八十二章 女神襲来2
七つの人災と謳われるキョウ=スメラギの特異能力は、実は正確な名前は存在しない。言霊という能力の一部、それを改変―――或いは他の人間から見れば改悪された代物だからだ。名付け親は操血シマイ=スメラギ。彼女がキョウのそれに、必滅呪詛という名前を授けた。
さて、改悪とはどういうことか。
それを説明するにはまずキョウの言霊について軽く説明しなければならない。
言霊とは文字通り言葉に宿った霊的な力を指し、それを現実に具現化する能力のことだ。非常に便利かつ万能な能力ではある反面、扱いが全特異能力の中でも最も困難だとアナザーでは認識されている。
その理由として、言葉に出した全てが具現化されてしまうから―――というわけではない。
例えば火を巻き起こす現象。ただ、燃えろと口に出したからと言って炎が具現化する訳でなく、その現象を起こす確固たる想像力が必要となるからだ。
この想像力と言うのが難解であり、緻密かつ正確に燃えるという現象イメージできる人間がどれだけいるだろうか。さらには範囲、規模、対象、効果時間、その他―――と、少なくとも普通の人間には厳しいことに間違いはないだろう。
そのため、言霊とはアナザーに於いて微妙な能力だと考えられていた。
しかし、とある人物の登場によりその認識は一変されることとなる。
その人物こそがキョウ=スメラギだ。
彼は、その揺らぐことのない精神力と想像力を持って、歴史上最高の言霊使いとして名を馳せることとなった。
七つの人災と呼ばれる以前の彼は、稀代の言霊使いとして活躍し、各国の上層部をも震撼させた。それこそ影使いと組んだ彼は、僅か二人で戦争の勝敗を覆すことも可能としたほどだ。
そこまでの領域で言霊を使いこなしていたキョウが、何故現在はその能力を使用しないのか。
それは少しばかり表現が違う。即ち、使わないのではなく―――使えないが正しいのだ。
そもそもキョウの目的とは何か。
彼の目的。宿願―――それは、神殺しである。
物心つく前から操血に叩き込まれた彼の目標。
そう。神殺しとは、キョウ自らが望んだ目的ではない。
操血によって刷り込まれたものであり、キョウは幼い頃から現在に至るまでそれのみを目的として邁進していた。
大多数の人間が、その事実を知ったとき失望し呆れかえる。
お前には自分の意志がないのか。操血の人形のまま生きているのか。その生き方はキョウに依存するカクリヨにも似ている。
だが、キョウと深い関わりあいを持った人間はこう思うのだ。
―――狂っている。
剣魔キョウ=スメラギの三十年の闘争の歩み。
その道程は決して生半可なものでも実に筆舌に尽くし難い。悪鬼羅刹修羅鬼人すら進むことを御免被る血塗られたものであった。そんな魔道を、存在するかどうかもわからない、ただ操血に殺せと言われた神を―――滅殺するためだけに歩み生き抜いてきた。
憎悪を根源として歩んできたのならまだ分かる。
憤怒を原動として歩んできたのならまだ分かる。
キョウにはそれらを含めて、何もない。
空っぽだ。空虚だ。負の感情というものを内に秘めず。
ただ―――神を斬るということが既に彼の生きる目的であり、宿願であった。
故にキョウは、万能為り得た言霊という特異能力を手放すことに何の躊躇いもなかった。確かに言霊は万能である。しかし、万能であるが故の欠点―――それぞれに特化した特異能力には及ばず、威力の程は最高峰とは言い難い。人間に対しては十分な効果を発揮するが、残念ながら通用しない相手も数多く居るのも事実。
例えば、七つの人災。彼らはキョウの言霊を軽々と防ぎきった過去がある。
同じ人間でさえ通用しない連中が数多居るというのに、果たして神の命に届くのか。
そこでキョウは試行錯誤を繰り返し―――やがてひとつの結論に辿り着く。
万能であるが故の不足。
