四十一章 開戦2
探求者組合へ響いた突然の報告。
それがもたらしたのは、沈黙だ。
この場所にいた人間は誰もが嘘だと否定しなかった。嘲笑もしなかった。
何故ならば、転がり込んできた男がどう見ても真実のことを言っている様にしか見えなかったからだ。
それほどまでに鬼気迫る表情で、これ以上ないほどに怒りに燃えて、訴えてきている。
「何を、何をしているんだ、あんた達!! 早く準備をするんだ!!」
怒りに燃えた男の声が、沈黙を打ち破る。
すぐに動き出そうとしない彼らに、業を煮やしたかのようにカウンターまで駆け寄っていき、組合の待合室全てに聞こえる大声で。
「俺がいたファイルは滅茶苦茶にされた!! 数十万の死者を引き連れて!! あの糞野郎がプラダに迫ってきているんだ!! 《七剣》殿も、あの野郎に殺され―――」
男は怒鳴りつける叫び声にも似たそれを最後まで紡ぐことは出来なかった。
突如背後から肩に手を置かれて握りつぶされそうな激痛がはしる。痛みで思わず声をあげそうになったが、その痛みを堪えて自分の肩に手を置いた人物が誰なのかを確認するために振り返った。
「―――すまない。《七剣》が、どうしたって?」
「……っ」
激情を放っていた男が怯んだように、後ずさった。
男の肩を掴んでいたのはキョウだ。だが、その雰囲気が少々普段とは異なっている。
勿論、普段のキョウの姿など男が知る由もない。だが、それでもわかった。目の前にいる男が、とてつもなく危険なのだと。男の憎しみを一掃してしまうほどの、得体の知れない気配を纏っていることを肌が自然と感じ取っていた。
「ユエナ―――ラグムシュエナがどうした?」
二度目の問い。
ああ、駄目だ、と。
男は身体の芯からくる恐怖を抑え切れなかった。
この男は駄目だ。この男は危険だ。この男は不死王が可愛く見えてしまうほどに、恐ろしい。
地平線を埋め尽くす死者の王よりも―――目の前にいる一人の人間の方が、怖いと感じてしまった。
「―――あ、ああ。あんた《七剣》殿の知り合いか……すまない。あの人は俺達を逃がすために一人ノインテーターと戦って……それで。すまない、本当にすまない」
「―――そうか」
必死に搾り出す男に対して、キョウの返事は短かった。冷静に、冷淡にも見える対応で男の言葉を受け入れた。
懺悔するように男はキョウに向かって土下座をして謝罪を続ける。
額を床に擦りつけ、顔をあげることなく何度も何度も。
その姿に、ノインテーターの情報は決して嘘偽りないと皆が完全に理解して―――探求者組合は蜂の巣を突いたかの如く悲鳴と怒号が響き渡りはじめた。
そんな中、キョウは一人組合から外へと向かう。
彼の姿に気づいたカルラが慌ててその後を追った。
普段よりも若干早歩きとなったキョウの背を見つめながら、彼女は何かを口に出そうとするも、言葉になる前に呑み込み―――結局、どう声をかければいいのかわからずいる。
どんな慰めの言葉も今は意味を為さないような気がして、カルラは黙ってキョウに付き従った。
ただはっきりと理解できることは一つだけ。
今のキョウ=スメラギがとてつもなく怖いということだ。
中央通りまで戻るとそのまま南へと折れ、しばらく下った後に東へと曲がる。
相変わらず分かり難い道を抜けて、フリジーニの家まで辿り着くと家には入らず―――横の小屋へと足を踏み入れた。
完全防音となっているのか、小屋の奥のフリジーニがいる部屋からは音が全く聞こえていない。その手前のキョウが入った小屋の中には所狭しと武器が置かれている。彼女から先日話を聞いたのだが、ここにある全ての武器は自分を戒めるために置いているという。武器を打ち始めて間もない頃に造った武器の数々。
長剣。長槍。戦斧。中には片刃の大剣―――しかも、刃が通常とは異なっていて鋸のような歯牙が連なっている異形の武器。そういった使い手が困る武器が多量に飾られていた。
