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 翌朝、俺は部屋で一人静かに目を覚ました。姉貴や妹が俺を起こしに部屋へと来る、なんてことはなかった。もしかしたらお互いがけん制し合っているのかもしれない。とにかく、これからはなるべく家にいる時間を短縮していく必要がありそうだ。ははは。自分の家、なのに。

 そんなことを考えながら着替えて顔を洗い、リビングへ行くと姉貴以外は全員揃っていた。姉貴だけはまだ部屋で寝ているみたいだ。母親が新聞を読みながら「まあ」とか「この人も……」などと呟いている。昨日から様子を見るに母親には何故か、主人公補正の力が及んでいないらしく、それは本当に、マジで本当に、良かったと俺は心から安堵した。神に感謝したい。そんなことを思いかけたが、すぐにこうなったのは全て神のせいであることを思い出してむしろ腹が立ってきた。

「何驚いてるの?」優里がトーストを齧りながら母親に訊ねる。

「なんかね、有名人がたくさん離婚するみたいなの」

 母親が机の上に広げた新聞を覗き込むと、『有名人たちに離婚の波!?』と書かれた見出しの下に、まるで参院選の当選者リストのように細かい字でびっしりと破局を迎えた有名人カップルの名が列記されている。そのあまりの多さに、記事はリストだけに終始していて文章は一行たりとも書かれていないという、訳の分からない代物になっていた。

「おお、ニュースにもなってるな」親父がテレビを見ながら言った。

『……破局を迎えたカップルはいずれも女性の側から関係の解消を求めたらしく、いきなりのことに困惑する男性が後を絶たないそうです』

 キャスターがそう言うと画面が有名なハリウッド女優のインタビューに切り替わる。

『先日も仲良く休日を過ごしているところをパパラッチに撮影された写真が週刊誌に掲載されていましたが、どうして突然離婚ということになってしまったのでしょうか?』

『正直、そんなプライベートな質問に答える義務は無いと思いますが、まあ、いいでしょう。驚くかもしれませんが、私は今、自分が会ったことも、見たこともない人に恋をしているのです』

『それは、もしかして作家や絵描きの方で、その作品に惹かれたということでしょうか?』

『違うわ。彼に関するいかなるものにも私は触れたことがない。手掛かりは何もない。ふふふ、正気かって思ったでしょう?そんなの恋のしようがないって。だけど、事実そうなのだから仕方ないわ。私だって自分の気持ちを把握しきれてないんだから。手掛かりは無いって言ったけど、名前の響きなら漠然としたイメージがあるの。これも根拠のない勘に過ぎないんだけどね。こんな感じの名前だと思うのよ。た、だ、し』

「ぶはっ」心のどこかで予想はしていたが、堪え切れずに思わず牛乳を噴き出してしまった。どうやら本格的にあかんことになっているらしい。一目惚れならまだしも、会ったこともない女まですでに攻略済みとか、何の冗談だ。すでにほとんどの女は俺に惚れているということか。俺は唐突に現状が空恐ろしくなってきた。

『それでは、アメリカ人ではないのですね?』

『ええ。これも漠然とではあるけど、日本人だと思うの』

「あら、すごい偶然ね。正、逆玉に乗ったらどう?」

 母親の冗談を受け止める余裕もなく、俺は食器を流しへ持って行ってからカバンをひっつかんだ。

「行ってきます」

 玄関で靴を履いていると、優里が「お兄ちゃん、待って。私も一緒に行く」と追いかけてくる。

「一緒に行くって、お前、玄関出たら逆方向だろ」

「だから、その、玄関の外まで……」優里は俯いてもじもじと手を合わせている。「もし、あれだったら、ちょっとくらい遠回りしても」

 ピンポーン。

 そんなアホな考えは止めておけと優里を諭そうとした瞬間、インターホンが鳴った。こんな朝っぱらから誰だろうかと訝りながらそのまま玄関の戸を開けると、女子高生が立っていた。

