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幻想大陸  作者: しるうぃっしゅ
五部 中央大陸編
95/106

八十七章 影使いアールマティ










「そういえばさ。少し小耳に挟んだけど、九十九があんたを狙ってるって」

「九十九……九十九か」



 数十人は入れそうな広い土間。

 そこには丸太をただ切って置いただけの食卓が幾つかあり、それを証明するかのように表面には幾層もの年輪が見られた。精々が、二、三人が利用するのが精一杯の大きさのテーブルである。その周囲には、これまた簡素な椅子が二つばかり用意されており、そこに腰を下ろした二人の男女が熱い出汁に入った蕎麦を啜っていた。


 どちらも二十にも満たない若い少年少女。

 ただし、誰が見てもこの二人を少年や少女といった言葉の枠組みでは納まらないと理解してしまうだろう。少年からは目の前に飢えた獅子がいるのではないかと錯覚すらしてしまうほどの他者を圧倒する雰囲気を、少女からはあまりにも透明で、この場にいることさえ忘れてしまう程の印象の薄さを感じられた。


「……九十九か。それは厄介だな」


 ずずっと熱い蕎麦を啜っていた黒髪の少年は、口の中のそれを咀嚼。嚥下してから、目の前にいる蒼髪の少女へと言葉を返すものの、その返答に少女は箸を持つ手を止め、半眼で少年を見据える。


「……キョウ。あんた、九十九って名前に心当たりないでしょ」

「いや。そんなことはないぞ、アルマ? ああ、うん。ほら……あれだ。二ヶ月くらい前に、人身売買をしていた妖しい組織を叩き潰したが―――」

「それは、蛇だし」 


「―――そう。あの組織は蛇といったな。確か半年くらい前に侵入した神代の遺跡で出くわした―――」

「……あれは、月読」


「―――のは、月読だったな」



 必死に思い出そうとする少年―――キョウに対して、彼にアルマと呼ばれた少女は淡々と突っ込みを入れていく。

 視線を天井へと逸らし、様々な心当たりをあげていくが、全くもってかすりもしない少年の台詞に、少女はお手上げだと言わんばかりに瞳に呆れの感情が混じっていく。

 

「覚えてないなら正直に言いなよ」

「……すまん。記憶に全く無い」


 結局言い訳を諦めて、少年は本音を漏らす。

 彼の中で、九十九という名前には本当に覚えが無かったのだ。

 自分を狙っているということは、相手方に恨みを買っているはず。つまりは、これまでに敵対してきた組織に違いないのだが、ここ最近でそんな名前の組織に組する相手と戦った心当たりはどれだけ記憶を辿っても思い出すことはなかった。 



「思い出せないのも仕方ないかな。かなり昔の話だしね。あんたとあたしが出会うよりももう少し前」

「……というと、二年近く前になるのか? ちょっと待て。もう少し考えてみる」


 丸太のテーブルに両肘を突いて両手の指を絡め、その上に顎を乗せて言い放ったアールマティの発言に、キョウは視線は天井に向けたまま両腕を組んで考えにふける。そのまま十秒、二十秒と思考の海に意識を潜らせたキョウをじっと見つめる影使い。

 まだ心当たりにも辿り着けないのか沈黙を保つ彼の顔を眺めたまま、アールマティは邪魔することなく答えを静かに待つ。


 シンっと静まり返った寂れた食事処の一画。

 もしも、多少でも裏の世界に足を踏み入れた者であるならば、この二人を目の辺りにして腰を抜かしたに違いない。

 

 少年は、齢十七にして諸国に剣鬼と怖れられ、東部でも五本の指に数えられる傭兵。

 キョウ=スメラギ。


 少女は、齢十六にして影使いと呼ばれ、五大国の上層部にすら怖れられる元暗殺者。

 アールマティ=デゲーデンハイド。


 そんな超ビッグネームの二人がこんな食事処で一杯二百シェルという安物の蕎麦を啜っているなど誰が考え付くだろうか。

 しかも彼らは先程口に出した通り、様々な組織と敵対している。彼ら二人に完膚なきまでに叩き潰された裏組織は数知れない。ましてや、各国の戦争でもその名を轟かせる活躍ばかり。裏の世界では、二人の首には生死に関わらず多額の懸賞金までかけられている始末だ。


