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目が覚めると、俺は自分の部屋のベッドに横たわっていた。
何だ、夢か。などとは思わなかった。なぜなら着ている服からは微かにあのポリバケツの中に充満していた生ゴミの臭気が漂ってくるし、ただ部屋で寝るだけなら俺は絶対に部屋着を着ているはずで、こんな外出できるような格好はしていない。さらに足元を見れば何故か靴を履いたままであり、これはどう考えてもおかしい。我が家は別にアメリカンスタイルではないし、いくら見えない壁との戦いだからといってこんなことすれば後で家中を掃除させられることは必定で、俺はそんな逃げ道のないリスキーな戦い方はしない。あくまで逃げ切れる相手に逃げ切れる場所で挑むのである。これは姑息でも何でもなく戦い続けるための常識である。
時計に目をやると、ポリバケツに潜んでいた時からあまり時間が経過していない。本当にワープしたようだ。神の遣いとか言っていたのは、あながち嘘でもないらしい。だがしかし、それならせめて靴だけは玄関にワープさせるくらいの気遣いは欲しかった。
俺は一度玄関に靴を置きに行き、部屋へ引き返してきてベッドに倒れ込んだ。
しかし、あの声は幻聴ではなかったということか?それじゃあ、神の書くライトノベルの主人公になったとかいう話は本当なのか?本当にワープしたわけだしな……
でも、すると、なんだ、俺は超絶にモテる男になったのか。ハリウッドスターから、今をときめくアイドルから、女優から、一国の首相から、皇族から、諜報機関の女スパイから、大企業の社長から、あらゆるJS、JC、JK、JD、弁護士、先生、OLエトセトラ、独身も彼氏持ちも夫持ちも子持ちもバツ有りも、ひょっとしたら体は男でも心は女みたいな人も、ありとあらゆる女が何もせずとも勝手に自分から落ちていくということなのか。うはは。そんなことあったら最高だな。あったら、ね。
「やっほー、八代くん」
「うわぁ」突然、再び脳内に響き出した声に驚き、危うくベッドから落ちそうになる。「まだいたのか」
「八代くんの脳内に直接話しかけてるだけだから、別にそこにいるわけじゃないけど」
「そうなのか」なんか異常に話し辛いな。傍から見たら完全に独り言で、頭のおかしい感じじゃないか。なんつって、別に周囲の視線を気にする俺ではないけれど。
「ま、とにかく、まだ話は終わってないの。取りあえず、こっちの存在は信じてくれた?」
「こんな頭の中に響く言葉だけで信じられるか。正直、まだ幻聴を疑ってるレベルだぞ。どっか良い精神科医を知らない?」
「それ、幻聴に訊くことなの?」声は、はあ、とため息をつく。「声だけじゃなくてワープもしたんだけど」
「いやあ、夢かも知らんしねぇ、それも」
「意外と頑固なんだねぇ。じゃあ、どうすれば信じるわけ?」
「まずは姿を現してもらおうか」
「なんでそんな偉そうなの?」
「人に何かをお願いする時は面と向かって頼むのが、人としてのマナーだろう」というか、お前の方が偉そうだろうが。
「人じゃないんだけど、私。まあ、いっか」
やけに人を小馬鹿にした態度を取る奴だ。神の遣いとはこんなに偉そうなものなのか……
そんなことを考えていると、ふわっと、まるでホログラム映像が浮かび上がるように、部屋の中央に人が現れる。
「や、お邪魔しまーす」
神の遣いとやらは、高校の制服を着た女の姿をしていた。少し小柄で、背中に羽が生えている。そして、これを認めるのはたいへん悔しいが、滅茶苦茶に可愛かった。
「どうしたの?ぼーっとしちゃって」