「あ……その、おはよ」

 海野ほのかだった。嫌な予感がまたどっと押し寄せてきた。

 海野ほのかは俺の家の近くに住み、幼いころはよく一緒に遊んだりしていた、いわば幼馴染というやつである。男と女の幼馴染など小学校高学年くらいにもなれば、性差に対する心境の変化から次第に疎遠になっていくものであるが、ほのかはそうしたことにはあまりこだわらず、俺の方でもあまり拘泥しなかったため、中学入学後もよく会って話したり、暇な時には遊びに行ったりもした。つまり良好な幼馴染関係を築いていたのである。俺がウンコを漏らすまでは。そう、すでに予想していたと思うが、俺とほのかが疎遠になった原因は成長とともに訪れる性差に対する心境の変化ではなく、俺が学校でウンコを漏らしたことだった。姉や妹と違い、こちらのケースは俺がほのかに配慮して避けるまでもなく、むこうの方から全力で避けてきた気がする。まあ、同じ中学校の同じ学年なら、定石通りの対応と言えよう。

 それがこうして小学校以来、絶えて久しい朝のお迎えをしてきたとなると、それはもう、主人公補正のせいに他ならない。俺はげんなりした。

「おはよ。てか、久しぶりだな。どうしたんだ?めずらしい」

「いや、その……一緒に学校行こうかなって思って。ほら、私、江南だから大原とはほとんど通学路一緒じゃん?」

「ほのかさん、どうしたんですか?急に」優里の声はごく普通の調子だったが、端々に敵意が見え隠れするのは俺の気のせいか。怖い。

「あ、優里ちゃん、久しぶり。まあ、あれよ、気まぐれってやつかな」

「へぇ、そうですか」

「そうそう。そうなの」

「ははは」

「ふふふ」

「お、おし。じゃあ、取りあえず行くか」一触即発の空気になりそうだったので、俺は即座に二人の会話を終わらせ、仕方なしにほのかと通学することにした。優里は不満そうだったが、抵抗する余地がないと思ったのか、何も言わなかった。

 ほのかと自転車で並走しながら通学路へこぎ出すと、懐かしさを通り越して違和感しか覚えない。まったくなにゆえこんなことになってしまったのか。いや、理由ははっきりしているのだが、そう嘆かずにはいられない。一体、誰の責任なのか!

「た、正は大原、どうなの?」大変人間関係のブランクを感じさせるどもり口調でほのかは話し出した。

「どうって?」

「いや、だから、その……学校生活とか」

「別にどうってことはねぇよ。俺は友達の一人さえもいないからな」

「え、本当?」

「何で目が輝いてるんだよ」

「そ、そんなことない。でも、それじゃあ、彼女とかもいない?」

「いねぇよ」

「へーそうなんだ」ほのかは、ふふん、と露骨に嬉しそうな笑いをもらす。

 ほのかはそれだけ聞くと、昨日の姉貴や優里みたいに迫ってきたりはせず、話題は互いの学校の事など、当たり障りのない方向へ移っていった。

 それにしても何という茶番だろうか。普通なら『お、こいつ俺に気があるのかな?むふふ』みたいな、ドキドキニヤニヤの会話も、相手がこっちのことを好きだという前提つきで聞いてみると、そのアホらしさに悲しくなってくる。さらにその好意がまったく本心とは違う不可思議な力によって生じたものなのだからもはや喜劇である。『俺のこと好きなの?ウンコを漏らした奴を好きになるなんて、いい趣味してんな』みたいな無茶苦茶を言って空気を乱してやる気力すらなくなる。

 バカらしさを募らせながらも、ようやくほのかと別れる交差点まで来た。

「じゃ、私こっちだから」

「おう」

「あのさ、明日も一緒に登校しない?」

「お前ね、こんな名実ともにクソ野郎な人間と関わってるとロクなことないぞ」一体俺は、この先どれほど自分のネガティブキャンペーンをしなくてはならないのだろうか。

「まだあのこと気にしてるの?そんな心配は御無用。じゃ、またねー」

 交差点を渡って去っていくほのかを見送ると、取りあえず一人になれたことに安堵のため息が出た。どうにか対策を考えないとまずい。そう考えながら大原高校の方へ自転車を走らせようとした途端、目の前にさっと横から一台の自転車が走り込んできた。

「あ、八代くん、おはよ」

 栄原秋子だった。いい加減、俺はブチ切れそうになった。

 栄原秋子は大原高校の二年五組で俺のクラスメートである。出身中学も同じ浜岳中学校であり、中学時代は一年、二年と同じクラスだった。しかし何度か話したことがあるくらいで別段そんなに仲良くはなく、ウンコを漏らして以来接点は無いと言っても問題無いくらい小さなものとなっていた。現在同じクラスにいる尾伊田聡子、椎野幸子とグループを形成しており、俺の中では栄原秋子→『えい』はらあき『こ』→A子、尾伊田聡子→『びい』ださと『こ』→B子、椎野幸子→『しい』のさち『こ』→C子となっていて、もはや完全にモブキャラである。ひどいと思うかもしれないが、事実俺の人生においてはモブキャラに等しいくらい接点が無いのだ。向こうから見た俺だって同じはず。

