八十八章 神々の聖域
この季節にしてはやけに冷たい風が吹き荒ぶ。
その冷たさに、平原に佇む神聖エレクシル帝国の騎士達はぶるりっと背筋を震わせた。
彼らの顔色は皆、青白く不安で表情は曇っているが、そこに現状に対する気後れしている様子は見受けられない。
女皇ファティエル=ハイランド=ルーメンアーツの名において宣言された魔族との決戦。
それが、彼らの前に延々と広がっている名も無き平原で行われる。如何に覚悟を決めているとはいえ、騎士達はそれでも緊張感を隠せずにいた。
普段通りでいられるものなど、見渡す限り存在しない。かの六将軍でさえも、表情を硬くしている。
人類が魔族にこと戦闘に関して勝っている点をあげるとすれば、単純な数が勝るという以外はない。
普通ならば物量はそのまま戦争に置ける最大の武器となるだろうが、生憎と魔族相手にはそうはいかない。
様々な人外の怪物を魔族という種族の枠組みに当てはめてはいるが、それぞれの力量はかけ離れている。それでも、最低ラインが兵士級魔族―――すなわち第五級危険生物に分類される。彼らの人類への果てしない敵意が危険視されているとはいえ、兵士級魔族でさえも一対一で勝てることが可能な騎士は極僅か。数人で相手をしなければ戦闘にもならないほどの実力差がある。しかも、その肝心の物量でさえも今回ばかりは勝てているか不明であることもまた不安に拍車をかけた。
それほどまでの怪物達が、歴史上類を見ない万を超える大群を率いて侵攻してくる。
絶望してもおかしくはない。逃げたとしても責められはしないだろう。
しかし、ここに集った騎士達は既に覚悟を決めた勇者であった。間違いなく死を迎えるであろう戦争に、躊躇い、葛藤、逡巡、恐怖、絶望―――様々な想いはありながらも確かにこの場に立っていたのだから。
整然と陣形を組んでいる騎士達の最後方。そこに一つの陣幕があった。
この場に集った騎士達の主であり、神聖エレクシル帝国の頂点―――女皇ファティエルがその陣幕の内部にて椅子に座ることなく両腕を組んで遥か彼方を睨みつけている。
その方角は南方。魔族達が侵攻してきているであろう方向で、可憐な容貌をキッと引き締めてはいるが、配下の騎士達のように不安は表情に全く見受けられない。
皇城では煌びやかなドレスで着飾っていたが、今の彼女は簡素な白い法衣のみ。
ただし、その法衣の至るところには幾何学的な紋様が編みこまれており、尋常ではない魔力が感じられる。それはかつて大陸を制覇した英雄王アルベルトの時代に鍛え上げられたと言われる幻想大陸最古の魔法具。神聖エレクシル帝国が保有する宝具の一つ。
更には彼女のすぐ傍の地面に突き刺さっているのは、人の背丈ほどある長い黄金色に輝く杖。杖の先端には二匹の蛇が絡み合うようした装飾が為され、これもまた見るものの心を惹き付ける魔性を秘めていた。
彼女の背後にはアルストロメリアとリフィアを先頭に、六人の七剣が控えている。
女皇の前と言うこともあり、比較的に話をするアルフレッドでさえも口を噤み、陣幕の中は静寂に包まれていた。
時折吹き付ける風が、陣幕の布を揺らしざわつかせる。
「……魔王、魔王か。全く、まさかオレ様の代で帝国がこんな危機に陥るとはな。人生ってのは侭ならんもんだぜ」
皮肉気に口元を歪ませるフェティエルに、何と答えたらいいのかわからずに皆が沈黙を持って返答とする。
返事がないことは気にも留めず、女皇は組んでいた両腕を解くと傍の地面に突き刺さっていた黄金色の杖を右手で握り締め、引き抜く。シャランっと心地よい音色を杖の装飾が奏で出す。
「人外の超越者……魔王。その力は、人の及ぶところにない。かの魔獣王種にも比肩する人類の敵対者。暴虐の悪鬼ヤクシャ。悪霊の王パズズ。渇望の悪魔ザリチュ。煉獄の魔王デッドエンドアイ。普通に考えたならば、勝てんわな」
改めて口に出してみるととてつもない相手なのだと再認識できる。