フリジーニからこれらの武器は好きなように使ってもいいと言質は取っている。鍛錬にでも使用しようと思っていたのだが、まさかそれがこんな時に役に立つとは思ってもいなかった。それらの武器を持てるだけ持つと小屋を出て家へと戻る。
家の入り口から入ってすぐのリビングには出発前と変わらず、読書をしているディーティニアの姿があった。
本から視線をキョウへと向けて両手に抱える武器の数々に眉を顰めた彼女だったが。
「……のぅ、キョウ。何を怒っておるのじゃ?」
「―――怒る? 誰がだ?」
「……嘘をついているわけでもないのぅ。自覚しておらぬだけか」
普段の彼とは思えない、冷たい声色と雰囲気に何事かと訝しむディーティニアだったが、キョウの返答を聞き自分に聞こえる程度で小さく呟きながらパタンっと本を閉じる。
「まぁ、良い。それで、お主何を始めようとしておる?」
「―――戦争だ」
「ふむ。誰とじゃ?」
「不死王ノインテーターとだ」
「良かろう。ならばワシも付き合うとするかのぅ」
テーブルに置いてあった三角帽子を手に取ると、頭にかぶり。
獄炎の魔女は薄く笑った。理由も聞かず、問いもせず、小さな魔女は平然と自分の同胞の言葉を受け入れた。
王位種と戦うことに何の躊躇いもなく。何の恐れもなく。
目の前の光景を黙って見ていたカルラ・カグヅチの背に冷たい電流が流れた。
何だ。何を言っているのだ、この二人は。
同じ言語を話していると言うのに、一瞬彼女の脳は二人の会話を理解できなかった。
鬼人族の里に暮らしていたとはいえ、彼女も不死王の恐ろしさは聞いている。知っている。何故ならば四十年前の地獄を彼女もまた幼い頃に体験していたからだ。
その時の恐怖は忘れられない。決して消えない。
生きた天災と呼ばれる怪物の一体。ノインテーターは不死王種の中でも最悪と謳われる悪魔だ。
東大陸を旅して回っていたカルラでも、東の辺境と幻獣王が住む森にだけは近づかなかった。
生物としての格の違いというものを心得ていたからである。
それなのに、目の前にいる二人はまるで呼吸をするかのように自然にそんな会話をしているのだ。
「なんじゃ、やはり奴が動き出しておったのか?」
「ああ。南西の街ファイルを数日前に落とされたらしい。その足でこちらに向かってきているらしいぞ―――しかも数十万を超える死者を引き連れてだ」
「……全く。流石にそれは厄介じゃなぁ」
そして、この会話でディーティニアはキョウの雰囲気の変化の原因に気づく。
確かファイルと言えばラグムシュエナが向かった任務先だ。日数的にも、死者が攻め入ったのとほぼ同じと推測することができる。つまり、彼女は―――。
「ワシも本気をだすかのぅ」
少しだけ声が震えたのを実感する。
今まで幻想大陸で彼女を相手にあそこまで自然体で接してくれた相手は数えるほどしかいなかった。
僅か二ヶ月程度の付き合いとはいえ、彼女のことを気に入っていたのも事実。
「……焼き滅ぼしてやるわ、あの小僧」
抑え切れない魔法力が部屋の中でバチリっと火花を散らした。
ディーティニアが纏う魔法力にカルラが反射的に距離を取る。例え自分に向けられたモノではないにしろ、小さな魔女が空気を赤く染め上げる気配は、それだけで震えがくる。
強いということは初めから判っていたことだが―――現実は想像を遥かに超えていた。
「南西から北上してきているとのことだが、地形の問題で西からは恐らくこないだろう。となると可能性が一番高いのは南からだな」
「ふむ、そうじゃな。では南門から出た場所で迎え撃つとするか」
「ああ。何ならお前は石壁の上から援護魔法撃ってくれるだけでも良いんだが」
「あー。四十年前はそれやってたら嫌がらせをされたからのぅ。面倒なことにならないように今回は最初から降りておくとするよ」
「そうか。まぁ、俺の後ろにいればいい」
「おお、なんじゃ? 守ってくれるのかのぅ、キョウよ」
「当然だ。俺の後ろに居るかぎり、お前には手出しはさせんぞ」
直球のキョウの台詞に、ディーティニアがククっと笑みを溢す。
特に他意はないのだろうが、なんとなくその言葉が心に染みた。
