三十四章 鬼人族3
鬼人族という種族は幻想大陸でも微妙な立場にある。
高位巨人種と送り人との間に産まれた子孫。
迫害されることも昔はあったが、現在は幸いなことにある程度の理解を得られている。それも全ては南大陸の魔族による侵攻により、余計な争いをする余裕が無くなったためなのだから皮肉な話ともいえた。
幻想大陸に住まう人間、亜人にとって鬼人族は恐怖の対象でもあった。それは何故か。答えは彼らの能力が高すぎたためという単純なものだ。
例えば人間は全てが平均的な能力ともいえた。人によっては差はあれど、それはあくまで誤差の範囲。
猫耳族は優れた敏捷性を誇り、人狼族は人間よりも強い膂力を持つ。狐耳族は五感が異常に鋭く、エルフは強大な魔法力を産まれながらにして発揮する。ドワーフは様々な事において役立てる器用さを武器とする。
それぞれの種族が何かしら優れた能力を持つ中で、長所と同様に短所も存在していた。
だが―――鬼人族は他種族とは異なる。
敏捷性においては猫耳族を上回り、膂力は人狼族を超え、五感においても狐耳族よりも優れている。肉体強化を可能とするエルフにも匹敵する魔法力を使いこなし、戦闘という点ではドワーフの器用さを遥かに凌ぐ。
さらには高位巨人種から受け継いだ、戦いへ対する飽くなき欲求。強さへの渇望。そして―――彼らの祖である送り人が外界より伝えた戦闘技法。それを部族内でひたすらに磨き続けた、技術。
鬼人族が強いのはある意味当然の話だ。
そんな彼らは部族内での強者が非常に多いため、外へと出る必要は本来ない。そのため東大陸の中央付近にある巨大な山岳地帯から彼らが出てくることは滅多にないのだが―――極稀に例外もいる。
鬼人族の中でも互角に相手をすることができるものがいなくなり、強すぎるが故の孤独を味わった者。
同族からも理解されない強さを求める求道者。
幻想大陸の様々な強者と戦いたいと願い無理矢理に旅に出た者。
例えば《七剣》の第四席。彼は一つ目にあたる。
他の鬼人族はというと、三つ目の理由が多い。
では、カルラ・カグヅチはどうなのだろうか。
彼女は―――。
「―――はっ。あはっ。あははははは!!」
夜の静寂を打ち破るのはカルラの狂声。
それに込められたのは喜びなのか、恐怖なのか、それとも―――底が見えない男を前にした期待なのか。
歓喜に打ち震える全身を、意志の力で無理矢理に抑圧する。
細い目を限界一杯にまで見開いて、虚ろな瞳が生を帯びたかのように爛々と輝く。
ラグムシュエナと相対した時よりもさらに、狂暴な笑みを口元に浮かべ。如何なる攻撃にも対応できるようにカルラが構える。腰を落とし、身体を開く。左手を前方に突き出す構えで、右手を胸元あたりでぴたりと止めた。基本を踏襲した、実に完璧で美しい構え。
生半可な鍛錬ではここまでいくまい、と一種の称賛をキョウは覚えた。
「……その手甲。中々に優秀だ」
「―――はい?」
二人の間の緊張感が高まっている中で、ふっとキョウがそう漏らす。
カルラの装着している金属製の双甲に視線を送り、突然で脈絡のない相手の言葉に不意をつかれたのかキョトンと首を傾げた。
「見た限りただの金属ではない。恐らくは霊白銀……しかも何かしらの魔法がかけられているか。表面の処理が実に見事。ぱっと見た限りではわからないが、刃物を相手取ることを想定して刃が滑るように何重にも曲面を造っているようだな。しかも、指まで問題なく動くように関節部が滑らかになっている」
「―――っ」
心臓を鷲掴みにされたような衝撃を受ける。
この薄暗い空間で一目みただけでそこまで見抜くか、とカルラの背中に戦慄が駆け巡った。
カルラの目の前にいる剣士―――彼が強いのは彼女にだってなんとなくわかる。
そう。なんとなくしか理解できないことこそが重要だ。
今まで鬼人族の里にいた時だってそうだった。東大陸を旅して回った時もそうだった。
強い相手は数あれど、カルラ・カグヅチに力量を測らせることすらさせない相手に、彼女は初めて出会えた。