かつては煉獄の魔王の襲来時には、甚大な被害を被ったと言われているが、今回は間違いなくその比ではない。
何故、今更魔王が連合を組み中央大陸へと攻め入ってきたのか謎だが、その理由を幾ら考えても憶測にしかならず、無駄に終わる。
「とはいっても、白旗あげても皆殺し。逃げたとしても僅かな時間稼ぎどころか状況はさらなる最悪に持っていかれるだけ。八方塞ってもんだ、これは」
口から出る絶望的な台詞とは反対に、ファティエルの瞳は闘志に燃えていた。
絶望など全く抱いておらず、自分たちの勝利しか疑っていない。
例え、それがただの強がりであったとしても、ここまで己を貫き通すことができる彼女は並々ならぬ傑物であることは誰もが認めることは間違いないだろう。
「お前の策がはまることを期待してるぜ、アルストロメリア」
「はい。お任せを」
軽口を叩きながら振り返った女皇に、真剣な眼差しで答えるアルストロメリア。
永久凍土と謳われる彼女もまた、ファティエルと同じく焦燥は見られない。しかし、やはりというべきか若干の緊張感を漂わせているのは当然であろう。
これから行われる魔族との人類の命運を賭けた世紀の大決戦。その鍵となるのはアルストロメリアを筆頭とする七剣と言っても過言ではないのだから。
それを知っているファティエルは、申し訳なさそうに目を伏せる。だが、それも一瞬でしかなくすぐに傲岸不遜な雰囲気を纏った彼女へと戻る。
「……お前には何時も苦労をかける。だが、今回も任せたぜ」
「身命に賭して」
力強く頷いたアルストロメリアに満足したのか、ファティエルは彼女に背を向ける。
遠く離れていても分かる、吐き気すら感じさせる瘴気。それが徐々に近づいてきていた故に。
そんな二人のすぐ背後にて、アールマティは腰に差してある短剣を一撫で。
つい先日の会話を思い出していた。
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「……魔王を一体、か。別にあたしは構わないけど……他の分担はどんな感じになったの?」
アルストロメリアの言葉を、アールマティは特に驚くことなく受け入れた。
面倒なことにならないため、適度に手を抜いていた彼女だったが、先日の魔族へ対する攻撃を鳳凰丸とティターニアに見られたことからこのような事態になることはある程度予想がついていた。
もっとも、七剣の第一席であるアルストロメリアにはかなり怪しまれていた節があるが、今回のことで確信に至ったのであろう。
魔王を一人で相手取る。
その意味を理解していながら何でもないように聞き返してくるアールマティに頼もしさを感じながらアルストロメリアは話を続けるために口を開く。
「各大陸に援軍の要請は送りましたが、魔族は真っ直ぐに侵攻してきています。まず間違いなく援軍は間に合わないでしょう。その他に、西大陸にいるであろうキョウ殿とディーティニアにも早馬を送りましたが……こちらも望み薄です」
「あの二人がいたら戦局を簡単に変えられそうなんだけどね、タイミングが悪かったかな」
「ええ。魔族の侵攻がもう少し遅ければと悔やんでも悔やみきれません」
「でも、意外だね。てっきり篭城するかと思ったけど」
「エンゲージは篭城をするのに向いていません。民もまた逃がす時間もありませんしね。それに魔族……それも魔王を相手に篭城をしてもほぼ意味を為しません。城壁など一瞬で崩壊するのがおちでしょう。ですので、危険を承知で決戦を仕掛けるしかありません」
「……それもそうか。ああ、そういえばあの魔女に力を貸してもらうのって大丈夫なの? なんだっけ……神罰対象者ってやつじゃなかったっけ」
「こんな状況でも貴族派には渋る者もいましたが、フェティエル様の許可がでましたしね。内心はどうであれ、認めるしかないでしょう」
