五十八章 イグニード・ダッハーカ2
「俺はあいつを解放したい。俺の下らない願いの犠牲になったスラエをこの世界から解き放ちたい。それが出来るのならば、女神を殺せるのならば、俺の安っぽい誇りなんて幾らでも捨ててやる。価値の無い俺の頭くらい幾らでも下げてやる」
イグニードは淡々と、だが触れれば火傷をするような熱さを秘めて語る。
両手両足を地につけた体勢だというのに、自然とディーティニアは気圧されていた。
殺気も悪意も戦意も何もない。ただの懇願に対して、返す言葉が咽で止められている。
悪竜王の偽りのない視線に射抜かれたディーティニアは、気持ちを落ち着かせる意味も含めて幾度も深呼吸を繰り返す。目を瞑り、肺の中の空気を搾り出し、限界まで吸う。
この隙をついてイグニードが攻撃を仕掛けてくるかもしれないという考えは全く無かった。
一分程度の沈黙が続く。
ゆっくりと目を開き、イグニードの視線と交錯。
彼は特に意識していないのだろうが、目線を合わせるだけで計り知れない威圧感を叩き込まれてくる。
「……即答は、しかねる」
「ああ、当然だ。それでいい。今回で返答を期待してはいないからな。そういった選択肢があるってことを頭の片隅においておいてくれたらいい」
「うむ……キョウにも相談せねばならんしな。ワシの一存では決めることはできぬ」
「頼むぜ。何と言っても神殺しだ。あの剣士を説得するには、面識のない俺ではちょっくら難しい」
「その点は特に心配せずとも良いと思うぞ?」
「―――あん?」
イグニードの懸念を、軽く一蹴するディーティニアに、首を捻る。
彼の疑問は当然といえた。女神エレクシルを打倒しようなどという考えを持つ生物は、幻想大陸広しといえど、皆無に等しい。彼女は間違いなく世界に唯一存在する神様なのだから。
イグニードでさえも、幻想大陸八百年の歴史で見つけることが出来たのは獄炎の魔女だけだ。
「キョウの目的もまた、ワシと同じ神殺し。説得する必要などない」
「……おいおい、まじかよ」
茫然とするイグニードの表情に、少しだけ笑みを溢す。
「だからこそ、ワシらは行動をともにしておるのだよ。王位種と戦って回っておるのも、目的のために必要な力の底上げのためじゃしのぅ」
「まさかあの女神をぶち殺そうという変わり者が二人もいるとはなぁ……有り難いといえば有り難いな。で、お前さんとしても保留でいいのか?」
「……む?」
イグニードの問い掛けは、ディーティニアではなく―――自分の背後へ対してのものだった。
意識を眼前のイグニードにのみ集中させていた魔女は、そこでようやく新たな二人の人影に気づく。
一体何時到着したのか不明だが、キョウとナインテールの二人が油断なく普段よりも遠めの間合いを取りつつ、身構えていた。
キョウは腰に差してある刀の柄に右手をあて、何かあれば即座に刀を抜けるような体勢を保っている。
ナインテールはというと、油断はしていないが、キョウほど戦意をむき出しにしている訳でもなかった。
そんなキョウ達を前にして、イグニードは立ち上がると身体についた砂埃を払って落とすと、パンパンっと小気味良い音が平原に鳴り響く。
「どうせナインテールは聞こえていただろうから、詳しい理由は後でにーちゃんに話しておいてくれ。今回の所は、目的はもう果たせたしな。俺はそろそろ帰るわ」
「……ディーテを浚っておいて、このまま帰すと思うか? と、言いたいが……どうやら帰す方がいいみたいだな」
何かを言おうとしたディーテの気配に気づいたのか、安堵のため息を吐きながら刀の柄から手を離す。
浚われたはずのディーテを見ても、特に怪我をしているわけでもなく、脅されている様子も見られない。
さらには彼女の目を見ればわかるが、目の前の怪物と戦うな―――そう、言葉無き声が、キョウへと語りかけていた。