「ああ、いや……」おほほほ、何を見惚れちゃった。ってぇ自覚して驚くのが、見惚れるなあんてことが実際に、自分に起こったという事実で、それくらいにこの神の遣いとやらはええ女だった。って、二回も言ってしまった。くわぁむかつく。こいつはあの、俺を小馬鹿にした喧しい声の正体なんだぞ。乳でも揉んでやろうかなと、自分を落ち着けつつ、「なんだ、その背中の羽。冗談か何かなのか?」
「いやいや、これこそ神の遣いたる証拠でしょ。言ってみれば天使だからね、私」
「ふーん。そうっすか。あ、お煎餅でも食べようかしらん」
「うわ、むかつく。そうやって人を馬鹿にして」
「いやいや、してないしてない」
「全然信じてないでしょ?ちゃんと飛べるんだからね」神の遣いはそう言うと、部屋の中をすいすいと飛び回る。
「分かった、分かった……」
うわ、マジで空飛んでるよ、こいつ。
こんな偉そうな奴にまともなリアクションをしてやるのも癪なので努めて何でもない風に言ったが、俺は内心普通に驚いていた。サルがバク宙するくらい驚いていた。
「お前が神の遣いで、俺が神様の書いてるライトノベルの主人公に選ばれたってのは分かったから、終わってない話ってのは何だよ?」
「あーあ、リアクションいまいちだなぁ。ホントなんでこんな人が選ばれたんだろ?」神の遣いはこっちにはっきり聞こえる程度の囁き声で言ったが、俺は敢えてスルーした。舐めた態度を正してやりたいのは山々だが、こいつが超人的な力を持っていることは確からしいから、迂闊なことはできない。「ま、いいか。それでその話ってのは、もうちょっと詳しい説明のことなんだけど、まず、いくらモテるようになっても特定の人とカップルになるのは止めて下さい」
「は?」何だそれ。「何で?」
「ライトノベルとして詰まらなくなってしまうから、かな。とにかく、これは絶対厳守だって神様が言ってたよ」
「ふざけんな。何で、そこまで指図されなくちゃいけないんだ」
「だって、契約を結んだんだし」
「俺の生活を記録して発表する権利だけじゃねぇか。大体、神の暇つぶしに何で人生を左右されなきゃなんないんだよ」
「暇つぶしじゃないんだよ、それが」神の遣いは急に表情を暗くする。
「じゃあ、何だよ?」
「神の世界も大変なんだよー。私の仕える神様は不況と本人のコミュニケーション能力の欠如で就職が決まらなくてねぇ。それが原因で次第に家に引きこもるようになって、鬱々と時間を持て余す日々にアニメと出会い、今度はそれにどっぷりとハマって時間を空費、気が付いたら引き返せないところまで来ていたので、ここは一念発起と、ライトノベルで一発当ててやろうって考えなわけよ。ね?深刻でしょ」
「全然、深刻じゃねぇよ!めっちゃ楽して金稼ごうって魂胆じゃねぇか。バイトでもいいから働けよ。って、バイトがあるのか知らんけど。てか、何?神の世界ってそんな人間臭いの?そんなダメな奴らに対して俺たちは折々お祈りしたりしてるわけ?うわ、止めよ。初詣とか行くの、止めよ。というか、お前の神様は世のラノベ作家たちに謝れよ。舐め過ぎだろ。そんな奴は一生デビューできねぇよ。協力する気が最後の一片まで消し飛んだわ」
「まあまあ、落ち着いて。確かに私の神様はキモオタニートで我儘で不躾で内弁慶でひねくれ者で常識知らずでアホでバカでプライドばかり高くて無能で怠け者で私をタダ働き同然にこき使ってるけど、惨めな神様なんだよ……」その時、ぐぅーっと大きく腹の鳴る音がし、神の遣いはペタンと床に座り込んだ。「ああ、ひもじい……」
「惨めなのはてめぇじゃねーか!」
俯いていた神の遣いはキッと、こちらを睨む。
「そうだよ。どうせダメな神様に仕えてる私は惨めだよ。食べ物さえまともに食べられてないよ。だから、この私を助けると思って、納得してよ!」
何で人間の方が神の遣いを助けなくてはならないのだろうか。
「その神のところから逃げればいいだろ」