ディーティニアの嫌われっぷりは中央大陸では半端ではないことを思い出したアールマティの質問だったが、アルストロメリア曰くどうやら問題はないらしい。
しかし、発言にもあったように帝国が滅びるか否かの瀬戸際でさえも渋る者がいたことに人間は幻想大陸でもアナザーでも一緒なのだと感想を抱いた。
「魔族の軍勢は、六将軍と騎士団に食い止めていただきます。リフィア殿の秘蔵っ子達もそちらの援護に回ってもらうことになるでしょうが」
宮廷魔術師筆頭のリフィア子飼いの弟子達。
五大魔女やティターニアとは比べるまでもないが、それでも十分な実力者であることは間違いない。
六将軍にしてもそうだ。相当な力量の持ち主の上、魔族との最前線で戦ってきた騎士団の実力も生半可なものではない。
が―――それでも、あの水平線を埋め尽くしていた百鬼夜行に対抗できるか否か。
「ちょっと厳しいかもよ?」
「無論、覚悟の上です。それに、彼らだけではありません。ファティエル様もそちらの援護をして頂く予定です」
「女皇まで出陣するんだ」
仮にも神聖エレクシル帝国の女皇が、戦場まで出向くことに多少の驚きを含めてアールマティが呟いた。
彼女の驚きも当然。国のトップが戦場―――しかも勝算の薄い戦いに出陣するなど滅多にあることではないだろう。
「はい。ワムナフ殿は何度も説得していましたが、ファティエル様は頑として譲らず。結局無理やりに押し通りました」
「へぇ……あの若作りの爺さんも苦労してるね。で、単純な疑問だけど……女皇が戦場に来て士気をあげてくれるのは有り難いと思うよ? でも、それで何とかなる相手だとは思えないけど」
「ああ、はい。士気のこともありますが……あの御方の強みは他にあります。ファティエル様が特異能力を十全に発揮させれば、恐らくは魔王以外の魔族との戦場を拮抗させることさえも可能かと」
「……へぇ。それは凄いね」
アルストロメリアの台詞に、影使いは珍しく驚いたのか感嘆の声をあげた。
あの魔族の軍勢に押し潰されることなく、戦争を拮抗させる。それは生半可なことでは不可能だ。
それを為す特異能力は、一体どれほどの規格外のものであるのだろうか。
「で、あとは肝心の魔王達の割り当ては?」
「……魔王を相手にそれなりに戦力に数えられるのはこの神聖エレクシル帝国においても僅かです。我ら七剣、そしてリフィア殿くらいかと。つまりはこの八人で四体の魔王と戦わなければなりません」
「……うん、そうだね」
彼女の言葉に、頷くアールマティ。
はっきり言えば、七剣であっても魔王を相手にするには格が違いすぎる。
そのことは、アルストロメリアとて重々承知のことだろうが、この帝国において七剣よりも強い者がいないのもまた事実。
質より量ということで騎士団をぶつけるという手も考えられるが、それで対応した煉獄の魔王には為すすべなく壊滅させられたという過去がある。
「できれば戦力は均等に分けたいところですが、今回ばかりはそれをすれば各個撃破されるのが目に見えています。それ故に、最小限の戦力で魔王三体を足止めし、その間に確実に一体の魔王を沈めます」
「うん、いいんじゃない?」
「鳳凰丸とティターニアには、ヤクシャを。ライゴウ殿とカルラ、アルフレッドにはパズズを。アールマティ、貴女にはザリチュを担当して頂きます」
「渇望の悪魔だっけ? 了解。じゃあ、残った煉獄の魔王ってやつを……」
「はい。私とリフィア殿で相手をします。彼女の魔眼が発動すれば、戦線は一瞬で崩壊することになりますからね。もっとも厄介だと思われる彼女をまずは排除します」
神聖エレクシル帝国の二強。
五大魔女において、ディーティニアに継ぐ実力者である撃震の魔女。
魔人さえも容易く屠る、七剣設立時から現在に至る今日まで最強の名を欲しいがままにしている永久凍土。
この二人による煉獄の魔王への電撃作戦。
まさか魔王も人類がいきなり王の首をとりにくるとは考えていないだろう。そこの油断さえも利用する。