 それがこうもぬけぬけと通学路で話しかけてくるとは。別に異性に対して人並みには興味があるのだからモテること自体には何ら問題はない。というか嬉しい。しかし、こうも手のひらを返したような接し方には何だか無性に腹が立つ。むろん、主人公補正という不可思議な力が働いているのだからそんなことを言っても仕方ないのだが、どうも思っていたのと違う。モテているのにちっとも嬉しくない。こんなはずではなかった。一体何がどうしたのか。

「八代くん、数学の宿題やってきた?」

「あ、忘れたわ」

「うわ、金本先生は怖いよー」

「指されないことを祈るよ」

 なんだ、この普通の会話。このありふれた空気。相手は昨日までB子やC子に『八代ってウチのクラスにいるじゃん?あいつ中学二年の時教室でウンコ漏らしたんだよ』『うっそー。マジで?きっもーい』『そうなんだ。なんか臭いと思ってたんだよね。四年前のウンコまだケツに付いてんじゃないの?あはは』みたいな会話をしていたかもしれないんだぞ。いや、もちろん俺の邪推だという可能性もあるけどね。だけど、腹の内では間違いなくそんなことを思っているのに、思ってるはずなのに、こうして話しかけてくる。見えない壁越しに平然と……

 そうだ、それだ!疎遠でいる内は見えない壁があろうと関係ないが、仲良くなろうとするんだったら見えない壁を壊し、乗り越えてこなくてはいけないはずではないか。それをばせずに壁の向こうから、見えない壁が見えないのをいいことに壁に気づいていない振りをして話しかけてくるのが癪なのだ。つまり俺の失態を知るA子が俺に話しかけるのなら『あ、ウンコ八代じゃん。おはよ。教室でウンコ漏らした奴なんかと仲良くしてると私まで疎外されかねないから今まで話しかけないようにしてたんだけど、何か昨日からどうもあんたのこと好きになったみたいなんだよね。なんでだろ。教室でウンコ漏らすようなキモい奴なのに。不思議だわぁ。ホント人間、自分のことを一番分かってるようで一番分かってないのかもね。ははは。ウンコ漏らした奴にこんなこと言っても分かんないか。まあ、そういうわけで久しぶりに話しかけてみましたー。ちーっす。おほほ』って感じになるはずだろう。まあ、そんなこと言ったら女でもマジで顔面をグーで殴るけどね。でも、そうやって殴り合って今までのわだかまりを一度すっかり解消して、チャラにしてからが本番でしょう。そうしてからじゃないと本当の関係なんて作れないでしょう。なのに、それをしない。だから、俺の方にはモテどもモテども違和感が募るばかりなのだ。

 俺ははっきりと悟った。

 やはり俺は見えない壁と戦わねばならぬのだ。そういう宿命なのだ。決して無意味な戦いではないのだ。

「見せてあげよっか?数学の宿題」

 ここでこの壁と戦わずしてどうするんですか?そんなことでいいんですか?

 俺は自分に対して詰問した。

 そして答えはすでに出ていた。

「何で見せてくれるの?」

「それは、同じクラスだし、中学も同じだったし、そのよしみってことで」

「いや、でも俺と栄原さんってほとんど接点ないよね?大体ほとんど話したことすらないし。何かいきなり親切にするのって変じゃない?ていうか、正直ちょっと気味悪いな。理由の不明瞭な親切は。こう言うといかにも猜疑心の塊で心の狭い奴って思うかもしれないけど、世の中ってそういうものじゃん?タダより高いものは無いって言うし、汝の隣人を愛せって説いている宗教の信者が右の頬を殴られたら銃をぶっ放す世界だし、ボランティアだって進学や就職のためにやる人間がいるくらいだからね。もちろん、そんなどす黒くドロドロに汚れきった人間社会の中で自分だけは無私無欲に人を助けて回り、この世界に射す一条の光となるんだっていう気概で宿題の答えを丸写しする許可を出してくれているというのなら、その行為を俺は決して否定しないよ。むしろ応援する。そして喜んでその好意にあずからせてもらう。だけど、それならそうと言ってほしいところだね。そこのところ実際はどうなの?」