 そんな二人が出会い、ともに旅をするようになって既に二年が経過していた。

 最初の出会いからしてまともではなかったが、結局は二年も一緒にいることを考えれば、二人の相性は悪くは無かったということなのだろう。


「駄目だ……心当たりがありすぎて逆に分からん」

「……だと思ったよ」


 結局素直に負けを認めたキョウに、肩をすくめてアルマが答える。

 目の前の少年は、敵が誰であろうとも臆することは無い。例えどれだけ悪名が轟いていてもそれに背を向けることも無い。故に、相手の名前など相当のことがない限り、気にも留めない。それが、アールマティが知るキョウ=スメラギという男なのだから。


「この大陸の東部を中心として活動していた闇組織―――龍。その中でも腕利きだけが集いて組織された最強最悪の戦闘集団。あたしの名が知れ渡るまでは暗殺者としての代名詞とまでなった東国の闇そのもの。それが、九十九……あんたが三年くらい前に潰した連中だよ。その残党が最近動いてるってさ」

「あー、そういえばいたな……そんな連中」



 アールマティの説明に、ようやく得心が行ったと視線を天井から彼女に戻して、何度か頷く。

 その姿に、自力では思い出すことが出来ないほどの記憶の片隅に追いやられていたかつての最強と名高い集団に、彼女は同情を禁じえなかった。



「全員は無理だが、一人厄介な奴がいたのは覚えているぞ。龍雷考(リュウレイカオ)……あいつは強かった。俺が戦ってきた中でも十分に上位に入る腕前だったな」

「……へぇ。あんたがそこまで言うなんて珍しいね?」


 キョウの評価にアールマティは若干驚く。

 なにせ、この男のこと戦闘という点に関しての評価はかなり厳しい。いや、かなりどころの話ではない。世間では達人と称されている相手であっても相当なことがない限り、戦っても彼の記憶には残らないだろう。

 現に、キョウと一緒に旅をした二年で、彼の御眼鏡にかなった敵は片手の指で数え切れるほどだ。

 

 それほどまでキョウ=スメラギという少年は―――強すぎた。


 当の昔にヒトの枠組みを超えてしまった剣鬼。

 常に死と隣り合わせの人生を送ってきたアールマティでさえも、キョウに比肩する相手を見つけることは出来なかった。


 それはつまり各国の王族くらいしか存在を知らない、エレクシル教国の闇―――数字持ち(ナンバーズ)でさえも及ばないということを意味する。

 たかが十七の小僧っ子。場所が場所ならまだ子ども扱いされる年齢の少年に、勝つことが出来ない数字持ち(ナンバーズ)を責めることはお門違い。そもそもがこんな化け物と対抗しようという考え自体が間違っているのだ。



「まぁ、な。もっとも、お前の方が遥かに強いが」

「……な、なに急に言うのさ」


 遠い眼をしていたキョウだったが、突如としてそんなことを言い出す。

 彼のその評価に、心臓がドクンと大きく波打ち、口から出た言葉が僅かに震えるものの、普段通りの冷静な表情を崩すことはなかった。



「別に正直に言ったまでだ。俺のこの三年の旅の中で最も利となったことは―――間違いなくお前に会えたことだ」

「……っ」


 

 とてつもない殺し文句をさらりと吐いてくるキョウに、アールマティが耐え切れずに顔を下へと背ける。

 身体の芯からやってくるマグマのような熱さが身体を焼いていく。心臓が痛いほどに早鐘を打つ。

 顔が火照る。吐き出す息が熱い。目の前にいるキョウの顔を碌に見ることも出来ない。

 

 ―――ああ、もうこいつ。なんでこんな恥ずかしい台詞を言ってくるかな。


 心の中で罵倒して、なんとか今の表情を見られないようにずっと下を向き続ける。

 今の自分の表情を見られるわけには行かない。何故ならば、絶対に、今の自分は口元に浮かんだ笑みを隠しきれていないはずだから。


 