ぶるりっと身体が震える。
ああ、楽しみだと彼女は笑う。ここまで、歓喜に打ち震えることができる相手と戦えることに感謝を……感謝を、誰にするというのか。
突如発生した唐突な疑問に脳が現状を正しく理解させようと働きかけてきた。
ぞぶんっと両足が底なし沼にはまったかのように動かなくなる。
身体全身の動きが鈍い。呼吸をするのも一苦労だ。カルラの心臓がバクバクと急速に胸を叩き始めた。
ぶるりっと震え続ける肉体。
それは歓喜故の震えではなく―――ただの恐怖からくるもので。
「え―――あ、あれ?」
強き者と戦うことこそが彼女の願い。
強さを追い求めるために、家族を捨て、故郷を捨て―――ようやく出会えた自分の同胞。
一目でわかる。初見で理解できる。この男は、自分と同じだと。
だが、初めて出会えた同胞はカルラの想像を遥かに超える何かで。
「すまんな、後五十秒ほどしかない。手早くいくぞ?」
気がついた時には間合いを詰められ、実に自然に刀を抜いた斜め切り上げがカルラに襲い掛かってきていた。
速い―――のではない。呼吸と間合いを盗まれた。瞬きする一瞬。呼吸をする一瞬、そこを的確につきキョウは踏み込んできただけだ。
到底本気とは思えない、適当ともいえる斬撃をカルラの視線は追っていた。
弾くべきか。かわすべきか。受け止めるべきか。混乱する彼女が咄嗟に取った行動は、回避。
本来ならば手甲で受け流すなりして、カウンターを叩き込むのだが―――何故かその選択肢を選ぼうとしない自分がいたのに彼女は気づいていた。回避という行動以外の選択肢を、必死で潰していたのは彼女の本能。それ以外を選べば、死ぬのだと
必死に後退して、キョウの斬撃から逃れるものの―――例え彼にとっての適当な一撃だったとしても、眼前を通り過ぎていった白銀の輝きに見惚れるに値するもので。
魅了された刹那の隙、次に感じたのはふわりっと身体が浮き上がる浮遊感。
刀に注目させた死角から、足を払われたことに気が付いた時には既に遅く。地面に身体をぶつける間際に必死で受身を取ることだけは成功するが、ガンっと激しい音が大地から響き慌てて立ち上がって逃げようとする彼女の鼻先に刀の切っ先を突きつけられていた。
「……ふぅ」
どこか呆れた目で見下ろされ、唇を噛み締めるカルラ。
完膚なきまでの敗北に、ぐうの音も出ず。戦うことする出来ずに負けを身体が認めてしまった。
そしてキョウが漏らしたため息に、これまで彼女に向けられたことがない感情が込められていたことに気づく。
それは間違いなく―――失望。
キョウはカルラに突きつけていた刀を鞘に戻すと、一言もなく彼女に背を向けた。
その後姿からはもはや失望はおろか―――カルラに対しての興味を微塵も感じさせず。
足音もたてずに、離れた場所の壁に背をもたれさせているラグムシュエナのもとへと戻っていく。
茫然とその姿を見送っているカルラが、己の情けなさに地面へと視線を落とす。
彼女が望んだ戦いで、まともに動くことさえも出来ずに終わった。明らかに手心を加えられ、まるで子供をあやすようにして制圧された。
キョウ=スメラギという怪物を前にして、呑まれ、恐怖に脅え、本来の力を出すことさえもできずに。
こんな戦いを望んだわけではない。全力を振り絞り、命を削るような死闘を演じることこそが、カルラ・カグヅチの本願だ。そのためだけに、鬼人族の里を飛び出したのだ。
それなのに、こんな無様な敗北を認められるのか。心が負けたまま、彼をこのままいかせてしまってもいいのか。
歯を食いしばる。バキリっと鈍い音がした。
強く噛みすぎたがために頑強な奥歯が砕けたのだろうが、恐怖を打ち消すためにはその痛みさえも丁度良い。
全身に感じる圧力に負けじと、熱いものが肉体を巡り、神経を刺激する。
目の前を火花が散り、ちかちかと夜の闇の中でも眩く見えた。