特化したものに負けるのであれば、自身も特化すればいいのだと。
そしてキョウは、幼い頃より修羅道をともに歩んできた刀に全てを託すこととした。
鞘から抜刀された一撃で、相手を斬殺するという特化型の特異能力を編み出すに至る。
無論、新しく能力を創り出すなど誰にでも出来ることではない。
それは万能である言霊という特異能力を授かっていたキョウだからこそ可能であった歪んだ奇跡。ただ、この時点ではまだ必滅呪詛の完成ではない。あくまで、言霊による能力に過ぎないからだ。
そこからキョウはさらに改悪を続ける。
もう二度と言霊による他の現象を起こさないという誓約。鞘に収めた状態からの抜刀のみに効果を発揮するという制約。その二つの約定を持って、キョウの必滅呪詛は成約となった。
当然、そんなことをしてただで済むわけがない。本来の特異能力ではないため、使用すれば尋常ではない体力と精神力を消耗する。その点は、他の七つの人災が規格外の能力を容易く何度も扱う様を見れば、差が歴然としているのは一目瞭然。
これほどのキョウの執念によって生まれた必滅呪詛は、ありとあらゆる奇跡を為す万能で全能の可能性を―――さらには、二度と言霊の現象を起こさないという誓約の相乗効果により、敵を斬殺するという一点にのみ特化した世界最強の一撃となったと断じても過言ではない。
つまり。
つまり、だ。
色々と小難しい理由を挙げたのだが、結局のところこの必滅呪詛は、キョウがたった一つの目的にのみ創りだし、突き詰められ、研磨され続けたということだ。
ピチャン。
「あはっ。あははははははっ。あはははははははははははははははははははははっ!!」
ピチャン。
「凄い、凄いよ!! キョウ!! なんて、なんて、なんて―――執念なんだ!!」
ピチャン。
「感じたよ、キミの心を!! キミの意志を!! キミの全てを!!」
ピチャン。
「ようやくわかった!! 何故ボクがここまで悩まされたのか!! 惹かれたのか!! 魅了されたのか!! これは、この能力は―――」
嗤う。嗤う。女神が嗤う。
「―――ボクを殺すための技だったのかっ!!」
その事実に気づいた瞬間、エレクシルは心底愉快そうに、だが興奮を隠し切れずに咆哮にも似た歓喜の声をあげた。
女神は嗤い、狂気する。狂喜する。
こんな素晴らしいことがあったのか。こんな嬉しいことがあったのか。
ああ、なんて素敵なんだ。駄目だ駄目だ。あまりにも嬉しくて頬が緩むのが止められない。
エレクシルの言う通り、キョウの必滅呪詛は破神を為すために世界から与えられた特異能力を改悪させてまで創りあげられた能力だ。それを悟ったエレクシルは、言葉通り、ただただ嬉しかった。そしてこの世の全てに感謝した。
―――当の昔に自分達が両想いであったことに。
奇襲を仕掛けられたことなど全く気にも留めず彼女はまるで愛する男を前にした生娘のように頬を赤く染め上げ―――数多の超越存在を滅ぼしてきた必滅呪詛をあろうことか真正面から受け止めていた。防御も回避もせずに、両手を左右に広げ、光の剣閃となったその一撃を味わうように。抱きしめるように。
その結果が、現在の彼女の姿だ。
エレクシルの神力によって創られた衣服は、右肩から左脇腹にかけて斜め一直線に切り裂かれ、美しい白い肌が見え隠れしている。さらには、そこに奔った一筋のほんの僅かな斬痕。幻想大陸に来る前に刻み付けた傷跡に比べれば随分とマシだとはいえ、それでも神を殺すには程遠いダメージだ。多量の出血と言うわけではなく、そこから滴り落ちた鮮血が、床に落ちて水音を奏で出していた。
しかし、今この酒場に居る者達にとっては誰も彼もが信じられない光景である。
それもそのはず。
獄炎の魔女は、幻想大陸創生時にエレクシルと戦って為すすべなく圧倒的な敗北を味わった。