神罰対象者である自分を守ると臆面もなく言ってくれる彼に、ともに大願を果たそうとする彼に、心が惹かれる。
玄関をくぐり外へと出る二人の姿を黙って見送っていたカルラが彼らを引きとめようと手を伸ばし―――その手は力なく虚空を掴む。
話の内容。二人の尋常ではない強さ。圧倒的な気配。
それらから、キョウとディーティニアは王位種を相手取れる自信があるということだ。いや、自信ではなく力量的にも問題がないのだろう。
それだけの力を彼らは間違いなく所有しているのだ。
「―――っ」
王位種という存在が恐ろしい。
キョウ=スメラギとディーティニアという存在が恐ろしい。
強くなることだけを目標に生き続けてきたカルラだからこそ、強さというものには敏感だ。
幼い頃の体験だったとしても、今の自分では到底及ばない相手。
しかも一対一というわけではなく、数十万にも及ぶ大軍勢を引き連れてくる。
勝てるわけはない。勝ち目など存在しない。
逃げることこそが―――唯一の生き残る道だ。
「―――お待ち、下さい」
わかっているのに、引き止める言葉が出た。
意識してではない。彼女が考えるよりも早く、口が動いていた。
カルラ=カグヅチは震える喉で、言葉を紡ごうとして。
「のぅ、カルラ。お主は来るでない」
決死の覚悟を押し潰す。
圧迫感を秘めたディーティニアの台詞が、カルラの次の言葉を遮った。
「お主は強い。それは認めよう。第四級……或いは第三級の怪物とも戦えるやもしれん。だが、それでは足りぬ」
これまでの人生で一度たりとも経験したことがない。
気配だけで心臓を握りつぶされる。そんな錯覚さえ感じる怪物は、ある種の優しさを秘めた視線をカルラへ向けて。
「ワシらのことは気にするでない。お主はお主の道を行け」
踵を返して立ち去っていく二人。
彼らを見送るカルラの胸に残されたのは安堵だった。
不死王と戦わずに済んだ事に胸を撫で下ろす自分が確かにいた。
無様だと、カルラは歯を食い縛る。
強者と戦うことを目的に旅立ったこの身なれど―――実際に王位種と戦うとなった時には怯む肉体が恨めしい。
いや、違う。身体が怯んでいるのではない。心が既に負けているのだ。
かつての恐怖に縛られて。かつての恐怖に心を喰われて。
今此処で、無様に生を得たとしてどうするのか。一生この時の恐怖と、悔恨を心に刻んで生きていくのか。
かつてキョウと戦った時のように覚悟を決めろ。ここで、踏み出さねば永遠に負け犬のままだ。
「―――っ」
言葉はない。
無言でカルラは二人の横に並んで歩く。
決して退かないという意思を態度で示した。心の中に溜まっていた鬱積した黒い感情を、全て吐き出すように胸を張る。いつのまに俯いていたのだろうか。顔を見上げれば、何故か世界が輝いて見える。
口から一言も発さない意思が確かにキョウとディーティニアに伝わった。
身体全身が熱く燃え滾る。ここにいるのは自分の意思だと。あの化け物と戦うことを、誰かに強制されたわけではなく、自分が決断したのだと。魂が彼女の選択に打ち震え、歓喜の遠吠えをあげていた。
両手を強く握る。
ガシャっと霊白銀で造られた双甲が、金属製の軋みをあげた。
どうしてか今の彼女は―――自分の人生で一番強い確信を得た。
歩く三人は当然注目の的だ。
その責任は主にキョウ。何故らば両手一杯に武器を抱えている。
誰かが通報すれば下手をしなくても危険人物として引っ立てられてもおかしくはない。
しかし、三人は全く気にせずに南門へと到着。
門は既に封鎖され、多くの警備兵や探求者で溢れかえっている。
どうやら、キョウ達が組合の建物から出てから迅速に行動を開始したようだ。
相手は不死王なのだから、それは当然であるが―――彼らの表情は一様に暗い。
亜人の年齢ならば四十年前の事件の経験者も多い。
その時の恐怖が蘇ってきていたとしても彼らを責める事は出来ない。
かつての事件はそれほど深く東大陸の者達に爪痕を残したのだから。
忙しない様子でこれからどうするか話し合っている警備兵達の中の一人がキョウ達に気づく。