「それができればとっくに逃げてるよ。あんなバカ神のとこ……って、きゃあ!」
座っていた神の遣いは突如スカートの部分から見えない糸で釣りあげられるように浮き上がり、くるくるとゆっくり回り始めた。
「ごめんなさい、ごめんなさい。嘘です、神様。許して下さい」
ゆっくりと神の遣いがこちらへ背を向けると、制服のスカートが抑えようもなく捲れ上がっており、青と白のチェックのパンツが思いっきり晒されている。あられもなく、晒されている。
「やだぁ、見ないで、見ないでぇ」
「写真を撮ってもいいだろうか?」
「ふざけんなっ」
神の遣いは脚をバタバタさせながら手でパンツを隠そうとするが隠しきれず、ゆっくりとパンツを晒しながら回転していく。一周回ったところで見えない糸が切れたように神の遣いは床に落ちた。
「うぅ……」
涙目になりながら顔を赤らめて俯いている神の遣いの姿は、さすがにちょっと可哀そうだった。
「ま、何と言うか、ドンマイ」
「うるさい……」
「可愛いパンツだったぞ。なんかくたびれてたけど」
「うるさいよ!見るなって言ったでしょ。うぅ……もういや……」
「ゼリー食うか?」
そのまま見ていると、うわーんと泣き出しそうで、そうなるとさすがに隣の部屋にいるであろう妹が不審に思うかもしれないと考え、食いもので話題を逸らす。
「え……いいの?」
効果抜群だった。神の遣いは一瞬で、宝くじで三億円でも当てたような表情になった。
「ほらよ」
黒ギャルの股間に消えたプリンと一緒に買ったゼリーを袋ごと投げると、神の遣いは犬みたいに飛びついてキャッチし、「い、いただきます」と言って食べ始めた。
「んぐっ……おいしい、ああ、おいしい!こんなまともな食事、いつぶりだろ……うぅ……」
涙を流しながら食べているその姿はどう見ても乞食である。
こいつ、本当に神の遣いかよ……
「ごちそうさま」神の遣いはあっという間に完食し、空の容器の前で手を合わせる。「ありがとう」
「まあ、いい。それで、結局俺が誰とも付き合わないっていうルールは、俺自身が納得しようがしまいが関係ないんだろ?」
「実を言うと、そうだね。まあ、その……さっきの私を見てたら分かると思うけど、付き合おうとしたら何が起こるか分からないよ」
「確かに……」さっきの力からして、神の世界では落ちこぼれかもしれないが、こっちの世界では結構何でもできそうだ。キモオタニートということも考慮すれば、俺が勝手に女と付き合いはじめたら、身勝手な嫉妬でいきなり殺されても不思議じゃない。ああ、なんて契約を結んでしまったんだ、俺は。こんなことなら、逮捕覚悟でギャルどもをボコった方がマシだった……かどうかは分からんな、さすがに。「で、他にも説明はあるのか?」
「うん。でも、もう一つは簡単。ライトノベルの主人公になったからといって、生活を変えないでくれって」
「ん?どういう意味だ?」
「だから、八代くんって、ほら、頭のイカれたような行動たくさんするじゃん?それをちゃんと続けてくれってこと」
「するじゃん?じゃねーよ。何さらりと失礼なこと言ってんだ」
「ほら、あの、見えないなんとかと戦うーとか言って」
「見えない壁な」
「そう、それ。その遊びを」
「遊びじゃねぇんだよ!」
「まあまあ、その戦いを続けてくれればいいから」
くそ、バカにしやがって。
「で、説明は終わりなんだけど、その……」神の遣いは両手の指を合わせて視線を逸らしながらもじもじする。
「何だよ?」
「あの、他に食べるものとか、無いかなぁって……」
「ねーよ。あっても、やらん」
「そんな……」神の遣いが絶望的な表情でこっちを見る。「何で?」
「何でって、分からないのかよ。人の事散々バカにしやがって」
「し、してないよ。全然してない」
「頭イカれてるとか言ったのはどこのどいつだよ」