  

「アルマ―――」  





 しかし、そんな甘い雰囲気を突如としてぶち壊す、緊張したキョウの声が小さく漏れる。

 頬が未だ桜色に染まっているアールマティが上目遣いで見上げれば、ここではないどこかを鋭い視線で睨みつけているキョウの姿があった。

 何事かと訝しむ彼女だったが、遅れること一秒。普段の彼女であったならば或いはキョウよりも早く気づけたかもしれないが、ほかの事に気を取られていたことが僅かに察知を遅らせる。



「―――まずい。まずいぞ。まずすぎる。何でこんなところにあいつがっ!!」

「なっ……なんだよ、こいつ。ありえ、ない。ヒト……か? いや、ヒトであるはずがないっ!!」



 絶叫。魂が擦り切れるような悲嘆。

 ガタリっと椅子から勢いよく立ち上がったキョウとアールマティが周囲の目を憚ることなく叫び声をあげた。

 両者とも冷静で、取り乱すことなど滅多に見られない。そんな二人が、ここまで我を忘れるなど本来ならばあるはずがない。


「逃げるぞ、アルマ。こいつはやばい。今のこいつに出会うのは危険だ」

「うん。わかった。分からない筈がないよ。あたしの全てが言っている―――下手をしなくても殺されるって」



 地が揺れる。大気が圧縮される。世界が怖れる。

 二人の言葉を証明するかのように、桁が違う圧迫感を纏った何かが近づいてくる。

 

 それに背中を押されてキョウもアールマティも、食事処から有無を言わさずに飛び出す。

 しかし、それはあまりにも遅すぎて―――。




「まったく。久しぶりに会えたというのに、どこに行く気だ。なぁ―――キョウよ」


  

 それは絶望の到来を告げる声だった。

 どこかからかう調子で、だが聞くだけで逃げ出したくなるほどの圧を秘めたモノ。

 

 声の主を視界に入れるよりも早く、血煙が舞い跳んだ。

 文字通りの血の雨が降る。ビチャビチャ、と大量の血液が周囲の建物と地面を濡らしていく。

 ただ、不思議と彼女とキョウの周囲だけは台風の目に入ったかのような平穏であった。

 

 ゆっくりと歩み寄ってくる女性の背後。

 そこには夥しい数の死体があった。百や二百では足りず、桁が違う。

 誰もが何故死んだのか。何時死んだのか。理解できないまま命を散らされていた。


 ただ、彼女の前にいたという理由だけで。

 それだけの理由ともいえない理由のために、軽く千を超える人間はこの一瞬で命を落とした。

 いや、さらにその数は際限なく増えていく。大通りを歩いていた人間は勿論、建物の中にいた者は建物ごと圧壊され、彼女から離れている人間も降り注いでくる血の雨に貫かれ殺されていく。


 正真正銘の屍山血河。

 キョウやアールマティの行いでさえ児戯にしか見えない殺戮の山。

 それを背景に、彼女は現れた。


 血の海に波紋を広げながらゆっくりと。

 この場にいる人間など蟻程度にしか認識せずに、本当の意味での天蓋の存在がやってきた。 

 彼女の前では全てが無意味。無価値。全ての命は問答無用で散り行くのみ。命ある者は、無残に終わる。



「……何だよ、こいつ」



 愕然と。呆然と。仰天と。

 頬を引き攣らせ、無意識のうちに一歩後退したアールマティが、先程とは別の意味で震える言葉を言い放つ。


 世界を怖れさせるに値する重圧を、ただ歩くだけで周囲にばら撒く破滅そのもの。

 その震源。それの原因。それは即ち―――。




「―――シマイ、お前何故ここにっ!!」




 遥か昔より世界最強の名を戴く孤高の頂点。

 人災の称号に相応しく、彼女が周囲に齎すのは甚大なる大厄災。

 この世に数多いる勇者猛者、強者英雄をどれだけ集めても抵抗することさえも許さず屠る。



 操血―――シマイ=スメラギ。



「久しぶりだというのにつれないことを言うな、キョウよ。愛しい愛しい私のキョウよ」



 赤い外套を羽織り、黒一色の服を纏った美貌の麗人は楽しそうに嬉しそうに笑いながらそこにいた。

 ばさりっと歩くたびに外套が音を立てる。両手を広げ、三年ぶりとなるキョウとの再会を心の底から喜んでいることは誰の目から見ても明らかであった。しかし、それとは対照的なのがキョウであり、刀の柄に手をかけて何があってもすぐに行動できる体勢を整えている。