「おう。そうしてくれたら助かるな。お前さんも最後の方は聞こえていただろうが、出来るだけ前向きに検討しといてくれよ。エレクシルへ対する共同戦線について」
「……ああ。考えておく」
「頼むぜ。それじゃあ、また近いうちに会いに来るわ」
悪意の一つもない、これまで出会ってきた王位種とは正反対の気持ちの良い笑顔を三人に向けて―――。
「……イグニード」
「あん? どうした?」
空に飛び立とうとしたイグニードを呼び止めたのは黙ったままだったナインテールで、呼びかけられた彼はそれに間一髪のところで止まる。
しかし、ナインテールはイグニードの視線を受けたまま、暫くの間沈黙を続けていた。
当然訝しむ彼だったが―――ようやく、九尾の狐は決心がついたのか上目遣いとなって悪竜王を見上げる。
「……この前は、有難う。助かったよ」
「―――はっ。礼はこの前言われたしな。それで十分だ。ああ、ついでにお前もこっち側につけよ」
「……剣士殿次第だね。僕としては、それに従うつもりだけど」
「ほー。それなら芽はあるな。一気に戦力増強できるみたいで、有り難いわ」
「まだ答えは出てないみたいだけどね。それはそうとあれからどうなったのさ?」
既にディーティニアとキョウとナインテールの三人を戦力に数えているイグニードに呆れつつ、先日の女神との戦闘の結果を聞きだそうとする。
それに肩を竦めると、鼻で笑い―――。
「結局お前が離れてから、一分ちょっとでぷちっと潰しておいたぞ」
「……幾ら十分の一程度の力しか出せないからといって、そこまで女神を容易く倒すことが出来るのはお前くらいだよ」
「人形だったからまだ良かったが、本体だったら俺の攻撃力だとあの女神の神域を突破できねーんだよなぁ。俺の特異能力は、防御特化型だし。だから、お前さんたちには期待してるんだぜ?」
「……まだ手を組むとは言ってないんじゃがのぅ」
「かっかっかっか。そういえばそうだったな。わりぃわりぃ」
捕らぬ狸の皮算用。
キョウ達の誰からも協力を取り付けていないというのに、まるで三人の出す答えに確信を抱いているかのようにイグニードは笑っていた。
「……そういえば、お主。もう一つ聞かせてくれぬか?」
「おお、なんだ? 大抵のことなら答えるぜ」
「お主の願いはわかったつもりじゃ。蘇った亡き友を再び眠らせるため。それはわかった。お主の記憶を依り代としている女神の呪いから解き放つためには、根元を断つしかあるまい。だが―――」
「ああ、わかっている。恐らくそうなることも予測はついているしな。女神を倒した後、俺はスラエと一緒に死ぬつもりだ。それが俺の友を汚した俺が取れる唯一の贖罪だから」
イグニードの口から漏れ出た、死ぬという言葉に彼以外の三人は呆気に取られた。
まるでそれが当たり前のように、平然と言い放った悪竜王はどこか寂しげに口元を歪めて。
「あいつが死んで一万年。俺は―――生き過ぎた」
ばさりっと翼をはためかせて、風を巻き起こす。
暴風渦巻くさなかに、じゃあなっとイグニードの別れの台詞が聞こえた気がした。
上空に舞い上がった彼が、次の目的地の方角を見据えていたが、そちらへと飛び立とうとした瞬間―――。
「雷神の槌」
空に浮かぶ夕雲をも消し飛ばし、それらは放射状に散ってゆく。
天空から降り注ぐ数千にも及ぶ、金色の矢の雨。
視界全てを埋め尽くす雷神の怒りが、荒ぶる奇跡を顕現させる。
「―――なっ」
イグニードの驚く声があがった。まさかの突然の魔法に、面食らった彼が茫然とするのは当然だ。
回避させる隙を与えない超範囲に渡る雷属性の王位魔法が、飛翔していた悪竜王を強かに打ち据える。
数十。数百の雷の矢を受けたイグニードの肉体は衝撃に耐えられず彼方へと吹き飛ばされ丘陵へと叩きつけられた。それを追って残された雷神の槌が丘陵を削りながら破壊していく。