作戦自体は悪くはない。
というか、アールマティ自身そういった点には詳しくないのだから何とも言えないというのが本音であった。
そもそも、七つの人災としてエレクシル教国と戦っていた時も個としての力が強すぎた彼女達は作戦というものを立てたことがない。圧倒的な力で全てをねじ伏せていった。
それに神聖エレクシル帝国に世話になってそれなりの月日がたったとはいえ、この国の戦力については把握しているとは言い難い。自分があれこれと口を挟んでも仕方がない。
それがアールマティの結論であったが、気になる点が一つだけある。
「……魔王が四体。そのうち二体が多分かなりヤバイよ」
「―――二体、ですか?」
「まぁ、うん。あたし基準の話だけどね」
アールマティの基準、と強調しておく。
それもそうだろう。はっきり言えば、人類にとっては魔王の誰かしらが危険だとかいうレベルではなく、四体ともが尋常ならざる化け物達なのだから。
「信じる根拠は様子見の攻撃を防がれた感覚とかあたしの直感とかだから、証拠はないんだけどね。なんかヤバイのが二体いた」
「……二体。どんな相手だったかはわかりませんか?」
「残念ながら。遠く離れていたから姿形とかはわかんない。何度も言うけど証拠はないからあまり気にしないでよ」
「貴女ほどの使い手が、そうまでいうのです。気にするなというほうが無理ですよ」
アールマティからの情報に頭が痛くなる想いを隠せないアルストロメリアだったが、詳しいことは全く分からない。
作戦を変更するにしても、この状況ではどうしようもないというのが事実だ。
心に留めて置くしか今は出来ないことに内心で歯噛みをするアルストロメリアの不安は、結局晴れることなく彼女の心に僅かな楔となって打ち込まれるのであった。
▼
「―――来たか」
アールマティの回想を中断させるように、ファティエルの鋭い剣の如き言葉を発した。
女皇が睨みつける方角に、誰もが視線を送る。
大地を怖れさせながら、大気が震える。場の空気を浸食していく禍々しい悪意の気配。おぞましいほどの憎悪が込められた人外達の咆哮が、遥か彼方から近づいてくる。それは徐々に大きく鳴り響き、やがて地平線の彼方を黒色に覆いつくすほどの魔族の大軍勢が姿を現した。
アールマティにかなりの数を殺されたというのに、それでも減ったように見えないほどの百鬼夜行は、聞く者の全身を総毛立たせる狂気と凶気をばら撒いている。
狂ったように雄叫びを上げて、人とはかけ離れた姿形をした化け物達が、血走った目を待ち構えていた人間達へと送りながら大地を辿って近づいてきた。
それだけでも、逃げ出したくなるというのに―――。
百鬼夜行の先頭に、騎士団など眼中にないと言わんばかりの様子で、四体の超越存在がいるのだ。
覚悟を決めた騎士達が、その存在を見るだけで心に恐怖という名の亀裂が走る。
それぞれ単騎で街一つ破壊可能な将軍級魔族や魔人さえも、視界に入らない。桁が違うのだ、格が違うのだ、存在としての次元が違う。彼らが歩むだけで、空に嵐雲が渦巻く。大地が陥没していく。地面が罅割れ、そして円状に均されていく。草木や花々が一瞬で燃え上がり、塵となって散って行く。
無理だ。やはり無理だ。
勝てるわけがない。こんなのは、勝てるかどうか以前の問題だ。
戦いにすらなるわけがない。化け物だ。正真正銘の怪物達だ。
ああ、神よ。何故、何故、何故、こんな、こんな、こんな―――死神にも等しい天蓋の存在を生み出したのか。
そうだ。逃げよう。今すぐに逃げよう。さすれば、もしかしたら、万が一にでも、命を拾うことが―――。
「―――うろたえるな、馬鹿者がっ!!」
一喝。
可憐な、だが苛烈な少女の声が、戦場に響き渡った。
その声は不思議とこの平原にいる全ての騎士団の耳へと届く。
