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超絶お得な天才的妙案だと思っていたものは、ただただ自分を苦しめる悪手でしかなかったことが早々に分かった。それもただ自分に苦痛を強いる悪手ならまだしも、あろうことか見えない壁を強化することになったのだから笑えない。思えば見えない壁との戦いそのものはいつ果てるとも知れず、それに手強さを感じてはいたが、一つ一つの戦いは極めて楽勝であったのだ。何となればちょっとあり得ないことをすれば、すぐに場の空気は取り返しのつかないくらいぶっ壊れて、それまでの雰囲気はなんだか分からずうやむやになった。誰もその空気を取り繕おうとはしなかった。それは俺が肩を持ってあげたくなるような存在ではなかったから当然である。だから思う存分空気を壊して回れていたのだ。
しかし俺に惚れた女たちが一枚岩となって、そうした俺の奇行に目を瞑り出したら、見えない壁はより一層強固なものとなる。というか、そうやってあってはならない行動を無かったことにするのは、ウンコを漏らした中二の時にクラスメートが取った対応そのまんまじゃないか。この手段だけは断固跳ね返さなければ、俺は死ぬる。いや、死にはしなけどそれくらいの覚悟でいかないとあかぬ。
俺はいかに奇抜なことをしようとも、フォローあるいは黙殺される状況を想像して身ぶるいをした。
それは、たとえば今のこの授業中に全裸になって騒いでも黙殺され、そのまま休み時間に突入したって女子は俺がまるで普通に学校生活を送っているように接してくるということである。うわ。それって、何かもう、見えない壁に閉じ込められて圧殺されるも同然じゃないですか。くわぁ、ムカつく。苛つく。発狂する。
だがもしそうなったら、男子にはそれを指摘するだけの度胸のある奴はいないのか。
朝に箕畑との一件があってから、男どもの視線もかなり感じる。その視線には妬みや嫉みを軽く通り越して殺意が溢れているのは多分気のせいじゃない。それはそうだろう。何せスクールヒエラルキーの最底辺どころか、そこに所属すらしていない、ヒエラルキーの外にぽつんと立っていた俺が急にアホみたいモテだしたのだから。しかしそれなら女子たちが俺の壊した空気を取り繕おうとするのを、それに腹を立てた男どもが阻止することは期待できないものか。それを引き起こすために男どもの苛立ちを煽っておく手はあるかもしれん。うくく、悔しかったらかかってこいや、ブサメン諸君、くらい言っておけばいいか?いやでも、あまり逃げ場の無いところでそんなことをのたまうと、自分の非モテを棚上げして逆上した輩によってリンチの挙句に殺害せられる、なんてことになるかもしれない。そんなことになっては堪らないから、ちゃんと逃げ切れる場面が来るまで、それは保留しよう。そうしよう。
律儀にも名前の他にクラスまで書いてあるラブレターをまとめながら考えを巡らせていると授業が終わったので、俺は女子たちに群がられない内に、それを持ってそそくさと放送室へ向かった。
使えるかどうか訝りながら放送室の前まで来ると、そこで久野先生とすれ違う。
「あ、八代くん、おはよ」
何でもない風を装いつつも言葉の端々に浮き立つ心が透けて見える声を聞いて、俺は瞬時に悟った。
あ、この先生も俺のこと好きなんだな、と。
こう言うといかにも自意識過剰なアホに思えるかもしれないが、状況が状況なので仕方ない。それに今年から新採用の久野先生は、新採用の先生らしく、見るからに面倒そうな俺との接触は避けていたはずだ。今のように廊下で会っても、それがすでに始業後なら特に挨拶もせずにどこか俺から隠れるような感じでいそいそと通り過ぎていた。その様子にはこちらも割と精神的打撃を被った。しかし、それもやむをえまい。教師の鬱は年々増加傾向にあるようだし、逆の立場だったら俺自身絶対こんな生徒とは関わりを持たないだろう。もし話しかけてきたら、恐らく唐突に携帯を取り出して聞こえない振りをしながらやり過ごす。それに比べたら、避けられない時は取りあえず接するようにしている久野先生は偉いと言わざるを得ない。背が小さく、性格に少しズレているところがあって危なっかしい久野先生があわあわしながら、俺と接する様は健気そのものである。こうしたタイプの人を相手に本気で見えない壁を壊そうとすると、マジで辞職と自殺とかえらいことになりそうなので、俺の方でも接点を最小限にするように配慮していたのだ。