「それは、その……親しみ!そう、親しみをこめて、いい意味でってことだから」
「その親しみは伝わってこねぇよ」
「うぅ……」神の遣いは躊躇いに顔を歪めていたが、おもむろに頭を下げた。「ごめんなさい。そのことは謝るから、食べ物を恵んでください」
うわ、プライドひっく。どんだけ飢えてんだよ……
「お願いします」神の遣いは深々と頭を下げたまま言う。
明らかにラノベの主人公契約の件よりもお願いに気合が入っている。
「ま、その態度を改めるなら、今度来た時に食べ物を恵んでやらんでもない」
「え?今くれないの……?」
「だから、ねぇって言ってるだろ」
「なんだぁ、謝って損した」
「てめぇ、もう二度と食い物やらんぞ」
「う、嘘、嘘、冗談だってぇ。あ、それと遅くなったけど、私には羽月という名前があるので。ちゃんと名前で呼んでね」
「分かった、分かった」
「それじゃ、いつかまた食べ物を貰いに来ます。じゃね」
羽月は軽く手を振ると、身を翻してそのまま消えた。
一体何だったんだ、あいつ。神の遣いとか言ってたけど、正直新手の乞食でしたと言われても違和感がない。にしても、まあ、これでいよいよ俺も本格的にモテモテになったわけだ。どんな女も選り取り見取り。そして、その誰とも一切付き合えない。ははは。おもろ。
「おもろいわけあるかっ」
ベッドを叩くとその振動で置いてあった携帯が軽く跳ねて、手に当たった。そのまま何となく携帯を開いて中のアドレス帳を表示させる。
くそう。こうなったら誰かに自慢の一つでもしたいところだ。こいつはどうだ?中学時代はガリ勉だったからそのまま変わってなければきっと今も彼女はいないだろう。ああ、でもウンコを漏らして以来疎遠になっていたな。こいつはどうだ?サッカー部で華々しく活躍していた、いかにもな爽やかスポーツ男子。確か中学時代にすでに彼女はいたはずだけど、その彼女も今や俺は簡単に奪い取れるのだということを教えてやるのは気分がいいかもしれん。ああ、でもこいつともウンコを漏らして以来疎遠になっていたんだっけ。そんじゃあ、こいつは?勉強も運動もあまりできなかったがトークが上手くて人気者だった。しかし女性からはもはや俺が世界で一番の人気者なのだと告げてやれば……ああ、こいつもウンコを漏らして以来疎遠になっていたんだ。じゃあ、こいつは?こいつは?こいつは?こいつは?こいつは?
アドレス帳をア行からワ行まで一通り調べてからようやく、俺はほぼすべての人間とウンコを漏らして以来疎遠になっていたことを思い出した。中学二年までに登録したアドレスはすべてそのまま残してあるが、このうちのいくつが現在も使われているアドレスなのか知れたものじゃない。そういうことをまともに考えるとさすがに寂しくなってくるので、アドレス帳はそのままにしてあるのである。しかし今まさにそうした配慮のせいで考えたくないことに考えが至ってしまい、俄かに寂しくなってきた……
まあ、いいさ。女子となら今後いくらでもメールできるしね。付き合わなければいいんだから。アドレス自体は聞き放題でメールし放題じゃないか。今から定額の上限を上げておいた方がいいかもしれないぞ、これは。
そんな風に輝かしい未来を夢想しながら現状から目を逸らして携帯を投げ出し、仰向けになってベッドに転がると、不意に隣の部屋のドアが開く音がした。そしてすぐにパタパタと廊下を歩く足音がし始め、それが俺の部屋へと近づいてくる。足音は俺の部屋の前で止まり、直後にコンコンと部屋のドアがノックされた。
驚愕だった。音からしてドアが開いたのは俺の部屋の右隣の部屋だろう。そこは妹の部屋であり、つまり出てきたのは妹に違いなく、だから俺の部屋のドアをノックしているのは妹ということになる。
何がそんなに驚愕なのか?