それに、はっと朦朧としていた意識を引き戻され、騎士達は今にも逃げ出しそうになっていた自分達に愕然とする。
命すら惜しまないと決意してこの場にいるというのに、戦う前に気圧されてしまったことを恥じるように奥歯をギリギリと噛み締めた。
たった一度の一喝にて、脅えていた騎士達に己を取り戻させたファティエルの所業は、神か悪魔か。それとも、彼女もまた覇王としてのカリスマ性をその身に宿しているのか。その答えは今はまだ誰にも分からない。
そんな彼らの姿を確認したファティエルは、口角を吊り上げ笑う。
魔王とその軍勢を前にしながら、未だ彼女の余裕は崩れていない。
両手に持った黄金の錫杖を天に向かって掲げた彼女の雰囲気が凛として変化する。そう、それは神聖エレクシル帝国の女皇として相応しい超然としたものへと。
「―――聞け!! 勇敢なる我が騎士達よ!!」
魔王とは異なる、力ある波動がファティエルから迸る。
肉体を包んでいく太陽の如き暖かな奔流に、ぶるりっと騎士達は身体を震わせた。
「脅えるのも当然だ。怖れるのもまた理解できる。だが、忘れるなっ!! お前達は何を背負ってここにいるのか、何の為に覚悟を決めたのかっ!!」
そうだ。
自分達はただ命令があったからここにいるわけではない。
「家族の為。友の為。愛する恋人の為。魔族に対する憎悪、国へ対する忠誠、己の誇り、名誉の為。理由は様々あるだろう。だが、お前達がそれが命を賭けるに足る理由だと考えたが故に、ここにいるっ!!」
改めて悟る。
ただの傀儡だと考えていた女皇は、ファティエル=ハイランド=ルーメンアーツという若干十七歳に過ぎない小娘が。
「恐れに、怖れにその身が竦んだとしても戦う意志が残ったのならば、退くな!! 逃げるな!! 剣を取れ!! 命を賭けろ!! 魂を燃やせ!! この戦いの間も、それ以降もお前達の戦う理由、決意、覚悟、それら全てをオレ様が背負ってやる!! だから、だから、だから―――」
確かに自分達が忠誠を尽くすに値する王者の風格を漂わせていることを認めようではないか。
「―――お前たちの全てを賭して、オレ様とともに征け!!」
女皇の宣言を皮切りに、魔王と魔族の大軍勢の圧力を切り裂いて、赤銅色の鎧を纏った騎士団が疾駆する。炎の将グラハム率いる合計二千の赤獅子騎士団が、一つの塊となって平原を駆け抜けた。
「―――九字の真言。黄金の錫杖を持って四縦を裂き、五横を描く」
朗々と、謳うようにファティエルが言葉を紡ぐ。
グラハムに負けるものか、と右翼に続くのは蒼天の如き鎧を纏った水の将アイオライト率いる千五百の青獅子騎士団。それとは逆の左翼を支えるのは大地の将カザナギ率いる土獅子騎士団。
「急々如律令と唱えるならば、あらゆる悪魔、魔族、死霊、魔獣は滅びへと向かう」
ファティエルの身体から横溢する黄金の魔力。
神々しく、反射的に跪き頭を垂れたくなるほどの覇者の重圧。
それに背を押されて、残りの三騎士団も疾風と化す。
土煙をあげながら、迫り来る魔族へと恐怖も畏怖も何もなく決して退かぬという鋼のような不退転の意志を胸に抱く。
砂埃をあげながら激走一つの巨大な生物となったそれに、笑みを浮かべて視線を送る二体の魔王がいた。
そのうちの一体である、魔王ヤクシャ。彼の口元に浮かんでいるのは紛うことなき、称賛の笑みであった。
人類の敵対者たる魔族の大軍勢を前にして、ここまで躊躇いなく突撃してくる騎士団へ対して、それこそ手放しで拍手でもしてやりたいほどに驚かされた。
人類は彼を誤解している。
いや、それは正確ではないだろう。確かに彼は人類にとって最悪の敵対者の一体。ひたすらに殺戮を繰り返す化け物。魔王ヤクシャとは暴虐の悪鬼。人を喰らい、人を殺す。人類の最悪の敵対者。
なるほど、確かにそれは畏れるのは当然だろう。恐怖を抱くのも当たり前だ。