それが突然こんな親近感溢れる挨拶をしてくるのだから、これはもう俺に惚れてるとしか思えない。むろん、残念ながら主人公補正の力によってだが。
「おはようございます。あの、先生、放送室使えますかね?」とにかく錯覚みたいな好意なのだから、これを利用しない手はない。
「え?えっと…ど、どうして?」
「どうしても校内の不特定多数に伝えたいことがありまして」
「でも、その、そういうのって勝手には…」
「先生だけが頼りなんです、俺の」俺は手を合わせた。
「そ、それは私だって、生徒のためには出来る限り力になってあげたいですよ。それに…八代くんだし」久野先生は蚊の鳴くような声でぼそりと最後の言葉をつけ足す。
何だか急にアホらしくなってきた。
「俺だから?あ、そっか。先生、俺のこと好きなんですね。なら、余計にお願いしますよ。はっきり言いますと、俺は現状では先生と付き合うことなんてまずないんです。けどもね、ここで放送室を使わせてくれたら確実に先生への好感度は俺の中で上がりますよ。当然。それに俺は別段年上は無理とかも思ってないですからね。だからそうやって好感度を積み重ねていけば先生にだってチャンスは十分にある。あるわけですよ。そりゃね、先生と生徒という立場はありますが、愛の前にはそういう障壁は無力、いやむしろ背徳感が火に油って感じでしょ?俺だってそうですよ。だから先生と俺がそんな燃えるような恋に落ちる可能性はゼロじゃない。でも、何もしなければゼロのままです。当たり前ですよね。好きな人にはアプローチしていかなきゃダメですよ。受け身ではダメ。特に俺と先生みたいにモラルの障壁がある場合は特にそうでしょう。ならばどうやってアプローチするのか?それは色々あります。私はあなたを特別に思ってますよ、ってのが伝えられればいいんですからね。で、今この状況で最も簡単なのが俺に放送室を使う許可をくれることです。それだけで先生の好感度は俺の中でグッと上がる。まあ、それでいきなり付き合いましょうとはなりませんけどね。ははは。人生そんなに甘くはない。でもそれへ向けた確実なステップになる。先生は俺の好感度上げたいでしょう?俺のこと好きなんですもんね。付き合いたいんですもんね。じゃあ、選択肢はないはずだ」
「あの…」
「俺と付き合いたくないんですか?俺に気に入られたくないんですか?俺と愛を育みたくないんですか?俺に嫌われたら絶望しちゃうんじゃないんですか?どうなんですか?」
さすがに辛くなってきた。いくら見えない壁との戦いで鍛えた精神力と言えども、この台詞はきつい。だって痛いもキモいも通り越して、普通に怖い。頭のネジが飛んでるというより、中身の部品が大分足りないレベルである。なにゆえ俺がこんな狂った人間の振りをしなくてはならないのか。
「ほ、放送室の使用を許可します」頬を赤らめた久野先生の目はきらきらと輝いていた。
俺は絶望した。
これだけ調子に乗ったことを上から目線にほざいても俺への好意を消滅させることはできないのか。まあ、いい。今はとにかく放送室を使って、考えを実行に移すことが肝要だ。
「それじゃあ、先生。俺が使っている間、他の先生が止めに入らないように入口を守ってください」
「え、わ、分かりました」
俺は放送室へと入り、早速放送を開始した。
『八代正の気まぐれほーそー。はーい、始まりました、八代正の気まぐれ放送。パーソナリティの八代正です。よろしくお願いしまーす。はい、記念すべき気まぐれ放送一回目です。この放送の主旨はといいますと、この私、八代正がですね、最近色々な方々から手紙をもらうんですよ。そこでせっかくだからそのお便りの内容を紹介しよう、紹介して退屈な休み時間に僅かながらでも刺激を与えよう、ということを目的としております。タイトルの通りこれからも機会があれば気まぐれに放送していきたいと思っている次第でございます。どうかよろしくお願いします』