悪竜王は、数千年前己の全てを賭けてエレクシルと戦い敗北した。
竜女王は、遥か南方に位置する竜の楽園に住んでいた時代、エレクシルが他の竜王種と呼ばれる存在を遊びのように葬った光景を今でも覚えている。
幻獣王は、己の全力がエレクシルの分霊にすら通用しないことを認識していた。
女神エレクシルとは絶対強者。
比肩する者などおりはせず、アナザーにおけるまさしく唯一神を名乗れる存在。
その彼女に―――ただの人間が血を流させるなど、誰が想像し得ただろうか。
キョウの話を聞いていたディーティニアでさえも、それほどまでに信じ難い光景だったのだ。
「ああ、ちくしょう。なんで、こんなに胸が高鳴るんだ。とても素敵だ。凄いよ、キョウ=スメラギ。こんな、こんなことなんて有り得るはずがないと思っていた。でも、認めるしかない。こうなったらもう認めるしかないじゃないか!!」
やがてその斬痕は、まるで幻であったかのように音もなく消えていく。
しかし、エレクシルは消えた傷跡を愛おしそうに撫で上げる様は、彼女にだけは消えた筈の傷が見えているかのようであった。
「間違いない、宣言しよう。認めよう。神も人も関係ない。そう、ボクは―――」
僅かな躊躇いもなく、胸を張り女神の名に相応しい美麗な容貌を崩さぬまま猛り吼える。
「―――キミを愛しているよ、キョウ=スメラギ!!」
女神の盛大な告白が、周囲一帯の時間をとめる。
ビリビリと空気を振動させ、誰の耳にも届きながら―――それでも誰もがその言葉の意味を理解することができなかった。
何だ。こいつは何を言っている。そんな疑問が全ての者達の脳内を支配し、思考に空白を作り出す。
「そうか。感謝する。俺もお前を愛しているぞ。そう―――殺したいほどにな」
しかし、返答される言葉は熱烈に聞こえるも、内容と反して極限にまでの冷気を漂わせている。
必滅呪詛がたいしたダメージを与えていなかったことに微塵も動揺を見せず、キョウの肉体は次の行動を開始していた。
ドンッと響くのは剣魔の踏み込みの音。酒場の床を踏み砕き、それでも止まらぬ彼の両腕が痛いほどに小狐丸を握り締め、上段から唐竹一直線に斬りおとされる。
狙いは頭部。脳天を斬り砕くことを目的とした躊躇いのない剣閃を、笑顔を絶やさぬままエレクシルは右手の指二本で受け止めた。
ギィンっとまるで金属同士がぶつかった音を立て、両者の刀と指が拮抗する。
「なんだい、その刀は? 随分とまぁ……とんでもない代物を見つけたものだね。ボク以外の神ならば容易く屠れる名刀じゃないか」
人差し指と中指の僅か二本で軽々と受け止めておきながら、キョウの小狐丸を褒め称えるエレクシルに今度は返答をせずに、剣魔の肉体が凄まじい勢いで翻る。
瞬間。意識を切り替え、肉体のスイッチを入れると視界が色を無くしていく。両手両足が鉛のような感覚をキョウは受けるも、それ以上に身体全体が感じる開放感。人間の持つ五感。それのあらゆる余分をこの一瞬で削ぎ落とした結果、彼の肉体は本来の力を一瞬とはいえ取り戻す。
識剣領域と呼ばれる、キョウの全盛を引き出す妙技。
台風の如き全てを巻き込み斬砕する剣の乱舞が、エレクシルの四方から降り注ぐ。
一度や二度ではなく、秒の瞬間において二桁を軽く超える乱撃は、超越存在の眼をもってしても追いきるのが難しい。
これまで以上の速度と力で女神を斬殺しようとするキョウを嘲笑うかのように、女神はそれら全てを―――否、正確には全て同時に見えながらコンマ一秒の差で己にもっとも最初に届いた切っ先に狙いを定め、右手の親指と人差し指中指の三本を利用した、所謂デコピンでそれを迎撃した。
ぶつかり合う小狐丸と女神の指先。
打ち勝ったのは女神の方で、剣先を伝ってくるのはとてつもない爆発的な衝撃だった。
