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薄暗い路地のどん詰まり。種々雑多なゴミの堆積したその場所に置かれたポリバケツの中で、慎重に息を潜めていた俺は、先程からうるさく聞こえてくる声につい反応してしまった。
「そうに決まってるじゃないですか。大体、あなたの頭の中に話しかけてるのに、他の誰に聞こえるって言うんですか」
「え?ああ……え?」
そう言えば確かにバケツの外から聞こえてくるようなくぐもった声ではなく、まるでイヤフォンででも聞くような、いやに鮮明な声だ。
幻聴?もしかして発狂の前兆?いやいや、そんなまさか。本当にそうだとしたら今すぐ猿股一丁になってよだれを垂らしながら往来を疾走、ゲーセンに飛び込んでギャルとおっさんに囲まれながらパラパラを踊るくらいのことにはなっているはずで、そうなっていないということはまだ正気であるということ。正気の証左。
ということは、あれ?夢?
ありがちだとは思いながらも頬を抓ってみると普通に痛く、この確認方法を考案した人間に恨みが募るだけだった。
なあんてことを、空っぽのポリバケツの中に入ってやっている俺の頭はやっぱり大丈夫じゃないように見えるだろうか。見えるよね。だが待ってほしい。こうして袋小路のポリバケツの中に身を潜めているのにはそれ相応の理由があるのだ。
なにゆえこんなことになってしまったのか?
直接の原因を端的に言えば不良女子高生に追いかけられているからである。いくら不良とはいえ所詮女子、ボッコボコに伸してしまうという選択肢も無いではなかったが、それはよした。むろん、世間体が悪いというのもあるけど、実のところ、追いかけられるだけのことをこっちがしたという罪悪感が一応あるからである。まあ、液状化したプリンを不良女子高生の下着の中へと流し込んだだけなんだけどね。
何故そんなことをしてしまったのかということを説明するのには俺という人間について解説する必要があり、そのためには現在高校二年生である俺が中学二年生だった時まで遡ることが必須である。というわけで、ほほほ、唐突に過去語りを始めさせてもらいやす。中学二年の七月某日。あの日を境に俺という人間は完全に変わってしまった。あの日の前の俺と後の俺とでは、外見は同じ俺でもまったくの別物なのである。
結論から言うと、その七月某日、俺は教室でウンコを漏らした。前日にうだるような暑さのせいでついアイスを食い過ぎて腹が緩かったとか、その日目覚まし時計の不具合で起床が遅れたため朝トイレに行く時間がなかったとか、その授業の前の授業が体育だったから直前の休み時間は着替えをしていてトイレに行く時間がなかったとか、よしんばトイレに行っても学校のトイレは大の方に入っているとからかってくる奴が大勢いて入りにくいとか、言い訳はごまんとあるがとにかく漏らした。限界を悟って立ち上がった瞬間、淡々と数学の授業が進められる静まりかえった教室に、その汚い排泄音は轟いた。紛うかたなき下痢便であった。
俺自身には永遠にも思えるほど長く続いたその排泄音は、退屈な授業で眠りかけていた者たちやすでに眠っていた者たちを一人残らず叩き起こしてからようやく治まった。鼻がもげそうな臭いが漂い始めても誰一人「くっさ」とすら言わない水を打ったような沈黙を破ったのは先生だった。
「保健室へ行ってきなさい」
俺は茶色い滴を垂らしながら保健室へと行った。そして結局、その日はそのまま帰宅した。
なんだ、そんなことかと思うかもしれないが、中学二年生にもなって衆人環視の中、大便を漏らすというのは、これ、相当にすごいことである。しかも衆人というのが漏らした後も日常の七割はそいつらと過ごさなくてはならない程度の知り合いなのだから、もうすごいを通り越してヤバいくらいである。どのくらいヤバいかと言うと、それを経験してしまった後はもはや何でもできるくらいにヤバいのである。それはつまり、大便を教室で漏らすことによって、俺は羞恥心という日本社会に特有の倫理的道徳的ブレーキをぶっ壊してしまったも同然ということだった。