「久野先生、そこをどいてください!」
「ダメです!ダメなんです!ここだけは」
外から久野先生が放送室へ入ってこようとする他の先生に、必死で立ち向かっている。さすがに罪悪感が湧いてきた。後で頭を撫で撫でしてやろう。
『さっそくお便りの紹介に移りましょう。記念すべき一通目は、二年一組の佐方愛さんからのお便りです。「突然のお便りでごめんなさい」いえいえ。「でも、どうしても八代くんに伝えたいことがあってこの手紙を書きました。よかったら、今日の放課後にプールの横の駐車場に来てもらえませんか」んー、奥ゆかしい。ラブレターなんですかねぇ、これは。だとすれば不思議でなりません。佐方さんと私は出身中学が一緒なんですよ。それで中学一年の時だけ同じクラスだった。それ以降、接点はまったくない。それなのに何で今さらこんな手紙を送って来るのか。やはり何かの罠かもしれませんね。そういうことで、佐方さん。残念ながら約束の場所に行くのは断らせていただきます。私だって死にたくはないですからね。ははは。次は二年三組の山木田葵さん。「八代くん、好きだ」誰だ、お前は。えー、思わず突っ込んでしまいましたが、山木田さん、随分と達筆です。お見せできないのが残念なくらいです。それにしても、この人は一通目の佐方さんよりも接点がない。正直、今の今まで知りませんでしたよ。それがどうしていきなり告白されるのか。私にも分かりません。ということで、好きなのは分かりましたが、こちらはノーコメントということで。三通目は二年七組の…』
その時、凄まじい音を立てて放送室のドアが開いた。ついに久野先生が敗れ去ったらしい。しかし、なだれ込んできたのは先生ではなく、恐らく今朝俺の靴箱にラブレターを突っ込んでいったのであろう女子たちである。彼女らは入るなり黙って、一斉に俺の方へと視線を向けた。
「八代くん、ひどいよ」
一人が口を切ると、全員が口々に喚き立てる。
「ストップ、ストップ」俺は精一杯声を張り上げて言葉の洪水を押し止めた。「はっきり言って俺はなんでそんな非難されなきゃならないのか分からないな。だって手紙の内容を校内放送で流さないでくださいとは書いてなかったしね。そんなの常識で考えれば分かるだろ、とか思うかもしれないけど、俺がそういった常識とか空気を尊重することに対して疑問を持っているのは、今までの俺の行動から分かってるはずだよね?全校集会でもたまにやらかしてるし。つまり、君たちはそれを承知で俺にこんな手紙を渡してきたということになる。そんな得体の知れない相手に手紙を渡しておきながら、それが公開されたからといって、ひどいって言うのはおかしいでしょ。認識が甘いって言い返されても仕方ないよね?勝手な想像に勝手に裏切られているだけだもんね。大体、そうやって君たちが普段から無意識に自分の常識を他人に押し付ける、他人にも自分と同じ感覚を期待する、ということをしているから単に多数派の意見でしかないものが常識として蔓延って、この世の中を我が物顔で跋扈する。すると、どうだい。そこに入れないマイノリティーたちは必然的に非常識のレッテルを貼られて迫害されることになる。そんなことでいいんですか?罪も無いのにそうした、ただ多数派でないだけで迫害を受けているマイノリティーがこの世界には溢れている。そんなことでいいんですか?君たちは揃いも揃って、その悪しき風潮を強めるのに加担している。そんなことでいいんですか?あかんでしょ!それをいいとか主張する奴とは、俺は絶対に付き合わないからね。むしろ、いないものとして扱うよ、そんな奴。君たちは俺のこと好きで好きでしょうがないんでしょ?だったら、そんな悪しき風潮に乗っかってないで、俺に気に入られるためにせいぜい頑張りなよ。まあ、露骨に媚び売られても引くけどね。あはは。ま、とにかく現状ではラブレターくれた子の誰とも付き合う気ないから。だからラブレターの方も持って帰ってね。処理に困るし。ほら」
俺は目の前のラブレターの束を女子たちの方に投げた。便箋の入った封筒が床にバサバサと散った。