歯を食いしばりながら、キョウは衝撃を逃がすようにその場から後方へと離脱する。もしも意地を張ってその場で衝撃に耐え切ろうとしたならば腕が圧し折られていたことは明白であった。
後方へと退避したキョウへと、欲望に煮え滾った視線を向けながら、エレクシルは二度三度と手招いた。
さぁ、おいで。彼女の手招きは無言でありながら、何よりも雄弁にそう語っている。
「―――《操血》解呪」
短い呼気をヒュッと漏らし、己にかかっている呪いを解放させた。
全身の筋肉がミシミシと悲鳴をあげ、骨が軋む。血液が全て沸騰したのではと勘違いするほどに熱量を発する。
キョウの全盛全力は、人の限界を容易く超える。それは彼の極限にまで鍛え抜かれた肉体であったとしても限界を超えるという点に関しては例外ではない。つまり、如何にキョウであっても己の全盛に肉体が耐え切れないというわけだ。日常生活においては問題ないが、こと戦闘という点に関して言えば持って数分。
これは通常考えれば悪手と呼ばれる戦術になるだろう。
確かにキョウの全力を解放させれば、膂力速度はヒトの域を遥かに超える。だが、解放したからといって果たしてエレクシルのそれを凌駕できるだろうか。答えは、否だ。
例えキョウの全盛であっても、力速度といった肉体的な能力は女神の足元にも及ばない。
それを嫌と言うほどに理解しているのはキョウ本人だ。何故ならば、巨神アグリアスと戦った時にコレを使用しなかったのは、やはり理解していたからである。例え、全盛であっても己の身体能力ではアグリアスには及ばないと。それ故に、あの時はキョウが長年培ってきた技で対抗した。エレクシルの能力がアグリアスに劣っているということは絶対になく、その程度は一目で看破可能なことだ。
そんな相手に通用しないとわかっているのに、僅か数分しかまともに動けない状態に持っていく。
それを悪手と言わずに何と言う。強大な相手を前にして、熱くなっていると思われたキョウだったが―――その実、どこまでも彼の頭と心は冷静だった。
確かに一般的な考えではそうだろう。
だが現状、剣魔と女神の闘争は既にそんなレベルを遥かに超越している。
十の力で一時間戦えたから何だと言うのだ。
相手の力はあまりにも強大で凶悪すぎる。もはや小手先の技術でどうにかなる話ではない。
ここで必要なのは十の力ではなく、僅か数分しか戦えずとも百の力で闘争すること。
「そうだ。うん、それがいい。それでこそだよ、キョウ。さぁ、キミの全てをボクに見せてくれ!!」
キョウの思考を読んだのかエレクシルは相変わらずの満面の笑顔で頷くものの、対して愛しい男からの女神への返答は空気を引き裂く黒雷の如き閃光であった。
零から最高速度へ一瞬で到達する超加速を持って、数メートルはあった間合いを瞬く間に殺す。右手を後ろへと大きく引き、体勢を低く、左手を若干前へ。片手平突きの構えから、女神へと密着したその瞬間、身体ごと叩きつけるかのような一点突破の刺突を放った。
狙いは右胸、所謂心臓の位置。女神に心臓があるのかどうか。果たしてそこが弱点なのか。
そんなことは二の次だ。今は極限にまで低い可能性の中から、もっとも高い可能性を拾い上げていくしかない。
その刺突は、威力速度ともにこれまでの比ではない。
過去最高の速度を持って、抉りこむように小狐丸の切っ先が躊躇いなくエレクシルの胸元へと吸い込まれていき―――彼女は、まるで時間が止めているかのように正確に俊敏な動作で、その先端を摘まんでとめた。小指を除く指四本で、キョウの一撃を衝撃ごと受け止めたのだ。
殺された衝撃が二人の周囲にばら撒かれる。
埃が舞い散り、突風が吹く。周囲にあった椅子が音を立てて転がり飛ばされた。
つぅっと一筋の汗がキョウの額から頬を伝って、顎の先端から床に染み痕を残す。
幾ら押してもピタリと空中で止められたまま寸毫も動かない様は、まるで神話を描いた絵画のようにも見えた。