 あんまり長く話し過ぎたために青になった信号が再び赤になっていた。

「いや……そんな大層なことは考えてないけど……」

「それならどうしていきなり宿題を見せてあげようなんて言い出したのかな?まったくの赤の他人と言っていい俺に。そう、俺と栄原さんははっきり言って他人だよね。同じクラスだからクラスメートなんて遠まわしな言い方ができるけど。そもそも、今ここで話しかけてきたことがすでに意外だったなぁ。だって割と通学路で見かけてるけど話しかけてきたことないしね。何なんだろう?ますます怪しく思えてくるよ。どんな見返りを求めているのか気になってしょうがない」

「な、なんでそんなこと気にするの?私はただ……意味分かんない」好意を抱いている人間に気味悪がられたせいか、A子の声は震えている。

「だから今説明しただろう?気味悪いからだよ。理由なき親切が。そりゃあ、俺だって本当はそういうことを考えずに、『困っている人を見たら助ける。それが人としての常識さ』みたいな風に生きたいよ。だけど世の中かがね、この世知辛い世の中が疑心暗鬼を強いてくるんだよ。仕方ないことじゃないか」

「意味、分かん、ないよ……」

 A子は小さくしゃくり上げながら切れ切れに言った。目尻から涙が伝う。

 しまった、言い過ぎたか。などと俺が思うと思ったら大間違いである。こちとら見えない壁と戦い続けて早三年。一体、いくつの修羅場をくぐりぬけてきたことやら。やることがやることなので味方などは一人としていたことはなく、オールウェイズ四面楚歌である。常にランボー状態である。むしろ、俺という存在があったためにその他の人たちが通常では考えられないくらい一致団結していたかもしれないくらいだ。そんな人間が目の前で女が一人泣いたくらいで動揺し、自説を曲げ、場の空気を取持とうとするだろうか。否である。そもそもその空気とやらを破壊するのが俺の使命だ。女の涙など寸毫も俺の心には響かない。

 そんなことでいいんですか?

 知るか、アホ。

 俺は湧きかけた自問を黙らせた。

「私は、ただ、八代くんと、もう少し近づけたらなって、思っただけなのに……」

「あー、俺のこと好きなのね。なるほどね。あー、はい、はい。了解、了解。オッケー。分かった、分かりましたー。そういうことだったのね。正直、俺のどこに惚れる要素があるのか分からないけど、まあ恋に理由を求める方が野暮だよね。そういうもんだもんね、恋って。恋は盲目、恋は不条理、恋は闇。なるほど、なるほど。それでこれをきっかけに近づこうとしたわけだ。うーんとね、結論から言っちゃうと、俺は今の栄原さんと付き合う気はないかな。だって、そうでしょ?昨日まで、というより、今の今まで他人だった訳だし。一目惚れってのも存在するけど、俺が栄原さんにそうなることはないかな。ていうか全然初見じゃないしね。でもまあ、そういうことだったら、うん、宿題写させてくれたら好感度は上がるよ。それで、じゃあはい、付き合いましょうってことにはならないけど、ああ助かったな、って思うしね。ええ人だなって印象になるしね。今度も宿題写させてもらおっかなってなるしね。そういうことを積み重ねていけば俺が栄原さんのことを好きになる可能性は十分にあるよ。都合のいい女になる可能性もあるけど。でもまあだから、そういう意味では今ここで付き合う気は無いっていうのは、全然失恋じゃないかな。挽回の余地はあるし。そんな感じだけど、どう?宿題は写させてくれる?」

 A子は呆然とした顔でこっちを見ていた。俺は見えない壁に対して一撃を入れたという、確かな手ごたえを感じた。

 もう何回見送ったか分からなかったが、ちょうどその時、前の信号が青になった。

「あ、やべぇ。遅刻しちゃうよ。すまん、俺的には急にベタベタされるの嫌だから一緒には登校できないわ。じゃ、見せてくれる気があったら教室で見せてね」

 俺はA子を置き去りにして猛然と自転車をこぎ出し、自分でも清々しくなるほど完璧にクソ野郎を演じ切った。


 最高だ。最高過ぎる。

 学校の駐輪場に自転車を滑り込ませてから昇降口へ向かう道すがら、俺はスキップしようとする足を抑えつけるのに苦労した。

 初めてまともに見えない壁への一撃を入れた気がする。思えば今まで見えない壁と戦うと言いながらも、その戦い方は大勢が作る空気を攻撃するという極めて限定的なものだった。何故そんなことになっていたかというと、誰も俺に話しかけてこなかったからである。しかし、本来俺が壊すべき壁はこうした一対一、あるいは複数でも普通に双方向のコミュニケーションがある状況の壁であり、全校集会やホームルームなどの空気を壊すというのはやはり少しズレている。しかし、これからはこの主人公補正のおかげでモテまくるのだから、存分に本来戦うべき壁と戦うことができるのだ。