演説の内容が回を重ねるごとに理不尽になっていく気がする。だが、ここまでやればさすがに大丈夫だろう。現状、できる限り最低の嫌な奴を演じた。これはもう、人間の屑とかゴミ人間とか言ったら屑とかゴミに失礼なくらい嫌な奴である。俺ならこんな奴と同じ空気を吸うことすら遠慮したい。主人公補正も解けるレベルだったはずだ。
「私、間違ってた…」
一人がそう呟くと私も、私もと女子の集団に相槌が伝播する。
「八代くんが正しいよ」
「うんうん」
「そうだよね」
「自分が差別に加担してたなんてショック」
「ホントー」
「でも、全然気づけなかったよね」
「うん」
「やっぱり、八代くんって頭いいよね」
「勉強ができるとかそういう系じゃないよね」
「何ていうのかな?」
「賢い」
「そう、それ」
「かっこいいなぁ」
いとも容易く俺の期待は崩れ去った。
「あああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁーーーーーーーーーーーーー」
俺は叫びながら女子の集団をかきわけて放送室を後にした。
いくら先生の中にも俺に惚れこんでいる人がいようとも、放送室を勝手に利用したことへの叱責は免れられなかった。しかし、被害者の女子たちが誰一人文句を言わないどころか俺の擁護に回った上、幾人かの先生もそれを助太刀したので、あれだけのことをしていながら放課後に職員用男子トイレの清掃だけという、例外的に軽い罰で済んだ。
だから俺は今こうしてトイレ掃除をしているのだが、これが思った以上の弊害を生んだ。何かというと、女子から逃げる機会を逸したのである。
いわゆる肉食系と言われる異性へのアプローチに積極的な女子どもが、俺が掃除している間にこの男子トイレの入口を固めてしまったようなのだ。窓の外からも声は聞こえてくる。一体どうやって逃げたものか…って、モテるようになった途端、俺はなにゆえこんなに多くの悩みを抱えているのだろうか。モテる男はつらいよ、などと言うが、そんな生半な事態ではない。マジで地獄である。悔しいが、誰とも付き合ってはならないという制約が見事に俺を苦しめているのだ。ああ、くそう。何が、神だ。この若年無業者がっ。
胸の内で痛罵しながら八つ当たり気味にモップを掃除用具入れに突っ込んだが、例の神が若年なのかは知らない。でも羽月の言ったような惨状で若年でなかったら、正直目も当てられぬくらい悲惨である。などと脱線しつつも、トイレからの脱出方法について思い悩んでいると、誰もいないはずのトイレの奥からガタっと音がした。
驚いて音の方を振り返ると、三番目の個室からぬっと青白い肌でヒョロヒョロした体つきの男が姿を現した。制服を着ているところを見ると、どうやらこの大原高校の生徒らしい。
「あ、いたいた。やっと会えました」
トイレに住みついた地縛霊かと思われたその男は口を開いて、普通にしゃべりだした。
「何だ、お前は…」
「そんなに怖がらないでくださいよ。一年の光輝照明です。八代さんの後輩なんですから」
「人間…なのか?」割と真面目に疑問だった。
「ひどいなもう」
その男は生徒手帳をこっちに差し出した。受け取って見てみると、確かに『県立大原高等学校 一年四組 光輝照明』と書いてある。
「なんかピッカピッカした名前だな」
「クラスメートにはテルという愛称で呼ばれてません」
「ないんかい」
「ええ、僕はぼっちですから。愛称どころか普通に名前を呼んでくれる人間もいません。八代さんと同じく」
「随分と淡々と辛そうなことを話すな…って、誰がぼっちだ」まあ、そうだけど。「大体何で俺の名前を知ってるんだよ」
「そりゃあ、あんな校内放送すれば誰だって覚えますよ」
「でも、俺の顔を知っていたわけじゃないだろう?」
「それはあれです。僕は昨日から、あなたをずっと探してましたから。こう見えて情報収集は得意なんです。幸いインターネットが発達したおかげで、今は友人や知人を持たなくても情報を集めることが可能ですからねぇ。それで八代さんを見つけた後は話しかけるチャンスを窺っていたというわけです」光輝はぐふふと笑う。
まったくなんと気味の悪い奴であろうか。思わず半歩後退しながら俺はハッとした。
もしかしてこいつはホモなのか?そして、主人公補正の力は女ばかりではなくホモにも有効だということなのか?