ギリィっと歯軋り一つ残し軽く跳躍、強烈な前蹴りをエレクシルの腹部に叩き込み、その反動を利用して束縛から脱出。空中にいる間に身体を丸め一回転、床を擦りながら華麗に着地したキョウの見上げる視線には怯みなど一切ない。お前を殺すという明確な意思と殺意のみを乗せて、剣魔はエレクシルへと再度一足飛びで間合いを詰めようとして、反射的に足を止めた。
何故ならば、エレクシルは防御する以外の目的で初めて、右手をゆらりっとキョウへと向けたからだ。
刹那。凄まじい悪寒が背筋を駆け抜ける。
ただ右手を向けられただけというのに、これまで戦ってきた好敵手達ですら赤子に感じられる超圧的な神の領域の重圧だった。
理性も本能も経験も第六感も何もかも。今すぐ回避せよと肉体の隅々にまで命令を発する。
エレクシルへと向かおうとしていた力全てを回避に注ぎその場から大きく飛び下がったのと、女神が開いた掌をグッと握り締めたのはほぼ同時。
今の今までキョウがいた空間が、捩れた。
捩れたとはどういうことか。そのままの意味でしか表現できない、空間がぐにゃりっと歪んでいたからだ。
やがてその歪みは瞬きする間に消え失せ、何の変哲もない通常の空間へと戻るものの、キョウの背筋を伝う汗が凍えるほどに冷えていた。もしも後少しでも逃げるのが遅かったならば、間違いなく殺されていた。今の空間の捩れを見て、キョウは確信を抱く。
「お見事。流石だ、キョウ。凄い。素晴らしい。思わず見惚れてしまうよ」
己の攻撃を避けられたエレクシルは、悔しさの一欠けらも見せずにキョウを褒め称える。
「本当ならばボクの世界に招待したいんだけど―――止めて置こう。うん、そうしよう。だって、生と死が曖昧なあの世界ではキミの輝きが鈍ってしまう。生死が隣り合わせになっている今のキミは、ボクの生涯見てきた誰よりも美しく、素晴らしい」
あははははっ、と幼くも美しい笑顔をそのままに、楽しげに女神は嗤う。
彼女の口元に浮かんだ笑みはどこまでも綺麗で―――しかし、禍々しかった。
「さぁ、さぁ、さぁ!! 次は何を見せてくれるんだい?」
歓喜を露に、キョウへ対する期待を言葉に乗せて女神は吼える。
キミの限界はそこじゃないだろう。まだまだのぼれるはずだ。魂の輝きを見せてくれ。
言葉に出さずとも、そんな想いが彼女の中に渦巻いているのを、キョウは何故か嫌と言うほどに理解できてしまった。
「―――ァァァァァッ!!」
良いだろう。それならば見せてやる。お前の期待を―――否、期待以上の何かを刻み込んでやる。
例え、この腕、この足、この四肢が木っ端微塵になろうとも。歯一本でも残っているのならば、それでお前を打ち砕く。
故に、動け。奔れ。燃えろ滾れ。もはやこれより後に指一本動かす余力も残さなくてもいい。ただ、女神を殺すために俺の全てよ、躍動しろ。
キョウもまたそんな想いを咆哮に乗せ、小狐丸の無双の乱れ斬りが虚空を奔る。
蜘蛛の網目よりもなお細かく。雷よりもなお速く。音が後からついてくる、ヒトの世界を当の昔に超えてしまった剣魔の刃が女神を斬殺せんと白銀の花を咲かす。
もはや刃の弾幕と言い換えても遜色ないそれを前にして、女神の笑みは変わることは一切ない。
その一太刀は、霊白銀さえも紙の様に切り裂き、回避さえも許さない白銀の剣閃だ。それが縦横無尽に視界全てを埋め尽くし―――しかし、それらは全てが意味を為さない。
女神が右手を前にかざした体勢のまま、一歩も動こうとはしていない。いや、動く必要がなかっただけなのだ。
薄い半透明の波打つ壁が、キョウと女神を分け隔てるように突如として出現。小狐丸の斬撃全てが、その壁に全て阻まれる。紙よりも薄いというのに、その壁はまるで巨大な山脈を連想させるほどに強固なイメージを叩きつけてくる。