カルラは覚悟を決めた。決して揺るがぬ絶対の覚悟を。このまま何もせずにキョウが立ち去っていく姿を見送るのが賢い生き方なのだろうが、生憎と彼女はそれを認めるほど利口に生きてはこなかった。
このままこの男に失望されて生きながらえるくらいならば―――ここで認められて死んだ方がまだマシだ。
ビキリっとカルラの筋肉が、骨格が、血管が、悲鳴をあげる。全力を超える全力。肉体を限界まで酷使して、一つの弾丸がその場から弾け飛ぶ。
「――――――――――っ!!」
雄叫びをあげようとしたカルラの喉は音を紡がなかった。
自分自身に感じた憤怒がために、咆哮をあげることもできずに、獣のように長身痩躯の肉体が踊りかかる。
手甲が悲鳴をあげるほどに強く握り締め、金属の音が擦りあい耳障りな甲高い音をあげた。
小難しい技も何もない。次の一手を考えることもなく、跳躍して空中から下降する重力も利用し全力全速の一撃を歩み去ろうとしていたキョウの頭へと叩きつける。
本来のカルラならば有り得ない奇襲。互いの全力を出し合い、正々堂々が信条の彼女が初めて選択した行動だ。
だが、その程度の攻撃が当たる訳もないのをカルラは知っている。
人間を潰す感触はなく、地面に轟音をたてて拳が着弾。石畳を粉砕し、ガラガラと瓦礫を踏み崩しながら立ち上がった。狂気に彩られた眼が、煙に紛れていたキョウの姿を一瞬捉える。
彼の顔には怒りはなく、僅かに驚いた顔をしていたのに、胸がすっとした。
声無き声を喉から発しながら、カルラは爆走する。
単純な身体能力ならば人間であるキョウよりもカルラが勝るのは自明の理。
ならばこそ、彼女の最大の武器であるそれを活かさずしてどうするというのか。
煙を突き抜け、若草色の着物をはばたかせ一人の戦士がキョウへと迫る。
その姿には一時前まで感じた脅えは無く、恐怖を押し殺す強き感情があった。脅えを乗り越えた逞しい信念があった。折れかけていた心でなお、前に進もうとする確固たる意思があった。
カルラの右足が地面にめり込む。石畳を砕き割るほどの強い踏み込み。
両足から伝わる力を両脚に通し、腰の回転を加え肩を捻る。手甲をはめた左の拳が閃光と化す。歯を噛み締め、視線だけは目の前の怪物から離さない。
驚いた様子のキョウの顔面を捉える筈だった左拳は下からコツンっと当てられた衝撃で僅かに逸れる。特別強かったわけでもない。しかし、本当に極僅かな力を加えられ、渾身の一撃の力の流れを操作された。
鞘からぬいた刀の柄で、真下から手甲を押されたということに気づいたのは、瞬きもせずに意識を集中させていたためだろう。
カルラの肉体が慣性の法則を無視する勢いでその場から爆ぜる。
キョウの側面に回りこむように地面を削りながら滑り、全力で振りかぶった拳が容赦なく振り下ろされた。
人を容易く撲殺する拳は、幻影をすり抜け幾度目かの石畳を砕き割る結果となって終わる。
彼女の前から消え去った剣士はどこにいったのか。迷う暇も戸惑う間もなく、背後に感じられる風と質量。
地面を砕き割った右拳を地面から突き放す反動を利用して体勢を整える。
即座に左拳を裏拳として背後に現れた得体の知れない気配に叩き付けた。それでも、拳には空気を打ち抜く感触しか残らず。ぶわっと死の風が強かに真正面から押し寄せる。
完全にカルラの攻撃を見切っていたキョウは、上体を逸らすことによってミリ単位での見切りを可能としていた。
鼻先を通り過ぎていった轟風の発生源に一瞥もくれず左手に持った刀が鈍い輝きを放つ。
死ぬ、と思った。自分が斬られるイメージ。未来予知とも言える映像がカルラの頭に湧き出てくる。
キョウが片手に何でもないように持っている刀が発するのはこれまでの生涯で感じたことが無い絶望を纏っていた。
確かに名刀に近い刀ではあるが、魔法の力もこもっていないただの武器だ。霊白銀とは比べるまでも無く、比較するにも値しない強度。武器としての格は間違いなくカルラの所有している双甲の方が一つか二つは上である。
それでも、彼女の目に映るのは極限まで凝縮された黒いオーラを刀身に宿した最凶の刃だ。