「……ねぇ、誰さ。あの人―――いや、何なのさ」



 未だ身体を襲う果てしない悪寒にぶるりっと背筋を震わせながら、小声でアールマティは横にいるキョウへと問い掛けた。

 生憎とここまで振り切れた化け物を、影使いとしての彼女でさえも見たことも聞いたことも無い。

 エレクシル教国の狂人達が可愛いものだと思えるくらいのいかれ具合。外れ具合。



「……シマイ=スメラギ。俺の育ての親みたいなものだ」

「―――はっ? え……ちょ、ちょっと待って……シマイ=スメラギ? 冗談でしょ?」

「……冗談だったら良かったんだがな」



 キョウの発言に、アールマティははっきりとわかるほどに頬を引きつらせる。

 その名は聞いたことがある。いや、聞いたことが無い人間を探す方が難しいだろう。

 エレクシル教国でさえも関わりあいになることを避ける至強の頂点。

 名前くらいは聞いたことがあるが、まさかこれほどの存在だとは考えてもいなかった。

 

  

「その……あんたの育ての親なら、別に心配はいらないんじゃないの?」


 本音を言うと、今すぐにでも逃げ出したいほどの実力差を感じてはいるが、希望的観測を抱いて隣にいるキョウへと再度訪ねる。むしろ、何故禍々しいにも程があるが、仮にも育ての親である彼女にここまで敵意を向けているのか。

 

「……阿呆。俺が心配しているのは、お前だ(・・・)



 苦々しげに言い返してきたキョウに、アールマティは新たな疑問を抱く。

 一体何故、そんな心配をするのだろうか。

 

 と、その時―――シマイの視線が初めてアールマティの姿を捉えた。

 


「―――ちっ。やはりお前が一緒にいるのか、忌々しい。どこにでもしゃしゃり出てくる奴だな、小娘」


 機嫌が良かったシマイが、美しく細い眉を八の字に顰める。

 アールマティをまるで親の仇をみるかのように一瞥し、明確な殺意を収束させてぶつけてきた。

 それだけで、ぶわっと暴風が荒れ狂い痛いほどに影使いの肉体を打ち据える。



「待て。落ち着け、シマイ。こいつは、俺が世話になった―――」

「―――ああ、気にするな。私は落ち着いてるぞ、キョウ? ああ。本当に落ちついている。見れば分かるだろう?」


 今にも噴火しそうな火山を幻想させるシマイは、氷点下に達した瞳でアールマティを見据え続けている。

 隠しようの無い―――むしろ隠すつもりは全く無い敵意に、キョウもまた隣の影使いと同じく頬を引き攣らせた。


 否が応でも高まっていく緊張感。

 油断など刹那の時もできない鉄火場の気配。

 目を離せば死ぬという第六感が告げてくる予感。向かい合うだけで削れて行く体力と精神力。


 そんな中、クンっと鼻を鳴らすシマイだったが、それを切っ掛けとして口元に歪な笑みが浮かんだ。

  


「―――はっ。そうか。そうかそうか」


 何が嬉しいのか、くっくっくと笑いを噛み殺しながら、どこか蔑んだ瞳でアールマティを見下ろして。



「お前、まだキョウに抱かれていないな?」

「―――はっ?」


「それならそうと早く言え。お前が傍にいること自体に腹が立つが、まだ我慢できないこともない」

「……」


 操血の突然の暴言に、アールマティが現状も忘れて目を白黒とさせる。

 

 今、なんと言った?

 誰が誰に抱かれていない? 誰が誰を抱く? あたしがキョウに? キョウがあたしを?