しかし、それは悪鬼である彼の性。人が動物を食べるように、彼も鬼の本能が人を食させる。血も涙もない悪鬼だと罵られようが、食べなければ生きていけないのだから忌むべきではあるが、否定するのは些か間違っているはずだ。
そんな彼だからこそ、人類へ対して一切の情がないと思われるかもしれないが、それは違う。ヤクシャは人類にとって負の感情を持ち合わせていないのだ。暴虐の悪鬼にとって、最も重要視すべきは己と戦えるものの存在がいるかどうか。自分と闘争を行えるものならば、それが人類だろうが魔族だろうが関係ない。種族性別問わず、彼はその相手に敬意を払う。尊敬を抱く。畏敬の念を示す。誠心を持って強き戦士へと報いることに是非はない。
純粋なまでに闘争を求める魔族―――それこそが、ヤクシャという名の戦鬼だ。
笑みを浮かべているもう一体。魔王パズズの笑みとは、化け物というに相応しい容貌でもはっきりとわかる程に薄ら寒いものであった。それは人間を侮蔑したものであるのは誰が見ても明らかで、その笑みがパズズという名の魔王の何たるかを表している。
蟻をみるかのように見下しており、同じ戦場に立っていながらどこまでも彼の獣の眼は冷ややかであった。
どちらが勝利するかわからない。ギリギリの命を賭けた闘争を愛するヤクシャとは異なり、パズズにとって大切なのは自分だけ。それ以外は全てが塵芥。己を異常なまでに愛する悪霊の王にとって、決死の覚悟を込めた騎士達の突撃を見ても心を揺さぶられることはない。逆に、愚か者がと見下しさえしていた。
残りの二体。
ザリチュは仮面に顔を覆われているため、感情を読むことが出来ない。
ただ、気配が微塵も変化していないところを見るに、彼もまた人間達の行動に何の感慨ももっていないと判断しても良いだろう。いや、どちらかというとパズズと同じく見下している雰囲気を纏っているのかもしれない。
デッドエンドアイもまた同様だ。
黒い呪詛帯で顔を覆っている故に、彼女の表情も読むことが出来ない。
しかしながら、ザリチュやパズズと同じ―――見下すというよりは、無関心といった方が正しいのかもしれない。
まるで、目の前には何も存在していないかのように、興味の一欠けらも彼女の心にはなかった。まさしく彼女が内包するのは虚無という虚ろが相応しい。
そんな対照的な魔王達を守るべく―――否、彼らの手煩わせないために魔族達もまた動く。
一切の躊躇いなく攻め入ってくる騎士団を迎え撃ち、逆に屠るべく無常の百鬼夜行がけたたましい咆哮をあげながら進撃した。
質でも量でも劣る人類に勝ちの目などありはしない。
ただ無残に、陰惨に、残酷に、人の命は潰えて終わる。
もしも、ここにファティエル=ハイランド=ルーメンアーツという少女がいなければの話だが。
「臨める兵、闘う者、皆、陣烈れて前に在り―――」
緩やかに、掲げていた錫杖を振り下ろす。
振り下ろす際に聞こえた音はただ一度。目で追えた軌道もまた一つまで。
光の奔流が、輝きをさらに強くする。
見るものの視界を埋め尽くすほどに煌いて、弾ける黄金の魔力。
少女の小柄な肉体から空へと駆け上り、魔王達の魔力によって呼び寄せられていた黒雲を消し飛ばす。
神聖な光の浄化が、不吉な魔王の圧力を凌駕する様は圧巻とも言えた。
そして―――この場にいる全ての存在の度肝を抜く奇跡が引き起こされる。
見渡す限りの蒼い海となった天空に煌くのは碁盤状に形作られた光の軌跡。
平原全てを飲み込まんばかりの巨大さの、黄金に輝く網目を描いた正方形の結界が空に浮かぶ。
「―――特異能力。神々の聖域!!」
臨兵闘者皆陣烈在前。
九字の名の下に、蒼天に刻まれていた光の奇跡が怒涛の勢いで地上へと降り注ぐ。
その目で見ながら、誰が信じられようか。
まさしく神の御技にしか見えない、人の為せる限界を超えた奇跡。
合計九つの光の柱が地上に落ちる。
巨大な平原を全て囲むように、八つの柱が空に浮かんだ正方形の結界をそのままに形作り、その中心に最後の一柱が突き刺さった瞬間―――それぞれの柱を繋ぐ眩い閃光。
