七十五章 七つの人災1
「やっほー、剣士殿。大丈夫……みたいだねぇ?」
小さな美貌の巨神へと黙祷を贈っていたキョウの耳に届いたのは、背後からかけられた甘い声だった。
黙礼を止め背後を振り返ったキョウの視線の先には、空獣王アエロとの戦いを終えたナインテールが彼方から手を大きく振りながら駆け寄ってくる姿がある。
太陽のような眩い笑顔でキョウの下まで走ってきたナインテールだったが、彼女の姿にキョウは若干眼を大きく見開いた。
ナインテールはキョウに買ってもらった着物を大切にしている。しすぎていて逆に普段から着ることはしないという状態だ。汚したくないという気持ちが正面に出すぎているのだ。
そのために彼女は自分の魔力で服を形作っているのだが、今現在の姿は男には多少眼に毒と言う他ない状態であった。
服のあちらこちらが切り裂かれ、破れ、雪のような白い肌が見え隠れしている。ただし、顔だけは戦いの興奮が残っているのか未だ赤みを帯びていた。それが妙に艶かしい。
キョウやディーティニアとは異なり、自分の服くらい思うがままのナインテールがそのような状態であるということは、服を構成する魔力さえも惜しんでいるということだ。
もっとも、キョウへ対するアプローチという意味で服を直していないという可能性も捨て切れなかったが……。
どちらにせよ、あの幻獣王の魔力を枯渇―――其処までではないにせよ、魔力の防護壁でもある服を切り刻むほどの敵と戦ってきたということに、キョウは瞬時に気づき、そして驚いたというわけだ。
「……なんだ。相手は手強かったのか?」
「ああ、うん。まぁねぇ。かなりやばかったかなぁ……奥の手出さなかったら結構際どかった―――かも?」
「お前にそこまで言わせるほどか……」
ナインテールの告白に眉を顰めるキョウ。
彼は幻獣王の力を知っている。気づいている。とてつもない化け物だと認識している。
普段の様子からとても怖ろしい怪物だとは見えないが、そうではないと確信をしていた。
あの笑顔の下。本来の彼女はセルヴァやユルルングルを圧倒する超越存在なのだ。そんな彼女をして、際どかったと述べる相手ということは、キョウの想像していたよりも相当な手練れだったのだろう。
「何にせよ、助かった。流石に巨人王と戦いながら、あの遠距離攻撃を捌くのは厄介だったからな」
「いえいえ、どういたしまして。僕としても今回は良い勉強になったからさぁ」
キョウの感謝に両肩を軽くすくめて、ナインテールは笑顔で答える。
ラグムシュエナの一族に分け与えていた片目を取り戻してから、初めての全力戦闘。
女神に命を狙われたときは使う寸前にイグニードが乱入してきたため結局使用出来ず、ユルルングルの時はディーティニアが一人で倒してしまった。その後、悪竜王に拉致られて、ワキンヤンやアエロ、南大陸の魔王に話をつけに行ったときも闘争に発展することは無く―――今回が数百年ぶりとなる力の解放。
久しぶりとなるそれに、身体中が既に悲鳴をあげている。
といっても、そこまで悲観的な話ではなく、人間でいうならば全身を筋肉痛が襲っている程度のレベルだ。しかし、逆に言えば全力を出すことは不可能ということでもあった。
超獣解放に身体を慣らさなければいけないと自覚したナインテールだった。
―――それにしても、相変わらず底が読みきれないよねぇ。
可愛らしい桃色の唇に人差し指をあて、ナインテールは上目遣いですぐ傍にいるキョウを見上げる。
身体中の至るところに小さいながらも裂傷を負ってはいるものの、命に関わるような怪我は見受けられない。第二級危険生物である巨人王―――しかも三体と同時に戦いながらもその程度で圧勝する。並大抵の者ができることではない。第一級危険生物に属する存在ならば可能だろうが、人間であるキョウがそれを成し得たことに違和感が生じる。
キョウ=スメラギは強すぎる。人間であるはずのキョウが何故ここまでの高みにのぼれているのだろうか、ナインテールはふと湧き上がってきた疑問に首を傾げた。
しかも、先ほどの発言。
あの遠距離攻撃を捌くのは厄介だったからな。
無理ではない。不可能ではない。
ただ、厄介なだけだった。空獣王の遠距離からの攻撃に対応しながらも、巨人王を倒すことは出来た。
明確に言葉には出さなかったが、彼はそう言いたかったのだろう。
他のものが言えば鼻で笑われるような答え。
だが、ナインテールは知っている。それが決して驕りではなく、自惚れでもないということを。
幻獣王と謳われる彼女でさえも、キョウの底が見切れない。
三十年の戦いの歴史。血に塗れた悪鬼羅刹も慄く修羅道に身をおき続ける剣魔。
しかし、そこにやはり強い違和感。齟齬を感じる。
確かにキョウの人生―――否、剣生は言葉で表現するに難しい。
常人ならば一日も耐え切れずに発狂するであろう、冥府魔道に繋がる歩みであったはずだ。