俺の妹、八代優里は二つ年下の現在中学三年生で、まだ入試は十カ月ほど先とはいえ、受験生真っ盛りである。そんな額面通りのプロフィールはさておき、優里の容姿は兄の俺が言うのは難があるけれど、まあ、かわいい。性格の方だって周囲を自然に笑顔にさせるような快活さを持ちながら、嫌味でない自然な慎ましさ、気立ての良さを兼ね備えた、素晴らしい女子中学生である。だから過去に二日連続で教室内において大便を漏らしたことのある俺と二親等という濃い血の繋がりがあることは、もはや誰一人信じていない。中学三年にもなれば彼氏の一人や二人いてもおかしくない、いや、二人以上はおかしいのだが優里ならそれもおかしくない、というかいなければおかしいというくらい誰が見てもいい子なのである。そんな子は一歩外へ出ればたちまち友達百人作り上げ、その子らと遊ぶのに忙しくなって、割と早い段階で兄弟姉妹とは遊ばなくなるはずだと思うかもしれないが、優里は違った。幼いころから「お兄ちゃん、お兄ちゃん」と言ってよく俺と遊びたがり、徐々に遊びに男女差が生じ始める小学校に入ってからもそれは変わらず、さらに長じてくると別段遊ぶことはせずにただ何くれとなく俺の部屋に入って来て、しばらくの間しゃべったり、のんびりしたりしてから出て行くなんていうことが主流になった。こう言うとかなり煩わしい存在に思えるかもしれないが、もとより気配りや配慮に長けている優里のことなので、狙いすましたようにこちらが特にすることも無い暇な時間にやって来て、応対が面倒になってくる直前に部屋を去るのだ。だから俺が優里を邪険にすることもなく、良好な兄妹仲は維持され、その成果として優里が俺を呼ぶ時の呼び方は「ねえ」とか「ちょっと」とかよそよそしいものにならず、「お兄ちゃん」のままである。と、ここまでなら妹が俺の部屋をノックしてくることに何も驚くこともないのだが、まあ大方の予想通り俺はウンコを漏らして以来妹とも疎遠になっていた。
といって、優里が俺を避けているのではなく、俺が優里を避けているのである。いや、もちろん優里の方がもっと俺を避けているという可能性も無くは無いが、あんまりそういうことは考えたくない。なんで俺が優里を避けているかと言えば、優里は人に愛されるために生まれてきたようなかわいい妹であるし、この俺の見えない壁との戦いに優里を巻き込みたくないからである。それは誰一人必要性を感じてくれない、見えない壁との戦いという宿命を背負ってしまった兄から妹への極めて真っ当な配慮であった。優里の方も例によって敏感にこちらの考えを読み取ったのか、無理に話しかけてくるようなことはしなかった。そうして、俺たちは良好な兄妹関係を維持していたにも関わらず、やむなく会話ができなくなり没交渉になっていったのだ。俺の主観では。でもまあ正直言えば、普通に優里が俺をキモがって避けている可能性も全然否定はできない。教室でウンコを漏らした兄と仲良くしたがる妹は少数派だろう。
そんなわけで驚愕なのだ。優里が俺の部屋のドアを叩くのは実に四年ぶりくらいであろう。ノックに続いて、遠慮がちな声が聞こえてくる。
「お兄ちゃん、いる?」
「お、おお……」
「入っていい?」
「おお」
バカの一つ覚えのように「お」だけで返事をすると、おずおずと優里が入ってきた。問題集らしき本を抱えている。
「あのね、ちょっと勉強で分かんないとこあるんだけど、聞いていいかな?」
「お前は俺の頭が大して良くないことを忘れたのか。まあ別にいいけど、答えられるか分からんぞ。答えられなくても失望するなよ。いや、失望するのは構わないが怒って暴れたりするなよ」
「しないよ、そんなこと。てか、大して良くないって言っても、大原高校受かってるじゃん。あそこは一応市内では三番目だよ、偏差値」