 だが、A子はあれだけ言われてもやはり俺のことを好きだと言ってくるのだろうか…ま、いっか。

 意気揚揚と昇降口に入り自分の靴箱を開けると、中から滝のようにバサバサと封筒が流れ出してきた。どれもこれもパステルカラーの可愛らしい封筒であり、一見してラブレターと分かる体裁である。

 なにゆえ、こんな古風な手段なのか?

 俺は訝ったが、すぐに誰も俺の携帯のアドレスを知らないからだということに気がついた。適当に中身を開けて確認をしていくと、大半が放課後にどこどこへ来て下さいという呼び出しであった。行けるはずがなかった。ダブルブッキングどころか、ハンドレットブッキングくらいであった。誰一人として靴箱に入れる時にそのことに気づかなかったのだろうか。それとも気づいてなお、自分のところへ俺が来てくれるという自信があるのだろうか。しかし、俺にとっては、ラブレターの数はそのまま壊すべき壁の数である。

 取りあえず、自分のクラスの奴らに絞って先に開封していくと、強烈なものが出てきた。

『八代正 

 それはわたしの 理性を狂わせる魔法の言葉

 それはわたしの ハートを貫く刃

 恋い焦がれ 狂おしく この身はもうあなたの虜

 猛る思いを携えて わたしは待つ

 責務から解放されたその足で 英知の館へと向かい

 わたしは待つ

 あなたを

 あなただけを

                    箕畑怜香』

 強烈過ぎて笑えなかった。

 そしてポエムはポエムで強烈なのだが、何より激烈だったのは差し出し人である。

 箕畑怜香。彼女は二年にして我が校の女子バスケ部のキャプテンを務めるバリバリのスポーツウーマンである。勝気な性格で、男勝りを絵に描いたような気の強い女である上に容姿も端麗ときているから、時折自分では気づかずに気の弱い男を蹴散らしている。そんな箕畑怜香も俺の奇行に口を挟んだことは一度としてなかった。恐らく変に口を出して周囲から同類だと思われるのが嫌だったのだろう。俺は定石通りこいつからも避けられていた。まあ、それはさておき、そんな強気で体育会系の女がこんなポエムを書いて寄こすとは、正に激烈なギャップである。ギャップが激しすぎて、ほほ、かわいいとこあるやん、と思う余裕すらなく、普通に引くレベルである。インパクトではこれらのラブレターの中では一番かもしれない。

 それにしても持っているだけで羞恥に肌が粟立ちそうなポエムである。そして英知の館がどこだか分からない。だが、こちらも恥ずかしがっていてはダメなのだ。正面から受け止め、その空気を効果的に破壊する。それが俺のなすべきことである。

 教室に着くと、すでに八割方の生徒が来ていた。もちろん箕畑もいた。そのまま箕畑に声をかけようと思っていたが、教室に入るなり俺は異様な視線を感じ、一度自分の席に荷物を置くことにした。

 視線の源は女たちであった。昨日までは全力を上げて俺と関わらないようにしていた奴らが、これ見よがしにこちらに微笑みかけ、あまつさえ手さえ振ってくる。何たる軽佻浮薄。そんなんだから薄っぺらい流行に振りまわされて散財、穴を埋めるためにバイトを増やし、挙句勉学が疎かになって脳みそが空洞化していくのだ。空洞化した脳みそで、誰が誰に惚れた腫れたキャッキャウフフなんて話題を繰り返しているから高校生活そのものまで中身のないものになっていく。自分が無いからそうなるのだ。自分が無いからこんな意味の分からない主人公補正という力にかかってしまうのだ。

 その点、俺は違う。俺は誰が何と言おうと、自分にとって一番大切な見えない壁との戦いを優先してきた。ほぼ全てを犠牲にして。じゃあ、それが有益なことかというと、それは知らないけどね。だけど、少なくとも俺には自分がある。