「キミ達も探求者か? 助かる。今は人手が幾らあっても―――?」
キョウ、カルラ、ディーティニアを順番に見た年嵩の人狼族の視線が縫い付けられたように、最後で止まる。
まさか、と唇が震えていた。こんな奇跡が再び起きるのか、と。
彼の目の前にいる存在を、四十年ぶりに見かけた大英雄の姿を―――男の願望が生み出した夢か幻と勘違いするが、確かに魔女の姿はそこにある。
「獄炎の、魔女?」
獄炎の魔女という言葉は、喧騒溢れるこの場所では、誰の耳にも届かない小さな呟きだった。
それでも何故かこの場にいた全ての人間は動きを止める。聞き取れるはずのない呟きを、皆が拾っていた。
四十年以上を生きる亜人達は全員が、ディーティニアの姿を見て呆然とする。
それも当然だ。かつて東大陸で巻き起こった大災害を食い止めた英雄。彼女の降臨に、腰を抜かすものまで現れた。
一方まだ歳若い者達は、ディーティニアの姿を知らない。
それ故に、幼い少女を見てこれが本当に獄炎の魔女なのかと疑いを持つのも一瞬―――彼女が身に纏っている人智を逸した魔法力に息を呑む。
見かけが少女だとか、そういった疑いを一掃する。彼女こそが大魔法使いディーティニアだと、誰もに理解させるに足る存在感を示していた。
「さて、お主ら」
ディーティニアの可憐な唇が音を紡ぐ。
小さな少女が下から見渡していると言うのに、逆に睥睨されているような錯覚。
その場にいた者達全てが、自然と地面に片膝をついていた。まるで王に忠誠を誓う騎士達の如く。
「不死王ノインテーターはワシらが引き受けよう。お主らは街の防衛に全力を尽くしておれ」
ワシら、という言葉に多くの人間が耳を疑った。
複数形。つまりは彼女の横にいる人間と鬼人族の三人で、不死王を引き受けると言うことだ。
敵の数は確認できていないが、四十年前を超える。その敵数実に数十万。
それをたった三人で撃退するというのか。
「拒否はいらぬ。返事はどうしたのじゃ?」
離れている兵と探求者全てを飲み込む威圧にも似た魔法力。
立っているだけで自分達との次元の違いを叩きつけてくる存在の命令に―――この場にいる者が否と答えることができるわけもなく。
無言でこくこくと首を縦に動かすので精一杯だった。
重い音をたてながら、南門が開門される。
三人が通った直後、今度は時間差なく閉門。
門が閉まって他の人間に聞かれる心配が無い距離になってからカルラがディーティニアの耳傍で囁いた。
「ディーテ殿。他の方々にも協力を願った方が宜しいのでは?」
「いらぬよ。他の人間を守りながら戦う方がワシらにとっては戦い難い。しかも下手に死人が出ればその分がそのまま奴の戦力として補充される。それだけではなく、今の今まで一緒に戦っていた戦友が敵に回って落ち着いて戦える者がおると思うか?」
「……確かに。いらぬ心配でした」
ディーティニアの考えに、自分の浅はかさを知ったカルラが素直に謝罪する。
三人がいるのは南門を出たすぐ正面。背後を見れば都市プラダと外を大きく隔てる壁がそびえ立っている。
それはあたかも城壁にも見え―――この都市を囲っていた。
街を防衛するための今回の戦いの唯一の命綱。その壁の周囲は堀が掘られており、落ちたら普通には這い上がってこれなくなっている。門と堀を繋ぐのは幅数メートルの木の橋だ。
それを足で叩いて確認していたキョウだったが―――。
「これなら背後から襲われることはないから、やりやすいな」
「そうじゃな。前方にだけ集中できるのは幾分か助かるのぅ」
橋の向こう側へと着いたキョウは、両手に抱えていた武器を地面に突き刺していく。
一定の間隔を置いて、横一直線に橋を守護するように武器の列柱を作り上げた。
そして地面に突き刺さなかった一本の戦斧を両手で握ると、くるりと頭上で回転させ軽く一閃。
背後で見ていたディーティニアとカルラが、思わずほぅっと感嘆の声をあげていた。
二人の目から見ても決して素人芸ではないのがわかる。それほどに力強く、洗練された一撃に見えた。