カハっと呼吸を短く吐いて、地面を蹴りつけた。
跳ね上がってきた刀の切っ先が一瞬前までカルラがいた場所を貫いていく。
翻っていた長い黒髪が何本か巻き込まれ、はらりっと宙に舞っていった。
それでもまだ身体が捉える死の予感は消えてはいない。慌てて両腕を顔の前に持っていき防御に徹する。
刹那の後、顔をかばっていた両手の手甲に衝撃がほとばしった。手甲を貫き、両腕に痺れが刻まれる。
刀による一閃ではないのは衝撃でわかっていたが、実際に自分の目でみて呆れるしかない光景がカルラの前に広がっていた。刀の攻撃を避けられた後、踏み込んだ自由になっている右手での拳の一撃。霊白銀の手甲を素手で殴りつけただけ。それだけでカルラの両腕に痺れを発生させるとは一体どんな技術だというのか。
睨み付けているカルラはその時、キョウの唇が微かに動いたことに気づく。
戦闘において極限に集中している彼女は、本当ならば聞こえなかったはずのキョウの呟きを拾う。
―――後三十秒。
最初何のことか理解できていなかったカルラだったが、目まぐるしく思考を繰り返し答えに思い至った。
戦闘の開始前に彼はなんといったか。一分で決着をつけると言ったのだ。
カルラにとっては命をかけた戦いであるというのに、キョウにとっては時間を計りながらの戦闘―――否、戯れでしかないというのか。
ぷちりっとカルラの中で何かが切れた。それは理性だったのか、感情だったのか。本人でもわからない、彼女を押しとどめていた最後の一線だった。
「ぁぁぁああああああああああああああああああああああああ!!」
恐怖も畏怖も脅えも跡形なく粉砕し、狂気に彩られた色を瞳に乗せ、今度こそ咆哮をあげながらカルラが疾駆する。
キョウから放たれる気配を飲み込み打ち消す、憤怒に塗れた鬼人族の威圧に眉を顰めて―――剣士は一歩後退した。
カルラの力量を正確に掴んでいたキョウの予想を覆し、彼の頭の中のイメージを塗り替えていく。
キョウの想像より、僅かに動きが速く。キョウの想像より、僅かに攻撃は重く。キョウの想像より、僅かに深く踏み込む。
カルラはキョウとの戦いで、自分の限界を突破していく。
彼女の力量が跳ね上がっていく。自分よりも遥かに強い相手との戦いが、彼女の経験値を数段飛ばしで引き上げていった。
キョウの想像を超えたカルラの拳が音も残さず繰り出される。
狙いは胸部。的が小さい顔より確実に当てようとしているのだろう。彼女の手甲をはめた攻撃ならば、当たればそれだけで決着をつけることが出来る。鎧を着ていようが、人間や亜人ならば耐え切るのは不可能な破壊力を秘めているのだから。
刹那の悪寒を感じたキョウがさらに後退。紙一重のところでやり過ごす。
勿論それで終わらせるわけもなく、遠ざかったキョウを追ってカルラの肉体が加速する。
踏み込み、蹴り放たれた右の回し蹴り。凶悪な暴風を巻き起こし、しなやかな鞭を連想させるそれが放たれた。
咄嗟に身を逸らし、それと同時に耳に届くのは風を斬る物騒な音だ。
一瞬前まで顎があった場所をカルラの爪先が通過していった。
目の前で豊かな黒い長髪が翻り、目を見開いたカルラとキョウの視線が交錯する。
たたらを踏んで数歩後退を余儀なくされるキョウを追撃して、地を這うようにカルラが懐へと踏み入ってきた。
ガシャっと金属音を鳴らし握りこまれた右の手甲。これまでと同様に全開で繰り出されると思っていた拳はふわりっと緩やかな速度でキョウへと迫る。相手の意表をつく行動に、キョウの動きが若干戸惑うように鈍った。
それを見逃すカルラではなく―――ズンっと踏み込んでいた足が地響きを立てる。全身の筋肉と躍動。骨格を連結、下半身と上半身を完璧に連動させ、力を一分の無駄なく開放した。
ボっとある種の気が抜けた音を残し、超加速された拳がキョウの右脇腹に着弾し、抉り貫く。
だが―――これでも届かない。
再び身体を開き、その隣を通過していく紙一重。