「大丈夫ですよ。僕はあなたの尻の穴なんて汚い物は狙ってません」俺の気持ちを読んだかのように光輝は言う。
妙に馴れ馴れしいというか、舐められているのは気のせいか?
「お前ね、先輩の尻の穴に向かって汚いとはなんだよ、汚いとは」
「それじゃあ、あなたの麗しい尻の穴なんて狙ってませんよ」
「なんか、すっげぇ狙ってるように聞こえるからやめろ」
「そうですか。まあ、僕が探していたのはお礼と勧誘のためなんです。僕と先輩は一度校外で会っているんですよ。覚えてませんか?」
可愛い女の子ならまだしも、こんなヒョロヒョロと肌の青白い、見ているだけでこちらまで不健康になりそうな男との遭遇を一々記憶に留めておくわけがない。
「知らん」
「昨日のことなんだけどなぁ。あなた、僕を助けてくれたじゃないですか。三人の不良女子高生に絡まれているところを」
「あ、ああ…」あいつか。別に助けたわけじゃないが、そう思ってるなら思わせておけばいいか。「なるほどね、あの時の」
「そうです、そうです。僕は目の前の女子高生の下着の中にドロドロになったプリンを流し込むあなたを見て思いましたね。ああ、この人は頭のネジが飛んでるんじゃないか、と」
「おい、助けてもらっておいて何だその言い草は」別に助けたわけじゃないが。
「そして今日の放送を聞いて確信しました」光輝は俺の言葉を無視して続ける。「こいつはネジが飛んでるどころか、脳みそが壊滅的に狂っているな、と」光輝は天井を見上げ、うっとりとした表情で俺をバカにした。
こいつ、どついたろかと思ったら光輝は急にこちらへ向き直る。
「あなたこそ我が陰険部に必要な人材です。是非とも入部してください」
「嫌だね。どうして狂ってるとか言われておきながら、素直にお前の言うことを聞かなくちゃならないんだよ」
「それは褒め言葉です」
「それに大体なんだよ、陰険部って」
「部室に来ていただければ、説明しますよ」
「そんな手にはのるか」
「今、ここから脱出できずに困ってますよね?」
「ぐう…」光輝の鋭い指摘に、俺は言葉に詰まる。
「付いて来ていただければ、ここから外の女どもにバレずに脱出できますよ。それにまあ、入部の件も今日中に答えを出さなくてもいいですから」
「本当か?」
「嘘なんか吐きませんよ。あなたは僕の尊敬する先輩なんですから」
その割には些かも敬意を感じられない。しかし、またも女子たちを相手にするのは考えただけでも疲れる。取りあえず、こいつの言う脱出方法を試してみてもいいか。
「分かった。案内しろ」
「ぐふふ、ありがとうございます。こっちです」
薄気味悪い笑みを浮かべてから、光輝は自分が出てきた一番奥の個室へと入っていく。
「おい、どこ行くんだ?」
「こっちなんですよ」
訝りながら付いていくと、光輝は個室の壁のタイルの一つを押し込んだ。タイルは簡単にガコっと音を立ててへこみ、なんとそのまま壁が開いた。個室のドアと同じぐらいのサイズの隠し扉だ。その扉の向こうは人二人がやっと入れるくらいの空間しかないが、下を見ると穴が穿たれていて、その穴に梯子が取り付けられている。
俺は唖然としてその光景を眺めた。
「さ、行きますよ」
「な、なな、何なんだよ、ここ」
「部室です。詳細は後ほど」
光輝はそれだけ言うと梯子を下りていく。仕方なく俺も続いた。
「あ、扉は閉めて下さいよ」
「ああ」
言われるままに隠し扉を閉めると、一瞬何も見えない真っ暗闇になったが、すぐに設置された照明が点いた。電気もちゃんと通っているらしい。一体何のためにこんな場所があるのか。注意深く下りていくと、さほど行かない内に梯子が途切れ、地面についた。目の前には重そうな金属の扉がある。そこに場違いな雰囲気で貼りつけられた大学ノートの切れ端にはこうあった。
『陰険部 部室』
「陰険部へようこそ」
光輝が開いた扉はギーっと不気味な音を立てて軋んだ。
陰険部とは何か?