それでも、ナインテールは思うのだ―――足りない、と。
どれだけの密度であろうとも、溢れに溢れる才能を持っていたとしても。
それでも人がここまでの領域にのぼるには、三十年程度では絶対に足りない。
一体どういうことだろうか。
これまで感じてきた疑問。それが気味が悪いほどに胸に渦巻いている。
それもこれも、全てはアエロとの会話のせいである。
何故か、彼女の台詞がナインテールの心に強く刻み込まれてしまっていたのだ。
一笑に付すことができないほどに、強く深く。
考えれば考えるほど、得体の知れない感情が次々と呼び起こされる。
それが気持ち悪くて仕方ない。
―――考えるのは、僕の柄じゃないんだけどなぁ。
頭を何度か左右に振って、思考を支配するそれらを追い出そうと試みる。
突然のナインテールの行動に、キョウが訝しそうに眉を顰めた。
「……どうかしたか?」
「いやぁ、何でもないよ。少し疲れただけさぁ」
「む。大丈夫か? しばらく安全な場所で休んでおくか?」
「ああ、うん。そこまで酷いってわけじゃないから大丈夫。それより、ほら。そろそろ行こうよぉ」
「……あまり無理はするなよ?」
様子のおかしいナインテールに、キョウが心配の言葉をかけるものの、肝心の彼女はニパっと向日葵を連想させる笑顔で心配ないと答えた。
そして、キョウの背後に回ると彼の背中を両手で押しながら、未だ破壊の音が響いている方角へと向かい始める。
そう。確かにキョウは、高位巨人と巨人王を打倒した。
しかし、この街を襲っている巨人種は彼らだけではない。数百を超える下位、中位巨人種は健在なのだ。
それらが、街の方々で破壊と殺戮を繰り返している。如何に彼らの王を打倒したとしても、彼らは闘争の申し子達。逃げ出すものなどほんの一握りだ。例え自分達が死ぬと分かっていたとしても彼らは戦い続ける。この地の戦はまだ終わってはいない。
さっさと後始末をしてしまおう。
そんな軽い気持ちでキョウの背中を押した瞬間、世界が揺らいだ。
否、揺らいだのは彼女だけだ。
ナインテールを眩暈が襲う。ズキリっと激しい頭痛が数度。あまりの痛みに頬が引き攣る。
揺らぐ視界。五感全てが、何故か悲鳴をあげている。
これ以上はマズイと、ナインテールの本能が咆哮していた。これ以上、考えるな、と。
彼女が両手で押している背中。キョウ=スメラギの分厚い肉体。
それがどうしようもないほどに懐かしい。今すぐにでもその背に縋り付き、抱きしめたいほどに。
いや、それ以上に涙が零れそうになるほどに、胸を疼かせる。
パチリっと揺らぐ視界の中で、何かが視える。
ここではないどこか。今ではない何時か。遠い過去なのか、近い未来なのか。時間軸さえもはっきりとしない。
そんな世界で、ナインテールは彼女自身が流した血の海に沈んでいた。虚ろな視線。震える肉体。
その傍には血に塗れた刀を持ったキョウ=スメラギの姿。今にも事切れそうなナインテールが途切れ途切れに言葉を発し、それに答えるキョウ。
愛情。友情。恋心。嫉妬に憎悪。
ありとあらゆる正と負の感情がごちゃごちゃになった、表現不可能などろどろとした気持ち。
そのなかでも一際強い、護れなかったという後悔。先に逝ってしまったという自分に対する憎悪。
なんだ、これは。
この気持ちは。この感情は。
自分でも理解できない。抑え切れない。次々と溢れ出てくるこれは―――。
「……わ、私も行く!!」
「え? あ、あの……アトリちゃん?」
そんな時。
新たな戦場へと向かおうとしていたキョウとナインテールの足を止める声がかかる。
それで、ナインテールは身体全体に暴れ狂っていた不明瞭な感情が霧散していくのを自覚した。
胸を酷く強く叩いている心臓。激しい呼吸。薄っぺらい胸に手を当てて、何度も呼吸を繰り返す。
今のは一体何だと考えるよりも早く、助かったという気持ちの方が強く感じてしまっていた。
そんな幻獣王を置き去りに、蚊帳の外に置かれていたアトリが、顔色にどこか焦りを滲ませている。
非常に珍しく感情的になっていることに、彼女を支えていたシルフィーナが驚きを隠せていない。
アトリはシルフィーナから離れるとチョコチョコと小走りにキョウへと駆け寄っていくが、途中で何度か脇腹を押さえながら立ち止まる。フゥフゥと息が荒い彼女は、額にも脂汗が滲んでいた。
普段の数倍の時間をかけてようやくキョウのもとへと辿り着くと、両手で彼の服を握り締める。痛みでぷるぷると震えており、掴むというよりも寄りかかるというほうが正確な状態だ。
よく思い返せば、高位巨人種の一撃を脇腹に受けたのだから肋骨の数本は確実に折れているはずだ。いや、むしろ死んでいないのが幸運なのかもしれない。鼠を甚振る猫のように、宿敵であるアトリを弄ぶために手加減した攻撃だったのが、彼女の命を救う結果となったのだろう。