「なんじゃ、お主。刀以外も扱えたのか?」
「ああ、言ってなかったか? そもそも刀がないのでは戦えません……では、生きてこれない戦いばかりだったからな。使えるものは何でも使ってきた。武器が駄目になるたびに、そこら辺に落ちている武器を拾って戦ってきたからな」
「……のぅ、お主が武器を駄目にするとかあまり想像がつかぬのだが……一体どれだけの敵を相手取ってきたのじゃ?」
「さぁ? 詳しくは覚えていないな。それに俺は殆どが露払いだ。止めは他の奴がやっていた」
戦斧を軽く何度か振って、感触が掴めたのか素振りを止めた。
「それでも一番手に馴染むのはやはり刀だな。それ以外の武器は知り合いに手ほどきを受けたが、あくまで使える程度のレベルだ。それに今回の相手は死者の大軍勢。出来るだけ一度で数匹蹴散らせる武器の方が戦いやすい」
「それで使える程度と断言されれば、幻想大陸中の探求者が泣くぞ?」
どこまでも自然体の二人に、カルラはやや緊張を隠せずにいた。
幾ら覚悟を決めたとはいえ、それでも相手は強大だ。数十万の敵を相手に戦う経験など彼女にはなく―――これからの生涯にもない戦いだ。いや、既に戦争。三対数十万を超える大軍勢。
正気の沙汰ではないのだが、何故この二人はここまで平然としているのか。
「……旦那様。もしや何か秘策でも?」
二人の様子から、対策があるのかと僅かな期待を胸に問い掛ける。
だが。
「ああ。まずこの地形を見ろ。敵は恐らく俺たちの前からしか攻めてこれない。ならば後は簡単だ。敵が十万ならば十万回敵を斬り伏せればいい。二十万いるなら二十万回斬り伏せればいい。真正面から戦い続けることが出来るのならば―――俺に敗北はない」
「そこまで簡単な話で通るとは思えんがな。まぁ、こやつの言うとおり、数十万の軍勢ならば―――それだけ焼き尽くせば良いだけの話じゃよ」
なんという脳まで筋肉な対策なのだろうか。
ふらりっとカルラが眩暈がして立ち眩みを起こす。
作戦や対策や秘策という枠組みを完全に超えていて―――とにかく目の前の敵をぶち殺す。
一緒に出てきたことを少しだけ後悔しながらも、それで迷いは晴れた。
元々カルラも小難しいことを考えるのは苦手な性格だ。
最後くらいはキョウ達のように、戦ってみようと呆れながらため息をついた。
緊張に強張っていたカルラの身体から力が抜けていく。ようやく自然体となれた彼女がガンっと胸の前で両手の双甲をぶつけ合わせた。
その時―――壁の上の見張り台に立つ者も含めて、異変に気づいたのはキョウが最初だ。
それに一拍遅れてディーティニアが嫌悪で眉を顰めた。
二人の雰囲気が変わったことに気づいたカルラが声をかけようとして、ズンっと地震が起きたことに気づく。
いや、一度では治まらない。二度、三度と地響きは続いていく。
その発生源は、ゆっくりとまるでプラダの人間を恐怖させるかの如く、近づいてくる。
黒い。黒い。黒い。黒い。黒い―――地平線の彼方まで埋め尽くす死者の大軍勢。
遥か彼方から進軍を続ける怪異の群れ。渦巻く腐臭。淀む空気。まともな姿を残していない、東大陸の同胞達が不死王の兵士として進軍してくる姿に、警備兵達や探求者はいたたまれない気持ちが胸を支配する。
死してなお、彼らを陵辱するノインテーターに激しい怒りが向けられた。
だが、その怒りをも超える死者の軍勢を見て、言葉も出ない。四十年前でも常に補充をしていたがために減りはしなかったが、十万を超える程度を維持していた。
今回は十万では効かない。今の段階でも数十万。それなのに、地平線の彼方からやってくる死者の姿は途切れることがなく。それを見ていた人間は悲鳴を押し殺すことだけで精一杯だった。
地獄という単語が相応しい世界がここに降臨する。
迫り来る百万の死者を迎え撃つは僅か三人の人間と亜人。
勝敗がどうなるかは、火を見るよりも明らかだ。
しかし、キョウとディーティニアの目には恐怖も諦観もなく。
空気を引き裂き戦斧の切っ先を進軍してくる死者へと向けた。
