぐふふ』とか言ってますますコケにされることさえ目に見えている。
「何ですか、事情って。大体この部屋を使っている以上、僕の質問にはちゃんと」
ゴンゴン。
突然、金属の扉をノックする音が響き、光輝は口をつぐんだ。
ゴンゴン。
黙っていると、さらにもう一度叩かれた。どうやら三つある入口の内、一度も使ったことのないドアである、トイレから入って来るのとは反対側のドアが鳴っているらしい。
「おい、ついに教師に見つかったんじゃ…?」
「それはないですよ。あの扉の向こうの通路は学校のすぐ横のイチョウ並木の隅に繋がっているやつです。ああでも、あそこの入口は隠しておいたのになぁ」否定しながらも、光輝はここが誰かに見つかったことのショックが表情に表れている。
ゴンゴン。
「外にも繋がってたのか。それじゃ、これは誰なんだ?」
「知らないですよ」
ゴンゴン。
「ていうか、どうする?」
「そうですね、こうなっては仕方がありません。一度部屋入れてすぐに消しましょう」
「そう言うお前を消した方が世のためになりそうだな」
「冗談ですよ」
ゴンゴン。
「ん?何か言ってないですか?」
「そうか?」
二人して扉の前まで来て耳を澄ましてみると、確かに厚い扉越しにくぐもった音が聞こえる。しかし意味はおろか、男の声か女の声かさえ分からない。
「相当ぶ厚いな、ここの扉」
「はい、防音は完璧ですね。だから、どんな陰険な計画でも心おきなく口に出来ます。正に陰険部にうってつけ」
「いやもっと他に使い道有るだろ、防音」
ゴンゴンゴン。
「おい、マジどうすんだ?」
「仕方ないですね。諦めそうも無いので開けますか」
光輝はガシャリと錠を外し、ノブを掴んで扉を内側へ引いた。
「あ、やっと開いた。すいません…って、た、正!」
「なっ…ほのか。お前、こんなとこで何やってんだよ」
扉の外に立っていたのは、ほのかだった。主人公補正が発動して以来、毎日毎日俺と一緒に登校したいがために、学校が違うのにわざわざ俺の家まで迎えに来るから、仕方なく朝の眠い登校時間をこいつとの会話に費やしている。もちろん、今朝もそうだった。質問はしたものの、大方今度は下校も一緒にできないものかと大原高校の前まで来て待っていたところ、一向に俺が出てくる気配がないので校内に侵入してくまなく探すも見つからず、諦め半分で帰ろうとした時、偶然校外に変な入口を見つけてここにたどり着いたのだろう。なんという執念深さ。そしてなんという暇人。アホだ。本当に俺より偏差値の高い高校に通っているのか疑わしい。
「知り合いですか?」光輝は露骨に嫌そうな顔をしている。
「幼馴染だ」
「まさか…」
「教えてねぇよ。ここは俺の安息の場所なんだ。こいつだって、俺にメロメロでそれはもうしつこいくらいのアピールをしてくる類の奴だからな」
「そうですか。分かりました」
「ちょっと!あんたら何勝手に当人の目の前でとんでもない悪口言っちゃってくれてんの!私が正に惚れてる?ば、ばば、バカじゃないの?あんた自分が何言ってるか分かってんの?」精一杯バカにした口調で言ったほのかだったが、すでに頬に赤みが射している。
「はあ、ツンデレですか。リアルでは初めて見た」
「決していいものではない、とだけ言っておく」
「こらぁ!話を聞け!大体、何で私が正に惚れてるってなるわけ?あんた、どんだけナルシストなのよ」
「じゃあ、お前、こんなとこで何してんだよ?」
「っ…そ、それは…」
「何で江南高校生が放課後に大原の周りをうろちょろしてたんですかねぇ?」ほのかが追い込まれるのを見てにやついた表情を取り戻した光輝は、やはりどこまでも性格が真っ黒である。
「それは、ちょっと散歩してから帰ろうかなって思っただけよ。そしたら偶然、イチョウ並木のところで変な入口を見つけて…べ、別にもしかしたら正に会えるかも、とか、そしたら一緒に帰ろうとか考えてたわけじゃないんだからね」
「なるほど。八代さんと一緒に下校するために来たわけですね」
「こいつ、ネタでやってるのか…」
「何でそうなる!違うって言ってるでしょ」
「まあいい。それじゃあ、外に戻って散歩の続きをしたらどうだ。ここは散歩には向かないからな」
「そ、そんなに邪険に追い出すことないじゃない。少し疲れたし、ここで休ませてよ。ていうかここは何なのよ、一体」
「陰険部の部室です。女人禁制です」光輝はきっぱりと言い切る。
「あなたは?」
「他人の部室に入って来て、自分から名乗りもしないでいきなり相手の名前を聞くなんて、よほど八代さんしか見えてないんですね。光輝照明です」
光輝が嫌みたっぷりに自己紹介すると、ほのかは一瞬怒鳴り返しそうな雰囲気を見せたが、顔をゆがめてそれをこらえ、「失礼。海野ほのかです」と言った。
「それでははじめまして、そしてさようなら」
「待って」
光輝が閉めようとした扉にほのかは慌てて手をかける。
「いいじゃない。ちょっとくらい入れてくれても」
「ダメです。どうせ八代さんとイチャコラするのが目的でしょう。何で僕がそんな汚いもの見なきゃいけないんです?」
「汚いものって何よ!ていうか、正とイチャコラなんてしないわよ。何でそうなるの」
「まあ、お前ときたら、俺と一緒にいたいっていうのが見え見えだしね」
「はあ?ホント頭おかしいんじゃないの?そんなこと思ってるわけないでしょ」
「本当ですか?」光輝は何か思いついたようないやらしい笑みを浮かべて訊く。
「あ、当たり前じゃない」
「本当に八代さんのことはどうとも思っていなくて、ただ休みたいだけだと?」
「そうよ」
「分かりました。では、入っていただく代わりに一つテストを受けて頂くという条件でどうですか?」
「テスト?」
何考えてるんだ、こいつ。まあ何にせよ、いい予感は微塵もしないが。
「ええ、あなたが八代さんのことを本当にどうでもいいと思っているかどうかのテストです」
「いいわ。受けましょう」
「では、どうぞ」
光輝はほのかを部室へ招じ入れてから扉を閉ざした。