「あれは試験の緊張した空気を壊してやろうと思って、受験中に爆音で屁をこき続けたから、同じ教室で受けてた奴が集中を乱されて落ちて、そのおかげで受かったようなもんだ」頑張りすぎて実がでそうになったのが懐かしい。おかげで入学前から妙な噂が広まって、入学した時にはすでに誰一人話しかけてこないどころか、俺は『なるべく関わらないようにする人』としてその名を馳せていた。常に俺の周りだけは妙な空間が空いており、集団に近づけばモーセの前の紅海さながらに道が開けた。まるで致死率の極めて高い伝染病感染者並みの扱いだった。むろん、友達などできようもなかったが、それは見えない壁と戦い続ける俺にとっては返って好都合なのだ。失うものがなければそれだけ躊躇や逡巡も生まれない。おほほ。しかし、躊躇や逡巡が生まれないせいですでに引き返すことのできない地点まで来てしまった観はあった。唯我独尊。
「ははは、何それ」
「それに、お前は大原よりももっと上を狙えるだろ」
「でも大原行きたいんだもん」
「正気か?」
「そうだよ。だって校舎とか設備とか新しいし」
確かに大原高校は俺の代でまだ二期生という出来たばかりの新設校だが、まさか俺のいる学校を志望するとは。やはりやむなく交渉を絶っていただけで、優里自身は俺のことを避けていないということなのか。そう考えていいのか。ふふふ……
そうに違いないと思っていた割に妙に嬉しかった。
話しながら俺がベッドから起きてテーブルの前に座ると、優里は向かい座るのかと思いきや俺のすぐ横に座って問題集を広げ始めた。何だか異様に距離が近い。
「それで、ここなんだけど……」
「おい、なんか近くないか?」
「へっ、あっ、ごめん。こっちの方が一緒に問題集見やすいかなって思って……」
「ああいや、まあ、俺は別にいいんだけどね」優里が露骨に残念そうな顔をするので、いきおい気を遣うような口調になる。
「じゃ、じゃあ、このままで……」
優里はそのまま俺に寄り添うように座り、問題集の分からないところを挙げていく。俺は適宜解答の解説を参考にしながら説明していくが、優里との密着感がどうも気になる。いい匂いがする。なんて実の妹にあらぬ感想を抱きそうになる。すると、床につけている手に優里の手が軽く触れてきた。触れた瞬間に、優里の方が手を引いたが、しばらくするとまたちょん、と触れてくる。敢えて気づかない振りをしていると、段々その間隔が縮まっていき、しまいには完全に俺の指を上から包むように手を重ねて動かさなくなった。それと相前後して、俺の説明に対する優里の「うん」という反応が、どことなく単調な感じになる。
「ここに入る関係代名詞は……」
「うん」
「これは非加算名詞だから…」
「うん」
「この動詞はing形しか取れないなから…」
「うん」
「ここは何が入ると思う?」
「うん」
「おい、大丈夫か?」
「え?あわ、えっと、その……」
「話、聞いてた?」
「き、聞いてたよ!もちろん」
俯いた優里の顔を覗き込むと、やけに頬が紅潮している。俺はようやくあかんことに気がついた。
どうやら俺は本格的にモテ始めているらしく、不可思議に増大した俺の魅力は血の繋がった兄妹であるという垣根を乗り越えて、優里のハートまで射止めてしまったようだ。しかしいくら容姿や性格に優れていようと所詮は実妹、こっちがそんな気を起こすなど絶対にあり得ない、と言い切るのは時間とともに難しくなってきそうである。このままでは近親相姦という、あかん地雷を踏むことになる。まあ、あかん地雷は今までにも色々と、むしろ積極的に踏んできているが、本当に踏んだらあかん地雷はこれでも避けてきたつもりである。とにかく、まずはこの桃色の空気を壊さねばならない。
「お前、俺のこと好きなの?」俺は直球を投げてみた。恥ずかしくて言葉にはできないけど、そこはかとなく伝わってくるお互いの好意にドッキドキ、みたいな甘ったるい空気をぶっ壊すには直球に限る。
「えっ、な、ななななんで?」優里は分かりやすく動揺した。
「いや、だって、何か知らんけど、手重ねてくるし」
「う、あっ、ごめん。気づかなかった……」
「顔真っ赤だし」
「そ、そんなに赤い?私、血色はいい方だから……」
優里は相変わらず目を逸らしたまま、ごにょごにょと言い訳をする。
「そうか、俺の気持ち悪い勘違いだったか」