それに足を止められたわけではないだろうが、三人の前で突如死者達が歩みを止める。
何事かと何時でも動けるように重心を下げて、獲物に飛び掛る肉食獣のような体勢を保つキョウ。
そんな彼らの前で、死者達がゆっくりと左右に散っていく。ぽっかりと空白を作り出した三人の視線の先に―――ノインテーターが薄ら寒い笑みを浮かべて悠然と立っていた。
用心してか、彼の周囲には三体の人間。いや、違う。死体となっているのは間違いないが、それでも色白の肌が見える。病的にも見える痩躯。ただし、肉体のあちらこちらを腐敗させているが、ねじくれ曲がった翼を背にはやしている事以外は人間に近い。
その三体の死者を目にしたディーティニアが若干驚いたように目を開く。
「……あやつ、厄介な存在を死者にしおったな。ばれたら魔王と戦端を開きかねんぞ、あれは」
「なんだ、あの三体の死者―――見るからに只者でないのはわかるが」
「第三級危険生物―――将軍級魔族。南の魔王に従う側近じゃ」
ディーティニアが囁くように情報を伝えると、キョウもまた厄介な相手だと戦斧を握る手に力を込める。
彼は将軍級魔族とは戦ったことがないが、同じ第三級危険生物である高位巨人種であるペルセフォネ。彼女の強さは身を持って知っている。あれほどの敵が三体同時は流石のキョウといえども手を焼く。
「く、はっはっはっは。久しぶりじゃないか、獄炎の魔女。ああ、久しぶりだな。ディーティニア」
「……出来れば二度と会いたくなかったがのぅ」
正気を失っている狂気に彩られた二つの瞳が、他の誰に注目を向けることもなく獄炎の魔女にのみ貫いていた。
「四十年ぶりに会ったというのに、えらくそっけないじゃないか? 相変わらずお前は冷たいやつだな」
「悪いがお主と会話をするくらいならばそこらの虫と話をした方がマシなくらいじゃ」
ねっとりと絡みつくノインテーターの視線から逃れるように、ディーティニアはキョウの背後へと姿を隠す。
気圧されたという理由ではなく、単純に気持ちが悪かっただけだ。
しかし、ディーティニアの返答と態度に心をいたく傷ついたのか、忌々し気な様子でチっと舌打ちをする。
「ああ、やはりお前は酷いやつだ。この俺に、あれだけのことをしておいて。その対応は許せられんな」
ノインテーターはどこか大仰な仕草で、両手を広げて天を仰ぎ嘆いて見せた。
だが、顔に張り付いている冷たい笑みは全く変化していない。
「四十年前。俺はお前に完膚なきまでに敗北を喫した。どれだけの屈辱を味わったかわかるか? たかがエルフに我が配下のことごとくを蹴散らされ―――挙句の果てにこの身に煉獄の炎を刻まれた。毎日毎日、その激痛に耐え忍び、俺が想い続けていたのはお前のことだけだ」
「……自業自得という言葉を送ってやるわ」
「ふん、まぁいい。なぁ、ディーティニア。俺が何故ここまで死者の軍勢を増やしたかわかるか?」
獄炎の魔女の冷たい言葉に、それでも止まることなくノインテーターは堰を切ったかのように続けた。
「もう一度お前に会うためだ。もう一度お前と戦うためだ。その全ては、お前を殺すためだけに。お前のためだけに俺は王者としての誇りを捨て去った。お前のためだけに俺は、個としてではなく群としての世界を突き詰めた」
それはある種の告白ともいえた。
とても冷たく、しかし熱い。
獄炎の魔女に送る、不死王の熱烈に歪んだ愛情だった。
「全力のお前を叩き伏せ、お前の強さを踏み躙り、完膚なきまでにお前をぐちゃぐちゃにしたい。心も体も―――お前の命さえも陵辱し尽くしたい」
「―――寝言はそこまでにして貰おう」
ザパンっとノインテーターを遮ったのはキョウの言葉と戦斧の一閃。
振り下ろされ断ち切った空気が数十メートルは離れている不死王の肉体を打ち据える。
本気で嫌悪感を前面に出しているディーティニアを背後に庇い、一歩を踏み出す。
そんなキョウを虫けらを見るかのようで見下すノインテーター。
「なんだ、小僧。俺と獄炎の魔女の話を邪魔―――」