 荷物を置いた俺は昂然と箕畑の席へと向かっていった。

「箕畑さーん」

 俺が呼びかけただけで、教室中の女が会話を止めこちらに注目した。アホか、こいつら。

「な、何?」

 箕畑は露骨にドキドキしながらこっちを振り向く。

「手紙の英知の館って」

「あーーーーーーーーーーーーーーーー。わーーーーー、わーーーーーーー」

 箕畑は唐突に叫びだした。バスケ部の練習中の声だしで鍛えられた喉から発せられる絶叫は野生の獣の咆哮を彷彿とさせる激しさである。鼓膜が破れるかと思った。

「どこのことかな?」箕畑の息が切れた瞬間に間髪いれずに言葉を継ぐ。

「あー、あー。もう、なんでこんなとこで…」すでに箕畑の顔は真っ赤だった。「ば、ば、ばかぁ!」

 箕畑は俺の顔面めがけて腕を突き出してきた。驚くべきことにグーである。しかし俺はその拳を易々と左手で受け止めた。いくらバスケ部の主将とはいえ、所詮は女。こちとら見えない壁と戦い続けて、早三年。一体、いくつの修羅場をくぐりぬけ以下略。

 パチン、と派手な音ともに受け止められた拳を見て箕畑は呆けたようにこっちを見ている。

「何でいきなり殴りかかって来るのかな?」

「そ、それは…八代くんがいきなり手紙の事、皆の前で」箕畑は小声でぼそぼそと言う。

「果たしてそれは人を殴っても許されるほどのことか?一度冷静に考えてみてよ。殴るというのは暴行罪っていう犯罪だよ?ケガをすれば傷害罪だよ?もし俺が死んでしまったら傷害致死で、殺意が立証されれば殺人罪だよ?俺はね、女だから照れ隠しで多少男のことをどついても冗談で済むとか、女だから男と食事した時は金を払ってもらって当然とか、女だからレディファーストとか、そういうことはおかしいと思うんだ。何でかって言うと、それは結局、女は弱いものだ、守らなくちゃならないものだ、庇護するべき対象だっていう男のエゴ、男性優位の女性観に基づいているから。つまりこれは明らかに女性差別に入るよね?これを容認してたら社会的男女平等なんて夢のまた夢、永遠に実現なんてしないでしょ。なのに、時としては女性の方がそれを当然の権利のように思っている。洗脳されている。そんなことでいいんですか?特に箕畑さんなんか、俺から見ればそうした強い女性、男と渡りあっていける女性、みたいな印象があるけど、そんな箕畑さんがここでさっきみたいに世の男性優位の風潮に乗っかって俺を殴り飛ばそうとしたら一体他の誰が女性の権利をアピールするんですか?そんなことでいいんですか?いいわけないよね。だから何が言いたいのかというと、俺はさっき手紙の英知の館としか言ってないわけだから、周りで聞いてる人もそれが何もラブレターであるなんて、まあ思う人はいるかも知れんけど、まず普通は思わない。だってどう考えても俺と箕畑さんは接点無さ過ぎだもんね。だから箕畑さんはただ、『ああ、それは図書館のこと』みたいな感じでさばさば答えれば、俺も『あ、そうなんだ。了解』って言う風に何事もなく会話は終了するでしょ。つまりはそんな感情的にならなくても事は丸く収まったわけだ。むしろ、感情的になることでラブレターであることを周囲にバラしてしまうだけでなく、未だ世にはびこる男尊女卑の風潮を強化するのに知らず知らず協力してしまったくらいだよ。俺が言いたいのはそんなこと。分かってくれたかな?」

 箕畑は終始黙って聞いていた。

 A子を相手にした時に吹っ切れたせいか、舌の調子がとてもいい。そのせいで無茶苦茶に話の風呂敷を広げまくってしまい、三百六十度どこから見ても理不尽なことをごり押しで通すような感じになってしまった。いや、どう考えても通らなそうである。そもそもラブレターの内容について、書いた本人に正面切って問いに行くというのはどう考えても無神経だろう。まあ、だから敢えて実行したんだけどね。見えない壁と戦うためにね。さらにそれだけでなく、さりげなくラブレターであるってことまで明言してしまったし。でもまあ、ははは、こうやって見えない壁や常識という空気と戦うのはなんと痛快なことか。やはり一対一の対話で見えない壁を攻撃してこそ、本物の戦いだろう。