「……わ、私も行く」
「いや、無理をするな。お前は安全な場所で休んでおけ」
「……わ、私も行くから」
「お前もかなりの重傷なんだ。身体を労わるほうがいい」
「……私も、行くの」
「いや、お前は―――」
「―――私も行く!!」
決して引かぬという不退転の意思が瞳に見える天雷の魔女。
キョウの言葉を遮って、絶対について行くと言葉だけでなく身体全体で意思表示していた。
アトリが何故ここまで強気に出るのかわからないキョウだったが、一瞬とはいえ彼女の迫力に押されて口ごもってしまう。
言葉で説得するのは不可能。いっそのこと意識でも奪ってしまうかと、物騒なことを考え始めたキョウへ、近寄ってきたシルフィーナが恐る恐る手をあげる。近寄ってきたといっても、数メートルの間合いをとっていることが、神風の魔女の内心を表しているともいえた。
「そ、その……私がアトリちゃんから離れないようにしますから。だから、えっと、その……」
「……わかりました」
シルフィーナの懇願に、キョウは渋々と頷きながらも、まて―――と、考えを改めなおす。
街の中に残っているのは下位や中位の巨人が殆ど。
後何匹か高位巨人種の気配も紛れているようだが、そのどれもが飛びぬけて強いというわけではない。あくまで先ほど戦った高位巨人種程度だろうか。
もしも高位巨人種なるもの全員が、ペルセフォネ級であったならば、流石のキョウとて随分と苦労を強いられたのは想像に難くない。
安全な場所に魔女二人とも退避してもらうことを考えたが、万が一残された高位巨人種が一斉に彼女達を襲ったら最悪の事態に陥る可能性もある。
それならば、キョウの手の届く範囲に居て貰った方が逆に心配事がなくなるとも言えた。
ましてや神風の魔女が護衛についていれば、なおさらだ。
「無茶だけはしないと約束できるか?」
「うん。出来る。だから一緒に行くよ」
僅かな躊躇いなく答えるアトリに―――駄目だこいつは。何かあったら絶対に無茶をすると確信を抱くものの、それならば何も起こさせなければいいかと決断を下した。
如何なる敵がいようとも。どれだけの敵がいようとも。
万難を排して、キョウは突き進む。少なくとも、この破壊尽くされた街に剣魔の敵となるに値する化け物は幻獣王ただ一体の筈だった―――。
「―――な、に?」
反射的に上擦った声をキョウがあげた。
それは非常に珍しいことだ。少なくとも、巨人王と戦っていた時でさえこのような声をあげはしなかった。
アトリもシルフィーナも、そんなキョウを不安げに見上げる。一方のナインテールは、キョウに一拍遅れて気づいた。クンっと鼻を鳴らした彼女は、油断なく街の中心部へと鋭い視線を送る。
「何、こいつら? 相当にヤバイよ」
「……」
ナインテールの警戒する様子に、彼女を知るアトリは息を呑んだ。
剣魔と幻獣王の二人をして、ここまで警戒させる何かがこの街にいるのだ。
巨人種という線はかなり薄い。
巨人王という巨人種最強の存在達は全員倒されている。
ならば、高位巨人種かとも考えられるが、その程度でキョウ達の注目を集めることはできないだろう。
他の可能性を幾つも考えるが、少なくともアトリでは答えを導き出すことは出来なかった。
「―――うそ。巨人種の気配が、凄い勢いで、減っていってる……」
愕然と、シルフィーナが現状を言葉で表した。
彼女の言うとおり、街中に溢れていた巨人種の気配が次々と減少していっているのだ。
一体二体というペースではない。それこそ十体消えたかと思えば、さらに十体の気配が消失していく。
遠く離れていても臭い立つ、圧倒的な死臭。近づけば、死ぬぞと本能が警告してくる。
巨人王に匹敵―――もしくは凌駕するような化け物染みた気配。
ぶるりっとシルフィーナの身体が知らず知らずのうちに恐怖で震えた。
そんな魔女とは異なり、キョウはというと―――。
「この気配。まさか、とも思ったが……」
ぽつりっと呟くキョウ。
ふぅっとため息をつくと、背後にいたナインテールの頭をわしゃわしゃと撫でる。特に意味の有る行動ではないのだろうが、髪を撫でられたナインテールは何気に嬉しそうだった。
「まぁ、行くぞ。とにかく残った巨人種を倒さないとならないしな」
「……うん。でもさぁ、この二人、どうするの? 先手必勝でやっちゃう?」
「心配するな。知り合いだ。こちらに危害を加える可能性は限りなく低い……はずだ」
「え? 知り合い?」
キョトンっとした表情でナインテールが小首をかしげる。
問い返す狐耳の少女に、キョウは―――。
「何故ここにいるのかわからんが―――昔世話になった男と世話した女だな、こいつらは」
空を見上げ、どこか疲れたようにキョウは再度ため息を吐いた。
戦場の香りが燻るこの街で。
七つの人災が邂逅する。