百回。二百回。或いは三百を超える斬撃が、無効化されながらもキョウの攻勢の手が緩むことはない。
現状幾ら続けたとしても、恐らくは女神の絶対防御を突破するのは不可能だ。それを本能が理解しながら、キョウはひたすらに小狐丸を振るい続ける。理解していながら何故、こんな無駄なことを続けるのだろうか。
―――それは、無駄ではないからだ。
斬撃を一つ加えるごとに、己が進化していくのを理解できてしまう。血が沸き、肉が踊る。戦闘への興奮が肉体を加速させていった。
一太刀の重さ。速度。技術。威力。それら諸々が、キョウ本人ですら信じられない領域へと軽々と突入していく。
その進化を目の当たりにしたエレクシルの瞳が嬉々として、大切な宝物を見るかのように煌き輝いた。
疾風怒濤。疾風迅雷。電光石火。
そんな表現しかしようのない刹那の攻勢を繰り広げるキョウだったが―――しかしながら、覚える違和感。
エレクシルはキョウの成長を進化と評する。
だが、肝心の彼自身は、これを退化と無意識のうちに悟った。
成長しているのではなく、在りし日の己の力を解放しているだけだと。
故に。
それ故に。
一筋の光が見えた。
絶対的な強者たるエレクシルに届かせる、ほんの小さな―――だが、確かな光明を。
トンっと床を蹴りつけ間合いを外す。
突如として距離をとったキョウへ、訝しむ視線を向けたエレクシルを完全に無視して小狐丸を鞘に納めた。
そんな彼の姿に、何をするのかと興味を抑えきれずに女神はその場で泰然と佇む。
エレクシルの姿を視界におさめ、やや前傾姿勢を取り、抜刀の体勢を形作る。
大きく引いた右足で床の重みを感じつつ、前方に踏み込んでいる左足で、自分の立ち位置を確認した。右手親指で鯉口を切り、肺の中の空気を深く吐き出す。左手で、ラギールの刀の柄を強く握る。
軽く破神を為すだろう小狐丸ではなく、名刀には違いないが格が幾つも落ちる別の刀を使用することに、女神はキョウの次なる一手を予想出来ずに、口角を僅かに期待で吊り上げた。
「お前を斬るぞ―――」
顕現する光の剣閃。
並み居る強敵を薙ぎ倒してきた必殺の特異能力がキョウの言霊をキーワードとして解放され、縦一直線に駆け巡る剣の軌跡がエレクシルへと向けて襲来した。
その一閃は、確かに凄まじい威力を秘めてはいるが、女神にとっては脅威と言うには程遠い。何の捻りもないその必滅呪詛に、どうしたものかと眉をしかめた刹那。
「―――お前を斬るぞ」
この瞬間、エレクシルは小さく、あっと呟いた。
矢継ぎ早に繰り出されたのは、小狐丸の抜刀による光の剣閃。鞘から抜かれた一撃にのみその効力を発揮する必滅呪詛は、二振りの刀があるならば二度放つことができるのが道理。しかし、それは未だかつてキョウでさえも使用したことがない領域の妙技だ。
一度の使用でさえ身体に多大な負担をかけるそれを、しかも殆ど同時に二連続で使うなど正気の沙汰ではない。
現に、キョウの肉体がビキビキと悲鳴をあげる音がする。もしも数分前のキョウであったならばこれで戦闘続行不可能な負荷がかかっていたことだろう。しかし、今のキョウならば耐えられる。過日において嫌と言うほどに使用し、ともに修羅道を歩いた必滅呪詛―――即ちこの程度は慣れている。
縦一文字と横一文字に飛翔する必滅呪詛の輝きが、十字を形作りエレクシルの前方へと張り巡らせた結界と衝突。
奇妙で不快な軋み音と鳴らすのは一瞬で、拮抗する間もなく十字剣の閃光が結界を斬壊し、右手を前にかざした状態の女神へ強襲。
眩い光を放ち、凄まじい轟音が高鳴った。闘争開始以来一歩も動いていなかったエレクシルの肉体が、十字の軌跡に後方へと押されて行く。彼女の背中が酒場の壁に激突しそのまま打ち抜き、粉塵をばら撒きながら大通りまで後退し―――漸く身体が止まった。