 抱く? 抱くって? 抱かれるって?

 一体、何を。何を言ってるんだ、この女。


 頭の中がぐちゃぐちゃと混乱しているアールマティが、パニックになりながらもシマイに言われたことをイメージする。

 自分とキョウが裸で抱き合っている姿を妄想して―――こんな事態に似つかわしくなく、顔を真っ赤にさせた。 

 

 それを見たシマイは、ふんっと鼻で笑うと不機嫌さを隠そうともせずに自分の右手をアールマティへと向ける。

 

「我慢できないこともないが、やはり気に食わん。ここで終われ、影使い。いや―――不滅の到達者(アムシャ・スプンタ)


 操血の操る血流が、真紅の大瀑布となって天へと昇る。

 空を赤く染め上げる天地鳴動の特異能力(アビリティ)―――纏血葬生(ブラッドアルター)が解放された。

 広範囲にわたる血液が、空にて一つの武器へと変化を遂げる。赤い、紅い。朱い、槍。神話の時代に遡ったとしても見られることは無いであろう、そこまでの呪われた魔槍を形作った。

    

 ギリギリと空間を捻じ曲げる奇妙な音をたてながら、それは亜音速の域にて解き放たれる。

 狙いを寸分違わず降り注ぎ、アールマティの肉体を貫き穿たんと牙を剥いた。



「―――範囲を確定。顕現するは如何なる武器も通さぬ無敵の盾!!」


 その血槍の切っ先がアールマティへと迫る目前。

 紙一重で彼女の前に出現した不可視の障壁が命を救った。硝子を引っ掻いたかのような耳を劈く不快な音を気にも留めず、キョウはアールマティの襟を引っ張ると、即座にこの場からの撤退を選択する。

 

 その決断が正しさを証明するのは僅か一秒後。

 キョウの言霊によって作られたはずの障壁は、操血の魔槍を防ぎきることは出来ずにあっさりと貫かれた。そのまま大地へと着弾すると小規模な大爆発を起こして、土砂と鮮血が入り混じった爆風が巻き起こされる。


「いいか、逃げるぞ!! 幸いなことに、あいつの探知能力は俺やお前よりも多少劣る!! とにかく、逃げの一手だ!!」

「わ、わかった」


 キョウの怒声に、辛うじて頷いたアールマティ。

 絶対に今は勝てないという圧倒的な力の差に背中を押され―――剣鬼と影使いの二人は、彼らが組んで初めて為す術もなく逃亡することとなった。


 




















 ▼



















「……ま、撒いた、か?」

「た、多分……撒け、たかな……」



 人間離れした体力を誇る二人が、息も絶え絶えといった様子で辿り着いた山小屋に入るなりごろりっと床に転がった。

 年季の入って板の間は、人里は慣れた山の中にあるとは思えないほどに綺麗に整っている。恐らくは、猟師が森の中で日が暮れたときの為に利用している小屋なのだろう。小屋の中央には囲炉裏がポツンとあり、他には特にこれといった特徴のない室内であった。

 ある種の静けさに包まれた小屋の中では、キョウとアールマティの激しい呼吸の音がやけに大きく響き渡っている。


 それもそのはず。

 二人が操血から逃亡を開始してから既に丸二日は経っていたのだから。

 キョウが言ったように、シマイの探知能力はここにいる二人より若干劣る。むしろ、この二人が異常なだけなのだが。そのため、一度引き離せばかなりの時間が稼げられるであろうと推測できる。

 一日逃げ延びた時点で、振り切った自信はあったのだが、操血から出来るだけ離れるためにさらにもう一日逃亡に費やしたというわけだ。


 ピチャン。


 その時、キョウやアールマティの呼吸音とは別に、水滴が滴る音がした。原因は単純で、両者ともに軽くはない怪我を負っていたのだ。操血からの逃亡を無傷で行えるはずも無く、逃げに徹した筈の二人であっても、身体中のいたるところに切り傷が見受けられた。