陰険部とはその名の通り、陰険な男たちが夜な夜な、ではなく放課後、薄暗い部室に集まって陰々滅々、他人の悪口陰口に花を咲かせて、ひたすら部員以外の人間のネガティブキャンペーンを繰り広げる、不毛な部活動である。しかし、キャンペーンと言っても相手は部員だけなので意味はほとんどない。というか、現状部員は光輝一人だけであり、はっきり言って部の存在意味はまったくない。精神的湿度ばかりがジメジメと無暗に高く、心の不快指数は部活動の紹介だけで振り切れんばかりに高くなる。なにゆえ、こんな部活があるのか。なにゆえ、自宅にこもってネット空間相手にやっていればいいことが部活動として存在できているのか。
それは別に公式な部活動ではないからである。そう、つまりこの陰険部とは光輝が勝手に作り、部活を自称しているだけの集まり、いや一人しかいないから集まりですらない、何かなのであった。
活動内容の紹介がそのまま自分のネガティブキャンペーンになるような話である。一体、誰が好き好んでこんな陰湿で不毛な活動に従事するというのか。俺は普通に嫌である。
「誰が入るかよ。ていうか、そんなものに所属したがる人間はいないだろ。仲間が欲しいならまずは変えていくべきところがあるんじゃないか。むしろ、変えていくべきところしかないんじゃないか」
光輝の話を聞いた俺は言下に拒絶した。
「僕は何も積極的に仲間集めに走っているわけではありません。そんなキョロ充みたいなことはしませんよ。我が陰険部に必要な人材を探しているだけです。そして八代さん、あなたは陰険部に入るために生まれて来たような逸材ですよ。是非是非、我が陰険部に」
そんなことを言われても罵倒されているようにしか思えないし、そもそも陰険な活動をするために生まれて来たような人間を、世間では逸材とは呼ばない。
「そんな陰険な人間じゃねーよ、俺は」力を抜いて座っていたソファにもたれる。「にしても、この部屋は何なんだよ」
改めて見回すと、ソファとテーブル、デスクにパソコンに本棚、冷蔵庫まで完備してあり、完全に秘密基地といった趣だ。コンクリートむき出しの壁が余計にそんな雰囲気を助長している。
「陰険部の部室です」
「いやいや、何でこんなとこがあるんだって訊いてるんだよ」
「ここは、いわゆる隠し部屋ですね。大原高校を建てる時に設計や工事に携わった人たちがとても遊び心のある人たちで、勝手にこんな設計図にない部屋を作ったりしたという噂を聞きました。まあ、真偽は分かりませんが。あるいはもしもの時のための避難所とかかもしれませんね。ここの他にももしかしたら隠し部屋があるかもしれませんよ。でも、そんなあるかないか分からない部屋を探すよりは、陰険部に入ってこの部屋を使い放題に使う方があなたにとって楽だし賢明です」
「何だ、それ…何で設計者たちはそんなアホなことをしたんだよ?」
「アホだからでしょうな」
「それじゃあ、先生たちもここのことは知らないのか?」
「はい、もちろん」
「じゃあ、なんでお前が知ってるんだ?」
「だから言ってるでしょう。情報収集は得意なんです」光輝は相変わらず不気味な笑みを浮かべる。「それより、話を逸らさないでくださいよ。どうなんです?入部していただければこの部屋は使い放題ですよ」
「うるさい奴だな。なんでそんな俺にこだわる?」
「あなたが素晴らしい人材だからです」
「だから、何で俺が素晴らしい人材なんだよ」