右手のみならず反射的に左手も使用し、両手を前方へとかざしたことによって十字の剣閃を受け止める事に成功する。
ポタリポタリ、と地面を濡らす女神の鮮血。
両の掌に刻まれた十字の斬痕が、ズキズキと激しい痛みを訴えてきていた。
ふぅっと、肺の中の熱せられた空気を吐き出して、改めて己の両手をまじまじと見つめる。
誤魔化しようがなく、認めるしかない。もしも最初の時のように防御もせずに真っ向から受け止めていれば、今の比ではない重傷を負っただろう。神を殺す、ということだけを突き詰めたまさしく破神の技。それを再確認したエレクシルは、ゾクッと快感にも似た電流が全身に駆け巡ったことに笑みを零す。
「くそっ。卑怯だよ。駄目じゃないか。本当にただ遊ぶためだけに来たと言うのに。それなりに満足したら大人しく帰ろうと思ってたのに」
十字の傷をつけられた己の両手の掌をまじまじと見つめ、滴り落ちる鮮血に舌を這わす。
ぴちゃりっと水滴を舐め取る音が響き、己の口内に広がる鉄臭い味わいに、ハァっと熱く艶かしい吐息を漏らした。
「このまま帰るなんて生殺しもいいところだ。うん、無理だ。絶対にもう無理だ。ねぇ、キミもそうだろう? キミもまだ戦い足りないだろう? だから、全力で遊ぼう。互いの誇りを賭けて。命を燃やして。魂を煌かせて!!」
これまで以上の歓喜を身に纏い、キョウの必滅呪詛によってつけられた十字傷を一瞬で再生し、女神は歩を進める。
ぶわりっと世界を覆っていく女神の狂気。もはや、言葉通り退くことなど微塵も考えない結論に達したエレクシルはミシリミシリと両手を握り骨を軋ませた。そうしなければ今すぐにでもキョウへと向けて全力の攻撃を加えかねなかったからだ。
「まずは、そうだね。これをどう凌ぐ?」
笑顔のままエレクシルは傍にあった建物に右手を添える。
壁に右手の五指を突き刺して―――巨大な轟音とともに建物が持ち上がった。
なんだそれは。幻でも見せているのか。思わずそう罵りたくなったキョウの目の前で、女神は三階建ての建物を片手で軽々と持ち上げ、パラパラと粉塵が舞い散るさなか、まるでボールを投げるかのように放物線を描いて投げつけた。
破壊するか、防ぐか、回避するか。
答えは一つしかない。流石のキョウも連続しようの必滅呪詛の影響で身体的に万全とは言い難い。
ひとまずは回避で様子を見るのが最善手。
そう判断した彼が回避を試みようとした刹那、黒い炎が空中に燃え盛る。
離れていても身を焦がす超熱波の灼熱が、投げつけられた建物を飲み込み―――落ちてくる僅かの時間のうちに炭と化す。
降り注いでくる熱く燃えた黒炭は、キョウへと届く前に強い突風がさらって彼方へと消し飛ばしていく。
そして、それと時を同じくしてキョウの前に降り立つ二つの人影。
悪竜王イグニード=ダッハーカ。竜女王テンペスト=テンペシア。
二体の竜王が、女神からキョウを守護するように立ち尽くす。言葉に出さずとも、ここから一歩も退かぬという強い意志が二人の瞳に見え隠れしていた。
「悪いな、キョウ。俺はまた、同じ間違いを犯すところだった。本当にすまん。侘びと言っちゃーなんだがここから先は俺も混ぜてもらおうか」
「すまなかった、キョウ=スメラギよ。そなたにばかり負担をかけさせてしまった。後は我らに任せてもらおう」
二人の竜王は、邪魔をされたことの苛立ちを視線に乗せて睨みつけてくる女神の威圧にも負けず、苛烈な意思を言葉に乗せ女神と剣魔の間に立ちふさがった。
女神がどうしたものかと眉を顰めたと同時に、彼女を中心とした大爆発が巻き起こされる。イグニードの放った黒炎に負けず劣らずの熱量を有した超爆熱。二種類の炎―――獄炎と妖炎が合わさりあい、相乗効果を伴って女神を焼きつくさんと膨れ上がっていく。
第一級危険生物でさえも無事ではすまない爆炎の中、やはりというべきか女神はため息一つ、右手を振るっただけで、それを容易く霧消させた。