 特にキョウは、アールマティよりも少々酷い怪我を負っている。それは、操血の攻撃がどうしても影使いに集中していたという点があげられた。攻撃が加えられる方がわかっているため、キョウも言霊を、体術を駆使してなんとか庇っていた為、本来ならば無傷で済んだであろう彼もそれなりの怪我をしてしまった。もっともキョウが怪我をしたため、追撃の手が緩んだという理由もあるので、それは名誉の負傷以上の意味があるといえよう。


 ぜぇぜぇ、と未だ乱れた呼吸と鼓動。

 それでもそれは、今生きているという証明でもあるのだ。



「……まったく、相変わらず、困った奴だ」

「あれを、困った……で、すませる、あんたが凄い」

 

「まぁ、そういう、な……あれ、でも……俺の育ての、親だ」

「……むしろ、男を、盗られた、女の顔だった……んだけど」


「はっはっは……うまいことを、いう」

「滅茶苦茶強いうえに、あれだなんて……タチが悪いなんて、もんじゃないよ」



 魔の手から逃れられたことを実感して、両者とも寝転がったまま会話が弾む。

 寝食惜しんで全力で逃亡していたこともあり、流石に身体を動かすのも億劫な状況だ。


 それから数分も経ち、ようやく呼吸もおさまり平常の状態にまで戻ったアールマティは、ちらりっとすぐ横で寝転がっているキョウを盗み見た。

 はっきり言って、アールマティの命があるのはキョウのおかげだ。もしも一人だったならば、間違いなく操血の前から逃げ出すことはできなかっただろう。そこまでの力の差が此方と彼方にはあったのだ。

 それを考えれば、キョウは命の恩人になるのだが―――そもそもキョウと一緒にいなければ、操血に命を狙われなかったのだからそれを考慮すればトントン、というかむしろマイナスになる。

 

 しかし―――彼の身体中に負った怪我を見て、そんなことを追求するのも無粋かなとアールマティは小さく笑った。

 

 例えどんな理由があるにしろ、どんな関係であったにしろ、育ての親から自分を庇って一緒に逃げてくれたのだ。

 それがアールマティには少しだけ嬉しかった。

 

 

 だが、果たしてシマイ=スメラギはどうしてここまで己を憎んでいたのだろうか。

 それにもまた、大きな違和感を抱く。

 確かに、キョウと一緒に旅をしてはいるが、それだけだ。初対面であるはずの彼女―――いや、シマイはまるでアールマティのことを知っていたかのような口ぶりであった。前々から調べていたのかとも考えられたが、何かが違うと直感が囁いてくる。

 はっきりとしないもやもやとした気色の悪い気分がアールマティを襲うが、今は答えを出すことが出来ない。そんな囁きがどこからともなく頭の中に残された。


「……まぁ、あの偏愛ぶりなら……有無を言わさず殺そうとするかも」

「―――ん? 何か言ったか?」

「んーん。なんも」


 アールマティの返事に、キョウはそうかと短く答えるとそれ以降特に話をすることもなく、静寂が小屋の中を包みこむ。

 そんな厳粛な静けさのなか、身じろぎ一つすることも憚れた二人は、未だ寝転がり天井を見上げている。時間が静かにゆっくりと進んでいく感覚。無言でありながら、居辛いなどという空気は微塵もない。まるでずっと昔から一緒に過ごしてきたかのような安心と安らぎが心に与えられる。不思議な、本当に不思議な感覚であった。 

 

 キョウがどう思っているのか気になったアールマティは、ちらりっと再度横に視線を向ける。

 すると、肝心の彼は、眼を瞑り寝入っていたのだ。

 呆れ半分、仕方ないかという気持ち半分のアールマティは、少しだけ身体を横に動かしてキョウの隣へと音も無く移動すると寝入っているキョウの顔を覗き込む。

 

 何故か、本当に何故かわからないが、彼が格好良く見えた。

 いや、それは語弊があるか。はっきり言ってしまえば、キョウ=スメラギはかなりの美形に分けられる。端正な顔立ちと引き締まった肉体。猛獣めいた雰囲気と、最後のせいで一般受けはしないだろうが、それでも道行く人の視線を集めるだろう。その気になれば女性には事欠かないはずだ。

 それを改めて認識しなおしたアールマティは、何故そんなことを考えたのか首を捻ること数秒―――あっさりとその原因に思い至る。


 あれだ。あれのせいだ。あの発言のせいだ。



 ―――まだ、キョウに抱かれていないな?