何十度も爆発を巻き起こし、遂に数千を超える雷の雨が降り止んだ。
今の今まで彼方にあった丘陵は、キョウ達がいる場所と同程度まで平坦に削られ、地形を少しばかり変化させてしまった原因―――天雷の魔女アトリは、未だ爆煙渦巻く前方を静かに見据えていた。
「……大丈夫だった?」
彼女の最大最高の魔法を叩き込んだというのに、油断もせず視線も前方から逸らさずに、弓を引き絞りながら意識を集中させているのがこの場にいる者達は一目でわかった。
しかしながら、まさかの奇襲に驚いたのはイグニードだけではなく、キョウ達も同様である。
「いや、大丈夫というか……いきなりどうした? もしかしてイグニードに恨みでもあったのか?」
三人の中で、とりあえず代表してキョウが口を開く。
如何にアトリと言えど理由もなく魔法を放つような真似をするはずが―――と、考えていたキョウだったが、ある記憶が蘇って来る。
不死王との戦いの時に、敵と間違えられていきなり魔法で攻撃されたこともあったのだ。
それを考慮すれば、アトリの突然の凶行に納得が―――そこまでいく訳でもなかった。
「え? 今のって悪竜王?」
「……知らずに攻撃したのか」
「何となく。凄く危険な気配を感じたから……」
イグニードの気配の片鱗を感じ取ったアトリは彼女なりに慌てて駆けつけてきたのだろう。
そこまでずば抜けた身体能力を有していない彼女がここまで短時間で辿り着いたのは、相当に全速力で走ってきたことは想像に容易く、息を乱していた。
そんなアトリは珠の汗を額に浮かべながら呼吸を整えつつ可愛らしく小首を傾げる。
自分が悪いことをしたとは微塵も考えていない表情だ。
「あー。実は、あいつは……」
「うん?」
キョウが途中で言い淀む。
気配の強大さから、まともにやりあっても勝ち目は薄いと判断して先手必勝の雷神の槌。
三人を助けるための行動に文句を言うのは憚られた。
結論はというと―――。
「……晩飯。肉類でいいか?」
「うん。お腹へった」
注意をするわけでもなく、本日の晩御飯を確認。
それを合図に引き絞っていた弓を下ろすとごそごそとローブの下に隠す。
服の下が一体どうなっているのか少しだけ気になるキョウだったが、帰るかと短く声をかけるとコクリっと頷くアトリを伴って交易都市ギールへ帰還しようと踵を返す。
その時―――。
「おいおい。それはひでーぞ、幾らなんでも」
爆煙渦巻く彼方から、現れる一つの人影。
王位魔法の直撃を受けたとは思えない気軽さで、再び姿を現した。
見た限りたいした怪我をしているようには見えない。精々が、服が破れ焦げているくらいだろうか。
殆ど意味を為さなくなった布の切れ端を見て、面倒そうな表情で布を弄くる。
「……あれがイグニード・ダッハーカ? 幻想大陸最強の割には結構みすぼらしい」
そそくさとキョウの背中に隠れたアトリがぽつりと漏らした言葉は、言った本人とすぐ前にいる剣士にしか聞こえない小声だったのだが、イグニードが参ったように頭をガシガシと片手で掻き乱す。
「……おい。そこのエルフの嬢ちゃん。聞こえてるぞ」
「聞こえてるらしいが?」
「……おお。耳が良い。さすが幻想大陸最強」
それはあまり関係ないんじゃないか、と考えつつ用心のためアトリを庇う位置に立ったキョウは小狐丸の柄に手をかける。
「エルフの嬢ちゃん。いいか、人を見かけで判断したらいかんぜ? 人間大切なのは中身だ」
「確かに貴方の言うとおり。でも、外見も大切。人間は第一印象が強く残るから、悪い印象を払拭するには凄い時間がかかるから」
「いや、まぁ……それは一理あるな」
「だからそんなみすぼらしい裸に近い格好してたら駄目」
「おいぃ!? これは嬢ちゃんが魔法ぶっぱなしてきたせいだからな!? 俺が悪いわけじゃないぞ!?」
「それは……確かに。ごめんなさい」