「僕も参加させてもらおうかな、以前の借りをここで返しちゃうとするかなぁ」
「ふむ。ならばワシも行くとするか。ここで会ったが百年目なのじゃ」
爆熱を引き起こした二人の張本人。
ナインテールとディーティニアもまた、竜王種の斜め後ろ。即ち、キョウの横にそれぞれ姿を現した。
彼ら彼女ら、合計四人の幻想大陸最高峰。
この場に佇む四人は、何故今頃になって参戦を決意したのか。彼らの名誉のためにも断言しておくが、女神に恐れをなして戦いに加わらなかったのではない。彼らは、キョウを見て、キョウの成長を、進化していく様に眼を奪われていたのだ。
これまででさえも、人類の中でも強者であったのは当然。
しかし、女神と戦っているキョウは、秒単位でその実力がさらなる高みに上がっていった。伸び代が切れることなく、無限の成長をするのではないかという幻想すら四人は感じた。
故に、止めたくなかった。見ていたかった。キョウが女神との闘争でどこまで進化していくのかを。
だが、所詮それは彼らの想い。キョウの命と天秤にかけるのならば、どちらに秤が傾くかは論じることもなし。
「……やれやれ。まさかこんな形でお預けをくらうなんてね。まぁ、いいか」
女神は、それは深いため息を一つ。
遊んでいる玩具を取り上げられた子供のように不満げに口を尖らせて。
「全員まとめて、ボクが遊んであげるよ」
ズンっと空気が音を立てて重くなる。
尋常ではない重圧に、呼吸するだけで肺が押しつぶされそうになり、全身の肌に鳥肌が立った。
まるでゼリーの中に閉じ込められたかのようで、動きが自然と鈍くなる。これが女神エレクシルの神圧だ。
如何な実力者であったとしても、戦う気にもなれはしない次元の異なる化け物である。
しかし、この場にいる全員が、今更この程度で怯むはずがない。
女神の重圧を潜り抜け、彼女と同じ土俵にあがった五人の挑戦者が全盛を発揮させる。
悪竜王が、全身に黒い悪炎を纏う。
竜女王が、幻想大陸に駆け巡る天風を呼び寄せる。
幻獣王が、両の手に烈火灼熱たる妖炎を顕現させる。
獄炎の魔女が、触れるだけで灰燼と化す獄炎の魔力を迸らせる。
剣魔が、破神を為す小狐丸の切っ先を向ける。
己を前にしても臆さない、五人の化け物を前にして、女神は不機嫌だった表情を一変。
嬉しさを堪えきれない彼女が、右手を空に向けて掲げた。
「―――イグニード」
「……なんだよ?」
ちらりっと視線を向けてくる女神の声掛けに、悪竜王は決して注意を怠らず返答する。
「ボクはキミを買っている。キミの強さは幻想大陸どころかアナザーにおいてもボクを除けば最強だ。だからこそ、忠告しておく」
不可視でありながら、皮膚を伝って押し寄せてくる死の波濤。
「必ず防ぐんだ。最悪でもキョウ=スメラギだけは守りきれ。そうしなければ、死んでいても殺す。何があっても殺す。何度転生しようが殺し尽くしてあげる」
「―――っ!!」
それはまさしく、神話に語られる神々の御技。
見渡す限りの空が、光を発する。直視することを許さない、煌々と光り輝く太陽。
「―――我、エレクシルが審判を下す。滅せよ」
天空が明滅を開始する。
その間は僅か一秒。それが、地上を浄化する審判の始まりだった。
そして世界は―――女神の神炎に包まれる。
「死んでもいいくらいにキミを愛しているよ!!」
「そうか。それならば死んでくれ」
「がーん」
「キミを愛しているよ!キョウ=スメラギ!」
「そうか。だが、俺はお前が大嫌いだ、エレクシル!」
「がーん」
本当は上記二つのどちらかにしようと考えていましたが、今回の会話になりました。エレクシルさんちょっとむくわれ気味。
次回。
天蓋の超越者五人VS女神様。
そしてそれを見物している怪しい影が一つ。
次回もよろしくお願いします。