 あれが奇妙なまでに心に楔となって残っている。

 確かに、シマイ=スメラギの発言は正鵠を射ていた。何故分かったのか不明だが、キョウとアールマティは身体の関係は結んでいない。理由は特に無いが、逆に言えば身体を重ねる理由もなかったからだ。


 抱かれる。

 所謂、男女の関係。

 そういった知識も持ち合わせているが、生憎と自分が誰かとそのような行為をすることになるとは考えてもいなかった。

 愛や恋。その気持ちが分からない。それは一体どんな感情なのか。きっと自分には生涯理解することは無いだろう。

   

 だが―――ふと、考える。


 自分も何時かは誰かと閨をともにすることになるのだろうか、と。

 その将来を考えて、真っ先に浮かんだのは他の誰でもない―――キョウの姿だ。

 他の男を想像してみれば、ぞわっと背筋に虫が這った様な言い知れぬ悪寒を感じ取った。

 

 それは嫌だった。何かが嫌だった。他の男に身体に触れられることに嫌悪感で一杯になった。


 ならば、キョウならどうなのか。

 不思議だ。本当に不思議だ。嫌―――ではない。逆に身体が火照り、下腹部がズクンっと疼く。


 

 寝ているキョウの頬にそっと、手を当てる。

 火照ったアールマティの手とは逆に、ヒンヤリとした肌の冷たさが心地よい。  



「……いきなり、どうした?」



 如何に疲れていようと、寝入っていようと、流石に身体に触れられば目を覚ます。

 信頼しているのか、アールマティの気殺が絶妙なのか、肌に触れられるまでは起きなかったというのが、他の人間との差であろう。

 問いに答えずに、彼女はキョウに向かって倒れこむ。分厚い胸板に頬を寄せ、目を瞑る。


「……で、どうした?」


 二度目の問いかけ。

 自分にしな垂れかかって来ているアールマティに、キョウは些か面食らったのか振り払おうとはしなかった。

 答えが返ってこないことに腹を立てるでもなく、辛抱強く待ち続ける。


「―――礼を言っていなかったね、有難う」

「礼?」

「あの化け物から助けてくれたお礼」

「ああ……まぁ、半分というかほぼ全部俺のとばっちりだしな。きにするな。むしろ俺のほうこそすまん」


 アールマティが考えていたことを本人も分かっていたのか逆に謝罪をしてくるキョウに苦笑。

 香ってくるキョウの体臭。若干の汗臭さも気にならない。その匂いに逆に安心を覚える。密着しているからこそ感じ取れ、聞こえる心臓の鼓動。

 それがあまりにも懐かしくて、心地よくて―――全てを委ねたくなる。脳内が蕩けてゆく。思考回路がまともに働かない。

 


「……少し変だぞ、アルマ。それに、少し離れろ。そんなに密着されたら流石の俺でも変な気分になる」


 口調は鋭く。だが、やんわりとアルマの両肩に手を当てて退けようとするキョウ。

 それに抵抗してではないが、瞑っていた目を開けて潤んだ瞳で、アールマティは彼を見る。若干の困惑を宿した瞳と濡れた瞳が交錯。互いに引力を発したかのように、逸らすことは無く時間が過ぎていく。



「……変。変かな。うん……変かもしれない」



 やけに艶っぽい色気を乗せて、影使いは囁いた。



「多分。あたしも何時かは誰かと身体を重ねることになる」



 唐突な台詞に、訝しむようにキョウが眉を顰めた。



「……折角だから後悔はしたくない。だから―――」



 ハァッと吐息を漏らす彼女の姿はぞっとするほどに蠱惑的で。 



「どうせ身体を許すなら―――あんたで良い」



 普段は吊りあがった目尻が、とろんっと下がり。



「……ううん、違うかな。あんたが良い」


  