「一つ聞かせろ、不死者の王よ」
再び不死王の台詞を遮り、キョウがさらに一歩足を進める。
二度目の邪魔に、若干の苛立ちを露にノインテーターが、不快な視線を送った。
「―――お前は《七剣》ラグムシュエナを殺したのか?」
起伏の無いキョウの問いかけ。
口に出してから僅かな後悔がキョウを襲う。
今まで口に出さなかったのは微かな可能性に賭けていたからだ。
あのユエナがそう簡単に倒されるはずがないと。どこかで怪我を癒している最中なのだと。
「《七剣》? あの狐耳族の小娘のことか? ああ、ファイルとかいう街を潰すついでに捻りつぶしたぞ」
―――そんな可能性を信じていたかった。
「……そう、か」
震える肺の中に溜まっていた酸素をゆっくりと吐き出す。
戦斧を握っている手も落ち着かない。
何故、ここまで正常を保てないのだろうか。キョウは自分に自問自答する。
「なんだ。あの小娘の知り合いか? 言葉だけの雑魚だったな、何が《七剣》だ」
キョウ=スメラギはまともな人間ではないことは誰よりも彼自身が知っている。
《操血》に物心つく前に拾われて、まともな人間としての教育を受けてこなかった。
育ったのは戦場。彼の人生の師は、《操血》であり、命を賭けて戦った敵兵だけだ。
それを不幸だとは思っていない。そういった人生を歩んできた彼は、それが既に日常だったからだ。だからこそ、戦場に生きる毎日が不幸だと考えたことはなかった。
「それなりの強さだったがな。それでも俺相手に一分も持たなかったつまらん奴だったな」
多くの人間を斬ってきた。
それに比例するだけの憎しみを、悪意を、害意を、怨嗟を受け続けてきた。
だからこそ、自分がこの感情を誰かに抱く資格は無いと思い続けてきた。
それだけの悲劇を撒き散らしてきたのだから当然だ、と。
いや、違う。本当は分からなかっただけだ。この感情がどういったものか。だからこそ、資格がないと思い込むことにして自分を騙していた。
「ああ、そうだ。街の住人に《七剣》を差し出せば助けると言った時の様子は笑えたぞ? やつら必死になってあの小娘を差し出してきやがった」
ノインテーターの言葉が届く。
しかし、それらは全て耳障りで―――理解しようとする気さえ起きない。
アナザーでは全てが敵だった。
特に《操血》の守護剣として彼女の前に立ち塞がるあらゆる敵を退けてきた彼は、彼女と並んで世界から疎まれ続けた。
そんな自分にあの娘は笑顔を向けてくれた。
そんな自分にあの娘は無償の愛情を捧げてくれた。
そんな自分にあの娘は優しさを与えてくれた。
それが少しだけ嬉しかった。
今ようやくわかる。これがそうなのだと。
気が触れたように全身が熱くなり。身体中を巡り、神経を奮い立たせる。
空気が皮膚にふれ、ぴりぴりと激しい電流があますことなく全身を包む。
目の前でチカチカと火花が散っている。まともに呼吸できないほどに、内臓を揺さぶり脳髄を蕩けさせる感触。
彼女を殺した相手にこの感情を向けるのに、もはや躊躇いは無い。
「ああ、そうだ。そういえばあの小娘が持っていた青いリボンを踏みつけたときの顔は笑えた―――」
「黙れ―――糞野郎」
―――これが怒りか。
ノインテーターの台詞を消し飛ばす、ドンっと地震が引き起こされた。
死者の軍勢が動いたわけではなく、その発生源はキョウ=スメラギだ。
両脚による震脚。人間の両脚が大地を踏みしめた音。足下が、波状に罅割れていた。
うねるように全身を伝わっていく感覚に身を任せ、抑えることのできない殺意が漏れ出し始める。
全身の神経を集中させてゆく。戦斧を握る両の手の平が白くなるほどに強く握り締め。
自分の筋肉繊維がギチギチと収縮して悲鳴をあげた。痛みにではなく、速く解放しろと身体が叫んでいるかのようだ。
肺から搾り出される空気が喉を震わせ―――。
「―――お前は殺す」
憎悪と悪意と怨恨だけに塗れた宣言を残し。
七つの人災と呼ばれる災厄の肉体がノインテーター目掛けてこの場から弾け飛んだ。