だからといって帰宅してからすぐに、もう知らん、どうにでもなりやがれ、とまるで動物園のゴリラのように道行く人々に自らの大便を投げつけて大喜び、なんてことは決してしていない。すでにもうウンコが出なかったからとか、下痢便で固形物が出なかったからとか、そういう問題ではなくてね。ていうか、いくら今の俺だってそんなことはしない。とにかく、帰宅した時点では次の日の登校を考えてくよくよウジウジ悶々としていた。
しかし翌日登校すると、予期に反して周囲の反応は極めて普通であった。おはよ、おっす、みたいな気さくな挨拶をして、クラスメートたちは何一つわだかまっていることなどないように話しかけてくる。そして、誰が片付けたのか、椅子や床はきれいになっている。て、そらそうだ。いくら何でもぶちまけられた下痢便を放置したら衛生問題で学校閉鎖になりかねない。ほのかに花のような甘い香りが漂ってくるのは、片づけた誰かが消臭剤を撒いたからか。まあ、当然の処置だが自分のしたことを突きつけられるようで、ぼかぁそこはかとなく傷ついた。
ともあれクラスメートの話に戻るが、そう、明らかに彼らは気を遣っていたのだ。一見いつも通りに思える彼らの表情や言葉の端々に、俺は昨日の出来事に対する懸念を目ざとく見つけた。もう、昨日のことには触れないようにしようね、という空気が教室を支配していた。
俺は悲しかった。
こっちは壮絶ないじめの火ぶたが切って落とされてしまったな、どうしようか、くらいの覚悟で登校してきたというのに、何だろうこの態度は。別にいじめられたかったわけじゃない。むしろ、いじめは嫌だ。絶対に嫌だ。だけど、こんなふうに無かったことにされてしまうのはどうだろうか。それは一見、親切心溢れるクールで大人な対応に思えるかもしれない。だがしかし、そうした気遣いをすることでそこには一枚の見えない壁が生じるのである。そして、その壁がある以上は相手と真に打ち解けることなど到底叶わないのである。ウンコを漏らした相手に対し、その事実を頭から無視して無かったことにしてしまうのは大人の付き合いであり、決して友達の付き合いではない。俺は一番親しくしていた奴らまでが、そうやって今までの友達付き合いを大人の付き合いへとシフトしていくのを目の当たりにして絶望した。こいつらには、こいつらだけには、「くっさ。おいおい、ちゃんとケツ洗ってきたのかよ、ウンコマン」くらい言われたらさすがにへこむけれど、まあ、とにかくそんな感じで接して欲しかった。
そんな寂々寥々たる気持ちを抱えて見えない壁越しに言葉のキャッチボールをしていた俺はついに我慢できなくなって叫んだ。
「おい、お前ら!お前らは昨日俺がウンコ漏らしたことを腹ん中では笑ってんだろ!」
未だ担任教師の来ない朝のホームルーム前の賑やかな教室は一瞬にして静かになった。
「そんなこと……」
「嘘つけ!あんなことがあった後で、それをまったく考えないことなんてできるか!それを俺の前ではさも大人ぶって澄ました顔しておきながら、陰ではその話題で涙が出るほど笑ってんだろ!」
「被害妄想だよ……」
「昨日、ウンコ漏らしたのに堂々と登校してきやがったよ、なんて恥ずかしい奴だ、とか嘲笑してるんだろ!言っとくけどな、教室でウンコするのなんか俺にとっちゃ、全然、まったく、これっぽっちも恥ずかしくないんだよ!」
そう言うが早いか、俺は黒板前の教卓に駆け上って教室全体に背中を向けたままズボンを下ろした。女子生徒の悲鳴も意に介さず、俺はそのまましゃがんで力一杯踏ん張り、極太の一本グソを教卓の上に生み落とした。
「どうだ、見たか!クソ野郎ども!」
教室を振り返りながら叫んだが、どう考えてもクソ野郎は俺の方だった。
それ以来、俺は場の空気というものを積極的に破壊することに決めた。教室でウンコを漏らした俺にもはや怖いものなどなかった。壊すという視点に立って辺りを見回すと、世の中には実に暗黙の了解みたいな空気の多いこと、多いこと。たとえばイチャついているカップルがいれば道を尋ねたくても諦める人が大半だろうし、サッカーで味方のキーパーがボールをキャッチャしたら一先ず安心する。空気・雰囲気とは大勢の人間がそうあるべきと思っていて、そのことが周知のことだから結局そうなってしまうことだ。俺が壊すのはその因果律である。これは教室で下痢便を漏らして以降、形成されてしまった俺を囲む見えない壁への挑戦なのだ。クラスメート以外は全く関係なかったが、俺は勝手に全人類を巻き込み、この挑戦に協力してもらうことにした。