 魂さえも痺れさせ、キョウの心をも鷲掴みにする何かを発しながらアールマティは情欲に燃え滾った光を瞳に宿す。

 そして彼女は自身の唇をキョウの唇へと近づけ―――。




















「―――あんたじゃないと、嫌だ」





 二人の初めての口付けは、呪われた二人らしく血の味がした。
























 ▼















「……ぁ」



 夢だ。そう、これは夢だった。

 もう十年以上も昔の、未だ七つの人災と呼ばれることになるよりも前の―――他のメンバーに出会うよりもさらに昔の出来事。



「……ぁぁぁぁ」



 そう、夢なのだ。

 細部までしっかりと覚えているが、実際に過去に起きたことであり、今のはその再現でしかない。



「……ぅぅぅぅぅぅぅぅ」




 魔族侵攻の会議も一旦終わり、各々が戦の準備に勤しむ中で、城の中に用意されている自室に戻って少し仮眠をとろうとしたところまでは覚えている。





「―――ぅぅぅぅぅぁぁああああああああああああああああああああああああ!!」




 今の今まで夢を見ていたことを認識したアールマティは、自分の顔を使っていた枕に埋め込むと、枕ごとゴロゴロと左右に盛大に転がっていく。

 あまりにも大きく転がってしまったため、ベッドから床に落ちて強かに体を打ったものの、それでも彼女の動きが止まることはない。

 床をさらにごろごろと転がって、壁に激しくぶつかってパタリと停止する。


 活動を停止することたっぷりと一分。

 ようやく再起動を果たしたアールマティは、顔を真っ赤に染め上げてふらふらとしながらも上半身を起こす。


 夢の中での出来事に、頭が上手く働かない。

 当時は朦朧とした意識だったため、あんなことができたのだが、いざそれを第三者の視点で見るとなると自分に返ってくるダメージが凄まじい。黒歴史とまではいかないが、もう少し上手くできたのではないだろうか。


 

「……あんたじゃないと嫌だ、か」



 ぽつりっと夢の中の台詞を思い出し口ずさむ。

 カァっと赤かった頬がさらに赤く染まったアールマティは、無意味にガンガンと壁を殴り始める。



「ああ、もう。なんで、今更こんなことを思い出すかな……」

「……何か嫌な夢でも見ましたか?」


「―――ぎゃっ!?」



 突如としての第三者の声に、アールマティが悲鳴をあげて飛び退いた。

 気配察知、探索において並ぶ者なしの彼女がここまで誰かを近寄らせることは珍しい。というか、有り得ない。

 そう。例えそれが―――七剣第一席のアルストロメリアであったとしても。


 ようするに、夢のせいでそこらが疎かになっていただけなのだが。



「ど、どうしたのかな、アルス。何か用事?」


 必死に取り繕うとするが、声の震えを全く隠すことが出来ていない。

 突っ込もうとも考えたが、その時間すら惜しいと考えたアルストロメリアは、ゴホンっと咳払いを一つ。



「貴女に聞いておかねばならないことが一つあります」

「……何?」



 真面目な話だと理解したアールマティは、深呼吸を一度。

 居住まいを正して、アルストロメリアを真っ直ぐと見据える。


「貴女はどこまでこの国の為に戦ってくれますか?」

「……」


 永久凍土の問い掛けに、アールマティはその真意を探るように眼を細めた。


「貴女が実力を隠していることはわかっています。本当の貴女ならば、恐らく私でさえも敵いません。その貴女が、どこまで帝国の為に戦ってくれるのか事前に聞いておきたいのです」

「……そうだね」


 アルストロメリアの言葉に、少し考える素振りを見せるアールマティ。

 だが、それは一瞬でしかなく。



「本当にどうしようもなくなるまでは戦うよ。劣勢になったからって逃げ出さないから安心してよ」

「……それを聞いて安心しました」


 表情を崩さないアルストロメリアが、ほっと胸を撫で下ろす。

 そして、深呼吸を一度。気を引き締めるように瞳に力込めて―――。




「―――アルマ。貴女には魔王を一体相手取って貰いたいのです」




 


 







操血>墓穴を掘った。反省してる。

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