先程からそればかりだ。カルラの拳は後一歩のところで目標へと届くというのに、その後一歩が果てしなく遠い。
それでも、ギュっと唇を噛み締める。どれだけの距離があろうとも埋めて見せよう全力で。
そんなカルラの覚悟を嘲笑う地鳴りが、ズシンっと彼女の耳に届く。
彼女が知る限り、その踏み込みの音は誰よりも深く、何よりも重い。自然と全身に鳥肌が立ち、頬が引き攣る。
反射的に頭上に掲げ交差させた両腕が、打ち下ろしてきた刀を受け止めた。初めて受け止めたキョウの斬撃は、想像を遥かに超えて凶悪で。
たった一撃で耐え切れなくなり、片膝をつく。
目を剥きながら滑るように身体を崩しつつ、水面蹴りでキョウの足を刈り取ろうとする。
剣士は予想していたのか容易く、後ろに後退。しかし、後方に逃げ出した彼は間を置かずにカルラへと跳躍して強襲を止めはしない。
キッと睨みつけるカルラ。自分を侮っている相手に視線だけは負けはしないと交錯させて―――ぞっと後悔が襲い掛かる。
迫る剣士の表情は、もはや不満はない。失望もない。
自分と渡り合える怪物を見つけた喜びだけがあった。自分と相対しても、恐怖に慄かない敵を見つけた感謝だけがあった。
キョウの双眸は瞬き一つなく、カルラの全身を見つめていた。いや―――観察していた。
視線の動き。呼吸の有無。肉体の動作。果ては心臓の鼓動、筋肉の伸縮に至るまで凝視している。
ドクンっと胸が激しく躍動した。
恐怖ではない。彼に敵だと―――自分の敵足るに値するのだと認められたことが、何故か嬉しく感じる自分がいることに、奇妙な興奮を覚えた。
そんな喜びを必死で振り払い、キョウの動きを脳裏に描く。
彼の動きは不可思議だ。単純な速度ではカルラの方が上回る。それは間違いがない。
現に今まさに真正面から迫ってきている剣士の動きにはついていけている。
だが、ふとした拍子にカルラはキョウの動きを見失う。それがおかしいのだ。カルラは相手の身体から一瞬も視線を切ってはいない。それなのに、気がついた時にはキョウはカルラの死角に入り込んでいる。
閃光のように夜の闇を渡る斬撃を、鬼人族の身体能力、カルラが積み重ねてきた戦闘本能で防ぎきった。
ただしそれは真の意味で薄氷を踏むかのような回避ともいえる。
防御に回っては駄目だと理解したカルラが攻勢にでた。
彼女の右の拳が轟音をたてて打ち下ろされる。拳の始点と軌道から導き出される狙いは首下―――頚動脈を狙って意識を失わせるというレベルではなく、もはや一撃必殺だけを追い求めた破壊の鉄槌。迫ってくる容赦の欠片もない打撃にキョウは刀を合わせた。
ギャンっと金属同士が噛み合わされる耳障りな悲鳴をあげて両者の武器が弾かれる。
ピキっと悲鳴をあげたのは、常識から考えれば有り得ず、カルラの予想を肯定する結果―――即ち霊白銀の手甲だった。
なんという神技か。化け物め、怪物め。本当に人なのか。いや―――くふっと心の底からの笑みを口元に浮かべ。
「―――私は貴方が怖くて、恐ろしくてたまらない。だが―――」
地面を殴打して石畳を爆散させる。
カルラは舞い上がった砂埃から逃れるように、キョウから間合いを取った。
「楽しくてたまらない!! 貴方との戦いは、恐怖を超えた果ての果てまで私の心を躍らせる!!」
僅かばかり前までは憤怒に彩られていた表情は一変し、きらきらと乙女のように瞳を輝かせ。
死の恐怖と、肉体の限界を突破した疲労に全身を火照らせ、それでも実感できるほどに遥かな高みに駆け上がっていく自分の力量に感動を覚え。
ここからまだ登れる、そう喜びを身に纏っていたカルラとは裏腹に―――。
「ああ、すまん。もう終わりだ」
どこか残念そうな呟きと黒い残像が一筋。
視界一杯に広がるキョウの姿。それはカルラの限界を容易く突破し、彼女の死角に入り込む。
気がついた時には、彼女が何か行動を起こすよりも尚速く―――スパンっと軽い響きが夜の空間に高鳴った。
急速にカルラの全身から力が抜けていく。