だから俺はイチャついているカップルを見つけたら必ず説明が難しい道案内を乞う。邪険に追い払われそうになったらねちっこく食い下がる。俺から逃げようと移動し始めたらしつこく追いすがる。殴られそうになったら、それを避けてでも食らいつく。殺されそうになったら、そこでようやく引き上げる。球技大会のサッカーのキーパーを買って出て、悪運ゴールでハットトリックを決める。体育のバスケでは自滅点で得点王になる。ビーチでナンパしているイケメンがいたら後ろから海パンをずり下げる。教師が説教をしている最中には爆音で屁をこく。
そんなことをし続けてきた。そんなことをし続けてきたから、友達は当然の如く一人もいなくなった。それでも俺は戦い続けている。見えない壁と。
だから不良女子高生の下着の中にプリンを流し込むことになったのだ。
場所は最寄りのコンビニエンスストア。買い物を済ませて出てきた俺は、駐車場の隅で見るからにひ弱そうな男を三人の女子高生が囲んでいるのを見つけた。女子高生は三人とも、いまどきこんな奴いるのかと思うくらい肌を焼いて黒くしており、いずれも真っ金々な髪の毛を整髪スプレーで前衛アートのように固めた輩であった。要するに不良のコスプレをしているのじゃないかと思うくらい典型的な不良の恰好をした女子高生であった。そして隠すつもりが無いのか、聞こえてくる大声でカツアゲしようとしているのが容易に分かる。
そして。
おどおどしているひ弱そうな男を三人の女子高生が囲んでいる脇を、一般人が我関せずを決め込んで素通りして行く。
ああ、これだよね。
俺は思った。
この空気がダメなんだよね。もう、こうなったらあの男は理不尽に金を奪い取られるの確定みたいなね。別に男が可哀そうだからとかそれが犯罪だからとかじゃなくてね。そうやって、もう確定みたいなのが良くないんだよね。この世には不確定要素っていうものがあるからね。それを受け入れていかないと世の中はどんどん詰まらなくなるんじゃないかなぁ。
と、誰にともなく胸の内で説教をしながら俺は買ったばかりのプリンを開けて、付属のスプーンでかきまわした。プリンはすぐにドロドロになったので、俺はそのまま女子高生たちの背後へと近付いていった。
「出せないんだ?お金?じゃあボコるけどそれでいいの?」
「いや、あの……」
「ねぇねぇ、こいつうざいし、ボコった後に全裸にして放置してあげようよ」
「あははは、うける、それいいね」
「プリン一つ入りまーす」
俺は三人組の内のリーダー格っぽい奴のスカートを、プリンを持った手で器用に捲り上げてから、反対の手で黒い下着のウエスト部分を引っ張って隙間をつくると、そこへぐずぐずになったプリンを一気呵成に流し込んだ。
「いやあああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっっっっっっっほう!!!」
ガン黒ギャルは世にも奇妙な叫び声を上げた。
一瞬喜んだのかと思ったが、振り返った彼女の顔を見て、すぐに気のせいであることが分かった。
俺は一も二もなく逃げ出した。当たり前だが、ガン黒ギャルたちは凄まじい形相で追ってきた。プリンを流し込まれた一人は股間から液状化プリンをボタボタと垂らしながら、ガニ股で走るという大変気持ち悪い走法だった。それが余計に恐ろしかった。
俺は街中を逃げ惑った末に、このポリバケツに隠れ潜んで彼女たちを撒いたのである。いや、まだ分からないが、そのはずである。バケツにできた割れ目から外を窺いながら、念のためもう少し隠れていようかと考えていると、そこへこの幻聴とも知れない声が聞こえてきたのだ。そのあまりにも喧しいトークについつい息を潜めているのも忘れて反応してしまい今に至る。
「いや、それじゃあ、その、ライトノベルの主人公がどうのって……」
「そう、あなたのこと」
「ふーん」
「反応薄っ」声は不満そうに言う。「何か無いの?もっとこう」