「ああ。謝ってくれたら、まぁ……別にいいか」
隠れていたキョウの背中から身体を出して、素直に謝ったアトリが頭を下げる。
謝罪を受けたイグニードは、それをケロリとした様子で受け入れると、先程の比ではない身体中に纏わりついている砂埃を再度払い落とす。奇襲を仕掛けたというのに、あっさりと許す彼の様子に、驚かされる四人。他の王位種ならば間違いなく殺し合いに発展したはずだ。
そして数千の死者を蹴散らしたアトリの王位魔法の直撃を受けていながら平然としているイグニードは、確かに超越種の中でも群を抜いた怪物だということを実感させるには十分すぎる事実を残して、今度こそ翼をはためかせて天空へと飛翔する。
砂塵を舞い上げ、気がついたときには四人の視界から彼の姿は消え失せていて、まるで今までの出来事が夢か幻のようにも感じられた。
後に残されたのは、平地になってしまった丘陵。
そこから降りてくる街道の途中の左右に広がる大草原は、人の腰近くまで伸びきった高い草によって埋め尽くされている。
それらが夕陽を浴びて赤い大海原にも見えた。
幸いにも北の街道だったおかげで、誰にも見られることはなかったのが救いであった。
いや、イグニードはそれを計算に入れて人の少ない方角へ飛来して、話し合っていたのかもしれない。
しかし、アトリの魔法でそれも台無しになってしまったのだが。
微かに見えた残像から、恐らくは西へ飛んでいった悪竜王の影も形もない姿を見送った四人―――特にキョウとディーティニアとアトリは、くたびれたようにその場に座り込んだ。
三人ともが背中に嫌な汗をかいていて、じっとりと服を濡らしていた。無表情で何ともなさそうな顔をしていたアトリだったが、短い対峙で極限まで精神力を削られていたのだ。
緊張で固まっていた手を開いてみれば、ぬちゃりっと汗が音をたてる。
膝が笑っているのを実感しながら、ハァっと震える呼吸を繰り返す。
武器を交えたわけでもなく、互いの戦意をぶつけあったわけでもない。
ただ、話をしていただけで、恐ろしいほどの差を体感することができてしまった。
高位巨人ペルセフォネも。
陸獣王セルヴァも。
竜女王テンペスト・テンペシアも。
不死王ノインテーターも。
今まで戦ってきた生きた天災を遥かに超越した怪物。
幻想大陸最強という称号に偽りは無いことを身を持って思い知らされた。
そんな三人の様子に、苦笑いをするのはイグニードと長い付き合いであるナインテールだ。
長い金色の髪を一房手に取ると弄くりながら、肩をすくめた。
「別に恥じる必要はないと思うよ。あいつは別格。僕達王位種の中でも圧倒的な化け物だからさぁ。むしろ普通に話をしているだけでも凄いかな」
「……ああ。見たらわかる。セルヴァやテンペストも十分な怪物だと思ったが、あそこまでの領域の存在を、久しぶりに見たぞ」
「全くだのぅ。だが、あやつの申し出を受け入れるのであれば―――これ以上ないほどの手助けとなりそうじゃよ」
「ああ、それか。それについて詳しい話を聞かせて欲しいんだが……とりあえず、場所を移すか」
「あー、そうだねぇ。これだけ派手にやったら人がきそうだよ」
もくもくと黒い煙をあげている、変化した地形を眺めながらナインテールが苦笑した。
それに頷いて賛同の意を示したキョウとディーティニアが立ち上がりこの場所から移動しようとして―――ただ一人地面に座り込んだままのアトリに三人の視線が集中する。
「どうした? 何かあったのか?」
動かないアトリに問い掛けるキョウだったが―――。
「……腰が抜けた。おぶって、キョウちゃん」
何時も通りの無表情。
ただし、若干頬を赤くしながら懇願してくるアトリを仕方なく背負い、交易都市ギースまで戻っていくことになった。
完結重視して一話は多少短く、日を置かずに投稿することにします。