顎に感じた衝撃が、波状に全身に伝わっていった。あれほど漲っていた力はあっさりと霧散して、カクンと両膝が石畳の上におちる。揺れる視界。立ち上がる力も気力も湧いてこない。
そして戦いを始める前のように、あっさりとキョウは再度背を向けた。
待て、と声をかけようとするも舌が上手く回らない。遠ざかっていこうとする背中に向けて手を伸ばそうとするも、全く思い通りにはならなかった。
「悪いな、ユエナ。少し時間を過ぎてしまったか」
「大丈夫っすよ。丁度……一分、すね」
どこか呆れた声をあげるのは見守っていたラグムシュエナだ。
信じられないことに、宣言どおりに戦闘を終わらせてしまった目の前の男に狐耳少女は全く驚愕といった感情を見せてはいない。この程度のことで驚いていては、キョウとは付き合っていられないというのが本音でもある。
だが、相変わらずの化け物っぷりに呆れることはさせてほしいというのもまた本音だ。
「キミも風邪をひかないうちに帰るんだぞ?」
必死になって朦朧とする意識を繋ぎとめているカルラに一声かけると、キョウはラグムシュエナを伴って宿への帰路につく。頭痛が治まったラグムシュエナは、隣を自分のペースに合わせて歩いてくれている剣士にチラリと視線を向けた。
―――確かに、そうっすねぇ。
カルラが語っていた言葉に、ラグムシュエナは誰にも聞かれない内心で同意する。
鬼人族の指摘は的を射ている。キョウの在り方を正しく認識していた。
逢って間もない彼女が、それに気づいたことが少しだけ悔しい。それもまたラグムシュエナの本音である。
キョウ=スメラギは、強さを得るためならば何だってするだろう。いや、少し違う。
彼の目的を為すためならば、なんでもする。その目的が何かわからないが、それを為すために力が必要なだけだ。目的を為すためならば、キョウは何でも出来る。例えばディーティニアを殺すことも、ラグムシュエナを殺すことも―――彼には可能だ。それだけの確固たる意思を持ってキョウは歩み続けているのだ。
それを知ってもラグムシュエナには特に思うところは無い。
彼に斬られる自分を想像して―――少しだけ興奮してしまう。
何故こんなにもキョウ=スメラギに惹かれているのかわからない。自分でも理解できてはいない。
―――ただ、一緒にいたいだけっす。
隣で歩く剣士の腕に自分の腕を絡めて、ラグムシュエナは現在を謳歌する。
それはまるで自分に迫り来る脅威から目を逸らすような姿にも見えた。
「―――っ」
カルラの前から二人の姿が消え去って数分。
ようやく揺れる視界が通常の状態に戻り、肉体も正常に動作するように回復した。
だが、立ち上がることはなく逆に地面へと転がる。若草色の着物に砂埃がつくが、微塵も気にした様子を見せはしない。
夜空を見上げれば、月が綺麗に光を地上に落としている。星々が瞬き、美しく煌めいていた。
意識せずに右手を持ち上げ月を掴むように開いた掌を握り締める。当然、握り締めることなどできずに終わった。
「……終わらせようと思えば、すぐにでも出来たわけですか」
彼女の言葉には不思議と負の感情はこもっていなかった。
逆にどこか称賛の響きさえ乗せて―――。
「ここまで、差があれば清清しいですよ……」
はぁっと深いため息をつき。
人の身で鬼人族である自分を容易く無力化した男の姿を思い浮かべる。
見事、というしかはない。今まで見てきた誰よりも強かった。遥か上空までそびえ立つ壁を、カルラはキョウに見る。
「これは、是非また一手御教授願いたいものですね」
自分の気持ちに区切りを付けたカルラはしばらく休んでから宿に帰ろうと思い目を瞑った彼女の耳に―――。
「お、おい。なんだよすげえ音がしてたぞ」
「くそ、どこの馬鹿野郎だ。眼が冴えちまったじゃねえか!!」
「袋叩きにしてやろうぜ!!」
ざわざわっと周囲の家から騒ぎたてる声が大きく響いてきたのを聞き、慌ててその場から逃げ出すのだった。
そろそろ毎日更新が時間ぎりぎりに切羽詰ってきてます。
出来なかったらすみません。