「何を求めてるんだよ?」
「だって、主人公よ、主人公。それもライトノベルってことは、もう無条件にモテモテ確定じゃない。男なら何かあるでしょ、そうでしょ?」もはや敬語をかなぐり捨てた声は、無礼なくらい砕けた感じで、ぐいぐい来る。というか、よく考えてみればこの声はそもそも人の事をイカれているとか言ったり、最初から無礼な感じで、うわっ、そう思ったらすっげぇ、なんか、もうすっげぇ、ああ、腹立ってきた。という感じにふつふつ怒りが滾ってきたが、正直今はそれどころじゃない。
「まあね。でも、今はそれどころじゃないっていうか……」適当に受け流しつつ、ポリバケツの蓋を僅かに持ち上げ、隙間から外を窺う。
「あー、分かった。信じてないんでしょ?ちょっと意外だな。頭の中に声が聞こえてくるなんてことが起きてるのに信じないとは。見かけによらず頑固なのね」
「いや、信じてるよ」
「嘘だぁ。だったら、もうちょっと何かあるでしょ?」
くどい。うざい。しつこい。可愛い女声に釣られて反応したのが悔やまれる…
「まあね、正直半信半疑な感じだけど、とにかく今は追われてる身だからね、うん、反応できないっていうか……」
その時、路地に足音が響いたので俺は慌ててしゃがみこみ、バケツの蓋を戻した。
「いた?」
「ううん。でも多分こっちだと思う」
「あいつ、マジふざけんなし」
「見つけたらどうする?」
「ちょっと、ムカつき過ぎて考えまとまんない。見つけてから考えよ」
「そうだね」
鼻息荒いギャルどもの声が近づいてくる。
おいおい、マジかよ。世の中を舐め切った恰好しているくせに、無駄に根性があるじゃんか。その根性をもっと社会に活かせるよう発揮できないのかよ、ぼんくら。ってぇ、罵倒している場合じゃなくて、どうしよう。こうなったら本当に力づくで行かなくてはダメだろうか……
男が女に手をあげてはならないという世の中の暗黙の了解に反して、徹底的にボコボコにするというのは確かに俺の信条に沿った、非常に魅力的な行動ではある。が、あまりにもリスクが大きくないか?てか、余裕で刑務所送りじゃないか?いや、見えない壁と戦ってたんです、なんて言ったら、おほほ、責任能力無しと見做されて精神病院送りで済むかな。それも嫌だけどね。
「あの人たちから逃げてるのね。困ってる?うん、困ってそうだね」声が、しめた、とばかりの声音になる。
「何だ、嬉しそうに言いやがって。大体、俺はモテモテになったはずじゃないのか?何であいつらはまだ怒ってるんだよ?」声の煽りに苛立ちながらも、ボリュームを落としてしゃべる。
「それは、まだあなたと交わしてないからね。ラノベの主人公になるという契約を」
「じゃあ、すればこの場を脱せるのか?」
「さあ、主人公補正といってもどれくらいモテるのか、正確には分からないし」
「さっき結構モテるって言っただろ」
「あれは宣伝文句、みたいな?」
みたいな?じゃねぇよ。ああ、くそ。その頭の悪そうな言葉がイライラする。他人事だと思いやがって。まあ他人事だけど……
「この辺に隠れてんじゃね?」
「あり得るわー」
不良たちの声はどんどん近づいて来ている。あかん、このままではマジで人生詰む。
「でも、契約してくれるなら、あなたの部屋まであなたを瞬間移動くらいさせてもいいよ?」
「できるのか、そんなこと?」
「うん、これでも一応、神の遣いだから」声は事もなげに答えた。
「分かった、じゃあ頼む」って、神の遣い?じゃあ、ラノベ書こうとしてるのって神なの?神ってそんなに暇なの?いやいや、待て待て、取りあえず今はこの面倒くさい状況を脱するのが先決。「どうすれば契約を交わせるんだ?」
「それは簡単。まずは自分の名前を言ってから、『私の行動記録に関する一切の権利をあなたに譲渡します』と言うの」
「分かった」急き込んだせいで少し声が大きくなる。
「ん?今こっちから何か聞こえた」
やばい。もはや数メートルしか離れていなさそうな不良ギャルの声に焦り、俺は口早に言った。
「八代正、私の行動記録に関する一切の権利をあなたに譲渡します」
あれ?何か勢いで言っちゃったけどこれって大丈夫なのか?と思う暇もなく体がギュッと縮むような感じがして目の前が真っ暗。