 箕畑は視線を上げ、じっと俺の方を見た。

 嫌うならとことん嫌うがいい。こちとら嫌われるのだけは慣れているどころか一番得意と言っても過言じゃない。むしろ今は誤って誰かと付き合うようなことになってしまったらゲームオーバーなのだから嫌ってくれた方が好都合。俺も一応男であるからして、あんまり迫られ過ぎたらいくら命がかかっているとはいえ、性欲の暴走が起きるかもしれない。それだけはあかん。

「…かってんじゃん」

「え?」

「分かってんじゃん!図書館って!なのに何で聞いたんだよ」

 そっちかよ。何とどうでもいいところを指摘してくる奴だ。

「え?図書館であってるの?それは偶然だわ。なるほどねー、英知の館だから図書館か。はあ、なるほど」ことさらバカにするような口調で俺は煽った。

 箕畑の俺を見る目つきが鋭くなる。

 今度は左ストレートがくるか?

 俺は構えたが、箕畑は突き出していた右の拳を力なく下ろしただけだった。そのまま顔を伏せる。

「八代くんの言ったこと分かった。確かにそうだね。感情的になった私が悪かった」

 は?

 予想外の答えに唖然とする俺の前で、箕畑はさらに続ける。

「八代くんって色んな事考えてるんだね。何か、すごい尊敬する。私、同年代の人があれだけはっきり自分の意見を言うの初めて聞いた。それで、け、結構カッコいいと思ったな。その、話の中で言ってた、あたしが強い女ってのは、本当?」俺に握られていた右の拳を愛しむように撫でながら、箕畑は上目遣いにこっちを見る。

 怖っ。何こいつ、怖っ。あれだけ理不尽なことボロクソに言われてなんで惚れ直してるんだよ。怖っ。これが主人公補正の力か。正直舐めてたわ。適当に空気ぶっ壊して嫌われれば問題無いとか思ってたけど、これはあかんわ。

 俺は一瞬怯んだが、ここで押し込まれたらまずい、と気を奮い立たせる。

「ああ、本当、本当。でも俺強い女は好みじゃないから。やっぱり女の子は護ってあげたくなるタイプがベストだよね」

「さっきと言ってること違う」

「誰しも本音と建前があるからね。殴られたくなかったし」

「何だそれ!」箕畑は語気を強めたが、すぐに元に戻し、「でも、八代くんって正直だな。そういうところが」

「ああ、はいはい、そうですか、そうですか。どうも、どうも。でもいくら褒められても惚れられても箕畑さんとは付き合う気ないから、悪いけど」やばい、すでにこっちが押されている気がする…

「大丈夫。あたしは八代くんが付き合わなくちゃならなくなるほど強くなるから」

 うわ、何だ、こいつ。

 クラスメート全員に聞こえるのも意に介さず、清々しく言い切った箕畑の真っすぐさに猛烈な嫌悪感が湧く。

 最後の手段を取るしかないようだ。

 ブブウゥーブバッ。

 俺は何も答えずにその場で盛大に放屁。その音は俺が箕畑に話しかけてからずっと静まりかえっていた教室に誰一人聞き逃す奴がいないくらい大きな音で轟いた。

 箕畑の顔から表情が消える。

 はは、ざまあみろ。

 誰がざまを見ているのか今一つ分からなかったが、俺は胸のすくような気持ちでゆっくりと自分の席に戻って座った。

しかし、箕畑はすぐに「誰だよ、今の?」とどう考えても誤魔化しようがない状況を誤魔化そうとする。アホかお前、俺に決まってんだろ。と言おうとすると、クラス中の女子「ホント、やだぁ」「まるで八代くんがしたみたいじゃない、ねぇ」「机を動かした音じゃない?」「あ、そっか、そうだよね。にしても、あのタイミングで誰が」「ごめん、私だ」「あはは、ちょっとタイミング悪すぎ」「なんだ、やっぱそうだよね」などと一斉に話し出し、総出でいらないフォローをし始めた。

「おい、アホかお前ら、俺に決まってんだろ!俺が屁をこいたんだよ」

 せっかくでかい亀裂入れてやった見えない壁がみるみる修復されていくのを前にして、俺は焦り、怒鳴っていた。

「いやいや、私が机動かした音だって」そう主張していたのはB子だった。

「あはは。八代くん、おもしろーい」

 C子が言うと、クラスの女子全員が相槌を打つ。

 俺は恐怖で気が狂いそうになった。

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