「それは簡単なことです。僕の調べたところ、あなたはどうやら中学二年の時に教室でウンコを漏らして以来、心が荒みきって対人関係が思わしくなくなっている。どれくらい思わしくないかと言うと、それまでの友達は一人残らずあなた元を離れ、新たに近づこうと考える人がまったくいないどころか、学校で札付きの不良でさえ関わるまいとして道で会ったら目を逸らすくらいだ。それが突然、これはもう本当にまったくの突然、恐らく昨日か今日からですね、とてつもなく女子にモテるようになった。何もどうやってモテるようになったのか問い質そうなんて思ってませんよ。僕にとって重要なのはここからです。そうやって唐突に、今まで孤独だったあなたの前に友愛というよりは愛情のこもった表情で女子が殺到してきたのに、あなたはその一切を撥ねつけた。まったく気違いみたいな理屈を吐き散らしながら。僕は感動しました。危うく初めて感動で泣くところでした。そして思ったんです。この人はよほど頭が狂っているのか、徹底的にこの世の中というものと対立しているのかどちらかだろうと。僕は後者だと思いましたね。だから、あなたは素晴らしい人材なんです」
やや光輝の思い違いはあるものの、俺は自分の経歴がたった一日でここまで正確にプロファイリングされているという事実に驚愕した。
「何で、お前、そんなこと知ってるんだよ…」
「僕の情報収集能力を舐めないでください」
光輝がそう言った瞬間、俺は何故こいつがぼっちなのか理解した。
こんな気味の悪い奴とは友達にもなりたくないし、かといって敵に回したくもない。無関係でいるのが一番である。恐らく、この男と同じクラスになった者どもは全身全霊をかけてこいつの視界から消えるように努力しているだろうことは想像に難くない。
「徹頭徹尾この世の中を憎悪するその姿勢が実に素晴らしい。あなたが陰険部に入ってくれれば、これまで陰険に愚痴を言うだけだった活動も、陰険に他人を追い詰める行動派へと変わっていけるんです」
光輝は熱心に訴えてくるが、言うまでもなく行動派になったら、ただただ周囲へ自分たちが陰険だという認識を広めるだけである。
「行動って、具体的に何するんだよ?」
「候補はたくさんありますが、それはですね、まずさしあたり八代さんができるだけ多くの女に今夜六時ごろ駅前のバスロータリーに、全裸で来てくれるように約束する」
「誰もそんな約束しねぇよ」
「いいや。僕が今日観察した様子だと、あの女たちははっきり言って、八代さんの言うことなら何でも聞きますね。彼女たちに対してなら、あなたは独裁国家の最高権力者同然に振舞えるはずです」
「まさか」とは言ってみたものの、正直今日一日の俺の印象もそんな感じであった。
「そうして女子ども呼びつけておいて、八代さんは時間になったら警察に通報する。そして、女子どもが警察に補導される様を遠くから見物して楽しむんです」
「お前なぁ…」名前はピカピカと光り輝いているくせに、心の方は一片の光沢もないくらいにどす黒く汚れきっている奴だ。「なんでそんな陰険なことを」
「陰険部ですから」ぐふふ、と光輝は笑う。
「まあ、やらないけどな」
「あー、ひどい。そうやって人の趣味を暴露させておいて、協力しないんですか」
「知らねぇよ。ていうか、暴露するまでもなく透けて見えてるけどな、お前の趣味とか」
「なかなかひどいこと仰る。まあ、でもいいです。入部期限は特に設けてませんから」
「入らねぇっつってんだろーが。それで、ここからどうやって女どもにバレないように脱出するんだよ」
「そちらの扉です」光輝は俺の背後を指さす。「その扉を出て道なりに進むと梯子があるので、それを登れば駐輪場の端っこに出ます。くれぐれもここのことは内密に」
「ああ、ピンチの時の逃げ場所がないと俺も困るからな」言いながら立ち上がり、ソファを回りこんで背後の扉の取っ手を掴む。