その光に背を押された騎士団と、清浄な輝きに足を止められた魔族達。
魔に属し、闇を愛する彼らは言いようのない嫌悪感に襲われた。それは数多の言葉で語られるよりも、なお雄弁に本能に叩きつけてくる。
畏れ慄け。絶望せよ。
貴様ら魔族が人類を恐れさせるのと同様に、その逆の事態が起きないとでも思ったか。
外界から持ち込まれた東洋の秘術。それを数百年に渡って独自に進化させ、幻想大陸で昇華してきた魔法と併せて産まれた混合術法。さらには、帝国歴史上最高の法具の二つによる上乗せと、ファティエル=ハイランド=ルーメンアーツという怪物が十七年間溜めに溜めてきた魔力の解放。それら全てが相乗効果を生み出し、彼女の特異能力を神々の領域へと押し上げる。
刮目してみよ。
これがヒトがヒトのまま、世界の理を捻じ曲げるにまで至った神威也。
その黄金の光によってもたらされた急激な変化に、魔族達は息を呑んだ。
空を覆っていた黒雲だけでなく、罅割れていく大地や、塵となって散っていく草木や花々もまた燃え上がるのを止めてく。
信じられないことに、この平原を掌握しているのは魔族達ではなく、ましてや魔王でもなく―――神聖エレクシル帝国が女皇。ファティエルという名の少女であった。
進軍の歩を緩めた魔族達とは異なり、さらに加速した騎士団が遂には魔軍と衝突。そして、そのまま兵士級魔族や騎士級魔族で構成された軍勢の最前衛を貫いていった。その光景は魔族達はおろか魔王でさえも予想できない結果だったのだろう。
魔王達の誰もが意外なものを見たと言わんばかりの様子を隠そうともせずに驚いていた。
ただ一人の例外が、デッドエンドアイ。彼女は予想していたのかそれとも単純にどうでもいいのかわからないが、雰囲気に揺らぎ一つ見せてはいない。
モーズの十戒の如く、縦一文字に炎の騎士団が百鬼夜行を割り砕く。
左右に弾かれり命を拾った魔族達も、追従する他の騎士団によって刺殺、斬殺、轢殺されていく様はただ一言、圧巻としか表現できない。
例え士気が如何に高かろうが、騎士団と魔族がぶつかりあえば後者に軍配があがる。
ならば何故、このような圧倒的な結果となったのだろうか。その原因は、一体なんなのか。
今現在進行形で阿鼻叫喚の地獄絵図となっている己の部下達を見ながら、その疑問を解消させるようにヤクシャは自分の右腕の拳を握って開いてを何度か繰り返す。
「……なるほど。身体の動きが鈍いな。信じられねぇことだが、魔王級の俺様にまで影響を及ぼすほどの結界、か。これは、人類もとんでもない隠し玉をもってやがったな」
「くかかかか。やるのぅ。敵対するワシらへ対しての能力低下……流石のワシも少々驚かされたわ」
悪鬼の言葉にパズズもまた自分の身体の動きが若干悪くなっていることに気づき、遠く離れている九つの光の柱を獅子の瞳で順番に眺めていく。
「……しかも、これだけの広範囲に渡って効果を発揮させる。尋常ではない」
ザリチュもまた、驚きを隠せなかったのか声に僅かな抑揚が見受けられた。
「それだけではない。付け加えるのならば、我らとは逆に人類への能力強化もあるようだな」
デッドエンドアイの冷静な一言に、三体の魔王もまたようやく気づく。
単純に魔族側の能力が下げられただけではなく、今魔族側を蹂躙している騎士団の動きが異常なまでに鋭いことに。
魔族へ対する能力低下ならばまだ理解できる。騎士団たちの能力強化でもまだ納得が行く。
しかし、それに加えて魔王級の天蓋の超越者にまで薄いとはいえ効果を及ぼし、両軍併せて万を容易く超える軍勢にまで影響を与える。それはどこまでも規格外の能力なのか。
「―――人類を舐めるなよ、化け物風情がっ!!」
苛烈な、そして底知れぬ敵意を込めて呟いたファティエルの咆哮は、阿鼻叫喚の戦場においてなお、魔王達の耳朶を打った。