「いや、でもね、私はお兄ちゃんのこと……す、好きだよ。やさしいし、かっこいいし、自慢のお兄ちゃんだよ」
ほほほ、かわいいやんけ。と鼻の下が伸びかけたものの、慌てて気を持ち直す。今、優里にこの台詞を言わせているのは、神の書くライトノベルの主人公になったことによる、いわば主人公補正の力なのだ。大体、学校でウンコを漏らした兄をかっこいいと言っている時点で何かがおかしい。
「買いかぶり過ぎだ。俺なんかよりも優里の方がよっぽどできた妹だぞ」
「ううん。そんなことない。私よりもお兄ちゃんの方がよっぽどすごいよ」
「いいや、俺なんかただのクソ兄貴だからね。文字通り」
「違うよ。私にとってお兄ちゃんは何ていうか、その、尊敬できる人だし」
「本当にそんなこと思ってるなら、すぐに考えを改めた方がいいぞ。俺なんかクソ兄貴だからね、文字通り」
「卑下し過ぎだよ。お兄ちゃんは自分の良さが全然分かってない」
「俺に良さなんかあるかよ。クソ兄貴なんだぞ、文字通り」一体、兄妹で何をやっているのだろうか。いつの間にか何ともアホらしいやり取りになっている。
「お兄ちゃん、学校でうんち漏らしたこと引きずり過ぎ!」優里はついに大声で叫んだ。「言っとくけど、私はお兄ちゃんが学校でうんち漏らしたことなんか、全く気にしてないからね。お兄ちゃんの美点はそれくらいで帳消しになっちゃうようなものじゃないから」
俺は危うく感涙にむせびそうになった。何とよき理解者であろうか。気にしてないなら気にしていないとはっきり言う。こうした率直な応対を俺は求めていたのである。しかし、これを言わせているのは主人公補正の力なのだ。騙されてはいけない。というか、ここでこの言葉を受け入れたら俺の見えない壁との戦いは終わってしまうではないか。そんなもの早く終結させろと思うかもしれないが、そんなことをすれば戦いのために全てを棒に振った四年間はどうなる。俺はその犠牲を決して無駄にしてはいけないのである。断じて後悔するのが怖いわけではない。
「と、とにかく、お兄ちゃんはそこのところをよく考えてよね」あんまり大声でうんち、うんちと連呼したためか、優里の顔はさらに真っ赤になっていた。「勉強のことはありがと。すごく分かり易かった」
恥ずかしさに急かされるようにしてそれだけ言うと、優里は問題集を抱えて俺の部屋を出ていった。
予想外の展開だったが、とにかく助かった。よく考えれば誰とであれ俺が男女の関係になった瞬間に、これを書いている神は俺を主人公にした意味が無くなり、そうなると俺はあっさり殺されてしまうのかもしれない。故に近親相姦の地雷は字義通り地雷であり、踏んだ瞬間にリア充でもないのに爆発させられる可能性さえある。命がかかっていると思えば迂闊なことはできない。俺はまだ死にたくない。
立ち上がって深呼吸をすると誰かが帰って来たらしく、玄関の開閉音が聞こえてきた。そのまま足音が階段を上ってくる。そして俺の部屋の前まで来るとドアが再びノックされ、今度はこっちが答える前にドアが開いた。
「ただいまー」
姉貴だった。
嫌な予感がした。
俺の姉貴、八代愛里は俺より四つ年上の大学二年生である。飄々とした性格に自由奔放な気質が人を惹きつけて止まないらしく、また妹と同様に恵まれた容姿をしているので、俺が物心ついた時からすでに姉貴の周りには男女問わず友人が溢れかえっていた。男からのモテ方も一方ならないことが窺えるが、実際に付き合っている人間がいるのかどうかといったことは知らない。別に知りたいとも思わないが。しかしまあ、とにかく人間としてのレベルは普通に高く、ウンコを漏らした俺と二親等という血縁で結ばれていることはやはり誰も信じない。