「何言ってるんですか。この部屋を使うなら入部してくださいよ」
「じゃあな」
「ちょっと」
俺はそれ以上光輝に何も言わせない内に扉を開けて外に出、ガタンと閉めた。
三メートル間隔くらいで照明の設置された、割に明るい通路を行くと、すぐに梯子が見えてきた。その梯子をよじ登って頂上の金属板を押し上げる。するとそこは立体駐輪場の一階の隅だった。誰もが出入り口になるべく近い場所に駐輪したがるからほとんど人目に触れることはないとはいえ、よくも今まで誰も気づかなかったものである。
駐輪場から正面玄関の方を見遣ると、数人の女子たちが俺の出てくるのを今か今かと待っている。ははは、おもろ。
気分軽やかに自転車を引いて駐輪場を出ようとした途端、不意に目の前に人が飛び出してきた。
「うおっ」
「あっ、すいません…って、八代くんか」
箕畑だった。
「ラッキー。ねぇ、一緒に帰ろう。八代くん」
「バカ、声がでかい」
しかし時すでに遅く、正面玄関脇にいた女たちは怒涛の如き勢いでこちらへ向かって来ていた。
「八代くーん」「この後、暇―?」「アドレス教えてよー」「八代くん、八代くん」「カラオケ行かない?」「今度の体育のテニス、ミックスのペア組んでくれないかな」
女の子の黄色い声がどっと押し寄せてきているのに、微塵も嬉しくない。俺は即座に逃げる手立てを考えた。
「あ、やっべ、教室の机の中に弁当箱忘れてきちゃったよ。俺ちょっと取りに戻らなくちゃならないから」
「ああ、それなら私、全然待ってるから」「大丈夫、大丈夫」「ゆっくり行って来て」「むしろ一緒に行こうか?」「そうしよ、そうしよ」「大した距離じゃないんだし」
女どもは口々に甚だうざったい好意を表明する。
「ふーん、なるほどね。誰も自分が取りに行くっていう発想は無いんだ。ああ、別に気にしなくていいよ。ただ、ちなみに言っておくとね、俺の好きなタイプは尽くしてくれる女の子なんだよね。いや、別に弁当箱を取りに行ってくれって言ってるわけじゃないよ。言ってるわけじゃないけど、まあ、ここで取りに行きますって言ってくれたら、うん、その子に対する俺の好感度は上がるよね、当然。まあまあ、でもどういう行動を取るのかっていうのは完全に個人の自由なわけだし、俺は弁当箱を取りに行けって命令できる立場じゃないし、そういう他意もないんだけどさ。好感度上がるって言っても、それですぐ付き合いたいとかなるわけじゃないしね。まあ、取りに行ってくれない子よりは確実に付き合う確率は高いけどね。まま、取りあえずここにいる人たちはそういう感じなのね。オッケー、分かった、分かった。別に他意はないよ?ないけど、取りあえずそう理解しておくわ」
「ああ、でも待ってようかと思ったけど、やっぱり私が取りに行くね」「私が行くよ」「何言ってんの。私は最初から取りに行こうとしてたんだけど」「私も、私も」「誘ってるこっちだし、悪いからね」「そうそう」
アホか、こいつら。チョロ過ぎだろ。
「そっか。それならちょっと面白くしようか。全員で競争して制限時間内に俺の弁当箱を持ってきた人の言うことを出来る限りで、何でもきくよ。はい、よーいどん」
直前まで何か言いたそうにしていた女子も、俺がスタートの合図をすると同時に猛然と昇降口目指して走り出した。箕畑を含めた全員が行ってしまい、一人になった俺はすぐさま自転車をこいで校門から滑り出た。制限時間終了である。というか、最初から教室に俺の弁当箱などない。
ざまあみろ、アホどもめ。
高笑いしながら悠々と自転車をこぎたいところだったが、追いつかれたら洒落にならないので、こっちもまるで競争に参加しているかのように必死で自転車をこいだ。