そんな姉貴と俺の仲は、あまりべったりしたものではなく、どちらかというと傍目には淡泊でありながらも、時にはお互いに誰に言うともできぬ愚痴を言い合ったりする実に良好な姉弟らしいものだった。姉貴が俺の部屋のドアをノックしたところで、それは別に何らおかしなことではないのである。ウンコを漏らす前までは。そう、やっぱり俺はウンコを漏らして以来姉貴とも疎遠になっていた。むろん、これとて俺の方が一方的に避けてきたのである。何となれば常に男にモテていそうな姉ではあるが、それでも万に一つくらいはウンコを漏らした弟と親しげに接しているせいでこの先婚期を逃すという事態を招いてしまうかもしれない。その点を配慮しての対応だった。姉貴もそんな俺の気持ちを汲み取ったのか、あるいはウンコを漏らした俺を素で気持ち悪いと思ったのか、それ以降あまり話しかけてもこなくなっていた。
だから嫌な予感がしたのである。今日は日曜日。朝からバイトへ赴いていた姉貴が、帰ってきてから自分の部屋へ行くこともせずに直接俺の部屋来るのは異常事態である。
「帰りにコンビニでプリン買って来ちゃったぁ。一緒に食べよ」
「優里と食ったらいいだろ。あいつ、甘い物好きだし」
「そう邪険にしなさんなって。お姉ちゃんは、正と食べたいんだからさ」
姉貴は鼻歌交じりにテーブルにコンビニの袋を置いて座る。仕方なしに俺が向かい側に座ると、ビニール袋からプリンを取り出した。一個しかない。
「おい」
「何?」
「一個しかないじゃん」
「この一個を分け合うんだよ」当然でしょ、という口調で姉貴は言う。「甘い物は食べたい。しかしカロリーは気になる。この乙女心のジレンマを解消するためにね」
「何だそれは」
「いいから、いいから。ほら、あーん」
姉貴がプリンを掬い取ったスプーンをこちらへ差し出すので、渋々それを口に咥えると、姉貴は満足そうに笑う。確かに買ったはずのプリンは黒ギャルの股間の闇へと消えてしまったから、ラッキーといえばラッキーだが、状況的に素直に喜べない。一掬いずつ交互に食べるとプリンはあっという間になくなった。
「よーし、満足、満足。それじゃあ、正にマッサージしてもらおうかな」
「何でだよ」
「えー、いーじゃん。このピチピチボディを触り放題だよ?」
「自分で言うな」
「あははははは」
姉貴は笑っていたが、そのまま話題を変えそうな雰囲気はなく、それが何となく怖い。元から掴みどころのない姉貴であったが、いざこういうことで相手にすると自分がいつの間にか姉貴の思う通りに行動させられそうな気がしてくる。それはあかん。そんなことになったら俺が死ぬ。たった十七年しか生きてない内に死んでしまう。
「いくら彼氏ができないからって、俺に慰めを求めるなよ」高みからダイブする心もちで俺は言ってみた。
「えー、ダメなの?」意外にも姉貴は反論することなく、俺の隣に移動して体をすり寄せて来る。完全に逆効果であった。「正も彼女いないんでしょ?ねぇ?」
「いやいないけど、ダメだろ。大体、こんな文字通りのクソ弟に関わってると余計孤独を深めるぞ」
「正と一緒にいられるならそれでもいいかな……キャッ、言っちゃった」
「なーにが、『キャッ、言っちゃった』だよ。気色悪い」
「ははははは」
「とにかく、俺に関わってると後ろ指ささるようなことになるから止めとけ。その内、姉貴までウンコ臭いとか言われかねん」
「まったくいつまであんたはうんち漏らしたことを気にしてるのよ」姉貴はいきなり呆れたような口調になる。「私はねぇ、正がうんちを漏らしたことなんて何とも思ってないから。漏らしたことを受け止めた上でこうして接しているんだから。いい加減、そんなトラウマは乗り越えなさいな」
またも精神がぐらつき、危うく姉貴の胸の中に飛び込みそうになった。しかし騙されるものか。そもそも、いくら周りが受け入れていると言っても、本当の事はこっちには分からない。この不安はウンコを漏らしたことのある者だけが理解できる、決して高尚ではないけれど、深い悩みなのだ。
葛藤を抱えながら沈黙していると、階下から母親が「ご飯よー」と呼ぶ声が聞こえてきた。
「あーあ、ご飯になっちゃった」姉貴は意外にも未練無さげにさっと立ち上がる。「ま、いっか。正は今後ゆっくり籠絡していくことにする。ふふふ」
不敵な笑みを残して姉貴は俺の部屋から去っていった。
自分のかつてないモテっぷりを目の当りにしたのに、俺の気持ちはかつてないほど暗澹たるものになっていた。